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第二章

 姫は一人葛藤していた。

 嫁ぎ先の夫を選ぶか、父母のいる実家か。

 それは戦国の武家に生まれた女子に、共通する板挟みの苦悩。

「夫がまことのうつけであったのなら、この刀で刺し殺せ」

 輿入れの際、父から直々に託された懐刀を取り出す。

(夫は決してうつけなどではない。それどころか――)

 嫁いで間もない、夫を思い浮かべる。

 型破りで破天荒、だが乱世にそぐわない優しさに溢れ、その慈しみの目は家中のみならず領民にまで向けられている。

『あの男』をはじめ、家臣の多くからは未だ理解を得られていないが、その心根はいつか、この国をより良きものに変えていくことが出来るかもしれない。

 だが、やらねばならないのだ。

 故郷である美濃や、実家の父母の為だけではない。

 この日ノ本全ての為に。

 その為には、我が身一つの情など捨て去らねば――。

 姫は自らの迷いを振り払うかのように、懐刀を今一度強く握りしめた。



「おう、千代殿? おるか?」

 その日は、久しぶりの小春日和で穏やかな晴天だった。穏やかな陽射しが差し込む、申し訳ばかりの広さの玄関から、サルが顔を出してきた。

 現在、千代が住まいとしているのは、信長が居城とする那古野城城下の足軽長屋だ。

 今の千代の身分は一応、信長の馬廻り兼親衛隊である母衣衆、ということになっている。

 望めばもう少しマシな住居を構えることもできたのだが、千代の立場からすれば、あまり目立つ訳にもいかない。

 よって多少みすぼらしくはあるが、多くの流れ者の住まう足軽長屋に住むことにしていたのだった。

(これならわざわざ大仰な偽装を行わなくても、自分の違和感など紛れてしまうだろう)

 そう思っていたのだが

「どうした? 顔色が悪いのう? 何処かで拾い食いでもしたか?」

 心配そうに覗き込んでくるサルから思わず目を逸らす。

(まさかこの男が隣人だったとは……)

 サルはその面倒見の良さから、この界隈では顔が広いらしい。引っ越してきたその日に、玄関先でバッタリ出くわしたのが運の尽きだった。

「そりゃあ、めでたい! 引っ越し祝いじゃ!」

 と、隣近所を巻き込んで夜通しのどんちゃん騒ぎを催した。

 その後も、ことあるごとにこうして顔を出しに来るサルのせいで、千代の顔と名前は近隣にすっかり知れ渡ってしまった。

 どうやら千代が女子であることは黙っていてくれているようだが――。

「体は大事ない。心配は無用だ」

「そうか……? お、そうじゃ、これは先頃小耳に挟んだ話なんじゃが――」

 そう言って、サルはいつものように、『世間話』をし始めた。

 サルは、一介の草履取りとは思えぬほど情報通で、どこから集めてくるのか、国内外の様々な出来事を話しに来る。

(こやつ、本当は忍びなのではないか?)

 そう考えた時もあったが、すぐにそうでないと気付いた。

 もし本当に忍びを生業としているならば、その上役なり、直接信長に伝えればいい。そうしないのは、それが本来の役目ではないからだろう。如何に信長が気さくであるとはいえ、草履取り風情が信長に度々言上していては、古参の近習たちから妬みも買う。

 その点、知己の(その上、女子という秘密も握っている)馬廻りである千代を通せば、信長に自らの情報力を売り込むことができる。サルの打算と発想には内心、舌を巻くしかない。

 実際、持ち込む情報には重要なものも多く、信長の覚えもいいらしい。

(底知れぬ奴……)

「――そういえば先日、守山の城下が何者かの手によって、焼き討ちされたのう?」

「!」

 この那古野城からもほど近い守山城は、信長の親戚が城主として治めていたが、最近急に行方知れずになったという。

「危うく辺り一面、焼け野原になるところを間一髪、駆け付けた信長様の隊によって阻止されたそうじゃ。どこの手の者かは結局、分からず終いだそうじゃが、おぬし何か知らぬか?」

 知っているも何も、千代自身、噂で聞いた以上のことは知らない。

「いや……その焼き討ち、正確にはいつのことだった?」

「ん? あれは確か――」

 サルの口から出た日付と時間は、千代たちが『鷹狩』に行った、まさにその日の夜だった。

「そういえばあの日、おぬしは隊に加わっておらんかったの?」

「…………」

 意外そうな声を上げるサルに、黙る他ない。

 千代は先に帰るように命じられたが、おそらく信長たちは焼き討ちの情報を小六から聞きつけ、守山に向かったのだろう。

(それがしは信を置かれていない――)

 当然だ。千代は真の意味で信長に忠誠を誓った訳ではなく、別に『目的』がある。それを見抜かれていたのだとしたら、大事の際に同行させてもらえないのは自らの未熟であり、落ち込むのは筋違いというものだ。

 理性でそう判ってはいても、生真面目な武人気質の千代の心中は穏やかではなかった。

「……」

「まあ、殿にもお考えがあっての事じゃろう。おぬしの武勇は誰もが知る所じゃ! 落ち込むことはない」

 千代の沈黙から察したのだろう、サルが肩を叩きながら、慰めの言葉をかけてくる。

(まさか草履取りに励まされるとはな――)

 だが、確かにふさぎ込んでいる場合ではない。

「すまぬ……」

「いいってことよ。おっと、忘れる所じゃった。殿が明日、早朝から出かけるらしい。おぬしにも声がかかる筈じゃから、準備をしておいた方がええじゃろ」

(またか……)

