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第三章

 老将は寒空の中、縁側で一人、半分だけの月を見ていた。

 いつもであれば、傍仕えの小姓が飛んでくるところだが、そうならないのは、家中の者が皆、老将がもはや長くないことを覚悟しているからだろう。

 彼の腹部にはこれまでの戦で負った、どの傷よりも重い刺傷がある。

 幾重にも包帯が巻かれ、治癒術により既にその傷口は塞がりつつあるが、如何せんそれまでに血を流し過ぎた。若い頃ならいざ知らず、齢六十を超える体には致命的だ。

 この幾日か、生き永らえられたことの方がむしろ幸運だったと言える。

(あのお優しき殿は……どう思われるだろうか?)

 老将は幾度も見舞いに訪れようとしていた、自らの主君の顔を思い浮かべる。

 この乱世を渡るには不釣り合いなほど繊細で、情の深い主君。幼い頃から傅役として世話をし、僭越ながら、自らの子のようにも感じていた。

 だが会う訳にはいかなかった。もし見舞いを受ければ、老将の傷の事が外部に漏れてしまうかもしれない。それだけは避けねばならなかった。

(なれば、死にぞこないの老体ができることはただ一つ……。殿……お許しくだされ)

 老将は懐に隠していた脇差を掴み出すと、震える手でその鞘を抜き払った――。



「奥方様が?」

 その日、サルが持ってきたのはまた妙な話だった。

「ああ、そなたに会いたい、そう仰せじゃ」

「何故?」

「さあ……儂にも分からぬ。武勇の誉れ高き、新進気鋭の母衣衆をこの目で見たい、ということではないのか?」

「サル、お主……何か――」

「と、とにかく伝えたからな? 遅れるでないぞ!」

「あ、おい……」

 千代が呼び止めようとするのも聞かず、サルはそれだけ言うと、長屋をさっさと出て行ってしまった。

 意外なことに、信長はあれでも妻帯者なのだ。

 先年、隣国である美濃国主の斎藤道三との同盟の証に、その娘と政略結婚している。信長があちこち飛び回っているのとは対照的に、ほとんど表に出てこない性格らしく、千代も会ったことはない。

(確か……帰蝶様、と言ったか? そういえば、あの縁談をまとめたのが政秀様だったな……)

 織田家家老として、そして幼き頃から傅役として長年面倒を見てきた信長の為、両国の架け橋となって尽力してきた成果と言える。だが――。

 政秀は先日、突如としてこの世を去ってしまっていた。

 巷では、政秀の死は信長の行状を諫める為の自刃である、と噂が飛び交っているが、真相は明らかにされていない。

 信長は政秀の菩提を弔うため、新たに政秀寺を創建させたが、行状は変わらず普段通りに過ごしているように見える。

(もし噂が事実だとすれば、政秀様が浮かばれない……)

 千代自身、信長に振り回されている立場であり、政秀にかなり同情的だった。

 もし、その信長が政秀の想いや死に関して何も感じていないとしたら――。

 だが同時にそれを否定する自分もいる。

 実際に仕えてみると、信長の姿は事前に噂として聞いていたのとは随分と違った。確かにその行状は、大名家の当主としては型破りであり、褒められたものばかりではない。古くからの家臣からすれば理解できないことも多いだろう。

 だが結果として信長の行動は弱き民の為、ひいては尾張の為になるのではないか、と思えてさえきた。

 村人の為に自ら尽力し、小六たちと笑い合う信長の表情が脳裏に浮かぶ。その姿と自身の傅役を死なせても、平然としている今の姿がどうしても重ならない。

(それがしはどうすればいい……?)

 悶々していたところに、今回の召し出しだ。正直、気は進まなかったが、主君の奥方からの要請を拒絶するわけにもいかない。

(行く前に……恒緒に相談してみるか)

 そう思い、城下にある恒緒の家に寄ってはみたが、生憎と留守らしく会うことはできなかった。

(そういえば、普段、恒緒はどのように過ごしておるのだろう?)

 思い返してみると、信長と共にいる姿しか見たことがない。乳兄妹とはいえ、まさか四六時中、一緒にいる訳でもあるまい。

(まさか二人は、乳兄妹という枠を超えて――って、何を考えているのだ、それがしは!!)

 何やら妙な妄想が展開されそうになったのを慌てて打ち消しながら、千代は帰蝶が待つという、奥の間に向かったのだった。

 


奥の間で控えていると、刻限通りに帰蝶は現れた。

「そなたが噂の前田又左衛門利家殿か?」

「ははっ! 奥方様におかれましてはご機嫌麗しゅう――」

「うむ、苦しゅうない。面を上げられよ」

「はっ」

 千代は平伏していた顔を上げるが、帰蝶とは薄手の御簾を隔てている上、口元を扇で隠しているので、その顔ははっきりとは見えない。

だが。

(何だ? 今の感じは?)

 千代が何か言いようのない違和感を覚えた。が、家臣が主君の奥方の顔をじろじろと窺うなど不遜に過ぎる。

「……如何しました? 額がひどく……腫れているように見えますが?」

「い、いえ! 大事ありません」

 慌てて千代は再度顔を伏せる。

 それもそのはず、ここに来るまでの道中、千代の桃色の妄想は収まらず、その度に目についたものに頭を打ち付けることで、無理矢理消去してきたのだ。

(大岩一つ、柱二つは流石にやり過ぎだったか……何をやっているのだ、それがしは!?)

