第一章
「人間~五十年~下天のうちをくらぶれば~♪」
「……」
時折吹き付ける秋風に、信長のよく通る声が響いていく。
確か『敦盛』といっただろうか?
千代は馬上で口ずさむ主君に付き従いながら、黙ったまま見つめる。その背中は全くの無防備のように見え、今なら手にした朱槍で容易く突き殺せそうな気がする。
だが。
「信兄ぃ、最近は本当にそれがお気に入りね……。それより、『紋様術』の修行でもしたら? 平手様が、また苦い顔をされていたわよ?」
轡を並べている傍らの小姓が呆れたように呟きながらも、僅かに馬を寄せる。
(気付かれたか……?)
いや、正確には小姓ではない。
腰には刀を佩き、馬も難なく乗りこなしているが、動きやすく仕立て直された小袖に身を包むその姿は、紛れもない女性だ。
(確か、池田恒緒、とかいったな……)
仮にも主君である信長に対して、不遜とも言える気安い言葉で話しかけているが、当の信長も気にした様子はない。
それもそのはず、恒緒の母親は信長の乳母を務めており、二人は乳兄妹で幼い頃から共に育ったらしい。
千代は病身の兄に代わり家督を継ぐべく、普段は男に扮し、武家の女性であれば本来背中に長く垂らす黒髪を、髷のように後頭部で纏めている。
対して、恒緒は蝶を象った簪を挿してはいるが、髪は肩の所で短く切り揃えており、何やら香でも身に纏っているのか、傍に近寄ると微かに花のような薫りが鼻をつく。
千代とは違い、恒緒は『女子』であることを隠さずに、武士として信長に仕えているようだ。
女だてらに戦場経験もあるのだろう。その所作には淀みが無く、恰好だけではない事が千代にも見てとれる。
(『あの刀』……見た目は悪いが、おそらくそれがしと同じく戦場に立つ者の――それに比べて信長は……)
「え~、いいじゃないか? あ、『千代』はどうだ? 好きな舞とかないのか?」
その主君たる目の前の男は、呑気にそんなことを聞いてくる。そこには試し合戦の時に一瞬感じたような、威厳や迫力は微塵も感じられない。格好もその時と同様、湯帷子の片肌脱ぎだ。
「そのようなものに興味はございません! あと、それがしのことは『又左』とお呼びくださいと申し上げた筈です!」
「千代は千代だろ?」
迂闊にも女としての諱を漏らしてしまってから、信長は執拗にそう呼んでくる。
「諦めなさい。信兄ぃは一度決めた呼び名を滅多な事じゃ変えないから。貴女はただの『諱』だから、まだマシな方よ?」
「しかし――」
どこか諦観したような恒緒に、千代が反論をしようとした時だった。
ふと人の気配を感じた千代が、その先に目をやると、前方に二人の百姓が座り込んでいるのが見えた。
農作業の合間の休憩だろうか? まだこちらには気付いていないようで、道端で談笑しているようだ。
千代自身はそれほど頓着しないが、
『道端で武士と行き合ったら、民百姓は道脇に平伏すべし』
と、民に対し無体な振舞いをする者もいるらしい。
事前に伝え聞いた『噂』によると、信長も奇矯な振る舞いが目立つ、とのことだった。
目の前の百姓に理不尽な暴力など振るおうものなら、即座に飛び出せるように、千代が身構えようとした時だった。
「おお、『エラ』、『百貫』!」
「!」
唐突に信長の上げた声に、百姓たちが俯いていた顔を上げる。
「やっぱり殿様だぎゃ!」
「お久しぶりだなあ……」
百姓たちも信長を認めたのか、手を振って応える。どうやら既知の間柄らしい。
「しばらくだったな! エラ、娘は息災か?」
「へえ、おかげさんで、数えで六つになりやした」
エラ、と呼ばれた痩せぎすの男が顔を上げながら答える。確かに男は両端の顎が角ばって発達しており、ひどく目立つ。
「そうか……それは何より。お、百貫! その腹、相変わらずだな? おふくろさんに苦労かけるなよ?」
「へへへ……つい、食い過ぎちまっただよ……」
対照的に百貫、と呼ばれた男は、でっぷりと肥った男だった。流石に百貫、というのは誇張だろうが、力士と見紛うほどの巨漢だ。
いずれも特徴をよく捉えているが、あんまりと言えばあんまりな呼ばれようだ。だが、百姓たちは嫌な顔一つせず、親しげに会話をしている。
「二人とも何かと物入りだろう? これで家族に何か旨いものでも食わせてやってくれ」
「ほんに、いつもいつも申し訳にゃあずら……」
信長は懐から銅銭の束を掴み出し、惜しげもなく与え、百姓たちもさほど畏まることなく受け取っている。おそらく初めてのことではないのだろう。
「――分かった? 貴女がまだマシって言った意味。あたしの時も、どれだけかかった事か……」
百姓たちと別れ、その姿が見えなくなってから、恒緒が蝶柄の扇で口元を隠しつつ溜息をつく。
(た、確かに……)
だが、普段千代は性別を偽り、男装している。周囲から見れば、女子のような名で呼びかけられている様は、十分奇異に映るだろう。
「ち、ちなみに池田殿はどのような……?」
「ああ、それは――」
「言ったら殺すわよ」
口を挟もうとした信長を、恒緒が遮る。
「信兄ぃの言う通りの武功は挙げたつもり。だから、これ以上、この話は無し! いいわね?」
「あ、ああ……分かったよ」
どうやら恒緒は武功を挙げることを条件に、綽名呼びを止めさせたらしい。だが、恒緒の睨みを受け、信長が押し黙る様子はどちらが主君か分からない。
「だから、貴女も今後は『恒緒』と呼びなさい」
「はあ……で、では、それがしも武功を挙げれば――」
「ん~、恒緒はこれでも『四大氏族』の末裔で『揚羽蝶紋』を使う。追いつくのはなかなかに骨だぞ?」
「『これでも』は余計よ」
「……励みます」
試し合戦の時のことを思い起こす。何十匹もの揚羽蝶が飛び去った直後、周囲を足軽に囲まれていた。
あの時の術士が恒緒だったのだろう。
『紋様術』は武家、公家が代々伝わる伝承や血筋を『異能の力』として行使する為の、いわば魔道の術である。
彼らは自らの家系や系譜を象徴する『紋様』を『家紋』としてその身や武具、装飾に刻み、その力を顕在化させてきた。
時にそれは、大岩をも砕く強力無双の力を与え、
時にそれは、疾風の如く駆ける脚力を与え、
時にそれは、降魔調伏の力を与えた。
その力は幾代もの年月と研鑽を重ねた、いわゆる〝由緒正しい名家〟ほど、強力なものとされている。中には天をも焦がすような業火や、大地を引き裂く竜巻を顕現させた、という記録もあり、数百年もの間、この国の行く末を左右してきたという――。
(あれだけの兵を、気配すら気付かせずに覆い隠すなど、相当の手練れ……『四大氏族』の末裔、というのはあながちハッタリではないのだろう――だが、それほどの術士が何故、あのようなうつけに仕えている?)
