第五章
「――で? 一体、『あれ』は何だったのだ?」
ここは清州城の奥の間。
あれから、信行軍と和睦した信長軍は、清州城に戻り、尾張の国はとりあえずの平穏を見せていた。
信行や勝家、秀貞といった主だったものも、信長の『寛大な措置』により処罰されることなく、とりあえず矛を収めている。
だが裏を返せば、反乱の火種を完全に消せた訳ではなく、見るものが見れば、束の間の平和であることは明らかであった。
「『あれ』って?」
「とぼけないでくれ。信長様のあの力……見たこともない紋様……恒緒ならば、何か知っているのだろう?」
「……千代は織田家の祖のことは知っている?」
「え? 確か……皇都の三管領家のひとつ、斯波家の重臣だったとか――」
「いえ、もっと前よ」
「もっと前、というと、藤原家系の家柄としか……」
今は廃れつつあるが、かつて皇都において数百年近くの長きに渡り、権力を握り続けた藤原家の系譜は幅広く、今でも石を投げれば当たる、というほどに日ノ本中にその縁者がいる。
「それよりさらに前、信兄ぃの家は、とある神社の神主の家系だった」
大名の出自は地方に下った貴族や、土着の有力領主など様々なので、それ自体はさほど珍しくはない。
「その神社の名は『織田劔神社』。そこで祭祀……いえ、『封印』されていた神が、『素戔嗚』よ」
「『素戔嗚』というと……あの神話の?」
それは太古の昔、荒ぶる神として天界である高天ヶ原を追放されたという、最強の暴神の名だ。
「剱神社では有史以来、素戔嗚を『担い手』の身に代々封印してきた。そして、当代の担い手が信兄ぃなのよ」
「だが何故、封印など……」
「素戔嗚は皇都の皇主様の祖である『天照大神』らと並び、あらゆる神々の中でも最も尊いとされた三神の一柱。その力は人の手には余るものよ。迂闊に世に出せば、信兄ぃの身どころか、この日ノ本そのものが滅びるからよ」
「な――」
恒緒はまるで、今夜の夕餉の内容を告げるかのように、あっさりとそんなことを言った。
◇
「――おのれおのれおのれおのれおのれ……おのれっ!」
激昂とともに叩きつけた茶碗が、柱に当たり粉々に砕け散る。
「殿、少し落ち着かれませ」
傍らに控えていた津々木蔵人が、砕け散った茶碗の欠片を摘まみ上げながら言う。
「これが落ち着いてなどいられるか! よもやあのうつけなどに、このような屈辱を味わされることになるとは!!」
ここは信行の居城である末森城。
その奥の間で、信行はあの戦以来晴れぬ、鬱屈とした日々を送っていた。
「殿は敗れてなどおりませぬ。先の戦はあくまであの場は矛を収めた、というだけの事。最後に勝つのは信行様、貴方様です」
意味ありげに笑う蔵人に、信行も冷静さを取り戻したらしい。
「……蔵人、何か策があると言うのか?」
「はっ――。噂によると、信長めはあのいくさの後、床に臥せっているとのことです。なれば、病気見舞いと称し清州城に向かえば――」
「……だが、私は奴らと干戈を交えたばかり。あのお人好しの兄上はいざ知らず、家臣どもが黙っておらぬだろう?」
「今は戦後の処理で重臣のほとんどは領内を奔走しておるとのこと。なに、殿は清州城に入城さえしてしまえばいいのです。お忘れですか? 清州城には『あれ』が――」
「……そうか! その手があったか!」
「木瓜紋を操れぬうつけに、『あれ』は過ぎたるものです。殿が手中にしてしまえば――」
「うむ、その時こそ私こそが名実ともに尾張の国主となる――」
信行はそう言うと、唇を歪めて邪悪な笑みを浮かべて見せたのだった。
◇
「――信行様が信兄ぃの見舞いに?」
「へえ。そのような申し出です」
サルがもたらした知らせは、二人にとって寝耳に水のものだった。
「どうしやす?」
「和睦したとはいえ、信行様とは先日まで戦をしていたのよ? 罠じゃないの?」
「それがしもそう思うが……供は勝家様と、同じく側近の津々木という男の二人だけらしい」
「二人とも信行様の側近を務める術士でしょう? 特に勝家殿は尾張一とも言える猛将なのだから、油断は――」
「勝家様は真の武人だ! そのような謀略に加担なされる筈がない!」
「だから――まあ、いいわ。信兄ぃもまだ臥せっているし、見舞いだけ受け取って、面会謝絶ってことにしましょう」
返答後、程なくして、信行一行が清州城下に到着した、という知らせが二人の元に届いた。
だが――。
「――信兄ぃを直に見舞うまでは帰らない?」
「ああ、そう言っているらしい」
「面倒ね」
「ああ、だが真意はどうあれ、兄の病気見舞いに来た、という弟を無碍に門前払いにしては、どんな悪評を立てられるか分からないぞ? 相手はたった三人だし、せめて城内で応対するくらいしてはどうだ?」
千代の提案に、恒緒はしばらく渋い顔をしていたが、
「……分かったわ。けど、あくまで応対するのはあたしたちよ? 信兄ぃには直接会わせない、いいわね?」
「ああ……」
「――お待たせ致しました」
「おお、又左か。息災か?」
先の戦では心ならずも敵対し、直接顔を合わせるのも久しぶりだったが、勝家のその態度は以前とまるで変わらない。
「ご無沙汰をしております」
勝家の気遣いに感じ入りながら、千代が一礼をした時だった。
「ふん……母衣衆風情が、信行様を待たせるとは……分を弁えよ!」
津々木蔵人と名乗った男が、苦々しげに睨みつけてきた。
「津々木、止めよ!」
「貴様らの主君が、この城の主でいられるのも、先の戦で我が軍との『和睦』が成ったからだ。今しばらく戦が続いていれば、立場は逆になっていたじゃろう――」
勝家による制止を意に介した様子もなく、なお傍若無人に絡む蔵人に、千代が口を開きかけた時だった。
「しばらく会わない間に、随分と偉くなったものね?」
後ろにいた恒緒が前に出て、応対に出る。
「む……」
「我が主は床に臥せっており、未だ面会謝絶。それを弟君のお申し出、ということで、曲げてご案内しているの。無礼を働いているのはどちらかしら?」
「何じゃと?」
「先の戦に関しても、数に劣る我が方を攻めあぐね、一隊の大将まで討たれた挙句、『降伏』を申し出てきたのはそちらじゃなかったかしら?」
「おのれ……」
眦を吊り上げる蔵人と、涼しい顔で見返す恒緒との間に、一触即発の空気が漂う。
だが。
「……確かにそうであるな。蔵人、控えよ」
「はっ! 殿の仰せであれば――」
意外にも、後ろで待っていた信行の言葉に、蔵人もあっさりと矛を収める。
その芝居ががった態度に、先程の蔵人の激昂が半ば以上演技であったことが知れた。だがそれよりも――。
(あの者の所作、どこかで………?)
蔵人に妙な既視感を感じるが、その正体が分からない。知己のような口ぶりの恒緒の態度も気にかかかり、そっと耳打ちする。
(恒緒、あの者と知り合いなのか?)
(……ちょっとね)
(?)
意味ありげな恒緒に首を傾げる千代だったが、これ以上、信行たちの前で内緒話をしている訳にもいかない。
「どうぞ、こちらへ――」
開門させた表門より、一行が城内へ足を踏み入れた時だった。
「くくく……はははははっ! うつけ者どもが!」
後ろを歩いていた信行が不意に足を止め、唐突に笑い出した。
「……? どうなされました?」
「この清州城は元々、代々の当主が居城としてきた織田宗家の本拠地である!」
「殿?」
信行の突然の言葉に、勝家までもが怪訝そうな顔で振り返る。
「分からぬか? ここは織田の正統後継者の城、ということだ!」
言うが早いか、信行が右手甲に刻まれた木瓜紋を天高く掲げる。
次の瞬間。
突如、足元の地面を突き破るようにして、巨大な何かが飛び出してきた。
「なっ――」
千代は咄嗟に後方へと飛び、辛くも『それ』を避けるが、周囲の地面からは次々と同じものが飛び出していく。
褐色のその物体は、あるものは壁を突き破り、あるものは土塁に這いまわり、清州城全体を覆っていく。
(これは『根』か?)