 顔を上げられないでいる千代に、帰蝶は訝しげな顔をしつつも気を取り直したように、

「まあ、そう緊張することはない。少し話をしたいだけじゃ」

「は、はあ……」

 その後、帰蝶は千代の生まれや家、家族の事など取り留めもないことを聞き続けた。

(帰蝶様は何故、それがしを――)

 ただ話し相手が欲しいのなら、お付きの侍女でもいい。武将から珍しい話を聞きたい、という変わった趣味があるのなら分かるが、それならあの情報通のサルが噂ぐらい聞いていてもいい筈だ。

(そもそも先程から世間話程度しか話していない気が……)

「そうそう……そなたは槍にも長じておるとのことですが、誰ぞ師はいるのですか?」

「っ!」

 一瞬の気の緩みを狙いすましたかのような問いに、千代は言葉を詰まらせてしまう。

「……何か?」

「い、いえ! そのようなことは! 師は――」

 慌てて取り繕おうとする千代だったが、これまで淀みなく受け答えしていただけに、先程の動揺は隠しがたい。そもそも帰蝶の質問自体は、何の変哲もないものなのだ。

 帰蝶は、半ばしどろもどろになった千代を遮るようにして、

「もうよい。余人に聞かれるとまずい話とあれば――これ」

 帰蝶は傍らに控えていた侍女たちに目配せすると、千代との間を隔てていた御簾がゆっくりと上げられていく。

「人払いを」

「お、奥方様!?」

 千代の動揺を余所に、帰蝶は控えていた侍女たち全てを退出させてしまう。たちまちのうちに、その場に残されたのは千代と帰蝶の二人だけになってしまった。

「前田殿……いえ我が殿からは、『千代』殿と呼ばれていましたね?」

 帰蝶はそう言いながら立ち上がると、ゆっくりと千代に歩み寄ってくる。

 自らの名に肖らせたのか、唐織物の打掛は華やかに彩られた蝶がふんだんに描かれており、貴人らしく身の丈ほどにまで伸ばした黒髪によく映えている。

「妾はそなたの『秘密』を知っています」 

「っ!」

「黙っていて欲しくば、妾の頼みを聞いて頂きますよ?」

 依然、扇で口元を隠しながら、帰蝶が顔を寄せてくる。御簾が取り払われ、直に見る帰蝶の顔は、女子の千代から見ても見惚れるほどに美しい。

 そんな姫君が、どこか熱っぽい眼差しで眼前まで迫ってきているのだ。

(まずい――)

 千代は背中に冷や汗が流れるのを感じる。見た目は男でも、中身は歴とした女子である以上、千代の方から『間違い』を起こすことはありえない。

 だがもし、帰蝶が『本気でそのつもり』だったら? 千代が後から如何に否定しようとも、拒絶された帰蝶がそのまま黙っているだろうか? たとえ潔白だったとしても、周囲はそう見てくれないだろう。

(ここは自分が女子であることを明かすしか――)

「そ、それがし、実は――」

 焚き締められた高貴な香の薫りにくらくらしながら、千代が意を決して、口を開きかけた時だった。 

(……ん? この薫りは……どこかで――)

「ぷ――」

「……ぷ?」

「ぷっ……あはははははは! ごめん! もう無理!」

 突如、帰蝶が堪え切れない、といった具合に噴き出すと、そのまま火が付いたように笑い出してしまう。

「……」

 訳が分からず、呆然とするばかりの千代に対して、

「いつまで畏まっているの? あたしよ、あ・た・し!」

 帰蝶が背中に流した髪をぐいっ、と後ろに引いてみせると、肩から先の髪がごっそりと「抜け落ちた」。どうやら付け髪だったらしい。

「な……?」

「一応、『認識阻害』は掛けていたけど、まさかここまで気が付かないなんてね。貴女、

それでも術者なの?」

 滲んだ涙を上品な仕草で拭いながら、池田恒緒はいつもの辛辣な口調で笑って見せたのだった。



「つまり、私は替え玉なのよ」

 ひとしきり笑った後、恒緒は居住まいを正しつつ、そう切り出した。

「替え玉って……帰蝶様のか?」

「そ。『美濃のマムシ』である斎藤道三の娘のね。なかなかのものでしょ? まあ……信兄ぃには敵わないけどね……」

 そう言いながら、恒緒は羽織った打掛を見やりながら、目を伏せる。やはり先日の一件は、恒緒の中でまだ尾を引いているらしい。

「い、いや、文字通り見違えたぞ。美濃一の美人という噂の、帰蝶様本人と信じて疑わなかった」

「……さっきの意趣返しかしら?」

「いや、そのようなつもりは……あれは殿が規格外なだけだ。そう気落ちすることは――」

 慌ててまくし立てる千代に、

「ぷっ……冗談よ。からかって悪かったわ」

恒緒は苦笑しながら顔を上げて見せた。

「其方、性格まで変わっておらぬか? まあ、いい。それより何故、帰蝶様の代わりなど? 本物の帰蝶様はどこに?」

「言ったでしょ? ()()()()()って」

「え……まさか………?」

()()()()()()()()()()()()()()()()()。一ヶ月前、信兄ぃの暗殺に失敗して……逆に討たれた」

「!」

 千代は目を見開く。一ヶ月前、というと大蛇騒ぎの時と重なる。にも拘わらず、信長はおくびにも出さなかった。戦慄する千代を余所に、恒緒は依然、淡々とした口調で続ける。

「父親である道三の密命か、『うつけ』の妻であることに耐えられなかった本人の意思だったのか、今となってはもう分からない。ちょうどその場にいた政秀様が身を挺して信兄ぃを庇わなければ、どうなっていたか……」

「政秀様が? もしや先日お亡くなりになったのは切腹による諌死ではなく――」

「ええ、その時の傷が元で臥せっていたのだけど、結局……」

「そんな時に、信長様は大蛇祭りなどを――」

 自らの傅役であり、家老では唯一とも言える味方を蔑ろにしてまで。

 激高し、立ち上がりかけた千代を、恒緒が制止する。

「誤解しないで。信兄ぃはすぐにでも見舞いに行きたかったはずよ。でも、政秀様に止められていた。大蛇を探していたのも、もしそんな妖が実在するのなら、その力で政秀様の傷を何とかできるかもしれない、っていう一縷の望みに縋ったのだと思う」