信長に仕えて何日か経ったが、いやしくも大名家の当主がだらしのない恰好で、毎日毎日昼間から遊び歩いてばかりいるように見える。
数日前には、信長の父である信秀が生前、三河から強奪した人質に会いに行こうとしていた。
信長の父である信秀は、駿河の大名である今川への対抗の為、隣国の三河の掌握を目論んでいた。
丁度その頃、今川への臣従への証として、三河の大名である松平広忠が人質として嫡男を駿河に送る事を事前に掴んだ信秀は、謀略と買収をもって、尾張へと強奪したのだった。
結果として、広忠は今川への臣従を貫いた為、三河の掌握には失敗した。
だが、信秀は何かに使える、と踏んだのだろうか。強奪した人質を殺さず、万松寺に軟禁を命じていたのだった。
「え~? いいじゃないか? ちょっとだけだって!」
「なりません! 仮にも当主ともあろうお方が、人質と軽々しく――」
「心配ないって! 『竹千代』はもう弟のようなものだし」
「……そのご様子では、もう既に頻繁に顏を出していますね?」
「あ」
信長の言う『竹千代』とは、その人質である松平家嫡男の名前だ。
千代の指摘に、信長はバツの悪そうな顔をする。
その後もごねる信長を全力で諫め、その日は断念させたが、おそらく無駄だろう。
今日だって、信長の傅役家老である平手政秀の監視を潜り抜けて、城を抜け出すのを止められず、こうして領内の村をうろついている。
一介の無頼者や浪人でもあるまいし、元服した大名家当主の所業とはとても思えない。
(また後で平手様にどやされる……。今から何と言い訳すれば……)
頑固実直を絵に描いたような政秀の顔を思い出し、千代は頭を痛める。
冷静に考えれば、城を抜け出したのは主君である信長の命であり、傅役でもない千代がそれほど思い悩む必要はない筈なのだが、彼女の生真面目な性格がそれを許さない。
(全く、あの殿は……。噂では、父親の葬儀ではその位牌に抹香を投げつけたというし――)
そんな主君などとっくに、見限られても不思議はない。
事実、信長の幼い頃からの傅役である政秀以外、主だった家老は信長から距離を取り出している。
だが、この恒緒という女は信長に対し、気安い(時に辛辣な)態度を取ってはいるが、そんな素振りなど一切感じない。
乳兄妹、という幼き頃からの繋がりもあるだろうが、今は実の親兄弟すら裏切りかねない乱世。隣国の美濃では、元の出自すら定かではない流れ者が国主の座を奪い取ったというのに。
(それとも、この恒緒も主君同様の不埒者なのか……? 何れにせよ、『噂』が真であるならば、この尾張の国の為にも討ち果たせねば――)
そんな決意を新たにしつつ、千代は手にした槍を握り直した――。
◇
千代が信長に仕えて一か月ほどが経った時の事だった。
その日、千代は買い物の為、那古野城城下の市に来ていた。
(ここに来るのは、子供の頃以来だが……こんなに賑わっていただろうか……?)
武具や身の回りの物を売る商店だけでなく、茶屋の出店や、反物や薬など他国の特産品を扱う行商人の姿も散見でき、そこら中が活気に溢れている。
(今日は祭りでもないのに……)
不思議に思った千代が、買い物を済ませた後に、露天商に尋ねてみる。
「ここの市、随分と繁盛しているようだな?」
「へえ! 今の殿のおかげで、ここの城下では、自由な商いができて大助かりでさあ!」
「どういうことだ?」
聞くと、信長は城下において、商人たちに自由な商売を許可しているという。他の領国では寺社の『座』に入り、高額な上納金を納めなければ、満足に商売ができないので雲泥の差だ。
「商人仲間の間でも評判になっていやして、次々この城下に集まっているんでさ!」
露天商は興奮気味に、そうまくしたてる。
地元の有力者たる寺社の既得権益を侵すことは、大きな反発を呼びそうだが、結果的に民が喜び、領国が賑わいを見せることになっている。
(これが本当にうつけの所業なのか……?)
千代がこれまで聞いてきた、毎日のように遊び歩き、民に狼藉を働いている、という噂は何だったのか?
(いや、毎日遊び歩いている、というのは本当であったが……)
千代が考え込みながら、市の中を歩いていた時だった。
「この……無礼者がっ!」
突如、響いた大声に千代が顔を上げると、広場の方に大きな人だかりができているのが見えた。
(何かの諍いか?)
ただ事ではない様子に、千代が駆け寄ってみると、広場に出店を出していた商人と、武士らしき男が対峙している。人だかりはそれをぐるり、と見物するように取り囲んでいたもののようだった。
「どうした? 何があったのだ?」
近くにいた見物人の一人に話を聞いてみる。
「いやね、池田様の家のお侍が、昨夜あの商人の家に盗みを働いたらしいんですよ」
(恒緒の家のものが?)
家来の不始末は主君の落ち度でもある。千代が憤りとともに詳しく話を聞く。
「けしからんな……それで?」
「盗みに入った時に、そいつが落とした脇差を動かぬ証拠、と突き付けたんだが、そのお侍が頑として認めなくてねえ……『火起請』で決めようってことに……」
「なっ……『火起請』だと!?」
火起請は相論の際、双方の言い分が食い違い、是非が定まらなかった場合に、神仏の判断を仰ぐ意図の元に行われる。
赤熱化するまで灼いた鉄片を素手で掴み、無事に神前まで運ぶことが出来れば、その者の潔白が認められる、というものなのだが――。
(まだこの辺りでは、このような風習が残っているのか?)
神仏の加護を受けた寺社の境内や、有力な紋様術士の立ち合いの下でならばいざ知らず、ただの灼いた鉄片などに、神意が宿るはずなどない。
(『皇都内乱』以前、在野の術士もさして珍しくなかった頃の名残か……)
ともあれ領民の間では、未だ裁定の手段として信じられているらしい。
「左介様、この鉄片を掴めない、ということであれば、この儀は……」
「うるさいうるさいうるさい! 私は織田信長様の側近、池田恒緒様の家人だ! 私を愚弄することは恒緒様、ひいては、信長様に歯向かうものと同義と知れ!」
左介と呼ばれた侍は、わめき散らすばかりで、一向に鉄片に手を伸ばそうともしていないようだ。
(――何と見苦しい……。武士が盗みを働いた上、権威を笠に民を虐げるなど言語道断! 家人にそのような振る舞いを許すとは……。やはりあの恒緒も不埒者か……!)
「そこの――」
千代が憤りとともに、間に割って入ろうとした時だった。
「――と、殿様っ!」
「なっ!?」
どよめきの方向に振り向くと、広場を取り巻いていた人垣の一角が次々と平伏することで割れ、その先に信長が立っていた。
(の、信長様っ!?)
