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第四章

「おお、殿と千代殿じゃぞ」

「ほんに、仲睦まじいのう」

(……あれ以来、すっかり『そういうもの』として噂が立っちゃったわね)

 恒緒は心中で密かに独りごちた。

 三寒四温の言葉の通り、寒暖を繰り返していた気候も久々に落ち着き、ここ一週間ほどは穏やかな気候が続いている。

 彼女は、うららかな日差しの下で、近習たちから漏れ聞こえてくる噂話に耳を傾けながら、今日は『帰蝶』ではなく、信長の側近である『池田恒緒』の姿で縁側に控えている。

『あの一件』から実際のところ、信長の千代に対する態度や接し方が大きく変わった訳ではない。

 今、目の前で展開されているのも、信長の突拍子もない思い付きを、堅物の千代が止めようとしている、という日常の光景だ。

 だが、一度『そういう噂』が立ってしまうと、人はその先入観を元にモノを見てしまうらしい。

「見よ、千代殿は常に片時も傍を離れぬではないか。殿も余程、千代殿をご寵愛しているのだろうよ」

「しっ! 奥方様に聞かれたら事じゃぞ?」

(ここにいるわよ! 千代がいつも傍にいるのは馬廻りであり、母衣衆なんだから当たり前でしょ! そもそも一緒にいる時間はあたしの方が長いんですけど!)

 頭では割り切っているつもりだが、パタパタと扇を扇ぐ手の動きが次第に早くなっていることに、恒緒本人が気づいていない。

(まあ、『帰蝶』としては楽でいいけど……何か面白くない!)

 戦国乱世に生きる者でも、乙女心は複雑なのだ。恒緒が悶々としている間にも、近習たちの話は続く。

「だがまさか、我が殿にも衆道の気があったとはのう」

「お主も整った顔をしておるようだし、どうだ、いっそ――」

「た、戯言を――」

(何でそこでアンタが顔を赤くしているのよおおおおおおおおお!)