大地から生み出されていくのは、さながら巨大な龍のように荒れ狂う、木の根だった。
もし遥か上空から俯瞰で、その様を見られる者がいたとすれば、地中に眠っていた幾匹もの巨大な褐色の龍が、目覚めと共に城へ巻きついていくように見えたかもしれない。
「これは一体……?」
「くくく……どうだ? この『織田木瓜』を十全に操れる私こそが、この国の主となるに相応しい!」
「っ!」
哄笑する信行を止めようにも、地面からは次々と根の龍が生み出され、近付くことさえできない。
「きゃあ!」
「恒緒!」
次々襲いかかる木の根の濁流に呑まれた恒緒の悲鳴に、千代が一瞬気を取られた時だった。
「がっ!」
足元の地を裂き、新たに生まれた根の突進を胸部にまともに受け、千代の体が大きく吹き飛ばされる。
(と、殿――)
千代は薄れていく視界の中で、幾筋もの根に覆われ、茶褐色に染まっていく清州城を見た気がした。
◇
――夢を見ていた。
夢の中の信長はまだ子供で、城下からほど近い、小高い丘の上にある大杉の下にいた。
子供の事の自分は辛いことがあると、この大木の下で一人泣いていたものだった。
(この日の僕は確か――)
「――ここにおったのか」
「ぐすっ……ち、父上!」
「池田のところの娘が泣きながら、『あにさまがいなくなった』、と案じておったぞ? その歳で女子を泣かせるとは、そなたもなかなか隅に置けぬのう」
「ちが……こ、これは――」
「取り繕わずともよい。重き荷であること、承知の上でそなたに『素戔嗚』を担わせたのじゃ」
(そうか……これは僕が父上から『素戔嗚』を託されたばかりの頃の――)
「父上、何故……僕なのです」
「『担い手』のことか?」
「僕に紋様術の才はありません。『鷹』すら生み出せぬ身で、何か間違いが起これば……爺や恒緒や家中の皆を傷つけてしまうことなどがあったら――」
「……そなたは自らより、周りの身を案じておるのじゃな?」
「どうか、今からでも僕を廃嫡し、誰か他の者にお命じください! そうすれば――」
「だからこそ、そなたを嫡男に、そして『担い手』に選んだのじゃ……これを見よ」
「……父上! その肌……お体は!?」
「細々にとはいえ、長年、素戔嗚の力を行使してきた代償、といったところか。おそらくそう長くは生きられぬだろう」
「そんな……」
「これをそなたに託しておく」
「……これは?」
「それは織田劔神社に代々伝わる『天照の灰』じゃ。よいか、信長よ。素戔嗚は既にそなたに託したが、我が体にはその残滓が残っておる。素戔嗚ほどの力、如何に残滓といえど、我が死んだ後、どのような作用があるか分からぬ。そなたは我が死んだら遺骸にこの灰を撒き、残滓を祓うのじゃ。よいな?」
「父上にそのような無礼な真似など……」
「情けない顔をするでない。どうせなら、冥土の我まで届くよう、景気よく叩きつけよ」
(結局、ぎりぎりまで決心がつかなくて、葬式でぶちまける羽目になったっけ……あの時の爺たちの驚いた顔といったら――)
「そなたも死す前に、跡継ぎにしかと伝えるのじゃぞ? でなければ生きながら業火で身を焼き尽くすしかない。坊主共のように遺骸を荼毘に付す、というのなら別だがな」
「は、はい……」
「『もし今、我が身を焼き尽くせば』などと考えておるな?」
「な、何故、それが?」
(……顔に出過ぎだよ、この時の僕……)
「逸るでない。そなたの迷いにより、身の内の素戔嗚がどのような暴走を引き起こすか分からぬ。軽挙妄動はこの日ノ本ごと滅びるきっかけとなりかねん。これは我が遺言と心得え、くれぐれも自重せよ。よいな?」
「はっ……!」
「……いつか、このような連鎖は断ち切らねばならぬ。それがそなたであることを願っておるぞ――」
父の言葉を最後に、次第に意識が遠くなっていく。
(申し訳ございませぬ、父上……僕は結局――)
◇
「起きよ! 又左!」
「う……ん……か、勝家様!?」
耳元で響く大音声に意識を取り戻した千代は、息のかかるほど眼前に迫った師の凄みのある形相に、慌てて跳ね起きる。
「ふ……寝覚めに儂の顔は覿面じゃろう?」
「いえ、そんなことは……それより一体、ここは?」
先程まで千代は清州城内にいた筈だが、四方を見渡しても目に付くのは、ゴツゴツとした褐色の壁ばかりだ。
(まるで洞窟か、巨大な樹の中にでもいるような――)
「察するに……我が殿、信行様の差し金じゃろう。ここでおぬしたちを分断し、足止めしておる間に、信長様を討ち果たす腹積もり、といったところか」
どうやら勝家も事の次第を伝えられていなかったらしい。
「勝家様! そのような謀略など真の武士のすることではございませぬ! 今は一刻も早く信行様を止めねば!」
千代の知る勝家ならば、このような謀殺に加担することなど、受け入れる筈がない。そう信じての言葉だった。
しかし。
「又左よ。儂はおぬしに、信長様の行状を内々に調べよ、と命じた筈だが?」
「う……」
返された師の鋭い視線に、思わず射竦められる。
千代の役目は信長の行状を調べ、その有様が国の為にならないときは――。
「『答え』は出たのか?」
ゴクリ――
勝家の語気は決して荒々しいものではなく、むしろ穏やかですらあったが、その身から発せられる物言わぬ圧に千代は息を呑み、思わず目を伏せる。
信長は尾張どころか、この日ノ本そのものを滅ぼしかねぬ素戔嗚の力を有している。
その危険性を鑑みれば、勝家にこれを伝え、この機に乗じて討ち果たしてしまうのが、正しいのかもしれない。
だが――。
『赦してくれ、とは言わない。だが――犬死にはさせない……絶対に!』
一介の百姓たちの死に涙した信長の言葉が、姿が、千代の脳裏をよぎる。
「それがしは――」
寸分も迷いがない、といっては嘘になる。
いずれ、今この時の判断を悔いる日が来るかもしれない。
だが。
それでも、千代は自らの信念のもとに断を下す。
(たとえ――)
千代は伏せていた顔を上げ、自らの師を真正面から見据える。
「このような形で、信長様を討ち果たすのは本意ではございません! 信長様は尾張に――いえ、おそらく、この日ノ本にとって必要な御方です!」
「そうか、それがおぬしの『答え』か……」
勝家は腕を組み、ただそう呟く。
「それがしは……信行様を止めに向かいます」
そう言って、千代が一歩を踏み出そうとした時だった。
「……待て」
(たとえ――)
「おぬしの思いは分かった。だが儂も信行様の家臣。主君の意が信長様を弑することにある以上、このままおぬしを行かせる訳にはゆかぬ」
「っ――」
「確かにこのような状況は、儂も望むところではない。だが今は生き馬の目を抜く乱世。これしきの謀略を乗り越えられずして、如何とする!」
勝家はそう言いながら、天を掴むかのように頭上に右手を翳す。
その手に一条の光が奔った次の瞬間、身の丈ほどの巨大な穂先を有する槍が、勝家の手に握られていた。
「又左……いや千代よ! 信長様に助太刀したくば、この儂の槍を掻い潜って見せよ!」
(たとえ――自らの敬愛する師と相対することになろうとも!)