その出で立ちは、いつもの砕けた傾奇者の装いだったが、その表情は真剣そのものだ。
「一体、何があった?」
信長が傍らに平伏していた、当事者らしき商人の男に声をかける。
「……へ、へえ、実は――」
顔を上げた男は、これまでの経緯を信長に話して聞かせる。
「――で、あるか」
ひとしきり話を聞き終えた信長は、同じように平伏していた左介の方に向き直る。
「その方、真に恒緒のところの家人か? 見慣れない顔だが?」
「お、恐れ入りましてございます。わ、私など家臣の家臣。信長様からすれば陪臣に過ぎぬ身。直接、拝謁の栄を賜る機会など……」
(先程まで、その威を借りていたくせに、よくもぬけぬけと――)
「ほう……。だが、その方の言い分も一理ある。一概に無下にはできぬな」
「は……ははっ! 有難きお言葉――」
(っ! お前もやはり……)
信長が権威を盾に、盗人の咎を見逃すような、愚かな裁定を下そうものなら、すぐに諫めに入ろうと、改めて千代が身構えた時だった。
「ふむ……どうやら火起請の準備は整ったようだ。どうであろう? やはりここは、神仏の裁定に任せる、というのは?」
「は? し、しかし……」
左介が顔色を変える。だが信長はさらに予想外の事を口にした。
「案ずるな。其方に鉄を掴めとは言わぬ。火起請は我自身が行う」
「の、信長様がご自身で!?」
「ああ、そうだ。だがその代わり、我はこの商人の言を採る。もし、仮にお前が真に池田家の家人であるのなら、神意により、その鉄片を運ぶことなど能わぬだろう」
信長の言葉に、群衆から再びどよめきが起こる。
「と、殿様が御自ら火起請を!?」
「まさか……」
「んなこと、見たことも聞いたこともねえだ!」
無理もない。
仮にも大名の当主が直々に、領民の裁定に首を突っ込むことだけでも珍しいのに、自ら火起請を行なって見せるなど、前代未聞だ。
「――では、皆の者、よく見ておけよ?」
周囲をひとしきり見渡した後、信長は躊躇う様子もなく、灼けた鉄片を素手で鷲掴みにする。
「おおおっ!」
固唾を飲んでいた群衆から、悲鳴のような声が上がる。
「よ……っと」
信長は平然とした様子で鉄片を持ち上げると、そのまま神前である神棚へと置いて見せた。
「――皆、しかと見たな?」
信長が開いてみせた掌からは、うっすらと煙がたなびいてはいたが、一片の火傷も見受けられない。
「わあああああっ! 神意は下された!」
一瞬の静寂から一転、周囲を囲む群衆から、歓声が上がる。
(まさか……『そういうこと』なのか……? おのれ……卑劣な……)
その意図するところに思い至った千代は、顔色を変える。そうしている間に、信長は改めて左介の方を見据える。
「さあ、お前はどういうつもりで、池田家の家人を騙った?」
「わ、私は……ま、真に池田家のもので……」
「――それはおかしいわね? 当主のあたしも、貴方のことは見たことが無いわよ?」
そこへ、いつから来ていたのか、群衆の中から、恒緒が顔を出す。
「う、嘘だっ! 私は……そ、そうだ、家の者から咎人を出すことを恐れて、しらばっくれて――」
再びわめき出そうとする左介を信長が制する。
「――ふむ……だったら、今度こそ、お前が運んで見せるか? 自らの無実を証明するために」
信長が、未だ赤く熱を放つ鉄片を指し示した時だった。
「くそっ!」
進退窮まった様子の左介が、突然、踵を返して駆け出した。
「どけどけどけっ!」
腰から抜いた刀を振り回しながら、群衆をかき分けて逃げる左介を、
「ま……待てっ!」
千代は咄嗟に追いかける。
左介の足は予想以上に早く、瞬く間に市を抜け、その周囲を囲む森の方へと駆け出していくが、千代も脚力では負けていない。
(もう……少し……)
徐々に距離を詰め、左介の背中が眼前に迫ったその時だった。
「がはっ!」
突如、呻くような声と共に、前を走っていた左介の姿勢が崩れ、その勢いのまま地面に倒れこんでしまった。
「っ!?」
追いついた千代が慌てて、地面に倒れた左介の体を起こしてみると、その喉は無残に切り裂かれており、鮮血が噴出していた。
「ご、ごぼっ……」
「くっ!?」
咄嗟に傷口を抑える千代だったが、吹き出す血の勢いは止まらず、左介の体からは徐々に力が抜けていく。
(く……駄目か……。ん?)
見ると、完全に力を失った左介の右手から、血に塗れた苦無が滑り落ちた。
(逃げ切れぬと見て、隠し持っていた苦無で、自ら喉を切り裂いたのか? だがそれにしては―)
早くも左介の血の匂いに惹かれてきたのか、傍らを飛ぶ蝶や羽虫を払っていると、
「――死んだの? ソイツ?」
馬に乗った恒緒がやってきた。彼女も逃げる左介の後を追ってきたらしい。
「ああ……」
「そう……当然の報いね」
「っ!」
あくまで平坦な表情で冷徹に言い放つ恒緒に、千代の胸に沸々と怒りが湧き上がる。
「其方がそれを言うのか?」
「……何の事?」
「先程の火起請の際、『紋様術』を使っただろう!」
赤熱化した鉄片を握るのは、並大抵のことではないが、『紋様術』を使えば、大した怪我もなくこなせるだろう。
その上、紋様術はある階級以上の武家、公家のみが行使できる秘術であり、未だ火起請を行なっているような一般の領民には、ほぼ認知や看破は不可能だ。
自らの肉体を強化し大岩を持ち上げることも、鎧の如くに硬化させ、その身を守ることもできる。
信長は『紋様術』を使い、火起請を利用して、身内の不正を誤魔化し、あまつさえ咎を犯した左介をトカゲの尻尾のように切り捨てたのだ。
「――使ったわ。それがどうかした?」
なおも平然とした表情を崩さない恒緒の様子に、
「それでも、其方ら主従は武士か――」
完全に頭に血が上った千代が、声を張り上げようとした時だった。
「恒緒~千代~待ってくれ~」
恒緒に遅れて付いてきたのか、馬に乗った信長が追いついてきた。
だがその声と表情は、先程の裁定の時とは打って変わって力がなく、額には玉のような汗を浮かべている。
「信兄ぃっ!」
一転して表情を変えた恒緒が慌てて、転がり落ちるように下馬した信長の体を受け止める。
「痛ててて……」
「動かないで、あそこで待っていなさい、って言ったでしょ!? ったく、その手、見せてみなさい!」
(な――)
恒緒の声により、差し出された信長の右手には、まだ生々しく灼け爛れた火傷の痕があった。
「その手は……?」
先程の裁定の時には、確かに無かった筈だ。
困惑する千代を余所に、恒緒は懐から軟膏薬が入っていると思しき貝殻を取り出しながら答える。
「……あたしがやったのは、信兄ぃの火傷の見た目を誤魔化しただけ」
先程、無傷のように見えたのは、試し合戦の時と同様、幻惑術だったらしい。
「信長様は紋様術を使わなかったのか? 本当に素手であの鉄を――」
「灼けた鉄を無傷で運ぶなんて、信兄ぃにはそんな芸当出来ないわよ。全く、無茶をして……」
(せ、精神力だけで、あんなことを……?)
「でも、あのままだと、商人の方が泣き寝入りすることになった。それよりはいいだろう?」
「それで! 信兄ぃが! 刀を握れなくなったら! どうする! のよ!」
「ぎゃあっ! つ、恒緒、もう少し優しく!」
「これでも、十分優しくしているわよ!」
傍目にも手荒く薬を塗りたくる恒緒に、信長が涙目で悲鳴を上げる。
その姿はとても、顔色一つ変えずに灼けた鉄を掴んで見せた豪傑とは思えない。
「殿は、この……左介の言が、偽りだと最初から判っていたのですか?」
背後で既に事切れている左介を見返しながら尋ねる。
「痛つつ……あ、ああ、池田家には子供の時分から入り浸っていて、家人の顔も全員見知っているけど、一度も顔を見た覚えはないからな」
「ならば初めからそれを言えば――」
わざわざ灼けた鉄を持つことなどなかっただろうに。
「あ、ああ……その……何だ……」
千代の問いに、信長はしばらく言い淀んでいたが、やがて、
「……千代が見ていたからな」
と、ボソッと呟いた。
どうやら、あの場に自分がいたことに気付かれていたらしい。
「そ、それはどういう……」
千代の更なる問いかけに、恒緒が言葉を継ぐ。
「さっきのこと……もし信兄ぃがあの場で言ったら、貴女はそれをそのまま信じた?」
「そ、それは――」
「しらを切り、家臣の咎を隠し誤魔化している、としか思わなかったんじゃないかしら?」
その通りだ。事実、千代は今の今まで、信長の策だと信じて疑わなかった。
「へへへ……信じてくれたか?」
力なく笑う信長と目が合う。
「まさか、そんなことの為に……?」
新参の家臣からの信を得る為に、自らの手を灼く主君など聞いたことが無い。
「……そういう人なのよ、信兄ぃは。貴女もこのまま仕えるのなら、覚悟しておきなさい」
薬を塗り終わったらしい恒緒は、そう言うと大仰な溜息をついて見せたのだった。
◇
「はっ! とおっ! やああああああああっ!」
この日、千代は自らの住まいである長屋の前で、槍の稽古をしていた。
いつもなら、心を無にして行える日課なのだが、この日に限っては、
(一体、何なのだ、信長という男は……?)