 口には出さないが、千代はげんなりする。

 何しろ信長の行動は、いつも突拍子がなく唐突だ。

 先日の鷹狩の時もそうだが、火起請の時のように、近くの町に市が立つ、と聞けば軽々しく顔を出すし、自ら試し合戦や力士を呼んでの相撲興行の催すことも珍しくない。

 それ自体は千代も慣れたが、それらのほとんどが突然に通達されるから堪ったものではない。

 傍仕えの母衣衆としては気苦労が絶えないのだが、乳兄妹として付き合いの長い恒緒は、いつも澄ました顔で信長に付いているのだから恐ろしい。

「承知した。殿はどこへ何をしに行くと? もう慣れた故、大概のことでは驚かぬぞ?」

「池に棲む大蛇を捕まえにいく、とか仰っていた」

「――は?」

 まだまだ信長の突拍子もない行動には底が見えないらしい。



「お、千代、早いな。出迎えご苦労――」

「殿! 正気ですか?」

 次の日の未明。

 もうじき季節は冬ということもあり、辺りはまだ夜のように暗く、昨日までの暖かさが嘘のように、吹き付く風は身を切られるような鋭さがある。

 先に集合場所である、那古野城の正門前に着いていた千代は、信長の姿を認めるなり、問い詰めてしまった。

「僕はいつだって大真面目だ」

「全く、毎度毎度……そろそろ信兄ぃの行動にも慣れなさいよ」

 恒緒が呆れた顔で、さも当たり前のように言ってくるが、千代も流石に引き下がらない。

「いいえ! 今回ばかりは止めさせて頂きます! 仮にも当主ともあろうお方が――」

「噂だけで軽々しく動くな、って言うんだろ? だからこっそり朝早く城を出てきたんだよ」

 どうやら、例によって政秀には黙って行くらしい。

「……本当に人々を襲う大蛇なるものがいると?」

「それを確かめに行くのさ」

 未だ半信半疑な千代に、信長は変わらぬ笑顔を見せたのだった。



「へえ、大蛇が夜毎、そこのあまが池から現れ、村を襲うのでございます。先日も夜半に、凄まじい音に驚いて、外に飛び出したところ、圧し潰されたそこの小屋の上で這い回っているところで――」

「わしゃあ、見たんでごぜえます。そこの堤の前を通りかかった時に、爛々と星みてえに光る目ん玉を――」

「オラ、その大蛇に巻きつかれそうになったんじゃが、その太さといったら……大の男一抱えじゃ足りんくらいにあって――」

「その大蛇の体ときたら、三間くらい……そこの池から隣の堤に届くほど、口は人一人くらい丸呑みにできそうなくらい大きくて――」

「犠牲者? そういえばまだ聞いたことはねえですだ? 大蛇のやつは、ひとしきり暴れた後、夜明け前には池に帰っていくようで……」


「――とまあ、集めることができた情報はこんなところだけど、千代はどう思う?」

 ここは問題の村からほど近い、街道沿いの茶屋。千代と恒緒は村人から話を聞いて回った後、休憩に立ち寄り、それぞれの成果を突き合わせていた。

 最初は身の丈ほどの大蛇が出る、などの与太話に、どれだけの情報が得られるのか、不安視していたくらいだったが――。

「まさか、これほど多くの目撃情報があるとは――」

 蓋を開けてみれば、そんな千代の懸念など払拭するほど、大蛇の話を聞くのに苦労しなかった。ボケた年寄りや年端もいかない幼子の話のみならば、見間違いの戯言と断じる事もできたかもしれないが、生憎、目撃情報は老若男女隔たり無くからあった。

 大蛇が棲むという池にも行ってみたが、池のほとりや近くの堤には確かに、何か巨大なものが這いずったような痕が残っており、大きいところでその溝の深さは、千代の膝くらいまである。明らかに尋常の蛇のものではなさそうだ。

(今のところ、畑や小屋を荒らされた程度で、村人に犠牲者が出ていないのが不幸中の幸いではあるが――)

 千代が頭を抱えたくなってきたところに、

「――あ、信兄ぃ!」

「すまない! 遅くなった。あ、僕には茶と餅を一皿!」

 二人とは別行動をとっていた信長が合流してきた。ちゃっかり注文も忘れていない。

「成政殿は何て言っていたの?」

 信長はここに来る前に、この辺りを治めている佐々成政の屋敷まで行っていたのだった。

「それが病で臥せっているらしくて。詳しい話は聞けなかった」

 相手は家臣なのだから、たとえ病であろうと押しかけてもいいくらいなのだが、そこで遠慮するあたりが信長らしい。

「それでそれで? そっちの首尾はどうだった?」

 運ばれてきた餅を頬張りながら、昔話をねだる童子のように目を輝かせる信長に、千代は村で聞いた大蛇の話を報告する。

「凄いな! そんな大蛇の話なんて、昔話の中でしか聞いたことない!」

「あれだけの村人が見ている以上、ただの見間違いということはなさそうですが……」

 だが、村人たちの話が本当だとしたら、この地には人を丸呑みにできるほどの怪物が徘徊していることになる。だとすれば由々しき事態だ。だが。

「いないわね」

 恒緒がにべもなくそう断じた。

「しかし恒緒、あれだけ見た、という人間がいる以上――」

「それほど大きな蛇が本当にいたとして、それがある日突然現れると思う?」

「それは……」

「仮にあるとすれば、妖や土地神の類だけど、調べた限り、この辺りにそのような謂れは一切ないみたい」

 言いながら、恒緒はいつの間に調べたのか、風土記らしき紙束を取り出して見せる。

「大蛇も目撃情報も突然出てくるようになった。これは明らかにおかしいわ。それに――」

「それに?」

 何かに気付いたかのように言い淀む恒緒に、千代は先を促したが、

「いえ……とりあえず今の問題は大蛇が本当にいるかどうかじゃない、村人がそう畏怖してしまっていること。これ以上、動揺が広がるのはまずいわ」

 先代信秀の活躍もあり、元々分家筋だった信長の家は、尾張において本家を凌ぐほどの勢力を持っている。

 だが、弟の信行をはじめ、対抗勢力は枚挙に暇がなく、尾張国内は一枚岩にはまだ程遠い。

 ただでさえそんな状況の中に、このような混乱が国中に広まれば、周辺諸国に付け込まれかねないだろう。

「ではいっそのこと、それがしが池に潜って直接――」

「いやいや……千代、こういった『荒ぶるもの』を鎮める方法と言ったら、一つだろう」

 それまで黙って聞いていた信長がおもむろに口を開く。

「と、殿? 妖の類ではない、と先程、恒緒が――」

 ひょっとして話を聞いていなかったのだろうか?