 恒緒が思わず声を上げ、近習たちの間に割って入りそうになった時だった。

「ご注進! 一大事じゃあ!」

 血相を変えたサルが、土煙を上げるほどの凄まじい勢いで駆け込んできた。

「どうした、サル?」

 そのただならぬ剣幕に、信長が立ち上がる。

「申し上げます! 美濃の斎藤義龍が謀叛! 弟君二名を討ち、軍勢を率いて道三殿の邸に攻めかかったとのこと!」

「何だって!? 道三殿は? 無事なのか?」

「道三殿は辛くも難を逃れ、ご自身も兵を挙げられたものの、お味方する家臣は少なく、形勢は苦しいとのこと」

「そうか……よし、すぐに加勢に行くぞ! 恒緒、千代、準備を――」

「待って、信兄ぃ!」

 そのまま駆け出して行こうとする信長を、恒緒が慌てて制止する。

「私たちは清州に移ってから間もない。まだ地固めも済んでないのよ」

 信長たちは先年、下剋上で家臣に討たれた織田本家当主の後を継ぐ、という形で、本拠地を清州城に移していた。

「今、迂闊にここを離れるのは危険――」

「そんなことを言っている間に、道三殿が討たれたらどうするんだ!?」

「っ!」

 平素の信長からは考えられないほどの剣幕に、何事か、と周囲の視線が集まるが、信長は意に介した様子もない。

「帰蝶に続いて……道三殿まで見殺しにしたら僕は――」

 俯く信長の表情は見えないが、そこには並々ならぬ決意が窺えた。

「……信兄ぃは、あたしが――」

 恒緒の口が何かを言いかけて、すぐ思い直したように閉じる。

「……分かったわ」

「案ずるな! 道三殿とて、そう易々と討たれたりはしない」

 生真面目な千代の励ましが、今は有難かった。



「――よもやこの齢で……」

 ここは美濃の国を流れる大河の一つである長良川の畔。

 対陣する息子の軍勢を見やりながら、道三が一人呟く。

「大殿?」

 周囲に心中をさらすことの少ない、道三のぼやきが珍しかったのだろう、傍に控えていた使い番が怪訝そうな顔をする。

「何でもない、気に致すな」

 と遮り、手だけで人払いを促す。

 そそくさと退出する使い番を尻目に、道三は床几に腰を下ろし、目を閉じる。

 悪辣な手段で国盗りを果たした自分が、まともに畳の上で死ねるとは思っていない。

 だが、それなりに目をかけ育てた嫡男に背かれ、息子二人を討たれ、相争うことになると、流石の道三も思うところがないではない。

 下剋上に駆け抜けた生涯の中でも、滅多にすることのなかった物思いに耽っていた、そこへ。

「大殿! 遅参の段、御免なれ!」

 まだ正式な元服前なのか、若衆髷の少年が陣中に駆け込んできた。

「おお、兵助! 無事じゃったか!」

 道三は孫ほど年齢の開いた、自らの小姓の着陣に思わず顔を綻ばせる。

「はっ! それにしても憎むべきは義龍! お父上たる大殿に対し謀叛とは……不義不忠の極みにござる」

 兵助と呼ばれた小姓は、まだ幼さの残る顔を憤りに歪ませる。

「美濃三人衆をはじめ、重臣たちもほぼ義龍方に付いた。兵力も、二万近い敵に対し、こちらは三千足らず……。まあ、これも応報というものかの」

 かつて道三も自らの主君を放逐して国主となった身だ、この状況を天に恨むのは筋違いというものだろう。

「殿……」

「じゃが、この長良川を戦場にしておる限り、そう易々と討たれはせぬぞ。我が『二頭立波』の底力を見せてくれる」

 道三の軍は豊富な水量を誇る長良川の畔に布陣している。水と波濤を操る道三の紋様術は水辺でこそ、その真価を発揮する。

「ここで持ち堪えておれば、じきに婿殿の援軍も来る。虎口を脱することも不可能ではないじゃろう」

 そう言って、道三が紋様術を発動させるべく、川べりに立った時だった。

「――それでは困るのです」

「何――」

 突如、背後から感じた殺気に、振り返るが一瞬遅い。

「ぐっ……はっ!」

 不意を突かれた形の道三は、咄嗟に身をひねるものの、背後からの鎧通しによる刺突を避けきれなかった。

「く……ぬうん!」

 道三は、脇腹を襲う激痛に顔を歪めながら、背後に水流の槍を繰り出すが、敵は後方に跳ぶことでその一撃を軽やかに避ける。

「チッ、仕損じたか」

 舌打ちする口から発せられる声は、もはや見知った小姓のものではない。

「貴様……兵助ではない……な」

「ふっ……」 

 もはや誤魔化す気もないのか、術を解いた男の顔は、年格好こそ先程の小姓とそう変わらないものの、狡猾にニヤリ、と笑う顔は似ても似つかない。

「く、曲者だあっ!」

 ようやく異変に気付いたのだろう、周囲から集まった他の兵たちにより瞬く間に十重二十重に囲まれるが、男は意に介した様子もない。

「貴様……何者じゃ?」

「…………」

 男は道三の問いに答えず、パチン、と指を鳴らして見せた。次の瞬間。

『シャッ!』

 突如、大の大人一抱え分ほどの体を持つ、巨大な大蛇が川から飛び出し、道三や周囲の兵たちに襲い掛かってきた。

「この『美濃のマムシ』に蛇を差し向けるとは……身の程を弁えよ!」

 再度道三が繰り出した水流の槍により、大蛇はその身を貫かれ、たちまちのうちに霧散していく。だが、男はその唇を歪めるような笑いを崩さない。

「ほう? 流石じゃな。だがその傷では、もはやこの劣勢を覆すことなどできはしまい? じきに婿も送ってやる故、先に冥土で待っておれ」

「な――?」

言い終わるか終わらぬうちに、男の体が崩れたかと思うと、大量の蝶と化して、一斉に飛び去っていく。

(蝶……だと? 『揚羽紋』による幻術か? この道三の目を謀るとは……いや、柄にもなく、気弱になっていたか。儂も耄碌したものじゃ」

 兵力差は数倍。美濃国内のほとんどの勢力が道三に背いている。おそらくお気に入りだった件の小姓も敵方に付いているだろう。考えなかった訳ではないが信じたくはない、そこを突かれたようだ。