先日の火起請でのことが尾を引いているのか、いつまでも雑念が頭から離れず、集中することができなかった。
試し合戦による敗北という屈辱を呑んでまで、信長に仕え、近づいたのは、その悪しき行状をこの目で確かめるためだ。『命令』にはないが、信長が国の為にならないのであれば、この手で討ち果たすことも辞さないつもりでいた。
実際に目にした信長は、噂通り、いやそれ以上に型破りだった。
傾奇者の恰好で領内を練り歩き、気安く領民と接する、そこに領主の威厳などあったものではない。
(それに、あの時の左介の苦無……)
倒れた左介を起こした時、彼は苦無を逆手に握っていた。
走りながら自らの喉を切り裂こうとするのなら、刃先が上を向く順手の方が圧倒的に行いやすい。
疑問はそれだけではない。
そもそも盗み程度の罪を、主家の権威で誤魔化そうとした男が、追い詰められたからといって、自害を選ぶだろうか?
そういう意味でも、あの時の左介の死は不自然だった。
(まさか、あれすらも……?)
紋様術を使った信長主従の策だった、その可能性もある。
しかし、たかが千代一人謀るのに、そこまでの仕掛けをするだろうか? 陪臣とはいえ人一人を殺めてまで?
『……千代が見ていたからな』
考え事に耽っていた千代の脳裏に、不意に先日の信長の笑顔がよぎる。
(ええい! 何を動揺しているのだ、私は!?)
千代がぶんぶんと首を振って、雑念を振り払うべく、今一度槍を握りしめた時だった。
「千代! 休みなのに精が出るな?」
「と、殿!?」
不意に背後から声を掛けられ、千代が振り向くと馬に乗った信長が、こちらに駆けてくるところだった。
考え事に夢中で全く気付かなかった。
「殿、手の火傷は……」
「ああ、もうすっかり大事ない! 心配かけて悪かった!」
言いながら、信長は笑顔で右の掌をこちらにかざして見せる。そこにはよく見なければ分からないほどの僅かな痕が残るのみで、先日見たような無残な様子は跡形もない。
あの後、幸いにも治癒系の術士による治療が間に合い、その手には後遺症や障害は残らない、ということだったが、もう少し火傷の程度が重ければ危ういところだったらしい。
この戦国の世に、武士が利き手を扱えない、というのは致命的だ。
単に武具が握れない、というだけではない。
身体の欠損、障害というのは、紋様術の制御、精度に大きく影響を及ぼすという。
将来を嘱望されていた術士が、戦場での傷が元で術を扱えなくなった、という噂は度々聞こえてくる。
「それより、これから『鷹狩』に行く! 休みの日に悪いが付いて来てくれ!」
突如押しかけた主君の要請に、千代は飛び上がる。
「し、しばしお待ちを――」
千代は、慌てて長屋へ身支度を整えに戻ろうとするが、
「構わない! そのままでいいから来てくれ!」
「は? しかし――」
反論しようとした千代は思わず絶句する。信長の恰好は、鷹狩の際に頭に被る綾藺笠はおろか、狩装束すら身に着けておらず、秋も深まるこの季節に、着古した木綿の湯帷子姿だ。
(何とひどい恰好を……)
さらに、よくよく見ると、どこぞで相撲でもとってきたのか、その出で立ちはあちこち泥にまみれ、まるで野良仕事に明け暮れるそこらの百姓のようだ。
「な、なりませぬ! いやしくも大名の――」
「……君も『爺』と同じようなこと言うんだな?」
『爺』というのはおそらく政秀の事だろう。
信長もその行状については、幼少のころから散々小言を貰っているらしく、多分に苦笑混じりだ。
「まあいいから、とりあえず付いてきてくれ」
信長はそれだけ言うと、千代が止める間もなく馬に跨り、走り出してしまう。
「愚図愚図していると置いていくわよ?」
声の方へ振り向くと、いつの間に来ていたのか、恒緒が同じく馬で追い抜いていくところだった。彼女もいつもの蝶柄の小袖ではなく、まるで村娘のような粗末な上衣を纏っている。
(まずい……)
あんな出で立ちの二人に付いて行って、自分までうつけものの同類に見られるのは業腹だが、このまま置いていかれてしまっては、傍仕えとしての務めが果たせない。それは生真面目な性質の千代にとっては耐え難いことだった。
慌てて二人の後を追うべく、厩に走ろうとした時だった。千代のすぐ脇を風のように何かが駆け抜けていった。
「なっ――」
一瞬のことだったので、顔も見られなかったが、信長たちの後を追うように走り去るその背中は、どんどんと小さくなっていく。
「くっ!」
もはや逡巡している暇など無い。自らの馬に跨り、後を追い駆ける。
虚を突かれた分、出遅れてしまったが、元々馬術にも達者な千代の事、百を数えるほどの頃合いには、先程の背中が見える所まで追いつくことが出来た。
(足軽……か? だが、あの疾さは――)
そもそも、足軽は戦場で騎乗の武士に徒歩で付いていくのが常なので総じて健脚である。だが、今目の前を走る影の速度は並の足軽のものではない。
馬術に秀でた千代でなければ、こんな短時間で追いつくことなどできなかっただろう。さらに前方を見やれば、かなり先行していた筈の信長たちの姿さえ視認できるほどだ。
馬を叱咤し、さらに速度を上げ、駆ける足軽もどきを追い抜きざま、ちらりとその横顔を窺う。
(まさか猿……?)
矮躯で色黒、大きな目ばかりギラギラ輝く小顔を見て、千代はぎょっ、とする。
何かと奇矯な振舞いの噂が絶えない信長のことだ、そこらの猿に着物を着せて連れ回すことくらいならやりかねない。
だが。
「はあっ、はあ……と、殿~お待ちください~」
と、目の前の『猿』が情けない声を上げ始めた。
どうやら人間だったらしい。
(……と、いうことは信長様の『草履取り』か?)
『草履取り』とは、主君の外出の時に替えの草履を持って、付き従う雑用係だ。
最近では、その名目で男色の相手として寵愛される場合もあるというが、一瞬とはいえ猿に見紛うような容貌だ。信長によほど特殊な性癖でもない限りは、ありえないだろう。
「何じゃ?」
千代からの視線を感じたのだろう、草履取りが声をかけてくる。
「すまぬ。ついお前の……俊足に目が向いてしまった」
流石に猿に見間違えた、とは言いづらい。
「お前は信長様の草履取りで相違ないか?」
「ああ、最近、信長様に仕えることになった。お主は前田又左……いや千代殿じゃな?」
「それがしを知っているのか?」
「ああ、女子だてらに武をもって仕えるとは、恒緒殿といい、お主といい、御苦労なことじゃのう」
「!……何故、その事を?」
「信長様の傍近く仕える以上、小姓や馬廻りの素性程度、知っていて当然じゃろう?」
「だが、それがしが女子であることは……?」
恒緒と違い、千代は普段から男装し、女であることを隠している。幻惑系の術は専門ではないので気休め程度ではあるが、容姿も誤魔化している筈なのだが――。
「いやいや、それほどの『モノ』……、サラシ程度では隠すのは少々――」
「モノ?」
微妙に顔から下方向にズレた視線に、千代は首を傾げる。
「ハハハ! いやそこはほれ、蛇の道は蛇とやらで――お、着いたようじゃぞ」
何やら誤魔化された気がするが、確かに前方を走っていた信長と恒緒が馬を止め、降りようとしている。どうやら今日の狩場が近いらしい。
(あれは………!)