「ああ、分かっている。要は、勝手に『神』として祀ってしまえばいい。それで収まればよし。それでもまだ大蛇が出るようなら、『自らの暮らしを脅かす荒神』に対して村人達が団結できる。少なくとも今のような不安定な状態からは脱することができるだろう?」

(なるほど……)

 つまりは『得体が知れないもの』だから、口伝手に動揺が広がってしまう。大蛇が本当にいようといまいと、『そういうもの』として定義してしまえば、そうした見えない不安を払拭してしまえる訳だ。

 恒緒はまだ何かを考えているかのようだったが、何も言わないところを見ると、反対という訳ではないらしい。

 二人の無言を賛意と見て取ったのだろう。

「よし! 決まり。まず手っ取り早いのは祭りだな!」

「へ?」

「は?」

 我が意を得た、とばかりの信長の提案に、千代も恒緒も虚を突かれる。

 二人が呆気に取られている間にも、盛り上がってきたらしい信長の口は止まらない。

「場所は……池の畔に古びた社と広場があったな? あそこなら広さも申し分ない。演目の目玉は……『清らかなる巫女による調伏の舞』なんてどうだ?」

「清らかなる巫女による……」

「………調伏の舞?」

 後に二人は強引にでも信長を止めなかったことを悔いることになるのだが、この時は知る由もなかった――。



 それからおよそ一か月。

 信長の主導でとんとん拍子に話は進み、村では『神』を鎮めるための祭りが急遽執り行われることになった。

 これまでなかった祭りを新たに立ち上げるにしては、ありえないほどの早さではあるが、その裏に信長の強引とも言える画策があったことは想像に難くない。

「『かつてとある巫女が、この地に蔓延っていた荒神を舞により調伏し、村の開祖となった。此度の祭りは、一度は途絶えたこの伝統を復興することで、村の平穏と繁栄を祈念するものである』だって……よくもまあ、こんな怪しい出鱈目をすらすらと……」

 集会場を始め、村のあちこちに掲げられた高札を一瞥し、恒緒が呆れたように嘆息する。

 村の古びた社が、神職も常駐しておらず、荒れ放題で由来さえ分からなくなっているのをいいことに、信長が尤もらしい巫女伝説をでっち上げたらしい。

「しかし随分と……賑やかになったな」

 社のある広場への道を歩きながら、千代が呟く。

 今夜は祭りの本番に向け、『調伏の舞』を舞う巫女を選定するための審査が行われることになっている。

 それを目当てにか、村には付近の集落や町から多くの人々が見物に訪れ、広場には市や出店が立つなど、早くも祭りの活気に溢れていた。とても先日まで大蛇の脅威に怯えていた村とは思えない。

「これも殿の狙いだったんだろうか……」

「そうかしら? 信兄ぃ自身が祭りをしたかっただけよ、多分」

 隣を歩く恒緒が再び溜息をつく。何しろ普段から、自ら市を立てるほどの祭事好きだ。恒緒の呟きもあながち否定できない。

「そういえば。先程から何やら、あちこちから視線を感じるのだが……よもや刺客でも潜んでいるのか……?」

 いつもの癖で腰の刀に手を伸ばしかけ、千代はようやく自分の今夜の装いが、いつもと違うのだと思い出す・。

「んな訳ないでしょ。貴女の……その恰好が気になるのよ」

 いつもは毒舌明朗な恒緒だが、今日は何故か少し歯切れが悪く、どこか平坦な口調だ。

「――っ! せっかく忘れかけていたのに……それに触れてくれるな!」

 恒緒の指摘に、千代は顏を真っ赤に染める。何しろ今日の千代はいつもの男装ではなく、女物の小袖姿だった。それも、普段使いの簡素なものではなく、青地に梅の花を意匠化された紋様が染め抜かれており、祭りの場に相応しい艶やかな装いと言えた。

「本っ当に見違えたわね……」

 元々が整った顔立ちをしている千代だ。いつもは結い上げ、頭の後ろで纏めている長い髪を下ろし、艶やかな小袖を纏えば、元々の背の高さもあり、かなり目立つ。

「戯言を……恒緒は平気そうだな?」

 対して恒緒の装いも、いつもの動きやすく仕立て直されたものではなく、今夜の祭事に合わせたのか、鮮やかな蝶が散りばめたれた柄の小袖を身に纏っている。それは小柄で華奢な体型の恒緒によく似合っており、その所作も堂に入ったものだ。

「……あたしは……たまにこういう格好もするから」

 恒緒は何やら複雑な表情を見せる。

 二人が今夜、このような格好をしているのは、例によって信長の思い付きだった。

『折角の祭りだし、たまには羽を伸ばしてきなよ! あ、そうだ、ちょうど舞の審査への出場者がまだ少ないらしいから、出てくれると助かる。その方が祭りも盛り上がるし!』

(あれで全く悪気がないから、タチが悪い……)

 無邪気な信長の顔を思い出し、げんなりする。

 幼い頃から、武芸に明け暮れていた千代には舞の嗜みなど全くない。対して信長は普段から幸若舞の一節を口ずさんでいるくらい舞には傾倒しているし、その傍にいる恒緒も本人曰く『それなりに』舞えるらしい。