「くっ……」

「大殿っ!」

 脇腹の激痛に思わず片膝をついた道三に、傍らの小姓が駆け寄ってくる。傷口から流れ出る鮮血は止まる気配もなく、腰から下、薄い藍色だった直垂は、着込む具足ごと深紅に染まりつつある。

 そうしている間に、対陣する義龍の軍勢より鬨の声が上がりだした。

「おのれ……これも彼奴の策か」

 もはや一刻の猶予もない。

「使い番! ここは儂が食い止める故、婿殿に至急知らせよ! 『これは敵の罠、当方へのご加勢無用。婿殿は急ぎ戻り、尾張を固めよ』、そして……『美濃を存分に』、とな」

「ははっ!」

 下知を受け、走り去っていく使い番を見送ると、道三は槍を杖に、近くの大岩に身を預けるようにして、何とか立ち上がる。

「お、大殿、動いてはお体に――」

 肩を貸そうとしてくる小姓を手で制し、

「……気遣い無用じゃ。かくなる上は、一人でも多くを死出の旅の道連れにするまで! おぬしも頃合いを見て落ち延びよ」

 道三は霞みつつある視界の中で、気を励起させ、『二頭立波』の紋様術を発動させた。

(婿殿……後のことは任せた……ぞ)



 道三救援の為、清州を進発した織田軍は美濃との国境近く、木曽川まで進軍してきていた。

 これを越えれば、道三が義龍軍と対峙する長良川に出ることが出来る。だが――。

「こ、これは――」

 眼前に広がる水面は大幅に増水し、洪水時の如き激流を見せており、とても渡河できるような状態ではない。

「莫迦な!? ここ何日も、雨など降っていなかったぞ?」

「まさか上流に堤を作っておいて、決壊させたのでは?」

「いえ、これほどの大きい川に、そんなものを作ろうとしたら、何か月かかるか分からないわ。道三殿への援軍の阻止の為だけに、それだけの時間と人手をかけられるのなら、こんな回りくどい事をせず、力技で一気に攻め滅ぼせばいい」

「だが、紋様術を使えば――」

「『土』系の強力な術士がいれば、不可能ではないかもしれないけど……でも、そんな術士がいるのなら、あたしたちが渡河を始めた時に決壊させれば、壊滅に追い込める筈。それも考えにくいわ」

「くそっ! どうする? 一か八かこのまま――」

「信兄ぃ落ち着いて。もう少し上流へ行って渡れる場所を探――」

 焦燥に駆られている信長を宥めていた恒緒が、何かに気付いたように不意に言葉を切る。

「恒緒?」

「誰か来る!」

「!」

 恒緒の声に目を凝らしてみると、馬に乗った使い番らしき男が、上流の方から、岸沿いにこちらに向かって駆けてくる所だった。よく見ると、その背には『二頭立波』の旗印を背負っている。

「織田信長様の軍勢とお見受けする!」

「その旗印……貴方、ひょっとして道三殿の?」

「はい、我が主、道三より信長様へ火急の知らせを預かり、参上致しました!」 

「僕が信長だ。危急の知らせとは?」

「はっ、『これは敵の策、当方へのご加勢無用。婿殿は急ぎ戻り、尾張を固めよ』……そして『美濃を存分に』、との由にございます」

(『美濃を存分に』って……それじゃあ、まるで――)