◇
同じ頃。
千代と同様に意識を取り戻した恒緒もまた、信行の側近と遭遇を果たしていた。
「――つまりアンタがあたしの足止めをするという訳ね。あの勝家殿と並び、信行様の片腕を担うなんて出世したじゃない。津々木蔵人……いえ、『恒興』」
「その名で俺を呼ぶな、『姉上』。それはもう捨てた名だ」
「火起請と大蛇の件、どちらもアンタが黒幕でしょう?」
「……何故分かった?」
「死んだ左介の周りに飛んでいた『蝶』、あれは人の血に惹かれる種類じゃなかった。それに、あの夜の幻術使いが『落宝金銭』のことを知っていたから。あの『宝貝』のことが載っている書物は、あたしの知る限り『殷周大戦』だけ……。こんな田舎で唐土から舶来したあの書物のことを知っているのは、そう多くはない筈。つまり信兄ぃと一緒に兄妹みたいに育ったあたしと……アンタくらいよ」
「まさか、あのうつけがあのような術式を備えているとは計算外だった。おかげでこちらの策は躓いてばかりだ。全く忌々しい」
「大方、領内で信兄ぃの悪評を広めたのも、道三殿を襲ったのもアンタでしょう? 池田家を捨て、名前を変えてまでしたかったことが、それなの?」
「俺の方が幻術の才はあった! それなのに父上はよりにもよって女子の姉上を当主になど!」
激昂する蔵人に、恒緒の態度はあくまで冷淡で辛辣だ。
「だから、自分と境遇の似ている信行様の家来に? ……短慮ね」
「黙れ! 姉上の方こそ、信長の妾になるとは正気を疑ったぞ? まさか帰蝶様亡き後の奥方の座でも狙っているのか?」
「――!」
「しかしまさか、ヤツがそこまでおろかだとは思わなんだ。正室が死んで溜まっているからって、まさか乳兄妹に手を出すとは――」
瞬間、突如、二人の間の何もない筈の空間から、風を切って一本の苦無が飛び、蔵人の頬を掠めた。
「……そのくらいにしておきなさい?」
「『五色鱗粉・黄』か……?」
二人の間に一匹の黄色い蝶が羽ばたき、やがて虚空へと消える。
その間、恒緒の口調に変化はなく、怒気さえも孕んでいない。が――
「次は外してあげない」
腰の刀を抜き放ったその眼差しは、実の弟に対するものとは思えない程、冷たく鋭かった。
◇
(ここは……?)
夢から目を覚めた信長は、自分が見知らぬ空間にいるのに気付いた。
「ようやくとお目覚めか、兄上?」
声の方向に首を向けると、
「信行……か。ここは……どこだ?」
四方を見回しながら問い掛ける。
襖や壁はおろか、床や天井に至るまで、大木の根が侵食し、あたかも年月を経た東屋のようだ。
「見違えただろう? 清州城だ。今は私の城であり、術式の一部だがな」
「術式……だと?」
「まあ、しばし待て。じきに蔵人たちが貴様の家臣どもの首を持ってくる」
「な――」
「おっと、そうはいかぬ」
「!」
信長が起き上りかけた瞬間、突如として四方八方から、木の根が触手の如くのたうちながら、信長に襲い掛かる。
触手はたちまちのうちに、信長の四肢に絡みつき、まるで雑巾でも絞るかのように、縛り上げた。
「ぐ、ぐあっ!」
触手の突進により手から零れたのだろう、永楽銭が床に落ち、いずこかへ転がっていく。
「おお、怖い怖い……相変わらず下々の事となると、目の色が変わるな」
信行は殊更大げさに身を竦めてみせる。
「ふん……由緒ある我が織田家の木瓜紋を扱えないからといって、よもや唐土の術式に頼るとは……この織田家の面汚しめ!」
「グッ……な、何……だ………こ……れは?」
信行は苦し気に呻く信長の様子に満足げに唇を歪めると、勝ち名乗りを上げるかのように、その術式の名を口にした。
「これこそが織田木瓜紋の真の力! 『木龍巣清州城』だっ」!
◇
「はあっ!」
勝家が振るった横薙ぎの一撃で、壁に大穴が穿たれる。
(たったの一振りでこれほどとは……まともに喰らえば、得物ごと砕かれる……!)
一撃必死の攻撃を辛くも避け、千代は肝を冷やす。
「どうした千代! 儂如きに手こずっておっては、信長様をお守りできぬぞ!」
(『儂如き』って……!)
千代の知る限り、勝家は織田家どころか当代屈指の武辺者だ。
『金色御幣』
柴田勝家の紋様術は、巨大な槍を召喚し武器として振るう、というもの。他のものに比べると、簡素極まる能力だ。
だが着目すべきは、その得物の圧倒的な巨大さにある。
織田軍の槍足軽は信長の発案で、通常のものより一間半も長い三間半の長槍を装備させている。
そのあまりの長さ故、取り回しは難しく、熟練した兵たちでも真っ直ぐに突く、上から叩き伏せる、といった、単純な攻撃しか行うことはできない。
それでも他家に比して、圧倒的な間合いでもって槍衾を作るその戦法は、無類の強さを誇り、戦果を挙げている――。
だがもし、それほどの長さの槍を、卓越した槍術で持って自在に振るうことのできる武者がいたとしたら?
勝家の振るう『金色御幣』の全長はさらに長くざっと五間。黄色に輝く剣型の穂先だけでも、大の大人が両手両足を広げたくらいの常識外れの巨大さを誇る。
「梅花雷撃!」
先程から幾程となく放っている千代の雷も、その巨大な穂先に振り払われ、勝家自身には全く届かない。
(元より槍術には雲泥の差がある上、勝家様の金色御幣は『金気』の極致。『木気』である、それがしの雷で突破できる訳が――)
千代が絶望的な想いで歯噛みをした時だった。
『――相関する五属性は、それぞれを打ち消す『相剋』だけではない――』
不意に千代の脳裏に、とある言葉がよぎる。
「……!」
「一騎打ちの最中に何を惚けておる!」
「くっ!」
怒号とともに繰り出された、逆胴狙いの一撃を、千代はかわすことができなかった。
ガキィィィィン
咄嗟に立てた槍の柄で受けたので、体が真っ二つになるようなことはなかったが、勢いを殺しきれなかった千代は吹き飛ばされ、そのまま背中から壁に叩きつけられた。
「ぐはっ……!」
あまりの衝撃に肺からは空気が漏れ、喉奥からせり上がってくるものを何とか飲み下す。
「どうした千代よ! もう終わりか?」
ゆっくりと近づいてくる気配に、槍を杖代わりに立ち上がろうにも、勝家の一撃を受けた柄は手元からへし折れてしまっていた。
「く……」
勝家もその様子に気付いたのだろう。
「ここまでか……まあ、おぬしもようやった。正直、これほどまで雷を放てるとは思わなんだぞ」
「!?」
勝家の言に、千代は目を見開く。
(そういえば……!?)
自分はこの立ち合いで幾度、雷を放った?
正確に数えた訳ではないが、二十発は下らないだろう。いつもならば、とっくに気が枯渇し息が上がっている頃合いだ。
(それがしの術の力量が上がったのか? だがそれにしては――)
体はともかく気は充実しており、未だ限界は感じられない。
(もしや――)
◇
「む?」
眼前の千代がゆっくりと立ち上がるのを見て、勝家は眉を寄せる。
先程の一撃は槍で辛くも凌いだようだが、その柄は手元でへし折れてしまっている。
己が得物を折られてなお、戦意を維持できる者はそういない。
自ら頼みとする得物は己が心と同じ。熟練の兵であればあるほど、如何に五体が満足であっても、すぐ傍らに代わりがあってさえ、戦意を喪失する。勝家はこれまで、そんな武士たちを幾人も見てきた。
だが。
千代が短くなった槍を構える。その穂先にうっすらと雷光が灯り、照り返されたその眼差しに宿る闘志には些かの衰えも感じさせない。
「まだ立ち上がるか……」
苦々し気なその口調とは裏腹に、口元にはうっすらと笑みが浮かべ、勝家もまた自らの得物を千代へと向ける。
元々開きがあったその間合いの差は、千代の槍が短くなったことにより、今や二倍近くになっている。
その気になれば、勝家が間合いの外から一方的に蹂躙することも出来ただろう。
「梅花雷撃!」
「ふんっ!」
しかし勝家は繰り出される雷を振り払うのみで、自ら積極的に仕掛けようとはしない。
一方の千代も、勝家の広大な間合いを警戒してか、一定の距離以上には踏み込んでこない。
(どうした? 何か策があるなら仕掛けて見せてみよ?)