よく見ると、信長と恒緒以外にも、馬に乗った武士らしき二人組がいるのが見えた。
「『サル』! 相変わらず疾いな?」
信長が駆け寄ってきた草履取りに向かい、声を掛ける。
(こやつも……か)
ここにも信長の名前呼びによる被害者がいたようだ。草履取りに密かに同情しつつも、つい先ほど、千代自身が連想したように、この容貌では、信長ならずともそう呼びたくなるのは無理からぬことだろう。
当の『サル』自身は慣れているのか、全く気にした様子もない。
「ふう……いやいや……見失うのではないか、と肝を冷やしました」
『サル』と呼ばれた草履取りは、そう言いながら額の汗を拭う仕草をし、息をついている。
だが、その顔に憔悴した様子はなく、千代が見たところ、まだまだ余裕がありそうだ。
「殿、遅くなり、面目次第も――」
千代が下馬し、膝をついて頭を下げた時だった。
「ふん、女子二人に猿一匹……大名の当主ともあろう者が、相変わらず妙な供を従えていらっしゃるのですな」
千代が顔を上げると、先程、馬上から見えた二人組のうちの一人だった。
年の頃は千代とそう変わらない男は、言葉遣いこそ丁寧だが、そこには信長に対する明確な侮蔑の響きが感じ取れた。
(信兄ぃの弟の信行様よ。信兄ぃと仲はあまり良くない……っていうか、信行様が一方的に敵視している、って感じだけど)
「っ! ははあっ!」
そっと恒緒に耳打ちされ、千代は慌ててその場で平伏する。
(あれが信行様……)
言われてみれば、確かにその端正に整った顔立ちは信長と似ている。
だが、どこか童子のようなあどけなさを残す信長に対し、信行は整った外見や所作の中に、荒々しさが見え隠れしており、言われなければ、どちらが兄か分からない。
(で、その後ろにいるのが、家老の柴田勝家殿。勇猛さでは織田家随一と言われているから、貴女も知っているでしょ?)
(あ、ああ……)
年は四十路前。見るからに歴戦の強者らしい佇まいを見せており、その顔には戦場で負ったと思しき、左から右に真一文字に走る向こう傷がある。
「信行、そう言うなよ。あれでサルも千代も優秀な――」
「身を弁えられよ! それにそのみすぼらしい恰好……それが伝統ある『鷹狩』の装いか!?」
信長の言葉を皆まで聞かず、信行が激高した様子で言う。
確かに二人とも信長とは対照的に、頭には笠を被り、『鷹狩』用の伝統的な狩装束に身を包んでいる。
「伝統ある恰好で、より獲物が獲れるなら、僕だってそうしている。そんなことより、お前が拘っているのは別の事じゃないのか?」
「兄上がその様な有様だから、私や織田そのものまでもが、下々から侮られるのです!」
「結局はそれが本音か?」
「ふん……もうこれ以上は、お話になりませぬな」
信行はそう言うと、ふいっと馬首を返し、そのまま行ってしまう。
「何だ? 一緒にやらないのか?」
「そのような下賤の者と『鷹狩』ですと? ご冗談を! 私は他の場所でやらせて頂きます。行くぞ、勝家!」
「は――」
主君の呼びかけに、勝家は短い返事を返すとともに、信長に一礼をすると、信行の後を追って馬を返して行ってしまった。
「ちぇ……千代たちの何処がいけないんだよ。一緒に狩をするくらい、いいじゃないか」
「どうせ信行様が『鷹』を出してくれれば楽だ、とでも考えていたんでしょう?」
「う」
恒緒の指摘に、信長の表情が一瞬引き攣る。
「そうなのですか? 殿?」
「……うん」
どうやら図星らしい。確かに『鷹』が二羽いれば『鷹狩』は格段に楽になる。
「だったら、たまにはそれらしい恰好をすればいいのよ。信行様が難癖をつけてくることくらい、容易に予想できたでしょうに――」
小言を言う恒緒に対し、信長は気まずそうな表情を見せていたものの、
「――分かったよ、やればいいんだろ」
と、言いながら虚空に手をかざした。
「!」
『鷹狩』は『気』で具現化させた『鷹』を使役して行う。
それは、紋様術を行使できる武士たちの鍛錬であると同時に、『持たざる者』である一般の領民たちへの権威誇示の場でもある。
『紋様術を使える』という事自体が、系譜を重ねた一部の武士のみに限られる現状、それらは一種の特権意識を生むに至っている。
千代は幼き頃より、先祖代々より授かった力をもって、力なき民を護り導いていく矜持を父親から叩き込まれ、それを誇りとさえしていたが、全ての武士がそうである訳ではない。
中には肥大した特権意識の発散の場として、『鷹狩』にかこつけて、領民を虐待する領主もいるらしい。
そして『噂』によると、千代の目の前に立つこの男も――
(もし今日、信長がそのような真似をするようならば――)
千代は新たな決意とともに、その拳を握り直す。
同じ紋様を介するものでも、術者によりその繰り方は千差万別。よって、どのような力を奮うかは実際にこの目で見るまで分からない。
(どうやったかは分からないが、それがしの『梅花雷槍』を制したほどの力の一端、今こそ見極めさせて頂く――)
千代が固唾を呑んで見守る中、信長の励起された気が、一本だけ立てられた人差し指へと集中し、虚空から一羽の鳥が――
「へ?」
千代の口から腑抜けた声が漏れてしまったのも無理はない。
どんな怪物が出てくるのか、と見守っていた信長の指先から生み出されたのは、せいぜい握り拳ほどの大きさの小鳥でしかなかったのだ。
「恒緒~、やっぱり無理だよ」
信長がため息交じりに呟くと、恒緒が苛ついた声で
「情けない声出すんじゃないの! 仮にも織田家の当主なんだから、もう少ししゃんとしなさいよ」
「本家は清州の方だよ」
「この乱世にそんなこと言っていられないのは、信兄ぃだって分かっているでしょ? ほら、千代が呆れているわよ?」
「なっ?」
「はあ……信兄ぃったら、当主の癖に『鷹』一羽まともに出せないのよ? 情けないでしょ?」
「い、いえ! 決してそのような――」
乳兄妹とはいえ、恒緒の物言いは主君に対するものとは思えないものだ。だが、不意に話を振られた形の千代は咎め立てすることもできず、慌てて首を振ることしかできない。
そこへ。
「――何故、一部の限られた者しか、その『紋様術』とやらを使えないのでしょうな?
唐突にサルが口を挟んできた。下人である草履取り風情が、主人である信長たちの会話に割り込むのは相当に不遜な行為と言えたが、
「ん? どういうこと?」
信長はおろか、恒緒も気にした様子もない。
「儂は中村の百姓の出で、詳しい事情には疎いのですが、 信長様のように『鷹』を出せる百姓や町人、いや足軽ですら聞いたことがございませぬが?」
(まさか、この男――)
サルの言葉は、空気を読まぬ下賤の者の戯言であるようで、その実、責められていた信長と返事に窮していた千代への助け舟になっている。
サルの生来の気質もあるのだろうが、先程の恒緒の歯に衣着せぬ物言いから見ても、これがこの主従の気風なのかもしれない。
「ふむ……どうだろう? 恒緒、千代もサルも急に駆け付けたばかりで疲れているだろうし、休憩がてら――」
「――分かった。少しだけ説明してあげる」
溜息をつき、如何にも不承不承といった感じで、恒緒はその場で腰を下ろす。恒緒自身、勢いで信長を責めてしまった、という意識はあったのだろう。意外にも、あっさりと矛を収める。
「お飲みになるか?」
千代も倣って腰を下ろしたところで、サルがすかさず瓢箪を差し出してくる。
よく見ると、信長も恒緒も自前の瓢箪をしっかり腰から下げている。急な召し出しだったとはいえ、ほぼ着の身着のままなのは自分だけのようだ。
「……かたじけない」
千代は心中で恥じ入りながら、瓢箪を受け取り、中の水を一気に呷っていると、気を取り直した様子の恒緒が解説を始める。
「そもそも『紋様術』が代々伝わる血筋や系譜を基盤とした術式、というのは知っているわね?」
そんな状態からの転機は、今から三百年ほど前に起きた大乱。
日ノ本の権威の象徴たる『皇主』の次期継承権を巡る争いが、日ノ本ほぼ全ての勢力を南北へと二分する戦乱へと発展した。
皇都を中心にしたことから、後に皇都大乱と呼ばれることになるこの戦乱は、全国に飛び火し、武家、公家共にそれぞれ、連綿と研鑽してきた己が紋様術を行使し、相争うことになった。
それまで、大なり小なり術を行使できる者は各階層に存在してはいたのだが、百五十年もの長きに渡る戦乱で、多くの才ある術士たちが命を落とし、紋様術における貴重な知識や法具はその多くが失われていった。
元々、紋様術は発現自体に特殊な才能が必要とされる。後継者にその秘儀を完全に伝えられないまま、散っていった者も数多い。
結果、戦後百数十年ほどの間に、その技術は一定以上の階級の者のみが知る、文字通りの秘術となっているのが、現状なのだ。
(それだけに、かつての如く術を行使できる者は、名将として各地で名を馳せている訳だが――)
「その術、儂らの様な百姓や足軽などにも、使えるようになったりせんのですか?」
「紋様術は血統と系譜が要だから……難しいかもしれないわね……。皇都内乱以前なら、何らかの文書や法具があったかもしれないけど」
サルの問いに、恒緒は自らも腰に下げていた瓢箪の水で喉を湿らせつつ答える。
「例えば……千代の『梅鉢紋』は、雷神として知られる菅原道真公に連なるもの。前田家は道真公の末裔と言われているから、その加護を受けた千代は体に刻んだ紋様を通じて、雷を操れるという訳ね」
最初は面倒そうに話していた筈の恒緒の顔が、どこか満更でもなさそうに見える。元来、解説好きな性格なのかもしれない。
「中には、『家紋』に依らない、独自の紋様術を編み出し『旗印』、『馬印』として発現させる武将もいると聞くけど……ここ尾張では、柴田勝家殿がいい例ね。千代も知っているでしょ」
「あ、ああ……」
思いがけず、不意に出た名前に千代は息を呑みつつ答える。
(よもや……気取られたか……?)