 まるで遺言のような言葉に千代は息を呑む。

「……道三殿は今どのような状況だ?」

「そ、それは……」

「申せっ!」

 言い淀む使い番に、信長が先を促す。

「……大殿は、小姓に化けた刺客により、手傷を負いましたが、ご無事です。ここは食い止める故、信長様におかれましては、一刻も早くお戻りを」

「じゃあまさか、この川の増水は、道三殿の紋様術!? これだけの川を術で氾濫させたっていうの……?」

「だったら、落宝金銭で――」

「待って、信兄ぃ!」

 永楽銭を弾こうとした信長を恒緒が制止する。

「今、この術を無効化したら、道三殿の思いはどうなるの? これだけの術式、如何に道三殿といえど生半には行使できない。おそらく……命を賭している」

「!」

「たとえそれで加勢に間に合っても、助けられた道三殿は喜ぶかしら?」

「それがしもそう思います。それに『尾張を固めよ』っていう、道三殿の言葉も気にかかります」

「けど……けど!」

 信長は永楽銭を握りしめたまま俯き、身を震わせる。

 そこへ。

「――はあ、はあ……お二人の……言う通りじゃ」

「サル!?」

「いつもながら、神出鬼没ね」

 飛び上がらんばかりに驚く千代に対し、恒緒の方はもう慣れっこなのか、唐突なサルの登場にも動じた様子はない。

「ぜえ、ぜえ……申し上げます……弟君信行様、ご謀叛!」

「なっ!」

「腹心の柴田、津々木はもちろん……筆頭家老の林らも呼応して挙兵……既に篠木の地を横領、砦を築いておるとのこと」

 かなり急いできたのか、サルの全身は泥だらけの上、息も絶え絶えだ。

「まさか……今回の義龍の謀反は、信行様と示し合わせて?」

「道三殿の知らせはそういうことだったのか!」

「信行様の軍勢は、抵抗する我が方の城下や村々を焼き払いつつ、清州へと進軍しております。早急にお戻りくだされ!」

(愚かなことを……。隣国の手を借り、しかも自国内の村を焼き払うとは……。信行様はそんなことも分からないのか!)