「梅花――」
幾度目かの雷撃を払った時だった。
雷光に紛れ、勝家の視界から千代の姿が掻き消えた。
「!?」
だがそれも一瞬のこと。勝家は視線の端で、自らの側面へと高速移動する千代の影を捉えた。
(死角から不意を突くつもりか!?)
だがその距離は槍を繰り出すには未だ遠く、間合いを詰める前に勝家の攻撃が十分先に届く。
「これで終わりじゃっ!」
勝家が得物を振りかぶろうとした瞬間だった。
「――雷槍!」
裂帛の気合とともに、千代が自らの槍を投擲した。雷を帯びた槍は、引き絞られた矢の如き速度で勝家の元へと飛来する。
が。
「小賢しい!」
これまで放たれた雷撃と同様、あっさりと弾かれ、宙を舞った槍は勝家の背後の壁に突き刺さる。
「起死回生の策のつもりか? 儂はそのような捨て鉢な戦い方を教えた覚えは――」
かつての弟子へ向き直り、勝家が一喝を浴びせようとした時だった。
『東風吹かば――』
「!?」
唐突に千代の口から謡うように紡がれた言葉に、虚を突かれる。
『匂い起こせよ梅の花――』
(歌……? いやこれは『解言』!?)
紋様術は自らの家系や系譜を象徴する『紋様』を『家紋』や『旗印』として刻み、術者の気を通すことで、その力を行使する。
だが『皇都大乱』により、多くの術者や技法が失われ、かつてのような強大な術式を操ることができる者はごく一部になってしまった。
そんな中、編み出されたのが『解言』である。
紋様術が系譜を重ねてきた血脈に依存する以上、代々の当主、担い手の影響は免れない。とある高名な術者が、術式を解析し、そんな彼らの性質、属性を象徴化した『言霊』を歌の形で載せることを発見した。
それにより、紋様単独で行使した時に比して、その威力、応用性が劇的に向上した、という例もあったという。
だが解言の解析、発見自体が困難なものであったことから、実戦での実用性には乏しいとされ、術の扱いに優れた信行でさえも、ごく初歩的な術での使用に留まっている。
そして今、千代の口から紡がれている解言は、前田家の祖であり、死後に『雷神』として祀られた菅原道真の遺したもの――。
『――主なしとて春を忘るな!』
解言の紡ぎ終わりとともに、千代は腰に差していた脇差を抜き払うと、地面に突き立てた。
次の瞬間。
千代が脇差を突き立てた場所から、まるで水面に小石を投げ入れたかのように、梅色の気の波紋が辺り一面に拡がっていく。
その波紋が勝家の背後の壁に突き刺さっていた槍に到達した瞬間、その柄から幾重にも枝が芽生え始めた。
「な!?」
勝家が驚愕する間にも槍の生長は留まらず、その枝から無数の蕾が生み出されていく。
「っ!」
たちまちのうちに一本の樹となった槍をへし折ろうと、勝家が得物を振りかぶるがもう遅い。
『梅花春雷っ!』
千代の言葉とともに一斉に花開いた幾千もの花弁から、それぞれ一条の稲妻が放たれ、鉄砲水の如き雷の奔流となって勝家を襲った。
「ぐあああああああああああああああああああああああああああっ!」
それはさながら、巨大な撞木に横殴りに突かれたような衝撃。
得物で振り払うことも叶わず、これまでとは比べ物にならない巨大な雷をまともに浴びた勝家の体が大きく吹き飛ばされ、先程の千代以上の勢いで、壁に叩きつけられたのだった。
◇
「はあっ、はあっ……」
千代は思わずその場で片膝をつき、荒い息を吐く。
(くっ……これほどのものだったとは……)
これまでに感じたことのない急激な気の消耗に、意識が飛びそうになるのを何とか堪える。
何しろ千代が知りうる最大の術式だ。
(もっとも『この場』でなければ、今のそれがしでは発動すらできなかったかもしれないが――)
その時だった。
「!」
壁に叩きつけられ、倒れ伏していた勝家がむくり、と突如立ち上がった。
身に纏う衣服はあちこちが焼け焦げ、未だに全身からぶすぶす白煙を燻らせながらも、その立ち姿には些かの衰えも感じられない。
(くっ……まだか?)
あれだけの雷を浴びながら、平然と立ち上がる勝家の頑丈さに舌を巻く。
千代の一撃で流石に集中が途切れたのか、その手にあった『金色御幣』は消え失せているが、勝家ならばそこらに落ちている雑兵の槍でも十分だろう。
対して千代はもはや先程の一撃を放つような余力が残っていない。
(せめて僅かでも足止めを――)
千代が手にした脇差を握りしめた時だった。
「くくく……フハハハハハっ! 見事!」
唐突な勝家の哄笑に、千代が思わす虚を突かれる。
「先程の一撃……おぬし、この場の信行様の術式を利用しおったな?」
「はい――」
土壇場で千代の脳裏に浮かんだのは、道三の言葉だった。
『――『水生木』と言うてな、『水気』で直に『木気』を打ち消すことは能わぬが、元来、『水気』は『木気』を生じさせるもの。その流れを導き、従えることが能う』
木火土金水の五属性を相関するのは『相克』のみではない。
「我が雷と同じ『木気』に満たされたこの場でなら、未熟なそれがしでもその後押しを受け、大規模術式の行使が能うかと――」
千代が大規模術式の行使直後にも拘わらず、消耗しつつもこうして勝家と対峙していられるのはその為だ。
そうでなければ、今頃千代は、『梅花春雷』を発動することさえできず、気の枯渇から昏倒していただろう。
「くくく……不器用で生真面目な真っ向勝負一辺倒だったおぬしが、よもやこのような搦手を使うとは――」
「不器用で生真面目は師譲りかと」
「む?」
きっぱりと遮られた形の勝家は一瞬目を見開いたが、
「ふっ……そうか……では、儂はかえっておぬしの才を狭めてしまっていたのかもしれぬな……許せ」
やがて気を取り直したように、そのままどっかと腰を下ろし胡坐をかく。
「勝家……様?」
「せめてもの詫びに、この首をやろう。持っていけ――」
勝家が腰の脇差を抜き、その首に当てようとした時だった。
「何を仰います!」
「!」
「一文にもならぬ『武人の誇り』とやらで、無駄に死ぬるくらいなら、その命を活かすことをお考えください! それがしがお慕い申し上げた柴田勝家とはこんなところで捨て鉢に命を捨てるような御仁では――」
「…………」
勢いよくまくし立てる千代に、呆気に取られたような勝家の表情に気付いたのだろう。
千代もようやく我に返ったらしい。顔を真っ赤に染めながら、
「いや……その……信長様なら……そう仰ると思います……それがしも弟子として勝家様からこれからも教えを賜りたいと思って――」
先程の口上とは打って変わって、俯き、蚊の鳴くような声でぼそぼそと呟く千代に、
「ふ……ふはははははっ!!」
勝家が先程以上の大音声で呵呵大笑する。
「おぬしは……良き主君を得られたようじゃな」