「……それにしても、信兄ぃはどこに行ったのよ?」

「それがしにも分からん」

 信長の親衛隊たる母衣衆としては問題だったが、今の千代はそれどころではない。

(それがしがこのような格好をする日が来ようとは……)

 戦場では大きめの具足を身に着けているし、平時においてもサラシで体型を整えた上、女物の大きい着物を羽織って、当世流行りの傾奇者として誤魔化している。

 だが、今着ている服は、所々ひどくきつくて動きにくい。幼い頃から男に混じって武芸の稽古に明け暮れていた千代にとって、このような格好をするなど、生まれて初めてだ。やたらひらひらする、袖や裾をあちこち摘まんでみる。

 ちなみに今日、千代が着ている小袖は、母親が娘時代に着ていたものの仕立て直しだ。

 実家の母親に今回の事情を打ち明けたところ、うっすらと目に涙を浮かべながら、用立ててくれたのだ。

 普段、男として振る舞うことに関して、母親に何かを言われたことはなかったが、内心女子らしい着飾りをさせてあげられなかったことを気に病んでいたらしい。病気で臥せっていた兄までも、珍しく布団から飛び出さんばかりに喜んでいた。

「しかし、参ったな。動きにくい上、こう目立ってしまっては、いざという時、殿をお守りできない」

 審査会場である社に近づくに従って、露店も見物に訪れた客も増えているのだが、その誰もが振り返り、見られているような心持ちがする。

「……だったら、もう少し胸元を締めなさいよ。ここは遊廓じゃないのよ?」

 平坦だった恒緒の口調にやや苛立ちのようなものが混じったが、それどころではない千代は気付かない。

「これ以上は、胸がきつくて締められぬのだ」

「…………」

 どうやら千代の体躯は、母親の娘時代よりも大分発育が良いらしい。

 足元の裾は高く、歩く度に白い素肌が見え隠れする上に、その豊かな胸元からは、僅かに中に着た肌襦袢が見えてしまっている。胸をサラシで潰したり、背の高さに合わせて補正してあったりと、仕立て直した母親の苦慮が窺えたが、流石に限界があったらしい。

「そうだ! 恒緒も今宵は着飾っているようだし、この際代わりにこれを着て、審査に出れば――」

 苦し紛れの思い付きは、最後まで言い終えることはできなかった。

「喧嘩売っているのかしら?」

 恒緒は抑揚のないままの口調でそう言うと、手にしていた扇を開き、揚羽蝶紋を浮かび上がらせる。

「待て待て待て! 何故このような所で蝶を飛ばそうとする!? 舞ならば其方の方が得意だろう?」

「そういうことじゃないわよ……うつけもの」

 そう言うと恒緒は扇を閉じ、具現化させかけた蝶を霧散させる。流石に村の中で紋様術を使うつもりはなかったらしい。その割に目が本気だったが。

「ふん、いいもん。あたしの体つきの方が、まだまだ当世好みだし?」

「もん……?」

 普段は大人びている恒緒が、珍しく子供のような拗ねを見せている。

 時代によって、理想とされる女性の条件は様々に変遷してきたが、武士の世においては、全体的に小柄でほっそりした体型の女性が理想とされた。

 だが一方で、皇都大乱以降、家や紋様術の素質の事情から、千代のように女性が表に出ることも増えてきた。

 そうした女性たちは武将として戦場で活躍することも珍しくない為、邸の奥に引きこもっているような華奢な姫君たちとは対照的に、肉付きが良い者が多い。(もちろん個人差はあるのだが)

 結果、長身で肉感的な女性を魅力的と捉える風潮も、近年高まっているのだ。

 恒緒の苛立ちも、実はそんなところから来ているのだが、武辺者で世情に疎い千代にはそんなことは分からない。

「なあ……それがしは何か、気分の害するようなことを言ったか?」

「もういいわよ……ふん」

「???」

 取り付く島もない恒緒に困惑している間に、二人は審査会場である村外れの広場に辿り着いた。

「もう始まっているみたいだな」

 既に巫女を選定するための審査は始まっているらしく、社の方からは笛や鼓によるお囃子が聞こえ、人だかりが出来ていた。

「妙ね……?」

 恒緒が眉根を寄せる。

 娯楽の少ない村の事だ、これだけの見物客がいれば、さぞかし狂騒と熱気に包まれていると予想していたのだが――。

「確かに静かだな? それがしはこのような場は初めてなのだが、いつもこんなものなのか?」

「いえ、目玉である本番の神事ならいざ知らず、今はあくまで審査の場。そんなことはない筈よ?」

 二人は人ごみをかき分けながら、何とか巫女の舞う神楽殿の最前列へと辿り着いた。

「―――――!」

 今回の祭りのために急遽造営されたのだろう、小ぶりながら真新しい造りの神楽殿の舞台で、一人の巫女が舞っていた。

「――――!」

 思わず息を呑む。

 その様を何と評したら良いのだろう。

 その均整のとれた体躯。

 あどけなさを残した横顔。

 手の指先から、足先に至る所作まで嫋やかなその舞いから、一瞬たりとも目を離すことが出来ない。

 巫女舞とはかつて、自身に神を下ろさせるための儀式であったという。手にした神楽鈴を打ち鳴らし舞う、巫女の姿は美しくありながら、野次や囃し立てなどで疎かに侵すことなどし難い、神聖さのようなものを感じさせた。