内心の動揺を悟られないよう、そっと恒緒の方を窺うが、当の本人は特に気にした様子もなく解説を続ける。
「――まあ、それも長きに渡る家の系譜や、個人の才能という背景があったからだし……」
「そうですか……残念ですなあ」
そう言う割に、サルの顔に落胆の顔は見られない。
やはり、信長や千代の窮余への助け舟の為に振った話題だったのだろう。
だが。
「だというのに、ウチの信兄ぃときたら……『五大紋』が泣いているわよ――」
「うぐ――」
恒緒から再び矛先を向けられ、信長が苦しそうな顔を見せる。
紋様術はその属性によって『木』『火』『土』『金』『水』の五系統に大別される。
織田家に伝わる紋様は、その中でも『五大紋』の一つと称される『木瓜紋』。その中でも『木』属性の最高峰の一つに位置付けられている。
由緒正しさと格付けでいえば、日ノ本屈指と言えるが、それを繰る才が無いのであれば持ち腐れもいい所だ。
(だから、信長は木瓜紋ではなく、永楽銭を旗印にしているのか?)
梅花雷槍を霧散させたのが、信長の編み出した新たな術式だとすれば説明はつく。
だがそれほどの才がありながら、自らの家の紋様術を扱えない、ということが果たしてあるのだろうか? ましてや『鷹』さえも満足に出せないようなことが?
「いいよ……今さら取り繕おうなんて思わない」
信長は拗ねたような顔でそう言うと、指先を振り、頭上に滞空させていた小鳩程度の大きさの術式鳥を消してしまう。その様子はとても演技のようには見えない。
(そういえば、火起請の時に千代が『信兄ぃにはそんな芸当出来ない』と言っていたが……)
自らの手を火傷から守らなかったのも、あえて行わなかったのではなく、そもそも『できない』ということだったらしい。
(信長が『鷹狩』を行えぬのならば、あの噂は何だったのだ?)
肩透かしを食らった形の千代だったが、領民への虐待が行われていないのなら、それに越したことはない。帰路に就くべく、千代が立ち上がり、背後の馬に跨ろうとした時だった。
「それより、早く今日の『狩』を始めよう」
「ふう……仕方ないわね」
(え?)
二人の言葉に慌てて振り向く。たった今、『鷹狩』は中止になったのではなかったのか?
「はっ、『狩場』の目安は既につけております」
サルまでもが、何事もなかったかのように、信長に狩場の案内をし始める。
「うん……よし、大体分かった。サル、今日はこの格好で問題はないか?」
「もう少し土臭くてもよろしいかと……そちらの千代殿は、まだいささか小奇麗過ぎますな」
「は?」
「そうか、じゃあ頼むよ」
「ははっ!」
「え――」
いつの間にやら、眼前まで接近していたサルによって、突如何かを顔面に思い切り押し付けられた。唐突に名前を呼ばれ、虚を突かれていた千代にはそれをかわす暇もない。
「ぶほっ!」
目の前が真っ黒に染まる。
「なっ……何を――」
「いましばらくのご辛抱じゃ」
堪らず距離を取ろうとする千代に構わず、サルはなおも手に握った何かを顔に塗りつけてくる。
(こ、これは泥?)
口内に侵入してきた苦みに顔をしかめながら、千代はなおも顔面に向かって泥を塗りつけてくるサルを引き剥がして、後方に跳ぶことで距離を空ける。
「何をする!?」
「まあ、こんなものじゃろ」
サルもそれ以上、深追いはしてこないが、何やら満足げな表情なのが腹立たしい。
「くくく……千代、なかなか………似合っているよ?」
腹を抱えて笑う信長に、千代は慌てて傍らを流れる沢に顔を映してみる。
(くっ――)
揺れる水面に映る顔はよく見えないが、所々に泥がこびりつき、酷い有様になっているのは確かなようだ。
「ああ、そのままそのまま。洗っては駄目じゃ」
顔を洗うため、沢の水を掬おうとしたところをサルに制止される。
ふと気付けば、恒緒はおろか信長まで、その顔に泥や土埃を自ら塗り付けている。
瞬く間にその場にいる全員が土仕事を終えたばかりのように、あちこち泥だらけになった。傍らの馬や腰の刀さえなければ、そこらの百姓と変わらない。
「ほ、本気でこのまま狩をなさるおつもりですか?」
「ああ、そうだ。ちゃんと弓も持ってきているぞ」
(そういう問題ではない!)
信長が取り出した弓は、戦場で武士が使うような強弓などではなく、そこらの民家にでも転がっていたような粗末なものだ。
「か、仮にも武士が、このような格好で――」
「それはもう聞いた。あ、あと、『そいつ』は置いていってくれ」
信長はそう言いながら、千代の手にしていた朱槍をひったくり、腰の刀を鞘ごと引き抜いて、近くの民家の軒先へと放り投げてしまう。
「な――」
「それから、紋様術もしばらくの間は禁止な。気も平素のままにしておいてくれ」
武器も紋様術もなしにどうするというのか。千代が気色ばんで口を開こうとしたが、
「こんなものは、ここいらの狩には大して役に立たない。まあ、いいから黙って付いてきてくれ。面白いものを見せてやるから」
信長は意味ありげにそう言うと、サルに示された『狩場』へとさっさと向かってしまったのだった。
◇
そして数刻後、つるべ落としと呼ばれる秋の陽がまだ落ちる前。
(まさか――)
兎、雉、鴨、鹿――
目の前に広げられた茣蓙には、獲ったばかりの大量の獲物が所狭しと並べられていた。
千代自身、『鷹狩』を行なったことは幾度もあるが、あくまでもそれは鍛錬の一環としてだ。一度にここまでの獲物を獲ったことはかつてない。
(しかも、道中、大した労もなかった……)
獲物を獲る際にも、あの古びた弓矢以外には、変わった罠を仕掛けた訳でも、ましてや特別な術を行使した訳でもない。
本職の狩人でも、こんな短時間にこれほどの成果を上げることは難しいのではないだろうか?