「……!」

『やはりその大蛇は紋様術による幻だったようだな? 本物の神や妖でなくて残念だ――』

 あの夜の信長の言葉が脳裏に蘇る。

 一連の騒ぎが、幻術使いの仕業であることを看破した信長の顔に落胆の色があったのはその為だったらしい。

「……何故、それを隠していたのだ?」

「それが政秀様の遺言だったから。もし事が広まったら、真相はどうあれ美濃と尾張の間で大きな戦になる。今の信兄ぃにとって、そうなれば致命的だわ」

 平手政秀という数少ない支持者を亡くし、尾張内での信長の立場はかなり微妙だ。

 この上、美濃との同盟までも無くなれば、ただでさえ一枚岩でない尾張の国は大混乱になる。

 今は諌死した政秀への同情、という形で、一時的にまとまりかけているが、時間の問題だろう。

「それで紋様術で、容姿を誤魔化せるあたしが、代わりになることにしたわけ。『帰蝶』の替え玉が、蝶紋を操るあたしだなんて、皮肉が効いていると思わない? まあ、『帰蝶』になるのは公式に姿を見せる必要がある、ほんのわずかな時だけなんだけどね」

(だから普段は、帰蝶様の姿をお見かけしなかったのか……)

 身を挺して自分を守ってくれた傅役。

 仮にも一度は妻とした隣国の姫。

 二人の死に対して、信長の様子はあまりに普段通りだった。

(殿は一体、どんな気持ちで――)

 パチン

 黙り込んでしまった千代の黙考を打ち切るかのように、恒緒が開いていた扇を閉じる。

「――そろそろ『頼み事』の話に入ってもいいかしら?」

 どうやら先程の言はただの戯言では無かったらしい。

「実は先日、道三から書状が来たの」

「道三って……美濃の斎藤道三からか?」

 隣国の美濃を治める斎藤道三は、謀略をもって主君だった元の主君を追い出し、国主となったという下克上の体現者だ。

 自ら強大な紋様術の使い手でもあり、織田家とは長く一進一退の争いを続けていたが、信長と帰蝶との政略結婚により同盟関係となっていた。

「それによると『婿殿を是非この目で見たいから、直接会おう』って言ってきたのよ。もちろん、その会見の場に同席するよう、帰蝶宛にも文が届いている」

 恒緒はそう言いながら懐から一通の手紙を出して見せた。

「どうして、それがしにこのことを?」

 これはいわば重要な機密事項だ。

 確かに現在、千代は信長の母衣衆となり側近と言える立場にいるが、まだまだ仕えて日が浅い新参者でしかない。

(その上、自分は――)

 信長に自分の真意を伝えられていない。

 ましてや恒緒は、千代の『秘密』に感づいている様子であるのに。

 だが千代の疑問に対する、彼女の答えはあっさりしたものだった。

「信兄ぃが貴女を信じる、って言ったから」

「!」

「癪だけど、あたしにとって、それ以上の理由なんかいらない」

 その表情には一切の衒いもない。

「そうか……」

「――まあ、そうでなければ今頃貴女は、墓の中でしょうけどね」

「……」

 恒緒は、ほほほ、と口元を扇で隠す仕草で上品に笑って見せるが、目は少しも笑っていない。

「で、それがしは何をすればいいのだ?」

 背中にうすら寒いものを感じながら、問い掛ける。

「帰蝶が死んだことは、家中でも限られた者しか知らない。この会見が無事に終わるまで、護衛として協力して頂戴。最悪、信兄ぃだけでも無事に帰れるように」

「どういうことだ?」

「マムシと綽名される道三だけど、噂では相当帰蝶を溺愛していたらしく、信兄ぃとの政略結婚は相当に渋ったらしいわ」

「つまり……」

「道三に、あたしが『帰蝶ではない』とバレたら終わり、ってこと」

 恒緒はいつもと変わらぬ淡々とした口調で、そう言って見せた。



 そして信長と道三の会見の日。

 会見の場である正徳寺は、尾張と美濃の国境近く、ちょうど両国の中間あたりに位置する。そこを目指し、信長の一行は朝早く、城を出発した。

(恒緒……本当に大丈夫なのか?)

 出発して数刻。日も大分高くなった頃、徒士の足軽に扮した千代は、周りに聞こえないようにそっと声をかける。

(……分からない)

 既に帰蝶に扮し、輿に乗る恒緒から返答がある。

(分からないって……。今更だが、何とか会見を断ることはできなかったのか?)

(今、下手に断って道三の機嫌を損ねるのはうまくないわ。この同盟をまとめた政秀様なら、うまい対応もしてくれたでしょうけど……今回はあたしたちで何とかするしかない)

 会見の場に向かう信長は、茶筅髷に片肌脱ぎの湯帷子と、いつもの砕けた傾奇者の装いだ。

 いつも通りといえばいつも通りだが、隣国の大名と会見する格好とはとても思えない。 

(あまりきょろきょろしないで! 美濃勢に気取られるわよ)

(やはり見られているのか?)

(当然でしょう? その為に、こちらもそれなりの備えはしている)

 今回の会見には、織田家自慢の長槍、鉄砲を持たせた部隊を八百人ほど引き連れている。

おいそれと襲われるようなことはない筈だ。

(だが、肝心の殿があれでは――)

 出発前、信長とは会見への入念な打ち合わせが為されたのだが、


「――いい、信兄ぃ? あたしは体調が優れない、という体で早々に退出して裏に控えているから」

「ああ……」

「大丈夫! 如何に相手が道三でも、短時間ならバレるようなことはないわ! 信兄ぃもうまく会話を合わせてね?」

「ああ……」


 事前の打ち合わせ中、信長はどこか上の空で、恒緒の言葉にも生返事しか返さなかったのだ。

「信兄ぃは……後悔しているみたい」

「後悔? 政秀様を亡くしたことか?」

 信長にとって、幼い頃からの『爺』であり、有力家老の中で唯一とも言える支持者を亡くした損失は計り知れない。

「ええ、大蛇だけじゃない。密かに都から薬を取り寄せたり、高名な術士を呼んだり、手を尽くしたけど結局は――」

「だから、信長様は――」

「ええ、でも多分それだけじゃなくて――」

 恒緒が何事か言いかけた時だった。 

「ただいま戻りやした! 正徳寺近くまでひとっ走り見てきましたが、この先、伏兵などはないようですな!」

 先行して斥候を行なっていたサルが、報告に駆け寄ってきた。

「サル……もしやおぬしは知っていたのではないか?」

「な、何の事じゃ?」

 サルが、ぎくりといった感じで答える。

「恒緒の事、政秀様の事、そして今回の会見の事だ。いつもなら、聞いてもいないことまでべらべら話すおぬしが、先日の召し出しの知らせを持ってきた際は、やけにあっさり帰った。それに何故、草履取りの筈のおぬしが足軽に扮し、斥候をしているのだ?」