 見物人たちが、祭りの喧騒も忘れ、一種厳かな雰囲気に包まれてしまったのも頷けた。

 やがて舞を終えた巫女が一礼し、檀上を下りる。

「……見事」

 千代は嘆息とともに、ただそれだけしか言えなかったが、恒緒の方も同じ気持ちだったらしい。

「ええ、あれほどの『女踊り』は初めて見たわ」

 いつも辛辣な彼女が珍しく、手放しでの賞賛を口にしている。

「もう決まりではないか?」

 それほど、あの巫女の舞は隔絶していたように感じられる。

「そうね……少し悔しいけど、あれほど舞える『男』がいるのなら仕方ないわね」

「ああ…………へ?」

 頷きかけた千代だったが、恒緒の言葉に思わず呆けた声を出してしまう。

「男……だと?」

「知らないの? 男が踊るから『女踊り』っていうのよ?」

「え? で、ではあの舞っていた巫女は――」

「だから男、よ」

「…………」

「にしても、本当に見事な舞だったわ。貴女の言う通り、他の人間の出る幕はなさそう」

「お、男による巫女舞でもいいのだろうか?」

「いいんじゃない? 元々、正式な神事というよりも、村人を納得させるためのものだし、大体、男が舞ったって――」

「つ、恒緒?」

 千代はここでようやく気付く。まくしたてる恒緒の言葉はあくまで軽いが、その実、どこか目が泳いでいるように見える。冷静に見えて、内心の動揺は大きいようだ。

(何かが間違っている………それで良いのか?………ん?)

「恒緒」

「何よ? ……!」

 千代の耳打ちに、恒緒が指示された方へ向き直ると、壇上から下りた先程の巫女が、こちらに向かって歩いてくるところだった。巫女は、周囲から浴びせられる好奇な視線を全く感じていないかのように、二人の元まで歩み寄ると、無邪気な笑顔とともに、口を開いた。

「やあ、二人とも! 来ていたのか?」

「「え?」」

 期せずして二人の声がぴったり重なる。

 紅が差された唇から紡ぎだされた声色は、二人のよく知るものだった。

「信兄ぃ!?」

「殿!?」

「いや、最初はみんな壇上に立ちにくいだろうから、景気づけに一番槍を買って出たんだけど、却って盛り下げちゃったかな?」

 二人の主君はそう言うと、悪戯の見つかった童子のように、バツの悪い苦笑いをしてみせたのだった――。



「――で、その後、どうなされたのですか?」

 雑用でたまたまその場にいなかったサルが、巫女姿のままの信長に尋ねる。

「う~ん、『一体どんな術式を使ったの!?』って繰り返し聞かれたなあ」

「……何とお答えに?」

「『特に何も。白粉と紅を軽く差しただけ』って」

(自覚がない……のか?)

 サルは思わず絶句する。

 女装した今の信長は、線は細いが華奢ではなく、(『女性』としては高めだが)中肉中背の体つきで、あどけなさを残した中性的な顔立ち、と新旧の理想を奇跡的な均衡で併せ持つ容姿をしているのだ。目立たない方がおかしい。事実、女好きで目敏いサルがうっかり声をかけそうになったほどだ。

「おかしいよな? 二人とも僕が『鷹狩』もろくにできないくらい、紋様術の才がないことを知っている筈なのに?」

 その不思議そうに首を傾げる様が、また妙に艶っぽく、更なる注目を浴びていることに本人が気付いていない。

「お二人は今、どちらに?」

「出店で酒を飲んでくる、って。何だか二人ともひどく疲れたような顔をしていたけど、今日の審査のために舞の稽古でもしていたのかな? サルは何か知っているか?」

「わ、儂の口からは何とも……」

 二人とも形は違えど、女を捨て武士として信長に仕えている身だ。普段は女子としての美しさなどあまり意識はしていなかっただろうが、まさか仕える主君が、女子の自分たちより美しい、と目の当たりにしては、その心中は複雑であろう。

(普段から男装している千代殿はまだともかくとして、恒緒殿はさぞかし――)

 サルはこの場にいない恒緒に同情するほかなかった。



「なっとくいかない!」

 恒緒はそう叫びながら、もう何杯目になるかも分からない酒杯を一気に呷る。

「恒緒……もうそのあたりに……」

 ここは村の広場からもほど近い出店。千代を無理矢理引っ張り込んだ恒緒が、先程から自棄になったように杯を重ねていた。

「だ、大丈夫。信長様が規格外なだけで、恒緒は十分に――」

「それでよろこべってゆーの!?」

 何とか宥めようとする千代に、恒緒は空になった杯を卓に叩きつけるように下ろす。

 千代の言葉は世辞抜きの本心からのものであり、実際恒緒の容姿は、標準よりやや小柄で矮躯なのを除けば、十分に美人(というか愛らしい)部類なのだが、今の恒緒には火に油を注ぐ結果にしかならないらしい。

「だいたい、あにさまはかってよ! いつもいつもつくしてりゅ、あたしのことなんてしりもしないれ、かってなことばかりして――」

 いつの間にか『あにさま』呼ばわりしているのは、信長のことだろうか?

 いつもは冷めた口調と態度で、大人びている恒緒だが、今、目の前で涙ぐみながら、呂律の回らない愚痴を零す様は、その幼げな見た目も相まって、まるで童女のそれだった。いつもは毒舌だが、内心では信長を実の兄のように慕っているのだろう。

(可愛いものだ……)

「――きょうらって、ちゅーもくをあつめるのはあなたばかりれ――」

「やはり気にしていたのではないか!」

 果てない愚痴が自分にまで飛び火し、千代は堪らず声を上げる。

(これで、傍らに空になった徳利と杯が転がっていなければな……)

「きいてるろ? たまには『せんぱい』で『めうえ』で『おねえさん』である、あたしをねぎらひなさ~い!!」

 やたら年上ぶる言葉とは裏腹に、手のかかる子供のようになった恒緒を相手に、

(……今夜は長くなりそうだ)