「くっ――」

「信兄ぃ!」

「僕に舅を……道三殿を見捨てろ、っていうのか!? 帰蝶に続いて!」

「それは、最後は信兄ぃが決めることよ。あたしはそれに従う。でも、戻らなければ、無辜の民百姓が多数犠牲になるかもしれない。それを忘れないで」

「っ!」

 真っ直ぐな瞳で直言され、信長は目を伏せる。

「信兄ぃが身内も民も両方守りたいのは分かる。けど、そんな多くを望むには相応の力が必要なの!」

「…………」

 永劫とも思える逡巡の末、

「くそっ!」

 ――信長は決断を下した。



 その頃、尾張領内のとある村にて二人の男が広場への道を急いでいた――。

「――おい、百貫! そろそろ敵方の兵が来る! おふくろさんはどうしたんだぎゃ?」

「もう山の方へ逃がしたから、心配ねえだ。エラは?」

「儂のところもじゃ。今生の別れも済ませてきた」

「おいおい、そりゃあいけねえ。エラは次の村長としての役目もあるだし、生きて帰らにゃ」

「そうじゃな……生きてあのお優しい殿様の作る国を見てみてえ。あの方ならきっと、良き国を作ってくださる」

「んだな……終わったら、腹いっぱいメシを喰うだ」

「応よ!」

 二人の百姓はそう笑って声を掛け合うと、納屋の隅に眠っていた古びた甲冑と槍を打ち鳴らしながら、集合場所である村の広場へと駆けていった――。



 それから数日後。

 千代と恒緒の二人は、とある村のあぜ道を歩いていた。

 焼き討ちにあった家屋の消火は概ね完了し、村全体を包む匂いが、焦げ臭さから鉄錆めいたものに代わりつつある。

「――信兄ぃは?」

「あちらに――」

 恒緒の問いに、小姓の一人が村外れの広場を指し示す。

「そう……ありがと」

「ただ、何人も近づけるなとの仰せで――」

「貴方には迷惑はかけないわ。……行くわよ千代」

「ああ……」

 二人はゆっくりと通る者のいなくなった広場へと歩を進める。

 信長の主導で、この村で祭りを行ったのが、まるでもう何年も前のことのように感じるが、あれからまだ数か月しか経っていないのだ。

 広場に近付くに従って、微かに主君の声が漏れ聞こえてくる。

「エラ……起きろよ。娘がようやく六つになったんだろ? 可愛い盛りじゃないか?」

「百貫……力士になって、苦労掛けたおふくろさんに孝行するって言っていたじゃないか? なあおい? 目を――」

「――信兄ぃ」

「っ!」

 二人の接近に全く気が付いていなかったのか、背後から呼びかけられた信長がびくっ、その身を震わせる。

「いつまでそうしているの?」

「何で……何でだよ! 僕は、僕はただ……身の回りの大切な人たちを助けたいだけなのに! なのに、なのに何でっ! 爺も……帰蝶も……道三殿も……何でみんな僕を残していくんだ!?」

 振り返った信長の顔は、まるで親に叱られた幼子のように、涙と鼻水でグシャグシャだ。

「そんな顔を兵たちに見せないで。当主としての沽券に……何よりこれからの戦の士気に関わるわ。もっと大将としての矜持を――」

「沽券や矜持でっ! この者たちが救えるのかっ?」

「……救えないわ。でも、この村の人たちが信行様の侵攻に抵抗して、時間を稼いでくれたおかげで、あたしたちは間に合った――」

「『間に合った』!? どこがだ? 僕たちは間に合ってなんかいない! 結局僕は――」

 悲痛な叫びを上げる信長に対して、恒緒の口調はあくまでいつも通りだった。いつも通り、平坦で、正しくて、辛辣だった。

 そこへ。

「申し上げます! 信行様の軍が動き出しました! 東と南、二手に軍を分け、こちらに向かっております!」

 斥候が広場へと駆けこんできた。

「信兄ぃ! 信兄ぃは道三殿や、その者たちの献身を、犠牲を本当の意味で無にするつもり?」

 亡き者を口実にした説得。それはある意味、最も卑劣な手段だったかもしれない。

 だが、彼女はどんな想いでそれを言ったのだろう。

 その密かに握りしめた拳に、噛み締められた唇に、背を向けたままの彼女の主君は果たして気が付いているのだろうか。

「………」

「信兄ぃ――」

「………分かったよ……恒緒」

 信長は長き沈黙の後、地面に横たわる冷たくなった輩たちの手を今一度強く握りしめると、ゆっくりと立ち上がった。

「赦してくれ、とは言わない。だが――犬死にはさせない……絶対に! どんな手を使っても!」

「信兄ぃ? ……まさか!? やめ――」

 何かに気付いたのか、恒緒が声を上げた次の瞬間。

 突如、信長の体を金色の光が包んだ。

「なっ――」

 あまりのことに、千代が思わず息を呑む。

(劔の……紋様――?)

 光が収まった瞬間、そこに立っていたのは、全身に隈なく剱の紋様を浮かび上がらせた信長の姿だった。



「ぎゃっ!」

 もはや何十人目になるだろうか?