「いえ、これからは勝家様の主君でもあります。努々お忘れなきよう」
「反旗を翻した儂を許されると?」
「信長様は……そういう方です」
未だ顔を赤らめながらも、きっぱりと告げる弟子に、
「そうか……さあ、急がねば信長様の………いや、『殿』のお命が危ない。早う行くがよい」
勝家は満足げに頷きながら促す。
「は、はい!」
気恥ずかしさもあってか、そのまま後ろも見ずに駆けていく弟子の後ろ姿を見送ると、
「やれやれ……」
ドサッ
勝家は背中から大の字に倒れ込んでしまった。
せめて弟子の前では、と虚勢を張っていたが、雷の奔流に打たれた全身の感覚は未だ戻らず、しばらくはまともに動きそうにない。
「死ぬなよ千代――」
そう呟きながら、勝家はそっと目を閉じたのだった――。
◇
「――何だ? その刀は?」
蔵人がいぶかしげな表情で恒緒に問う。
恒緒の刀はおよそ二尺あまり。男が使うには問題はなかろうが、小柄な恒緒が持つとかなり長く見える。だが蔵人が見咎めたのはその長さではない。
恒緒の刀は飾り気も意匠もない、簡素と言えば聞こえはいいが、その実粗末な拵えだった。
普通であれば絹糸などが使われる、その柄巻きには武骨な荒縄が巻かれ、その上、柄頭には円形の腕抜きまで取り付けられている。
「当主の傍仕えともなれば、もう少しまともな刀ぐらい買えように……。それとも信長はまともな禄も与えておらぬのか?」
蔵人の挑発めいた言葉にも答えず、恒緒は左肩を相手に向け、地面ギリギリまで下げた切っ先を後方に向ける脇構えの形で、ゆっくりと間合いを詰めていく。
「あくまで、その粗末な刀で戦うつもりか……死してなお恥を晒すぞ?」
「これは信兄ぃがあたしの為に誂えてくれた刀。それ以上の侮辱は許さないわ」
ようやく口を開かれたその言葉が言い終わるか終らぬうちに、恒緒の姿が掻き消えた。
「!」
次の瞬間、一瞬のうちに間合いを詰めた恒緒の斬撃が、蔵人の胴を真一文字に抜いた。
が。
「『五色鱗粉・黄』」
「!」
何処からともなく響いた言葉と共に、真っ二つに斬った筈の蔵人の体が掻き消える。
「――なるほど、やるじゃないか?」
恒緒が振り返ると、消えた筈の蔵人がいつの間にか背後に立っていた。
どうやら今、恒緒が斬ったのは、幻術で生み出したまやかしだったらしい。
「幻術の穴埋めに、まさか体術と剣術を身に着けてくるとは……。『幻術使いは真っ向から敵と斬り合ったりしない』んじゃなかったのか?」
「『普通』はね。信兄ぃを護る為なら、何だってするわよ」
再び恒緒の体が宙を舞い、回転をかけつつの斬撃が、蔵人を襲う。
「はあっ!」
蔵人も刀を抜き、それに応じる。
「ふんっ!」
腕力に勝る蔵人が自らの虚像を生み出しつつ、力任せの斬撃を恒緒の刀に叩きつけるが、荒縄で巻いた柄と腕抜きが助けとなり、その手から弾き飛ばされることはない。
(成程……その刀の拵えは、男の膂力と渡り合う為の、女子の涙ぐましい工夫、という訳か……)
恒緒は叩きつけられるその荷重、反動、遠心力さえも利用して、蔵人に対し攻撃を繰り返す。
蔵人はその執拗な斬撃を、時に正面から受けつつ、時に自らの幻像を作り出し、その影に隠れることで避けていく。
(チッ……忌々しいが姉上の剣術は俺より一段上……しかしその程度、優れた幻術使いの前には物の役に立たん!)
「そんなもので――」
「一つ、教えてあげる」
口を開きかけた蔵人の言葉を恒緒が遮る。
「やたらと幻覚を見せて、得意になっているようじゃ、幻術使いとしてはまだ二流よ」
「……負け惜しみか? 今さら姉上から術の講釈を受けようなど思わぬわ!」
姉の諭すような口調に、蔵人は吐き捨てるようにそう言うと、一転して攻勢に出る。
(姉上の剣は、脇構えで自らの間合いを誤魔化しつつ、体術を利用した一撃離脱の強襲が主眼!)
「っ!」
(――故に、こちらから矢継ぎ早に攻めかかれば、男と女の膂力差……恐れるに足らん!)
間合いを詰め、一方的に打ち掛かる蔵人に、離脱する間も与えられず、恒緒は次第に防戦一方になっていく。
「きゃっ――」
「ここだっ!」
左脇からの斬り上げを受け、恒緒の刀が大きく跳ね上げられる。信長が誂えたという拵えの為か、刀がその手から離れることはなかったが、蔵人はがら空きとなったその鳩尾に蹴撃を繰り出す。
「っ!」
まともに蹴りを喰らった形の恒緒の体が壁へと吹き飛ばされる。
「これで終いだっ!」
壁へと叩きつけた直後の恒緒に刀を振り下ろすべく、蔵人が突進を始めた時だった。
ダンッ!
「!」
壁に向かって宙を舞っていた恒緒の体躯が突如、中空でくるり、と回転し、こちらに向き直るように壁面に着地してみせた。おまけに吹き飛ばされた勢いを利用して、手にしていた刀を納刀し、居合の構えをとっている。
(なっ――)
蔵人は、咄嗟にたたらを踏むような形で、制動をかける。
(ここで斬撃を紙一重で避ければ――)
居合は一の太刀である抜き打ちの速度に優れる反面、それを避けられた場合、どうしても大きな隙ができる。体躯に比して、長尺の刀を振るう恒緒ならば、それはさらに顕著になる筈だ。
鞘走りから驚異的な速度で迫る斬撃を、蔵人は大きく身を仰け反らせるような姿勢で、回避を図る。
(これなら――)
上衣の胸先を僅かに掠める程度で回避できる。
蔵人がそう判断した、次の刹那。
「が……ぐはあっ!」
胸を一文字に切り裂かれ、鮮血が迸る。
激痛とあまりの衝撃に、幻術を行使することもできず、蔵人はその場で倒れこむ。
(ば……馬鹿な!? 俺は確かに紙一重で刃を避けた筈……)
混乱の極みにある蔵人の耳に、姉の事もなげな言葉が響く。
「アンタは幻術使いのくせに、目の前の視覚に頼り過ぎなのよ」
蔵人の目が驚愕に見開かれる。
「ま、まさか……幻術で……?」
「そう、誤魔化していたのは『刃の長さ』。刀の切っ先、ほんの一寸ほどね」
言い終わるか終わらぬうちに、切っ先から一羽の黄色い蝶が飛び去り、恒緒の刀が本来の長さの二尺五寸ほどに立ち戻る。ここまでくると、小柄な恒緒が振るうにはかなり不釣り合いで、下げた剣先が地面に付きそうになっている。
脇構えに繰り出す長尺の刀
荒縄で巻いた柄と腕抜き
蔵人の蹴りを誘う攻防
刃の間合いをギリギリまで隠すための居合
そして先程までの問答――
「言葉、仕草、行動の全てをもって惑わしてこそ真の幻術。まやかしに頼るだけのアンタなんかに絶対に負けない!」
「ま、まだこの程度で……」
蔵人がなおも立ち上がりかけた時だった。
「いえ、これで終わりよ」
恒緒の言葉とともに、ガクッ、と立ち上がりかけた膝から力が抜け、崩れ落ちそうになる。
「な……に?」
一瞬でも気を抜くと、意識が持っていかれそうになるのを必死で堪える。
(な、何故だ……?)