「ま、まあ、細かきことはよいではないか」

「細かきことなどでは――」

 笑って誤魔化そうとするサルを、千代がさらに追及しようとした時だった。

「しっ……あまり話し込んで周りに怪しまれてもマズいわ。抜かりなくお願いね」

 恒緒の窘める声で、千代も渋々鉾を収めたのだった。



「おうおうおう……会えて嬉しいぞ」

「お久しゅうございます父上。ご無沙汰をしております」

「うむ、尾張で苦労はしておらぬか?」

「いえ、ただ先日まで病に臥せっておりました故――」

 臆面もなく帰蝶を演じる恒緒に、千代は内心舌を巻く。

  

 正徳寺に着いた信長一行は、既に先に着いていた美濃勢の出迎えを受けた。

 美濃勢の人数は、信長一行と同じ八百人ほど。皆、信長とは違い正装しており、明らかな威圧感を感じる。

 信長はそんな重々しい空気の中、相変わらずどこ吹く風、といった様子で潜り抜け、準備の為に一時控えの間へ引っ込み、残された恒緒と千代は先に道三と会うことになったのだった。

(あれが道三か……?)

 到着前に予め侍女に扮し、恒緒の傍らに控えていた千代は我が目を疑った。

 美濃のマムシ

 下克上の体現者

 乱世の梟雄

 何しろ道三は謀略にて一国を乗っ取り、様々な二つ名で呼ばれる男だ。

 どんな強面の豪傑が出てくるのか、と戦々恐々としていたが、目の前にいるのは、小兵と言っても差し支えないほど小柄な男だった。千代はもちろん、おそらく信長よりも背丈は低いだろう。

 外で出迎えをした他の美濃勢とは違い、新しくはあるが紋なし小袖のみの平服姿なのは、実の娘に会う、という気安さからだろうか。

 先年出家してその頭は坊主頭となっていることもあってか、謀略に長けた大名というよりは、愛想のよい商家のご隠居、という印象さえ受ける。

「そちはまこと美しい……。あのうつけた格好の信長には勿体無いのう?」

「そんなお戯れを……」

(やはり道中の様子は見られていたのか……にしても恒緒もようやる……)

 常日頃の恒緒とは正反対とすら言える、その嫋やかな物腰はまさに深窓の姫君の様相を呈している。

 そんな娘に目尻を下げる道三のその様は、好好爺一歩手前といったところで、怪しまれている様子はない。

 そのまま半刻ほど、『親子の会話』を続けた頃のことだった。

「――さて、あまり婿殿を待たせる訳にもいかぬ。そろそろ行くとするか」

 久しぶりの娘との会話に満足した様子で、道三がおもむろに腰を上げる。信長との会見は別室の座敷で行うことになっていた。

「行ってらっしゃいませ」

「むう? そちは来ぬのか?」

「申し訳ございませぬ。お供をしたいのは山々なのですが、病み上がりでまだ体調が優れませぬ故、奥でしばし休ませて頂きとう存じます」

 恒緒はそう言うと、こめかみに指などを当てつつ、申し訳なさげに目を伏せる。その様は傍から見ても、大いに庇護欲を誘うものだった。

「……そうか、無理をせず養生するとよい」

「はい、ありがとうございます」

「お、そうじゃ」

 そのまま退出しようとしたところで、道三が何かを思い出したかのように振り返る。

「輿入れの際、そちに渡した『引き出物』じゃが、使っておるか?」

(――!!)

 道三の思わぬ問いに千代は身を強張らせる。輿入れの際に直に渡されたものなど、本人しか分かり得ないのではないか?

 千代は万一の事態に備え、密かに身構える。

「……はい、今ここには持参しておりませぬが、大切にさせて頂いております」

「そうか……ならばよい。ああ、そこの者、役目ご苦労じゃった」

 だが道三は、恒緒の答えに不審を感じた様子もなく、傍らで控える千代にまで労いの声を掛けると、改めて退出していったのだった――。

 


「ふうっ、一時はどうなることかと肝が冷えたが、何とかなったな」

 千代は思わず安堵の息を吐く。

「……」

 対して変装を解き、元の姿になった恒緒は目論見が成功したというのに、どこか浮かない様子で何かを思案している様子だったが、胸を撫でおろしている千代は気付かない。

「いや、恒緒の機転もさることながら、道三があのような御仁で助かったな」

「あのような、って?」

「あの物腰、あの態度……噂とはまるで違う温厚なる人物だったではないか。あの子煩悩ぶりを見ると、『美濃のマムシ』も人の親なのだな、と――」

「はあっ……本当にうつけね」

 千代の言葉を打ち切るかのように、恒緒が呆れたように溜息をつく。

「どういう意味だ?」

「道三が見るからに悪辣な顔立ち、威圧的な物腰をしていたら、誰が奴の言うことを信じるのよ? 道三が下克上の体現者と呼ばれているのは、それだけ裏切った相手に信頼されていた、ってことの裏返しでもあるのよ?」

「む……」

 理路整然とした指摘に、千代は反論もできず押し黙る。

「いい? 覚えておきなさい。本当の謀略家っていうのはね、人好きのする顔をして、裏で笑いながら人を斬れる、そんな人間のことを言うのよ」

「では恒緒は、先程の道三の態度も偽りだというのか? 奴は実の娘の前でも仮面を被っていると?」

「それは分からない。けど、アイツひょっとして……いえ、あたしの思い過ごしだといいんだけど……」

「恒緒?」

「ううん、いいの。それよりあたしたちも早く、会見の場に行くわよ」



「殿っ! 遅くなり――」

「……二人とも戻ったか。無事で何よりだ」

(なっ――)