 と、千代は心の中で嘆息するのだった。



 そして祭り当日。

 審査の結果、『調伏の舞』は信長が舞うことになった。

 と、言うよりも、信長の卓越した舞と容姿に気後れして、後に続く者がいなくなってしまった、というのが正しい。

 信長は複雑な表情をしていたが、内心満更でもなかったらしく、千代の制止を振り切って本番でも身分を隠したまま見事に舞い、見物人から感嘆の声を上げさせていた。そして――。


「水が流れるぞ~」

 作業をしていた人足たちの声が響く。次の瞬間、堤が切られ、あまが池の水が一斉に流れ出していく。

「まさか、本当にここまでするとは――」

「ここまでするから、村人にしっかり伝わるのよ」

 池の水を抜くことで、大蛇が『調伏』され退散したことを示す。

 これが信長の考えた儀式の締めくくりだった。

 作業に関しても、元々池には灌漑用の堤が隣接していた為、一時的に水を流すための水路を作るだけで済んだ。

「だがもし本当に大蛇がいたらどうするのだ? この後、殿が……」

「その為に、あたしたちがいるんでしょ?」

 そう言うと恒緒は蝶柄の扇を開く。いつでも紋様術を発動できる構えだ。

「……ああ、そうだな」

 やがて水の半分ほどが抜けた頃だった。

『掛けまくも畏き――』

 巫女姿に扮した信長が、即席の祓詞を口ずさみながら、池に足を踏み入れる。

 これも儀式の一部で、『調伏の舞』を終えた巫女が池に浸かり、大蛇がいなくなったことを示すことになっていた。

 今日は雲一つない晴天であったものの、未だ寒風吹きすさぶ季節。池の水は身を切るような冷たさである筈なのだが、信長は平然とした様子だ。

 信長は左手に魔除けの榊、右手には小刀を持ち、ゆっくりと池の中を進み、中央ほどに進んだところで、完全に水中に潜ってみせた。

 ある程度、水を抜いたとはいえ、池の中央付近は未だ信長の腰上程度の深さはあるらしい。

 これで巫女が無事に浮かび上がってくれば、儀式は成功となる。

「…………」

 見物人を含め、池の周りには数百人もの人間が集まっており、巫女の動向を、固唾を呑んで見守る。

 実際には三十を数えるほどもなかっただろう。だが千代には数刻にも思える静寂の後、

「!」

 水中に潜っていた信長がおもむろに顔を出し、手にしていた榊を振ってみせた。

 静寂から一転、池の周りに集まっていた群衆から一斉に歓声が上がる。そこへ合わせるかのように、池の畔に村の代表者による口上が響いた。

「見ての通り、あまが池に跋扈していた大蛇は調伏され、この地の『守り神』へと昇華され、以降我らは永劫にこれを祀り、村の繁栄を祈るものとする!」

「あれは……」

 よく見ると口上を述べているのは、何とあの『エラ』だった。聞くと彼は名主の息子で、病気がちな父親に代わって、村の代表を務めているらしい。

 エラの口調は朗々たるもので、早くも次期名主としての貫禄の片鱗を見せていた。

「良い口上だった。急に頼んですまなかったな」

 壇上から下りてきたエラに、池から上がった信長が労いの言葉をかける。今回の口上の内容は信長の手によるものだが、やはり村の者が述べた方が効果的だという事で、急遽、エラにねじ込んだのだ。

「いやあ、殿様にゃ、いつも世話になっておるし、こんくれえの事は何でもないぎゃ」

 先程までの名調子から一転、エラは照れ臭げに頭を掻きながら答える。

「祭りのおかげで、オラたちもたらふく食えるし、池の水抜きで魚も大漁だし、大助かりですだ」

 両手に持った握り飯をほおぼりながら、百貫も満足そうに頷く。

「ははは、百貫はいつも食い過ぎだ。力士になりたいんだろう? 鍛錬も欠かさずにな」

「殿! お体に障ります。早うこちらを――」

 寒空の中、ずぶ濡れのままでエラたちと談笑を始める信長を見かね、サルが着替えを差し出してきた。

「すまぬな……ん? この服……草履も暖かいな?」

「この季節、無闇に体を冷やすものではございません。差し出がましいとは存じましたが、ずっと懐に入れておりました」

「いつもながら、手回しがいいな……」

 サルの気遣いに感心しながら、信長が着替えを済ませたところに

「信兄ぃ、お疲れ~」

「殿、ご無事で何より!」

 儀式の成功を見届けた千代と恒緒が駆け寄ってきた。

「二人とも此度の骨折り、大儀だった。これで神事は全て完了だ。あとは皆で祭りを楽しんでくれ」

 早くも周囲では神事の成功を祝う、どんちゃん騒ぎが始まっており、祭りの喧騒はますます強くなっていく。

「これでもう、大蛇さ出ることはにゃーズラか?」

「ああ、二度と大蛇は出ない。出させたりしないさ……」

 エラの問いに、信長は力強く頷いてみせた。



(くそっ! 何故、このようなことに……!)

『男』は焦っていた。

 領内で大蛇騒ぎを起こし噂が広がれば、信長は確実に来ると踏んでいた。好奇心が強く、領民思いの信長なら、その真偽の最終的な確認は余人に任せず、必ず自らで行うだろう。

(大蛇の事を調べに、池に入った時が貴様の最期だ……)

 今、あまが池で信長が行方知れずになれば、誰もが大蛇の仕業だと思うだろう。

 男の目論見通り、信長は自ら村まで足を運び、大蛇の事を調べだした。『大蛇の調伏』の為の祭りを開催する、というのは突拍子もない発想だったが、『男』の知る信長ならば、やりかねない。

(祭りのどさくさに紛れて討ち果たしてくれる) 

 だが肝心の祭り本番では信長は姿を見せず、池に入ったのは審査で巫女に選ばれたという女子一人だった。

 そうこうするうちに、村長らしき男の口上で、大蛇は『調伏』したことにされてしまった。

 あの場で大蛇を召喚することもできたが、池の水は抜かれており、周りには多くの見物客がいた。何をきっかけに見破られるとも限らない。

(やはりここは、これまでのように夜更けに大蛇を目撃させ、村人の失望を煽るか)