確かに浅い傷ではないが、臓腑に達するほどでもない。失血で動けなくなるにしても、早過ぎる。
「確かにあたしの幻術は発展途上。けれど傷口から体内に直接撃ち込めば、手負いのアンタには十分でしょ」
「まさか……斬撃と同時に……紋様術で……催……眠を?」
「『五色鱗粉・白』」
恒緒が口ずさむと同時に、今度は純白の蝶が刀身から飛び、そのまま宙に溶けるように消えていった。
「しばらく寝てなさい。止血くらいはしておいてあげる」
「ば……馬鹿に……している……のか?」
居合の際、恒緒の踏み込みがもう半歩でも深ければ、確実に蔵人を討ち取ることができた。
信長と信行の例を挙げるまでもなく、身内同士が殺し合うことなど、この乱世では珍しくもない。
にもかかわらず、恒緒はそうしなかった。その上、意識を失った相手にとどめを刺すどころか、止血までするという。
「殺……せ。情けを……かけられて……永らえるなど――武士の――」
「『武士の誇りが許さない』? 心得違いをしないで。アンタに情けをかけた訳じゃない……信兄ぃの為よ」
「な……に?」
「信兄ぃのことだから、あたしがアンタを斬った、と知ったら自分の事みたいに悲しむ。もうこれ以上、信兄ぃに重荷を背負わせない。だから……信行様も殺させない」
「ふん……、変わら……ないな」
「……」
「ヤツは……信長は、『女子としての池田恒緒』のことなど……見ていない。『身内』になることはできても……結局は――」
「そんなこと、先刻承知よ」
「……!」
「あたしは信兄ぃに自分を見てもらいたいんじゃない。信兄ぃと同じ方を向いて、同じものを見ていく……そう決めたのよっ!!」
「…………」
「恒興?」
反応がない蔵人に声をかけてみると、
「……すぅ」
流石に限界だったのだろう、彼女の弟は先程まで剣戟を交わしていたとは思えないほど、安らかな顔で寝入ってしまっていた。
「……乙女の秘密を聞いておいて、オチてるんじゃないわよ……このうつけもの」
恒緒はそう言うと僅かに顔を赤らめながら、意識を失った弟の頭を軽く引っ叩いてみせたのだった。
◇
「木龍巣………清洲城?」
触手の拘束による激痛に耐えながら、信長は問いかける。
「やはり、父上から何も聞かされていなかったと見える。まあ、才無きうつけには一生縁無き大術式であろう?」
「く………」
「本来ならば、城に攻め入った者どもを返り討ちにするための術式であるが………織田の真の後継者たる私ならば、このように使うことも出来る。そうとも知らず、易々と城内に私を入れるとは……主君が暗愚であれば家臣も家臣だなあ!?」
「あいつらの悪口は言う………な」
「ふん、こんな時でも家臣のことか? まあよい、後は『素戔嗚』の力を手にすれば終いだ」
「な……に?」
「いつまでも、私が何も知らないとでも思っていたか? 父上から貴様に託されたという力、ここで見せてみよ」
「い………やだ」
全身を緊縛されながら、信長は首を振る。
「こちらも散々、手間をかけさせられたのだ。何の為に帰蝶やマムシを葬ったと思っている?」
「!」
「貴様の素戔嗚の力の事を教えてやった時の、帰蝶は特に見物であったぞ? ちょっと『今、信長を討ち果たさなければ、いずれ尾張どころか日ノ本全てが蹂躙されるぞ』と告げただけで、その気になったからな?」
「やめろ………」
「所詮は女子の身、討ち損じた挙句、替え玉まで用意され、失敗に終わったが、目障りな平手のジジイが片付いたので良しとしたがな」
「やめろ……信行……僕はお前を殺したくない」
絞り出すように発せられた声とともに、信長の全身がうっすらと光を発し、締めあげている触手が軋む音が響き出した。
「ほう、私を殺す、だと? 大きく出たな? だがまだまだだ。 ほれ、単騎で我が軍勢を押し返した力はどうした? 足りないとあれば、大事な家臣らの首をここに並べてやろう。その方が貴様も――」
その時だった。
「がああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
全てを掻き消すような大音声とともに、信長の発する光が金色へと変わり、全身には劔の紋様が浮かび上がる。
ミシッ………ミシッ
同時に信長を拘束していた触手の軋みが大きくなり、その表面には無数の亀裂が入っていく。だが信行に動じた様子はない
「そうだ! その力だ! だが貴様などには持ち腐れよ!」
右手甲に刻まれた木瓜紋を掲げる。
「この触手は、相手の気を吸い上げ、より成長する。貴様のその力も、頂くぞ!」
信行の足元より新たな根が芽吹き、触手となって信長へとさらに絡みついていく。
たちまちのうちに、信長の全身は幾本もの触手に覆われて見えなくなり、さながら一本の大木の中に飲み込まれたような形となる。
だが。
大木の幹の如く幾重にも重なった触手の表面には早くも新たな亀裂が入りだす。
「む? 小癪な………」
信行は苦々し気に、なおも右手甲の木瓜紋を掲げ、辺り一面から次々と触手を生み出し、その表面をさらに覆っていくが、亀裂はなおもそれを凌駕する速さで大木を侵していく。
「馬鹿な………空間全てを支配し武器とする木瓜紋の奥義だぞ!? それを内から力で喰い破るなど――」
信行が驚愕に目を見開いた時だった。
『木瓜紋だと?』
「!」
突如、『声』が響く。
それは耳から伝わる音としてではなく、身の内全体にまで響くような『声』。
『たかが生まれて百年余り、城一つを統べる程度の術が〝我〟に通じると思うてか!』
次なる『声』が響くその刹那、大木が内から微塵に爆散した。
「な――」
『――――!!』
次の瞬間、粉塵の如く舞い散る木っ端と木屑を、これまで聞いたこともないような咆哮が震わせた。
そこから現れた『モノ』は、さながら母体を胎内から引き裂き、強引に生まれいづる鬼子の如き――。
「おのれおのれおのれおのれえええええええええええ!!」
血走った目で喚き叫びながら、信行が更なる触手を繰り出す。
が。
『我は素戔嗚! 天地開闢を成したる神世七代の裔、『三神』の一柱なるぞ!』
◇
千代が『その場』に辿り着いたのは、それから四半刻も掛からなかっただろう。
「な………に!?」
その時には全てが終わっていた。
元は信長の寝所であったはずのその空間は、信行の術式によってか、十倍近くの広さに拡張されていた。そこに散らばるは、夥しいほどの木屑と木片。
先程まで、この場を席巻していたであろう龍の触手は、その全てが半ばからへし折られ、無惨な姿を曝け出している。そして血肉無きはずのそれらを赤く染め上げているのが――。
「――信行様!」
木っ端の如く打ち捨てられた信行に気付き、慌てて駆け寄る。
蒼白な顔面とは対照的に、朱墨入りの壺をひっくり返したかの如くその躰を朱に染めた信行には左肩から先が無い。
「くっ!」
胸のサラシを引き千切り、傷口に当てる。包帯代わりの布がゆっくりと朱に染まっていく。
まるで巨大な獣に喰い千切られたかのような重傷の割に、流れ出る血が僅かなのは、千代の止血が功を奏した訳ではない。おそらくその流出の峠を既に越えてしまっている為だろう。
実際に目の当たりにした訳ではない。これは単なる『結果』だ。だが考える前に本能が理解した。この惨状を作り出したのが、眼前の『アレ』であるという事を――。
「こ………れは?」
千代は顏を上げ、改めて眼前の影を見据える。
劔の紋様に覆われた肌、焦点を失った両眼、黄金色に輝く全身は確かに異形そのものだったが、背格好が大きく変わった訳ではない。彼我との間には、陽炎のようなうっすらとした隔たりがあったが、いつぞやの幻術使いのように容貌が隠蔽されている訳でもない。
それでも千代の言葉に疑問符が付くのは、本能が告げる理解を脳が拒絶しているためか。
『――――!!』
耳からではなく、文字通り全身を直接震わせる咆哮。
鬼神という形容さえ、なお生易しい。
さながら天地神明、神羅万象そのものに直接相対したかのような隔絶した圧力。
だが同時に千代がその瞬間に感じたものは――
(コイツ……泣いて……?)