そんな疑問が顔に出ていたのだろう、
「ここいらの動物は勘と頭が良くて、武士が近づくと早々に逃げてしまうんだよ」
信長が新たな獲物を茣蓙に広げながら答える。
「では何故……?」
本日の獲物はそんな素振りなど全く無く、易々と弓矢の餌食になっていたように思う。
「アイツらは、僕たちの武器や紋様術の気配を察知できるんだ」
「!」
戦場で使うような刀槍や弓矢を置いていって、古びた弓を持ってきたのはそういう理由らしい。
「ここいらじゃあ、もう何年も戦火が絶えないからな……。あいつらも多分、本能で悟っているんだろう。『奴らに近づくと危険だ』って」
確かにここ尾張は、東西を強豪勢力である斎藤氏と今川氏に挟まれていることもあり、ここ数十年、小競り合いを繰り返している。つまり、信長はそんな動物の能力を逆手にとった訳だ。
(だが、そんなことの為にこんな格好を!?)
狩人や食い詰めた民百姓が生活の知恵、として行なうのであれば、まだ理解できる。だが、信長は仮にも大名であり、食うに困ることなどない筈だ。
確かに信長の策によって、本日の狩は大漁だった。だが本来、紋様術の鍛錬の場である『鷹狩』において、大切なのは獲物の多寡などではない。
千代からすれば『鷹』一羽さえ満足に出せていない、という意味で、本日の信長の行動は不可解でしかない。
(まさか、紋様術をうまく扱えない腹いせをたくさんの獲物を殺めることで晴らして……?)
そう考え、改めて獲物を検分した千代だったが、
(いや、違う)
すぐに自分の考えを打ち消す。
信長は獲物を嬲るような追い込みは一切しなかったし、獲物はほぼ急所を射抜く一矢で仕留めている。極力苦しませないような配慮、とまでは言わないが、鬱憤を晴らす手段としてはあっさりし過ぎている。
(それに――)
動物たちの事を話す信長は、どこか寂し気な表情をしており、その殺生自体を楽しんでいるようにはとても見えない。
「どうした、千代?」
獲物を検分していた千代の背後から、信長が声をかけてくる。
「い、いえ、これだけの獲物、どうやって運ぼうかと思いまして」
とてもじゃないが、千代たち四人で運べるような量ではない。乗ってきた馬を使うにしても、荷車もない状態では大して積むことなどできないし、残りをサル一人に担がせるのも無理がある。
「ああ、それならもう使いを出して迎えを呼んである」
(いつの間に――?)
そう言われて辺りを見回すと、いつの間にかサルの姿が見えない。
「お~い!」
遠くから呼びかけるような声に振り返ると、サルが何人か男たちを連れ、こちらに向かってくるところだった。
てっきり、獲物を運ぶ為に城から小者衆を連れてきたのかと思っていたが、
(あれは……?)
サルを先頭にこちらに向かってくるのは、どれも見覚えのない顔であるばかりか、腰には刀、手には槍と、その風体もどこか荒々しい。
(まさか図られたか――?)
思わず身構えた千代だったが、信長はそれを制するように、
「そういえば千代は初めてだったな。今宵はこの後、寄る所があるんだ」
そう言うと、いつもの邪気のない顔で笑って見せたのだった。
◇
「おお、若っ!」
「六の字、久しぶりだな、息災か?」
「それだけが取り柄みたいなもんでさあ! ガハハハ!」
ここは狩りをしていた場所からほど近い山奥の集落。
案内されたのは、その中でも、高台に建てられた一際大きい館だった。だが、ここがただの家ではないことは一目見れば分かる。
屋敷の周りをぐるりと囲んでいるのは、簡易的ながら立派な空堀であるし、塀には武者隠し、物見櫓まで備えている様は、ほぼ『砦』と呼んで差支えないだろう。
加えて信長と親し気に話している、主人と思しき髭面の大男。
農作業だけでは培ったとは、到底思えない屈強な体格、体中に走る夥しい刀傷、矢傷の痕。どう見ても真っ当な百姓名主ではない。
「何よりだ。あ、持ってきた獲物は今日の成果だ! うっかり獲り過ぎちまったんで、皆で食ってくれ」
と、信長は運ばせた獲物を惜しげもなく渡してしまう。
「おお、こんなに……いいんですかい?」
「ああ。そもそもお前らのやり方で獲ったんだ。遠慮するな」
どうやら狩りの方法は、『六の字』と呼ぶこの男から学んだらしい。
「へへへ、こりゃどうも! お、そうだ。取り急ぎ、若のお耳に入れたいことが――」
「ん? じゃあ、あっちで話すか」
そういって二人して奥の方へ引っ込んでしまう。
(これは……どういうことだ?)
「納得がいかない、って顔しているわね?」
いつの間にか傍らに立っていた恒緒が、千代の心中を見透かしたかのように言う。
「信兄ぃは狩で沢山獲物が獲れると、こうやって配って回っているのよ」
「あの男は……何者なんだ?」
「ああ、アイツは蜂須賀小六正勝よ」
「ここらでは有名な地侍ではないか!」
一応、この辺りはぎりぎり織田家の勢力範囲ではあるが、地侍たちは特定の主人を持たず、報酬さえ受け取れば、どんな仕事でもする地元勢力だ。つまりいつ何時、敵に回ってもおかしくはない。
「蜂須賀は、殿に気付いていないのか?」
思わず小声になる千代だったが、恒緒の返答はあっさりしたもので、
「サルの伝手を通じて知り合って……こちらから身分は明かしてはいないけど、バレていても不思議はないわね」
「っ――」
千代の背中に冷たいものが走る。
(それではいつ攫われてもおかしくない……!)
現に織田家も松平家の嫡男を謀略と金で強奪し、人質としている。同じことを信長がされないとは限らないのだ。
信長の敵は数多い。尾張国内ですら、最近台頭してきた信長を快く思わない勢力だらけだ。人質としても格好の材料だろう。
先程、信長は小六と連れ立って屋敷の奥の方へ行ってしまったが、一人で行かせてしまって本当に大丈夫だっただろうか?
そんな緊張がだだ洩れだったのだろう、
「そんなに、きょろきょろしない! まあ、緊張するのも分かるけど、ここの連中もそんなに馬鹿じゃないし、あの様子を見てみれば大丈夫なことくらい分かるでしょう?」
「む……」
心中を見透かされた形の千代は言葉を詰まらせる。
「信じられる? 仮にも大名家の当主が直接、地侍と気安く付き合うなんて……でも、信兄ぃは相手の身分なんて、全く気にしない。それどころか、『皆が支えてくれるから今の僕があるんだ』とか言っている」
「だが、あのような恰好や振舞いは領主として示しが――」
「でも、今日こうして獲物は獲れたし、領民や地侍たちからは慕われているわよ」
「……」
確かに、それは仕えてまだ日の浅い千代にもよく分かった。
「まあ本人は『服装で示せる威厳なんかに、何の価値があるんだ』とか言って、信行様や主だった家老たちからは毛嫌いされている。だからと言って、年中あの調子でも困るのだけどね」
恒緒はそう呆れたように付け足しつつ、その言葉にはどこか童の悪戯を慈しむ母親のような響きがあった。
そういえば、先日出会った百姓たちも草履取りのサルも、あんまりな綽名で呼ばれていたにもかかわらず、領主である信長相手に苦笑交じりの笑みを浮かべる余裕さえあった。
その顔には信長に対する侮りなどではなく、敬愛と安心が表われていなかったか?
思い返せば、信長はその時その時で、相手に合わせて言葉遣いや振る舞いを大きく変えている。今も地侍の荒くれどもに合わせてか、平素より砕けた態度で接していた。
『殿様』であれば、相手に合わせる必要などなく、もっと尊大な態度を取っても差し支えない筈なのに――。
今まで考えようとしなかったことが、後から後から思い起こされる。
(そもそも、それがしは何故、このようにムキになっている?)