それはまさに一方的な蹂躙だった。

 信長が腕を振るう度、短い悲鳴があがり、敵方の足軽の体が宙を舞う。


 尾張の東部、末森城で兵を挙げた信行軍は、信長の直轄地を攻め取りつつ、徐々に西上。美濃から転進した信長軍と稲生の地で激突した。

 この時点で、信行軍の兵数は信長軍の倍以上。

 東側と南側に軍を分け、二方面から攻め寄せる信行軍に対し、圧倒的に不利と思われた信長軍であったが――。

「ば、化物だああああっ!」

 徐々に兵たちの間に、動揺と恐怖が伝播していく。

 無理もない。

 何しろたった一人の男が、数百人もの軍勢を相手取り、あまつさえ押し返してさえいるのだから。

 だがよく見ると、振るう刃には一滴の血もついてはいない。

 それもその筈、信長は刃を守りにしか使っておらず、その攻めは専ら拳打や蹴撃といった、徒手空拳で行われている。

 正面からの斬撃を受け、反撃。

 側面から繰り出される槍を逸らし、反撃。

 背後から迫る突きにさえ、背中に目があるが如くにいなして、反撃。

 相手と二合以上打ち合う事すらない、剣戟と呼ぶのもおこがましい一方的な攻防。

 さながら、下手な芝居の殺陣のような光景が繰り返し展開されている。

 武勇に優れた騎馬武者が、敵陣の中を単騎駆けすることはままある。

 だが今の信長は終始徒歩のまま、迫る白刃を払い、降り注ぐ矢の雨を叩き落し、十重二十重に襲い来る敵兵たちを蹴散らしてなお、飛び回る羽虫を振り払っているかのように、その歩みを止めない。一騎当千、とはまさにこのことだ。