恐怖でも畏怖でもない。ゆっくりと拳を振り上げる異形の者を前に、ただ呆然と佇むことしかできない千代が感じたのは、純粋なる『死』だった。
次の瞬間、千代の腰のあたりを横殴りの衝撃と浮遊感が襲った。
「!」
が、いつまで経っても続いて襲い来る筈の激痛がやってこない。
あまりに深い傷の場合、逆に痛みを感じないというが、今の自分もそうなのだろうか。肩から先を喪った、信行の姿が脳裏に浮かんだ時だった。
「――代! ――――なさい! 千代――――てるの!? ――ルもいつまで――――っているの!?」
「そりゃ――――恒緒殿! 儂が―――で――」
聞き覚えのある声が二つ、耳元に響き、遠のいていた意識が徐々に覚醒していく。
「恒緒………それに………サル?」
「! 気が付いた?」
「千代殿! 大事ないか?」
どうやら一瞬だが半ば意識を失っていたらしい。気が付けば千代は、恒緒に肩を借りる形で体を預けていた。
どこかで合流したのだろう。サルも気づかわし気に顔を覗かせてくる。
「………いい加減重いんだけど?」
「す、すまぬ………不覚を取った」
恒緒の言葉に千代は頬を赤らめながら、慌てて立ち上がる。
「………間に合わなかったみたいね。おそらく信行様が信兄ぃに何か余計なことをしたんでしょ」
ああ、やはり『アレ』が信長の成れの果てなのか。
恒緒の言葉にようやく実感が湧いてくる。
ふと見ると先程、千代がいた場所の地面は抉られ、陥没したような大穴が開いている。拳の振り下ろしのみであの威力だ。まともに喰らえば、頭から微塵に砕かれるだろう。
あのような規格外の化物になす術などあるのか――。
「サル! 貴方はその足で、信兄ぃの周りを駆け回って時間を稼いで! 『内在型』の貴方なら多少はマシでしょうけど、それでも近づきすぎると術が無効化されるから注意して!」
「合点! じゃがそう長くは持たないかもしれやせん。なるだけお早く!」
恒緒の指示にサルは信長の方へと駆け出して行く――が
「な――」
そのあまりの速力に千代は思わず声を上げる。
確かにこれまでサルの足の速さは目の当たりにしてきたが、それらと比べても今の速度は段違いであり、戦慣れた千代でも目で追うのがやっとだ。
それは信長も同じらしく、周囲を走り回るサルに掴みかかろうとしているが、巧妙に接近と離脱を繰り返す影を捉えられない。
「アイツ、何かの術を発動させている」
「!?」
恒緒の言葉で我に返った千代がよく見ると、足袋に覆われはっきりとは分からないが、ぼんやりとサルの両足が光っているのが見えた。
「百姓の身でどうやって――」
「分からないわ。多分、アイツの能力は『自分の速力を格段に上げる』こと……みたい。その全容はまだよく分からないけど、さっき貴女を助けたのは紛れもなくサルの足よ」
サルのいつもの俊足や神出鬼没ぶりは、その片鱗であったようだ。
「それより千代、よく見ていて?」
そう言いながら恒緒は扇を開くと、
「『五色鱗粉・黄』」
黄色の蝶を発現させ、信長の方へと飛ばす――が、
「!」
蝶が信長の間合い――二間半ほど――まで迫った瞬間、音もなく掻き消えてしまった。
「信兄ぃの周りを飛んでいるものが見える?」
恒緒に促され、千代が目を凝らしてみると、信長の周りを高速で一枚の銅銭らしきものが飛び回っているのが見えた。
「あれは――落宝金銭?」
「多分、素戔嗚が発現した信兄ぃの気に呼応して、落宝金銭の能力も暴走している。今の信兄ぃにはどんな紋様術も届かないわ」
「そんな――」
ただでさえ規格外の膂力を有している信長に対し、紋様術も使えないとあっては、打つ手などないのではないか。絶望する千代に、
「だから、貴女は信兄ぃの周りを飛んでいる落宝金銭を止めて」
「な……?」
事も無げに言われ、千代は目を剥くが恒緒の顔は真剣そのものだ。
「言ったでしょ? あの領域の中では全ての紋様術は無効化される。素戔嗚の中で信兄ぃが抵抗しているのか、完全覚醒ではないみたいだけど、それでも生身ではとても止められない」
「あれほどの圧でも、まだ完全ではない、というのか?」
「信行様がかろうじてまだ生きているのが、その証左。完全に素戔嗚が覚醒していたら、今頃、この城どころか尾張そのものが焦土になっているわよ」
戦慄する千代に、恒緒はあっさりとそう答える。
「だがしかし、あれほどの力、よしんば術が使えたとて――」
「貴女も武勇を誇る槍使いの端くれでしょ? 術が通じる様になれば、あたしに考えがある。じゃあ頼んだわよ!」
言うが早いか、恒緒は返事も聞かず駆け出し、そのままサルとともに信長の牽制に回っていった。
「全く……簡単に言ってくれる……」
あの道三は生前、武士として身を立てる前の油商時代に槍の穂先で、吊るした銅銭の穴を百発百中で穿って見せたという。
だが、今の千代が手にしているのは、道中で拾った数打ちの手槍。
勝家との戦いで消耗し、残存する『気』も心許ない。
(今のそれがしに、それほどの才、技量など――)
だがそんな千代の逡巡もつかの間。
「――っ!」
信長の周りを縦横無尽に駆け回っていたサルが、足元の地面に躓き、突如体勢を崩した。
無理もない。
それほど長い時間ではないにしろ、一撃必殺の剛腕を刹那で潜り抜けつつ、接近と離脱を繰り返さなければならないのだ。
だが、そんな僅かな隙も信長は見逃さない。
『――――!』
一瞬で間合いを詰め、サルの襟元を鷲掴みにする。至近距離まで詰め寄られ、術が無効化されたのか、サルの両足の光が消える。
「ぎゃ――」
一瞬のことだった。
信長は体を大きく振りかぶらせ、小石でも投げるかのように軽々とサルを投擲する。
轟音とともに吹きあがる噴煙。
それが晴れた跡に見えるは、大穴が穿たれた壁。
「サルっ!」
呼びかけに対する応えはなく、千代の位置からはサルの様子は窺えない。
(意識を失っているだけなのか、それとも――)
千代が焦燥に駆られた時だった。
『――――!』
信長が突風のような速度で、こちらに掴みかかってくるのが見えた。
「しま――」
サルに気を取られた形の千代が、それを避ける術はない。
「はっ!」
突如、回転しつつ飛来した影の一撃が、信長のこめかみを横殴りに襲い、その進撃を僅かに逸らさせた。
その僅かな隙に千代は反対側へと逃れ、辛くも虎口を脱した。
「すまぬ、恒緒!」
「いいから貴女は集中なさい!」
恒緒はそれだけ言うと、なおも信長へと向かっていく。
先程の一撃もそれで放ったのだろう、手にしている太刀は鞘に納めたままだ。
元より殺す訳にいかないとはいえ、圧倒的な膂力を有する信長に対し、あまりにも頼りない。
先程は不意を突いたからうまくいったとはいえ、単身で真正面から襲われては、ただいなすだけでも、すぐに限界が来るだろう。
「くそっ!」
槍を改めて正眼に構える。
さらに、高速で飛び回る銅銭の軌道は羽虫のように不規則で、その動きを完全に捉えきることなど不可能なように思える。
千代が絶望に瞠目したその時だった。
『試し合戦で千代を見た時、思わず見惚れた。世にこのように真っ直ぐで、美しい槍さばきがあるのだと初めて知った』
(!)