千代の『目的』からすれば、信長がどんな行動を取ろうと関係ない。むしろ暗愚であればあるほど話が早かった筈だ。
「――色々とすまないな、また獲物が獲れたら持ってくる」
「へへっ! 楽しみにしていますぜ?」
そうこうするうちに、話を終えたらしい信長が、小六と共に奥から戻ってきた。
「殿――」
「悪い、千代。今日はもういいから、先に帰っていてくれ」
話しかけようとした千代だったが、それを一方的に遮る形で告げられる。
「し、しかし、それでは務めが――」
「いいから今日は帰れ。これは主命だ」
「は――」
先程までとは一転して、有無を言わせない真剣な信長の顔に、千代は黙って従うほかなかった――。
◇
時は少し遡り、信長たちが狩りで獲物を追いかけていた頃。
信長と別れた信行もまた、山一つ隔てた別の狩場で『鷹狩』に臨んでいた。
「ふん……」
本来、『鷹狩』は勢子などに追い立てられた獲物を、自らの術で生み出した『鷹』でもって仕留め、狩り立てることで行う。
信行のその所作は、信長とは対照的に折り目正しい装束とも相まって、一見理想的な『鷹狩』の光景に見えた。
ただ一点を除いては。
「ひ……ひいいいいいい!」
野山に男の悲鳴が響く。
何と、勢子役である信行の家来に追い立てられてきたのは獣の類ではなく、一人の若い男だった。かなりの長時間走り続けてきたのか、その息は荒く、体中にはいくつもの傷が刻まれていた。
「……蔵人、そろそろ頃合いか?」
信行は傍らに控える小柄の男に声をかける。
「はっ。よろしいかと」
信行からの問いに、唇を歪めながら答えた男の名は津々木蔵人。年の頃は信行と同じくらいと、まだ年若いにも拘らず、その紋様術の腕から、家老である柴田勝家に並ぶ側近にまで上り詰めていた。
程なくして、勢子に追い立てられた男が、傷だらけのその身を引きずるようにして、信行の前に駆け込んできた。
「の、信行様……お、お許しを……」
「黙れ。そちは無礼にも、我が殿の前を騎乗のままで素通りしおった。その罪は万死に値する!」
「ひっ――」
蔵人の言葉に男は委縮し、その場にへたり込んでしまう。それを見て、蔵人は満足げに笑みを浮かべると、
「だが、我が殿は慈悲深い。今から百数えるだけの猶予をやろう。我らもその間は追い立てぬ。その隙に逃げ果せれば、此度の罪は不問に付すと仰せだ」
「ま、真でございますか?」
思わぬ言葉に男が一瞬顔を輝かせる。大分疲労しているとはいえ、先程の逃げ足を見る限り、足腰には自信があるのだろう。
「ああ、分かったらさっさと駆けろ。殿のお気持ちが変わらないうちにな」
「!」
蔵人の言葉に、男はそのまま物も言わず、駆け出して行った。
「ふふっ……蔵人、今のは何だ? 私がいつ、あのようなことを申し付けた?」
「ああ、これはしたり。この津々木蔵人、殿の意を汲んだつもりでしたが……まだまだ精進が足りませぬな。お許しを」
蔵人はそう言うと、殊更大げさに慇懃な礼を返して見せる。
「くくく……」
主従が揃って邪悪な笑みを浮かべた時だった。
「――殿」
どこかから戻ってきたらしい勝家が、馬を駆けてやってきた。
「勝家、何用じゃ? そなたには彼奴の住む守山城下を悉く焼き払え、と命じた筈だが?」
「……それは我が手の者を既に向かわせました。拙者もこれからすぐに追いつく所存」
「そうか。私に無礼を働く者がどのような末路を辿るか、存分に思い知らせてやれ」
「はっ。……殿、我が『子飼い』から知らせが」
「ほう? どうじゃった?」
「信長様は『鷹』を出すことが出来ず、百姓のような格好で狩を始めたとのこと」
「ははは、やはりな! あのような無能なうつけが、織田家当主であることがそもそもの間違いなのだ!」
報告を聞いた信行が嘲笑うような声を上げる。
「そうそう、蔵人。例の男の始末は?」
「はっ! 面目次第もございませぬ、あやつめ、見込み以上に小物で……糞の役にも立ちませんでしたな」
「まあよい。所詮は数ある策の一つに過ぎぬ。奴自身も、自らが踊らされていたとは、あの世にても気付くまいて。よもや、我らの差し金である証左など残しておらぬであろうな?」
「万事抜かりなく」
唇を歪ませる蔵人に、信行は満足そうに頷くと、
「……よし、蔵人よ! 次の策、早急に進めよ!」
「殿! お待ちください」
蔵人に何事かを命じようとした信行の言を勝家が中途で遮る。
「勝家殿、僭越ですぞ。殿がお決めになった策に、異を唱えるつもり――」
「貴様は黙っておれ!」
「っ!」
勝家は口を挟んできた蔵人を一喝して黙らせると、
「殿、そのような策など用いずとも、我が武で――」
下馬した上で、その場に跪き、なおも言上するが、信行は聞こえていないかのように、
「蔵人……あと如何ほどだ?」
と、蔵人に問い掛ける。
「は……これはしたり。無粋な横槍のせいで、些か刻限を過ぎてしまいましたな」
そう言う間にも、逃げる男の背中は既に親指ほどの大きさまで小さくなっている。
「勝家殿、この不始末、如何なさるおつもりか?」
「……若造が――」
先程怒鳴りつけられた意趣返しにか、皮肉たっぷりな笑みを浮かべる蔵人に、勝家がこめかみに青筋を立てた時だった。
「もうよい」
信行はそう一言で二人を制すと、
「……たとえ百の刻限が千になろうと変わらぬ。ならば、その生の実感を少しでも長く味あわせてやるのも慈悲であろう? それに……追い立てるのは『我ら』ではない」
「まさか……信行様っ!? お止めください!」
勝家が止めるのも聞かず、信行はその穏やかな口調とは裏腹の嗜虐的な笑みを浮かべると、おもむろに指先で天を指す。
次の瞬間、その手甲に刻まれた木瓜紋が輝き出した。
「――――」
どこからともなく、空気を引き裂くような甲高い鳴き声が響き、信行の指先から放出された光が、猛禽の姿を象っていく。
数瞬後には信行の手甲に、金色に輝く大鷹が留まっていた。その姿は一般的なそれを優に凌ぎ、翼を広げれば、大の大人の体躯すら丸ごと包み込んでしまえそうなほど大きい。
『――蹴つまづく富士の裾野や木瓜の花』
「がっ!」
信行の唇が何事かを紡いだ瞬間、遥か彼方を全力疾走で走っていた男が、前のめりに倒れ込んでしまう。
「な、なんじゃ、これは……?」
男の両足にはいつの間にやら、植物の根が幾重にも巻き付いていた。男は慌てて引き千切ろうとするが、根はまるで意思があるかのように、男の足を締め付け、その拘束が解ける気配は一切ない。
これを逃す信行ではない。
「……ゆけっ!」
大鷹は信行の命に従い羽搏くと、そのまま凄まじい速度で飛び立ち、男の背中に一瞬で追いつく。そして――
「がっ!!!」
大鷹の鋭い爪が男の背中を易々と貫き、そのまま地面に叩き伏せる。
「お、お慈悲を――がああああああああああああああああ!」
男の悲痛な叫び声が響くが、周囲に信行たち主従の他には、猫の子一匹の気配すらない。
信行が大鷹を顕現させた瞬間、その気配を感じたのだろう、獣たちはいち早くこの場から逃げ去ってしまったようだった。
「た、助け……痛いいたいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい――」
男の姿は大鷹の翼にすっぽりと覆われ、既に見えない。代わりに漏れ聞こえてくる声が次第に小さくか細くなっていく。
やがてその声が完全に聞こえなくなったところで、信行が指を鳴らす。
すると大鷹はたちまち虚空に掻き消え、その跡にはもはや原型が何であったのか分からなくなった、赤黒い肉塊が残るばかりだった。
信行はそれを満足気に一瞥すると、
「ククク……『鷹』の強さは紋様術の強さの表れ。織田家の当主に相応しいのは、あのような無能ではない……この織田信行よ!」
次第に勢いを増す秋風が、信行の哄笑と、立ち込める鉄錆の匂いを辺り一面に伝播させていく――。