 いつもの格好に着替え、信長のいる控えの間に着いた千代は、振り返った信長の姿に絶句する。

 茶筅髷はきちんと結い直され、身に纏う服も小袖の上から紋付の肩衣と褐色の長袴を着用した正装姿だったのだ。

 都の貴公子もかくや、と思われるその立ち姿は、とても先程まで湯帷子一枚姿だった男と同一人物とは思えない。

「…………」

 隣の恒緒も同じ思いだったらしい。珍しくぽかん、と口を開けて呆けたような表情を見せている。その頬が心なしか赤いのは、急いで走ってきただろうか。

「どうだった? 道三殿の様子は?」

「え? あ、はい、申し上げます――」

 一足早く我に返った千代が、道三との会見の様子を報告する。

「そうか………」

「そ、それより、殿、その恰好は――」

「よし……行くぞ」

 信長は千代の問いには答えず、いつもの傾いたものとは違う、落ち着いた拵えの脇差を腰に差し、立ち上がった。

「はっ――」

 いつになく真剣な表情の信長に、千代も恒緒もそれ以上問い返すことが出来ず、その後を付き従う。

 約束の場所である座敷の間は、中庭に面した寺の奥まった場所にあった。

 通常、大名が会見する場ともなれば、招待者の目を楽しませる為、あるいは自らの力を誇示する為、贅を凝らした装飾なり、珍しい家具なりが用意してあるものだが、座敷には逆巻く大波を描いた屏風が一帖あるのみで殺風景とさえ言える。

「…………」

 信長は、そんな座敷の様子を見て一瞬足を止めたが、気分を害した様子もなく、そのまま腰を下ろし、まだ来ていない道三の到着を待つことにしたようだ。

(殿……?)

 道三の仕打ちに、「侮られた」と憤りを覚えるならば分かる。また、それをどこ吹く風と、いつも通りの超然しているのならば、いつもの信長らしい。

 だが、今の信長の態度はそのどちらでもなく、どこか憂いを帯びた表情で、ただ大人しく座って道三を待っている。

 突然の正装姿といい、千代にはもちろん乳兄妹の恒緒さえ、その真意を測りかねているようだ。

 程なくして、座敷に道三が現れた。供も連れず、単身で入室したその服装は先程、『帰蝶』に会った時のままの平服だった。どうやら着替えずにそのまま来たらしい。

(この殺風景な座敷といい……殿をうつけ者と侮ってのことか……!)

 嘗められたことに、内心憤りを覚える千代だったが、当の信長は、道三が入ってきたことにすら気付いていないかのように、微動だにしない。

「!」

 道三は信長の正装姿を見て面食らったのか、僅かに片眉を上げるが、流石にそれ以上の動揺は面に出さずに腰を下ろすと、

「よう来てくれた。そちが婿殿………織田上総介信長殿であるか?」

 と、問い掛ける。

 だが。

「………」

 信長からの返答はなく、口を閉ざしたままだ。

「婿殿?」

「………」

 道三の重ねて呼びかけにも応じない信長に、

(殿は何を――)

 千代が腰を浮かせかけた時だった。

「で、あるか………是非もないな……」

 信長はようやく何事かを一人呟くと、

「……面目次第もございません」

 と、道三に向かい、深々と頭を下げた。

「気にするでない。どうなされた? 我が手勢の者には何があっても立ち入らぬよう申し付けておるし、儂はそちの舅じゃ、気後れなぞは無用――」

 穏やかな物腰と、人好きのする笑顔で、婿への気遣いを見せる道三だったが、

「いや………そうではありません」

 信長はそんな舅の言葉を一方的に遮るかのように、懐から一本の脇差を取り出し、目の前に置きながら、

「僕は……僕は貴方の娘を……帰蝶を護ることができませんでした……」

 と告げ、改めて深々と頭を下げたのだった。

(な、何を――)

 千代は思わず上げそうになった声を必死に抑える。

 隣の恒緒までもが、息を呑んだのが分かる。

「何……?」

 先程までとは打って変わった、道三の低く重々しい声に、一瞬にして場の空気が変わった。

「確かにそれは儂が帰蝶に渡した脇差………一体どういう料簡で我が娘の代わりに、そこな小娘に引き合わせたのかと思っておったが――」

(なっ、バレていたのか!?)

(やっぱり……! アイツ、さっき一度もあたしの事、『帰蝶』って呼ばなかった!)

 千代と恒緒が立ち上がりかけた時だった。

「動くな!」

「!」

 道三の一喝が響く。

(この――圧は!?)

 道三から発せられた『気』が圧力となって空間を包み、二人の身を竦ませる。道三はちらり、とこちらを一瞥すると、

「どうやら、二人とも女子だてらに術を使うようじゃが……今はそこから動かずにいた方が身の為じゃぞ?」

(一目でそれがしが術者であるばかりか、女子であることまで看破しただと!?)

「さて、婿殿……どういうことか、しかと聞かせてもらおうか? 返答次第では――」

 道三が信長に向かって、ゆっくりと歩み寄っていく。

 口調は先程までと変わらず穏やかながら、その圧倒的な圧力に寸分の緩みもない。

(この距離から飛び出しても間に合わん……ならば!)

「む?」

「待って、千代!」

 千代の意図に気付いた恒緒の声が響くがもう遅い。

梅花雷撃ばいからいげき!」

 左肩に刻まれた梅鉢紋が輝き、千代の指先から雷の奔流が迸る。元々、千代の槍を主体とした術なので、槍を使わない場合、当然威力は落ちる。だが。

(たとえこの一撃で道三を倒せずとも、信長様を助け出す隙くらい作り出せる筈――)

 矢のような速度で飛来した雷が、まさに道三に襲い掛からん、とした瞬間だった。

「むん!」

 呼気とともに発せられた道三の気合に応じて、突如、その周囲を丸ごと囲うかのような水柱が噴出した。

「なっ――」

 それはさながら、天へと遡る滝の如き波濤の壁。

 千代の放った雷の奔流は、その波に飲み込まれ、たちまちのうちに霧消してしまった。

「成程……おぬしの術式は菅公……菅原道真公由来の雷か」

 響いた声とともに水柱が消え、その後には何事も無かったかのように、その場に佇む道三の姿があった。いつの間にやらその手には直槍が握られ、着ていた小袖は片肌脱ぎ、隆々とした筋肉が発達した左胸には、波を模した紋様が輝いている。

(これが水と波濤を操るという道三の紋様術……。だが何故だ? 火ならばいざ知らず、何故それがしの雷が水で防がれる!?)