突如、脳裏に言葉が蘇る。
『こんな美しき槍術の担い手が僕を殺す、というのなら、それも是非もない、そう思ったら、勝家の縁者だろうが、信行からの刺客だろうが、どうでもよくなった』
『勝家は勝家だ、千代が卑下することなど微塵もない』
(――元より今のそれがしの術は通じない。ならば残る気の全てを――)
体内に内在させたまま、その充実の為に使う。
閉じていた眼を大きく見開く。
宙を飛び回る銅銭を見据えるその両眼と、槍を握りしめる両腕にのみを気を集中させる。
耳から全ての音が遠ざかっていき、自らが一本の槍と化していくような感覚。
視界から銅銭と己以外の全てが消失した瞬間。
(この一突きは、それがしを無条件に信じ、託してくれた者たちへの――)
一閃。
その一箭の矢の如き光芒は、荒れ狂う暴風の間を潜り抜け、舞い飛ぶ銅銭の正鵠を穿ち通した――。
◇
キィィィン!
槍の穂先に穿たれた銅銭は、鈴のような音を響かせながら、真っ二つに割れ、そのまま溶けるように宙へと消えていく。
「恒緒! 今――」
一撃を放った千代が恒緒に合図を送ろうと目を向け、絶句する。
恒緒が手にしていた筈の太刀は、攻防の中で弾き飛ばされでもしてしまったのか、いつの間にか丸腰になってしまっており、壁際に追い詰められてしまっていた。
「『五色鱗粉・紅』!」
突如、恒緒の両の手から一羽ずつ生じた真紅の蝶が、今まさに掴みかからんとしていた信長の両腕に飛び、爆散した。
『――――!』
そのあまりの衝撃に、信長の体がたたらを踏んだように仰け反る。
だが至近距離で蝶を放ったためだろう、恒緒の両手も爆破で灼け爛れてしまっている。
「くっ――」
その場にうずくまる恒緒だったが、同じ爆破を受けた筈の信長は、早くも体勢を立て直し、ゆっくりと恒緒に迫っていく。
「危な――うっ!」
駆け寄ろうとした千代だったが、突如襲う脱力感にその場に崩れ落ちてしまう。
ただでさえ消耗気味だった気を、先程の一撃で使い果たしてしまったらしい。
『…………』
信長はそんな千代に目もくれない。
素戔嗚の力だろうか? 驚くべきことに、先程の爆破で受けた火傷がたちまちのうちに癒えていく。このまま目の前の敵に、一撃を振り下ろすことに不足はないだろう。
苦悶に顔を歪ませながらも、真っ直ぐに前を見据える恒緒に対し、信長はゆっくりとその右腕を上げようとして――。
「?」
信長は不意にその動きを止め、振り上げかけた右の掌を見つめている。
その瞳には先程には無かった、人間のような光が生まれているようにも見える。
千代が目を凝らしてよく見ると、ほんの僅かではあるが、左腕に比べ、右腕の治りが鈍いような気がする。
(まさか……火起請の時の火傷を……?)
恒緒は先程、素戔嗚の中で信長が抵抗している、と言っていたが、以前と同じ場所にやけどを負ったことで、それが活性化したのかもしれない。
だがそれも僅かな時でしかなかった。
『我――素戔――嗚――なり』
口から洩れる異形の呟きと共に、信長の瞳より再び光が消え、今度は左腕が振りかざされる。
「逃げ……ろ。恒――」
だが、火傷の痛みからか、恒緒はその場にうずくまったまま、動く気配がない。
そんな恒緒に向かい、勢いよく腕が振り落とされようとした――その瞬間だった。
背後より三本の根の触手が飛び出したかと思うと、それぞれが信長の首と両手首に巻き付き、拘束した。
「これは――」
驚愕する千代が振り返ると、意識を失っていた筈の信行が片方だけになった手をこちらに向けていた。
「何か………策があるのなら、早う………せよ!」
だがその操る触手は、先程城を覆いつくしたものとは比べ物にならぬ程か細い。信長の今の膂力の前では、今にも引き千切られそうだ。
「恒緒、早く――!」
「ふっ……『初めて』がこんな形、っていうのが気に喰わないけど――っ!」
千代の叫びに恒緒は不敵な笑みを浮かべながら、立ち上がるとおもむろに口を開く。
『君が為――』
解言を紡ぐ恒緒の小さく赤い舌の上に、雪の結晶のように何かが形作られていく。
(まさか舌で蝶を――?)
『惜しからざりし命さへ――』
舌先に純白の蝶を舞わせたまま、恒緒は飛びこむように信長との距離を詰め、そして――
そのまま唇を合わせた。
『ガッ――』
これまでどんな攻撃にも動じなかった、信長の表情が歪む。
『――長くもがなと――思ひけるかな』
重ねていた唇を離し、解言を紡ぎ終えた瞬間、操り人形の糸が切れたかのように、信長から全身の力が抜ける。
「っと――」
そのまま倒れ込む体を、恒緒は灼けた手のまま、ぎこちなく抱き留め、
「ったく、これじゃあ、あべこべよ、全く………」
と、いくつもの感情が入り混じったような複雑な表情で呟いたのだった。
◇
「恒緒! 一体――」
「シッ」
問いかけを唇に指を当てることで制された千代は、
「っ!」
慌てて、傍らの地面に横たえられたばかりの主君の方へ目を向ける。
その全身に無数に浮かんでいた剱の紋様は既に消え失せ、肌も平素の色に戻っている。大きな傷も無く、その寝顔は安らかそのものだ。
「ふぅ………で、どうやってあの素戔嗚を?」
声量を抑えた上での重ねての問いかけに、恒緒はそっと溜息をつくと、
「――確かに今のあたしたち程度の術じゃ、いくら『外側』から放っても素戔嗚は倒せない。だから体内の素戔嗚に直接『催眠』の紋様術を流し込んだの。まあ、その影響で信兄ぃ自身も覚醒前後の記憶を無くしてしまうと思うけど」
「成程………それで事前に、落宝金銭の破壊が必要だった訳か……」
「素戔嗚が完全に覚醒していなかったからできたことよ。まあ、多分こんな手は一度しか通じない………っていうか、一度で十分」
「ん? 何か言ったか? というか、何故先程から目を逸らして………あ」
執拗にこちらを向こうとしない恒緒の顔を覗き込もうとして、遅まきながら、その顔が紅潮していることに気付く。
「あ……その……口移し――」
「な、何でもないわよ! それより信行様の手当てを――」
「その………必要は………ない。私はもう――」
「信行様!」
慌てて駆け寄るが、信行の顔色は蒼白を通り越して、もはや土気色になっている。
そんな担い手の状態を反映してか、城中を覆い尽くしていた根は既に力を無くしており、早くも朽ちつつあるものも多い。
「教えてください………何故、このようなことを?」
「………最期の………最期で………この様か………兄………上の甘さが伝染ったのか――」
「違います」
自嘲の笑みを浮かべる信行の呟きを恒緒が遮る。
「あたしが聞いているのは――帰蝶様も義龍も貴方も……まるで何かに――」
「ふ……ん」
もはや目も見えていないのだろう。信行の目は焦点を喪っており、言葉も徐々に絶え絶えになっていく。
「ただ……かが、わたしを……が動かした………の方が智も……才………ある……なのに何故……と……あれだけ、あに……おしたい……のに――」
「……え? それはど、どういう……」
「せいぜい……その方らも……気を――」
「信行様――」
問いかけるが答えはない。それきり信行の瞳からは光が消え、全身からすっと力が抜けたかと思うと、そのまま二度と動くことはなかった。
「くっ――」
恒緒が何かに耐える様に俯き呻く。
「恒緒? 一体何を――?」
この乱世、親兄弟親族が殺し合うなど珍しくもない。痛ましいことだがそれが現実だ。恒緒自身、そう割り切っていたように感じていた。
だが先程の問いや今の反応は、そんな平素の恒緒らしからぬものだった。
「そう……ね」
千代の声に恒緒は俯いていた顔を上げると、
「千代、頼みがあるの――」
と、何かを決意したような顔でそう言った――。