 次は村人の一人や二人殺めて、大蛇の仕業に見せかけるのもいいかもしれない。

村の中ほどまで侵入した『男』が、大蛇を召喚するため、懐の『法具』を掴んだ時だった。

「よお、いい晩だな?」

「!」

 突然背後から声をかけられ、男が慌てて振り返るとそこには――。

『ッ! 信長!?』

 それだけではない。紋様術にて、気配を消していたのか、馬廻りの二人の姿も見える。

「殿……ではコイツが?」

「ああ、この大蛇騒ぎの黒幕……幻術使いだ」

 信長はそう言うと、悪戯が成功した悪童のような、得意気な笑みを浮かべて見せたのだった。



「――本当に今宵、大蛇が出るのですか?」

 祭りの狂騒から一転、深夜の静寂に満ちた村の中を三つの影が動いていく。

「ああ、出るとしたら今夜だ」

 千代の問いに、信長はキッパリと答える。

「しかし、殿は祭りの折り、『もう出ることはない』と……。そもそも大蛇などいない、ということを示す為に、このような馬鹿騒――いえ、祭りを催したのでは?」

「聞こえたぞ?」

 うっかり口を滑らせた千代に、信長が苦笑しながら答える。

「そうだ。恒緒が最初に言っていたように、身の丈五間以上の大蛇なんていないさ。この日ノ本全てを隈なく探せば、どこかにはいるかもしれない。だが、少なくともこの村にはいない」

「では何故……?」

 千代からすれば、信長の行動は全く道理に合わない。

「じゃあ千代、仮に大蛇が本当にいたとして、何故、この村に現れたと思う?」

「それは……人を襲うために……」

「だが、小屋を壊されたりはしているが、『喰われた』、っていう村人は今のところいない。目立った被害といえば、家の倒壊に巻き込まれた時の怪我人くらいだ」

(いつの間に……)

 信長は信長で、独自に大蛇の事を調べていたようだ。

「田畑も荒らされていたが、作物を食い荒す、っていうより出鱈目に這いずり回ったような痕だけだ。今、この村の田畑では何が獲れる?」

「今は冬……! 確かに何も……ございません」

 この村の田畑には、冬越しをさせるような作物は育てていない。

「本来、蛇っていうのは臆病な気質なんだ。自分から進んで人前に出たり、無闇に襲ったりしない」

狩で自ら、野山を駆け回っていた信長らしい発想だ。

「では、『大蛇は何を喰って生きている』と思う?」

 人差し指を立て信長が千代に尋ねる。

「それは池で、魚でも小動物でも――」

「だったら、わざわざ村に出てくる必要なんてないだろう? それに、それほどの大蛇が棲んでいるにしては、あの池には他の生き物が多過ぎだ」

 池の水を抜いた時、「大漁だ」と言っていた百貫の言葉が思い返される。

「糞らしきものも、あの辺にはなかったしな。噂ほどの大蛇が本当にいるのなら、出すモノも相当なはずだ」

「出すモノ――」

 下世話な話に千代は思わず顔をしかめるが、確かにその通りだ。生き物である以上、食事も排泄も不可欠だ。それがないという事は――。

「やはり神か妖でしょうか?」

「それはあたしが最初に否定したでしょ?」

 恒緒がやや呆れたように言う。

「だが最近、この地に迷い込んだ妖がいるのやも――」

「そこで二つ目の妙な点だ。『大蛇の大きさがはっきりしない』こと」

 言いながら、信長が二つ目の指を立てる。

「村人の話によると、大蛇は『身の丈五間以上あり、胴回りは大の大人一抱え分以上、その口は人を丸呑みできるくらい大きい』だったな?」

「はい、その通りです」

 千代たちが調べた噂と概ね一致する。

「噂っていうのは、口伝てでどんどん誇張されたりするものだから、多少の齟齬は気にしないとしても……千代と恒緒は、村に残っていた大蛇の這った痕を見たか?」

「はい」

「ええ、見たわ」

 千代と恒緒がともに頷く。

「それはどれくらいの深さだった?」

「それがしの……膝くらいでした」

 千代は、池の畔で見た後を思い起こしながら答える。

「村外れで見つけた痕は、あたしの肩くらいまであったわよ?」

「僕が見たのは、壊された小屋の周りについていた痕だったが、腰くらいまであったな」

「え?」

 千代の身の丈は女子としてはかなり長身だが、中肉中背の信長より僅かに高い程度だ。

小柄な恒緒に比べると、頭一つ分以上の差があるが、流石に膝と肩の高さが並ぶようなことはない。

「これはどういう……?」

「妖ならば、その身を巨大化することができるかもしれない。だが同じ村に現れるのに、毎度毎度、体の大きさを細々と変える必要なんてない筈だ。そもそも複数匹、大蛇がいるのなら別かもしれないが、目撃情報は常に一匹だ」

(何という……)

 その観察眼に絶句する千代に、信長は三つ目の指を立て、なおも言葉を重ねる。

「そして三つ目。『今の季節』は何だ?」

「!」

「もしいるのが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()んだ」

「っ! ()()()()()()()()……」

 年月を経た生き物は、時として妖へと変化するという。だがその基本的な性質は、妖となった後でも大きくは変わらない。人を丸呑みできるほどの化物、という印象に気を取られていたが、蛇であることには変わりない筈なのだ。

「では一体………?」

 大蛇はいない、神や妖でもない。ならば、この村に現れたというのは、何なのだろうか?

「つまりここから導き出される結論は――『紋様術による幻』だ」

 


(コイツが……幻術使い)

「……」

 千代は改めて目の前に立つ影を眺める。

頭からすっぽりと、全身を覆うような漆黒の外套を被っている為、その容貌や背格好は分からない。背丈のほどは――。

(何だ……?)