 紋様術を構成する基本五属性には、それぞれ相関する相性がある。

 道三の操る『水気』は『火気』に強い、とされているが、『木気』に属する雷に強い、という話は聞いたことがない。

「ふっ……解せぬ、といった顔じゃな、小娘よ」

 千代の顔から内心の動揺を見て取ったのだろう、道三が笑みを浮かべる。

「……相関する五属性は、それぞれに打ち剋つ『相剋』だけじゃない。『相生』というものがあるのよ」

 恒緒が後を受けるように、苦々しげに口を開く。

「ほう……そちらの姫御は知っておったか。『水生木』と言うてな、『水気』で直に『木気』を打ち消すことは能わぬが、元来、『水気』は『木気』を生じるもの。よってその流れを導き、従えることが能う」

(つまり、それがしの雷を先程の水柱で押し流した、というのか……)

「おぬしの雷が如何に強力であろうとも、我が波濤で巻き上げてしまえば、恐れるに足りぬ。分かったら動かずにいる事におれ。三度は言わぬぞ?」

「くっ……」

「千代、待ちなさい! あの『二頭立波』の紋様術は……おそらくその気になれば、こんな寺くらいあたしたちごと吹き飛ばせる! 下手に手を出したら駄目!」

 なおも気を励起させようとする千代を、恒緒が押し留める。

 だが、そんな状況でも、当の信長は身動ぎ一つせず、腰を下ろしたままだ。

「二人とも手出し無用だ。そこで見――」

「ふっ!」

 信長が口を開いたその瞬間、呼気と共に道三の持つ槍が信長の顔面へと繰り出される。

「っ!」

 思わず息を呑む二人だったが、

「ふん………よくぞ動かなかった」

 わざと外したのか、槍の穂先は信長の頬を掠める形で止まっている。

「……いえ、動けなかっただけですよ。慣れない格好をしているもので」

 信長はそう言って肩を竦めてみせるが、穂先が掠めた頬からは、鮮血が滴り落ちている。

「その胆力は褒めてつかわず。じゃが、ここからは考えて物を申した方が身の為じゃぞ? さもなくばあの小娘たちを――」

「それだけはさせません」

「む?」

 槍を突き付けられながらも、きっぱりと言い放つ信長から、うっすらと金色の光が立ち上る。

(あれは!?)

 千代が思わず目を見張る。

 立ち上る光は微かなものであったが、その圧は先程の道三のものに勝るとも劣らない。

 道三自身もそれを一目で看破したのだろう。突きつけていた槍を僅かに引く。

「………何故じゃ? 何故、それ程の力を有していながら、帰蝶の事を自ら暴露した!? 黙っておれば、誤魔化すこともできたやもしれぬのに……」

「最初はそのつもりでした……ですがその服を見て、話さねば、と考えを変えました」

「む?」

 信長は片肌脱ぎとなっている道三の小袖を指さす。

「その服……一見、『うつけ者』と僕を軽く見て、着てきたように見えますが、丈が僅かに合っていません。なのに下ろしたての新品だ」

「……」

「平服とはいえ、侮っている相手の為に、新しい服を誂えるのはおかしい。もし最初から平服で来るつもりなら、丈くらい合わせる筈」

「むう……」

 婿の指摘に道三は片眉を上げたのみで答えなかったが、信長は構わず続ける。

「そしてこの殺風景すぎる座敷。これほどの寺ならば、会見の場に相応しいような家具や装飾がある筈。もし無かったとしても、きちんと用意しておけば、うつけた格好で来た僕を場違いな奴、と僕を笑い者にもできたのに」

「で、ですが、美濃勢は皆、正装で出迎えを――」

 堪らず口を挟む千代に、信長は

「そもそも、道三殿がこの会見を催したのは、娘の帰蝶に会いたかったからじゃない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だったからだ」

 平素と変わらぬ穏やかな口調で返す。

「何故……そう思ったのだ?」

「それはまあ……蛇の道は蛇って奴です」

 そう言うと信長は、道三からの問いをはぐらかすかのように片目を瞑ってみせる。

(おそらくサルの……いや、そこから繋がっている小六からの情報だろう)

 道三は下克上で美濃の国主にのし上がったが、その分敵も多い。如何に強いとはいえ、後ろ盾としてとして、国外に心強い同盟者の存在を印象付けることは急務だったのだろう。

 そして国境近くに根を張る地侍ならば、そんな美濃国内の情勢にも通じている。日頃、自ら地侍と交わっていたのはこうした意味もあったのだ。

「もし僕が会見に正装で来れば、普通に出迎えればいい。うつけた恰好であれば、平服で出て、会見の主導権を握れば『自分はこのうつけを扱える』という演出になる」

「……」

「流石に平服のまま美濃を出発しては、周囲に気取られる心配があったから、最初は正装を着ていたのでしょう。でも貴方はここに来る道中の僕を見て、急遽着替えた。『うつけ』の格好の僕に合わせる為に」

「ぬう……」

 道三は是とも非とも言わなかったが、その表情が信長の推測が正しいことを物語っていた。信長は続ける。

「帰蝶の行為が、舅殿の意思によるものだったら、僕は今日、貴方を逆に問い質すつもりだった。けど同盟を維持する為に、うつけの僕にここまでの配慮をしてくれた人間が、実の娘に暗殺を託す筈がない。だから……帰蝶殿を守りきれなかったことを詫びたのです」

「では何故、おぬしは正装で来たのじゃ? 確かに儂の意表をつくことはできたが、その動きづらい恰好はおぬしの本意ではなかろう? それで儂に後れを取って、殺されることになるとは思わなんだのか?」