「あれは一体―――」

 平素からは全く思い及びもしない、主君の鬼神の如き武勇に、千代はただ呆然とする。

「恒緒、あれは何なのだ!? 殿は紋様術を満足に使えないのではなかったのか?」

「……行きましょう。信兄ぃが東側の軍勢を抑えてくれている間に、南側の軍勢を迎え撃つ」

「恒緒!」

「話は後にしましょう。信兄ぃの思いを無駄にしたくない」

「――くっ!」

 血が滲むほど唇を噛み締める恒緒に、千代はそれ以上何も言えず、南側の軍勢に向け、馬首を返した。



 そして――。

『この隊の大将、林通具殿と見受ける』

 半刻後、ついに信長は先手隊の大将の眼前にまで単騎でたどり着いていた。

「まさか……こんなことが――」

 通常ならば、敵に押され敗色が濃くなってきた場合、ここまで侵入される前に退くなり、後方部隊との合流を図るものだ。

 だが、林通具は信行派の家老である林秀貞の弟であり、過去には信長暗殺を企てるなど早くから反信長の旗色を示していた。

 それだけに、信長の異常な単騎駆けの報にも、おいそれと逃げる訳にもいかず、結果引き際を見誤った。それがこの男の生死を分けることになる。

『私怨は無いが、この戦を終わらせる為、お前の首を貰い受ける』

「ふ……ふざけるな! 者ども、このうつけを――」

 討ち取れ、と続く筈だった言葉は最後まで紡がれることはなった。

 信長と通具との間に、突如閃光が走る。

「な――」

 おそらく通具本人も、最期まで何が起こったか分からなかっただろう。

 周囲の者たちが次の瞬間見たものは、刀を鞘に納める信長と、そこから三間以上も離れていた筈の、首から上が無くなった通具の体だった。

 数瞬遅れ、通具の首から鮮血が噴出し、その体がどさり、と倒れ伏してようやく、

「う、うああああああああああああああああああ」

「た、大将が討たれたあ!」

 馬廻りを始め、我に返った信行方の兵たちに混乱が広がっていく。

 信長はそんな逃げ惑う兵たちに構わず、自らが斬り落とした通具の首を拾い上げると、

『林美作守通具、織田上総介信長が討ち取った!!』

 辺り一面に響き渡る大音声で、勝ち鬨を上げる。

「ひ、退けええええええええええ!」

「う……うああああああああああ」

 大将の死に、逃散していく敵兵に一瞥もくれないまま、さらに信長は続ける。

『この戦場にいる全ての者よ、聞けっ!!』


 この信長の声は南側の軍勢と戦っていた、千代たちの元へも届いた。

「恒緒、これは……」

「ええ。あたしにも聞こえた。これはただの大声じゃない。術で戦場中に言霊を飛ばして呼び掛けている。……ったく、こういう小手先の術は得意なのよね……」

 呆れたように、だがどこか誇らしげに、恒緒は苦笑する。


『今、尾張国内で、身内同士で争ってどうする!? 僕が誼を結んだ斎藤道三殿はもういない! その道三殿を弑した西の義龍や、東の今川義元を喜ばせるだけだ!』

 当主らしき言葉遣いすらかなぐり捨て、信長は同輩の友と話すときのような常の言葉で、なおも訴えかける。

『今は尾張が一丸とならなければならないんだ! もうこれ以上、無益な犠牲を出さない為に……頼む、僕に力を貸してくれ!』



「――殿、もはやこの戦、これまででござる。退きましょう」

「……」

 勝家の呼びかけにも、信行は怒りを堪える様に身を震わせるばかりで答えない。

「まだ我が方は負けておらぬわ! 無礼なことを申すな!」

 蔵人が横から横柄に口を出してくる。

 今回の策を発案し、自ら道三に手傷を負わせるなど、信行に重用されるに従って、その態度も次第に尊大になってきている。

 だが勝家はそんな蔵人を無視して、あくまで信行を諭すように続ける。

「先程の信長様の言葉により、我が方の兵たちが逃散を始めております。これでは戦になりません」

「……雑兵が多少減ったところで変わらぬ。私やおぬしらの紋様術で蹴散らせば――」

 自らの歯を噛み砕かんばかりに噛み締めながら、信行が口を開く。

「戦、というものには時の勢いや流れ、というものがございます。個人の武勇、知略など一要素に過ぎぬこと」

「だが、あのうつけめは、単騎で我が軍と渡り合っているではないか!」

「……拙者の命と手勢全てを引き換えにすれば、止めることは能うやもしれません。ですが、それでこの戦に勝ったとて、疲弊した我が軍の隙を、隣国に付け込まれたら何と致しまする? 我らとて、永劫に戦い続けられる訳ではないのですぞ?」

「――っ!!」

「どうかここは一旦退き、信長様とどうか和睦を。今はこの尾張を守ることこそ肝要です」

傍らではなおも蔵人が、なおも何事かを喚き続けていたが、信行自身は黙ったままだ。

「殿、ご決断を――」

 重ねての勝家の言葉に、信行はくわっ、と血走った目を見開くと、

「あああああああああああああああああああっ!!」

 手にしていた鞭を真っ二つに断ち折り地面に叩きつけ、

「おのれおのれおのれおのれおのれおのれおのれ! 何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だ何故だっ!!」

 呪詛のような声を上げながら、踵を返し駆けていく。

周囲の者にとってそれは、何よりの答えとなった。



「敵軍が退いていくぞ!」

 南側の軍を食い止めていた千代と恒緒は、敵が撤退し始めたのを見て、東側で一人奮闘する信長に合流すべく、馬を走らせていた。

 信長の『呼びかけ』により、敵軍は戦意を喪失し、逃散しつつあるとはいえ、ここは依然として戦場である。

 未だ襲い掛かってくる敵兵を蹴散らしつつ、数里ほど進んだ頃だった。

「信兄ぃ!」

「殿っ!」

 見覚えのある鎧兜姿の信長を見つけ、二人が声を上げる。

「ああ……二人とも無事だったか」

「殿……」

 くるり、と振り返った信長の声は平素のもので、その全身に浮かび上がっていた筈の剱の紋様も既に無かった。

「殿、一体……先程の紋様は?」

 紋様術は通常、自らの体や武具にその象徴となる紋様を刻み、発動する。

 だが、先程までの信長の、全身を隈なく覆うような紋様など聞いたことが無い。

「これは――う……かふっ!」

 何事か答えようとした信長だったが、突如口元から鮮血が溢れさせ、そのまま倒れ伏してしまった。

「信兄ぃぃぃ!」

 終息しつつある戦場で、恒緒の悲鳴が木霊していった――。


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