 千代が目を凝らそうとした瞬間、幻術使いの輪郭が不意に『歪んだ』。

 今夜の月は半月だが上空には雲もなく、祭りの名残の篝火も残っていて、辺りはそれなりに明るい。

にもかかわらず、せいぜい二十歩ほどの距離にいる影の輪郭は絶えずぶれるように滲み、その体躯が千代より低いのか高いのかさえ、はっきりとしない。

 そういえば、先程幻術使いが発した声も、これほど近い距離にいるにも関わらず、何か分厚い布でも通したかのようにくぐもっており、年の頃はおろか性別さえ分からなかった。

「……信兄ぃ、気を付けて」

「ああ、容貌がはっきり掴めない。おそらく幻術で体躯と声色を誤魔化している」

 だとすれば、千代が普段、性別を隠すため施しているものとは精度が違う。

「千代、恒緒、手を出さないでくれ」

「しかし――」

「頼む」

 まだ短い付き合いだが、信長が言い出したら聞かないのはもう分かっている。

「無茶はなさらぬよう――」

 恒緒も呆れたように、横で肩を竦めている。

「さて、と……どうだ? あてが外れたか? まさか池の水を抜くとは思わなかっただろ?」

『何故、分カッタ?』

「今夜、大蛇に村を襲わせれば、ここまでの騒ぎは徒労だったってことになり、祭りを強行した僕の権威は地に堕ちるからな」

「信兄ぃは、そんなこと気にしたことないでしょ」

 後ろからの茶々に、信長が苦笑した瞬間だった。

 突如、何の前触れもなく、中空より身の丈五間の大蛇が現れた。

『シャッ!』

 大蛇は信長を頭から飲み込むべく、その真っ赤な咢を開き襲いかかる――が、

キイイイイン!

 その牙が信長に届く寸前、突如、硬質な音が響き、大蛇の姿が掻き消えてしまった。

『ナ……ニ!?』

「これが僕の術……『落宝金銭(らくほうきんせん)』だ。全ての紋様術の発動と効果を無効化できる」

 先程の音は、信長が手にしていた永楽銭を指で弾いた音だったようだ。

(それがしの梅花雷槍もこれで……?)

 そういえば、あの試し合戦の時も信長は、指で永楽銭を弄んでいた。あの時に術を無効化したのだろう。

「やはりその大蛇は紋様術による幻だったようだな? 本物の神や妖でなくて残念だ――」

(信長様?)

 自らの推理が的中した筈なのに、どこか落胆したような表情を見せた信長に、千代は首を傾げる。だがそれも一瞬のこと。

「……それよりお前の本命はコレだろう?」

『!』

 永楽銭を握りこんでいた信長の右手には、いつの間にやら一本の苦無が挟み込まれていた。

「まやかしに紛れて本命の苦無が飛んでくる、か……面白い技だな」

『馬鹿ナ……『落宝金銭』ハ、唐土ノ術――』

「へえ? 詳しいじゃないか? 『殷周大戦』の書物がこの日ノ本に伝来して、まだ間もない筈なんだけど?」

『ウ――』

 それは幻術使いにとって、失言だったらしい。慌てて口を噤んだ様子が幻術越しにも隠しきれていない。

「唐土からの舶来品に何故かこれが混ざっていてな……。僕には代々、家に伝わる紋様術を扱う才は無かったから、使わせてもらっている」

『ッ……』

「さあ、幻術使い。僕が今、何を考えているか分かるな? ……正体見せろ!」

 信長が永楽銭を目の前に翳し、弾こうとした瞬間だった。

『チッ――』

 舌打ちのような音が響いたかと思うと、辺り一面に真っ白い煙幕が立ち込めた。

キイイイイン

 次の刹那、再び永楽銭が弾かれる音が響き、その煙が晴れた頃には、辺りには信長たち三人以外、誰もいなくなっていた。

「げほっ、げほっ……ちぇっ逃げられた――」

「当たり前でしょ!」

「痛ぇ! 何するんだ恒緒っ!」

 煙に咽ているところを後ろから扇で殴られ、信長は思わず振り返る。

「普通、幻術使いは真っ向から、敵と対峙して戦うことなんてしないの。あんな啖呵切ったら、逃げるに決まっているじゃない!」

 恒緒はそう言いながら、なおも扇を振りかぶる。

「痛っ! いいじゃないか。僕の能力が分かった以上、もうこれでヤツは――痛い!――来ないと思うし、無駄な殺生なんてしない方が――ぎゃっ!」

 恒緒からの度重なる折檻めいた攻撃に、信長は堪らず逃げ出してしまう。

「うるせえな……」

「なんだなんだ? まだ騒いでいる奴がいんのかあ?」

 これだけの騒ぎを起こした為だろう、村人が次々と起き出してきたようだ。これではもう、幻術使いも策どころではない筈だ。

 千代が思わず苦笑していると、ひとしきり叩いて気が済んだのか、恒緒が千代の元に戻ってきた。

「ふう……分かった? ああいうヤツなのよ、信兄ぃは」

「……何の事だ?」

「貴女が何をどう聞いているかは知らないけど、私が知っている信兄ぃは、この乱世であんな甘ちょろいことを言っている大うつけよ」

「……では、誰があんな噂を?」

「予想はついているけど……貴女に答える義理はないわ。で? どうするの? まだそれでも信兄ぃに仕えるつもり?」

 確かに信長の行状は話に聞いていたのと、大きく異なる。だが――。

「ああ、今しばらく、信長様の行状、我が目で見極めさせて頂く」

「そう……勝手になさい」

 恒緒は感情の読めない目でそう言うと、踵を返し、そのまま月明かりの下を一人去っていったのだった。


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