「それは――」

 道三の指摘に、信長は少し考えるように、虚空に視線を泳がせたが、

「確かに肝が冷えましたが、舅殿に初めてお会いし、場合によってはお詫びするのですから……うつけなりに礼は尽くさねば、と思い、慣れぬこの格好でまかりこしました」

 頭を掻きながら、はにかんだように言ってみせた。

「がはははははは!」 

 信長の返答に、道三はその矮躯に見合わぬ大音声で笑い出した。

「まさかこの乱世に、この道三相手に! そのようなことを申す者がおったとはのう! それも一国の大名が! くくくく……」

 手にしていた槍も放り捨てられ、一転してその場の空気が、道三からの圧が緩んでいくのが分かる。

「舅殿……理由はどうあれ、僕は貴方の大切な娘御と添い遂げることができませんでした。それは――」

「もうよい」

 改めて頭を下げようとする信長を、道三は制する。

「帰蝶の真意は儂にも分からぬが……嫁に出した時に覚悟はしておったつもりじゃ。代わりに、美濃を託すに足る、面白い息子ができた」

「舅殿には、立派なご子息がいらっしゃるではないですか?」

 噂によると、息子の義龍は小柄な道三に似ず偉丈夫で、武勇にも秀でているらしい。

「あれは我が実の息子ではない」

「え?」

「前の主の胤でな。美濃をまとめる為に仕掛けた策じゃったが、どうやら裏目に出そうじゃわい」

 謀略で一国の国主に成り上がっただけに、反発も多いのだろう。道三は苦虫を噛んだ顔をしてみせるが、すぐに気を取り直したように、

「じゃが、儂もマムシとまで呼ばれた男。そう易々と敗れるつもりはないぞ。うかうかしておると、そちの尾張まで喰い破るから油断されないことじゃ」

「はっ! 舅殿に冷やされた肝に銘じておきます」

「ふっ……そうか!」

 それは道三にとって満足いく答えだったらしい。再びニヤリと笑みを浮かべた後、おもむろに、

「ところで――いずれの娘御が、婿殿の寵姫なのじゃ?」

「え?」

「は?」

「へ?」

 まるで図ったかのように、信長、千代、恒緒の声がぴったり揃う。

「子を生すなら早い方が良い。儂が生きておるうちに、やや子の顔を見せられるよう励めよ」

 道三は自らの放った言葉の重大さに気づいているのかいないのか、好々爺そのもの、といった顔で破顔してみせたのだった――。



 道三との会見から数週間。

 その日、信長は奥の間にて、千代から、一日の報告を受けていた。

 側近としていつも信長の傍らにいる恒緒も、今日は『帰蝶』に扮する日らしく、その場にいるのは信長と千代の二人だけだった。

「そういえば……あれから舅殿と文のやり取りをしている、と聞いたけど?」

 一通りの報告を聞き終えた信長が、盆にのせられた干し柿に手を伸ばしながら尋ねる。

 信長はあまり酒を嗜まず、甘い物を好むようで、干し柿や瓜、果ては南蛮渡来の金平糖などをよく口にしている。

「あ、千代も食うか?」

「いえ、結構です。道三殿とは、近況報告と……それがしの健康の事までいろいろ気を遣って頂き、猪肉やら牡蠣やら鼈やら、精の付くものを大量に送って頂いています」

「そ、そうか……」

 道三の真意を感じてか、信長は複雑な表情をする。

「ま、まあ、先日の会見では肝が冷えたが、雨降って地固まる、ってヤツだな」

「……殿、一つお聞きしたいことが」

「何だ?」

「何故、それがしを信じて頂けたのです? 此度の事は、御家の重要な機密事項。仮にしくじれば、美濃と尾張の大きな戦になっていたかもしれませぬ。それなのに何故、殿は新参者であるそれがしに大事を――?」

「……千代は勝家の縁者なんだろう?」

「っ!?」

 あっさりと言い当てられて、千代は思わず目を見開く。

「……何故それを?」

「単純に槍術の癖が似ている、っていうのもあるけど、まずあの勝家に対面した時、あまりにも反応がなかったからかな」

「え?」

「鷹狩の際、織田家中一の武辺者と評判の勝家を前にして、千代みたいな分かり易いヤツが、平然としていたのがまずおかしかった」

「む……」

 遠回しに『武勇馬鹿』、と言われているようで、何だか釈然としないが、千代自身、そう自覚しているので反論もできない。

「ということは、少なくとも既に面識がある、ってこと。では、勝家殿とはどういう関係か? ここで二つ目。あの時、千代は信行の存在に気付き、慌てて平伏していた」

「それが何か――」

「確かに主筋に当たるから、それ自体は間違っていない。けれど君は紛いなりにも、当主たる僕の直臣だ。有体に言えば家臣、という意味では弟の信行と変わらない。少しばかり反応が過剰過ぎたな」

「……」

 あの一瞬の所作をよく覚えているものだ、と千代は内心で舌を巻く。

「そして三つ目。あの時、信行は僕の供を『女子二人にサル一匹』って言っていた。信行も紋様術の使い手だし、あの場で千代の男装を見破った可能性もあるけど、それならあれくらいで終わるはずないからな」

 信行からの辛辣な嫌味を想像したのか、信長は苦笑いを浮かべながらそう言った。

「……」

「つまり、信行は知っていたんだ。自分の家臣である勝家の命を受けた家臣、つまり自分の陪臣が女子だということを」

「で、では、鷹狩の後、それがしだけ先に帰らせたのも……?」

「勝家と鉢合わせになるかもしれなかったからな」

 どうやら監視対象の相手に気遣いまでされていたらしい。

「……そこまで分かっていながら、何故、それがしを――」

 ますます分からなくなった。つまり信長は千代が自らの反対勢力の一員であることをかなり最初の段階から知っていたことになる。だが、その問いに対する信長の返答は極めて簡潔だった。

「勘だ」

「か、勘!? それだけでそれがしを!?」

「……なあ、千代はどうして性別を偽って武士になったんだ? 勝家への憧れからか?」

 問いかけに対する答えのないまま、信長から問いを返され、千代は戸惑いつつも、口を開く。

「それもあります……ですが一番の理由は、病気の兄上の代わりになりたかったのです」

 皇都内乱による混乱以降、女子が表に出ることも多くなってきたが、それも、精々ここ数十年足らずの事。

 その何倍もの年月の間、男中心だった武家社会の壁はいまだ厚く高い。

『女だてらに』そう揶揄されることも、まだまだ珍しいことではないのだ。

「兄上は知勇兼ね備えた、素晴らしい武士なのです! ただ流行病にかかってからは床に伏しがちになり……当主としての重責に耐えられなくなりました」

「それで千代が当主に?」

「はい、ですが病で女子に家督を譲ったとあっては、兄上の名に傷がつく……そう考えた私は女としての諱を捨て、他家に養子に出されていた別人となり、前田家の当主に。だから、女子としてのそれがしは……その時に死んだのです」

「そうか……だから諱で呼ばれることを嫌ったんだな。その選択に後悔はなかったのか?」

「はい!」

 それだけは自信を持って言える。

「それが……あの槍術に繋がったのか……」

「は?」

「試し合戦で千代を見た時、思わず見惚れた。世にこのように真っ直ぐで、美しい槍さばきがあるのだと初めて知った」

「ななななな……!」

 あの時と同じ、手放しでの賞賛。ただあの時と違うのは、眼前の男が童子のように無邪気に目を輝かしている、という点。信長自身、無意識にか、にじり寄って千代の手を取る。

「美しい手だ」

「と、殿!?」

「こんな槍術の担い手に背かれる、というのなら是非もない。それは僕の不徳ってだけのこと。信行のことなんてどうでもいい」

「きゃ――そそそんな、それがしの手など稽古によるタコだらけで……槍術もまだ勝家様とは比べるべくもなく――」

「家督を継ぎ、立派に槍働きをしているのだ、是非もない。むしろ誇るべきだ」

「―――っっ!」

 如何に術の才があろうとも、武勇に秀でていようとも、女子の武士、ましてや当主はなかなか対等な目で見られない。

 千代が性別を偽って家督は継いだ裏には、そんな風潮がある。むしろ堂々と女子であることを隠さず出仕している恒緒のような例が稀有なのだ。

 だが信長の声には、そんな女子に対する憐憫や同情などではなく、あくまで対等な目線に立った温かいものだった。

「勝家は勝家、千代は千代だ。卑下することなど微塵もない」

「あう、うううううう……」

 顔が熱病にかかったかの如く熱い。さほど強い力という訳ではないのに、信長に握られた手を振り払うこともできなかった。口からまろび出る声は、もはや言葉にすらならなかった。

(一体、それがしはどうしてしまったのだ――)

 その時だった。

「信兄ぃ、千代? いるの? 入るわよ?」

 ガラッ、と突如襖が開かれ、帰蝶に扮した恒緒が顔を見せた。

「え?」

「ひっ!」

「……へ?」

 彼らにとって不幸だったのは、それぞれ近習や侍女など、周囲に人の目が無い瞬間だったこと。それが彼らの気の緩みを誘い、

 信長に関しては、手放しでの賞賛に、

 千代に関しては、信長の真意を問い質す機に

 恒緒に関しては、確認不足による無警戒な入室に

 それぞれ繋がった。その結果、

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という、傍から見たら結構な修羅場が形成されたのだった。

「「「…………」」」

 三人の間で気まずい沈黙が流れる。

 一人でも下手に動けば、今後の主従関係に支障をきたしかねない、三竦みにも似た状況の中、三人の不幸はまだ終わらない。

「帰蝶様~お待ちください……まあ」

「殿っ! 急ぎお知らせしたきことが……ややっ!」

「千代殿、ここにおる――か?」

 折り悪くその場に訪れた侍女と近習とサルに同時に目撃され、 さらに三人の時間が止まる。

「「「「「「…………」」」」」」

 気まずい沈黙はさらに重さを増し、その膠着状態は永遠に続くと思われた。だが――。

「い、いや~仲良きことは羨ましいですな! 儂もあやかりたい、あやかりたい……」

 真っ先に口火を切ったのはサルだった。

「さ、さあ、皆の衆、お二方には伽の打ち合わせなどもあろう、これ以上は野暮というものじゃ、散った散った!」

「は、はっ!」

「ご、ご無礼仕りましたっ!」

 生来のものもあるのだろう、サルの殊更に明るい振る舞いは、皆の毒気を抜きつつ、我に返らせることに成功したようだった。

(まあ、問題があるとすれば、普段男で通している千代殿じゃが、今どき衆道趣味なぞ珍しくもないじゃろう)

 顔を真っ赤に染めている千代を横目に、

(仕上げといくか――)

 侍女と近習に退出を促しつつ、サルが未だに立ち竦んだままの恒緒に声をかけようとし、 

「奥方様も、こればかりは早い者勝ち故、くれぐれ悋気などは――」

 俯きつつ何やら震えている彼女の様子に、言葉を切る。

「…………」

 空気の重さは尚も増していく。

 だが、いつまでもそのままでいる訳にもいかない。

「お、奥方様?」

 恐る恐る、といった具合に恒緒へと声を掛ける。サルの問いかけにも、恒緒はしばらく無言で俯いていたものの、やがて、

「…………こ」

「…………こ?」

「こ、心得違いをなさいますな! み、美濃の父上から世継ぎはまだか、と矢のような催促が来ております故、しししし衆道趣味も大概になされませ!」

 何とか『帰蝶』の仮面を被り通して見せるところは流石だが、口走っていることがかなり際どいことに気付いていないあたり、恒緒も相当に動揺しているらしい。

「お、奥方様……?」

「……っ!」

 周囲の呆気にとられたような反応に、一拍遅れてようやく恒緒も自らの言動の際どさに気付いたらしい。千代に負けず劣らず、顔を真っ赤に染めると、そのまま走り去っていってしまった。

 その後、織田家中では、『帰蝶』は流行病、『池田恒緒』は落馬による怪我で寝込んでいる、という噂が立ったが、真偽のほどは定かではない。



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