序章
『魔王』
自らをそう称した男がいた。
男はその恐るべき力で、時に屍山血河を築き上げながら、全国の過半を一代で支配下に治め、仇敵からはまさに『魔王』の如く恐れられた。
だがその一方、身内や民からは、さながら『現人神』のように崇められ、愛された。男の死後、幾人もの人間がその遺志に殉じたという――。
◇
「はああああっ!」
又左の槍が唸り、眼前まで迫った敵を薙ぎ倒す。
これでもう何人、いや何十人目になるだろうか?
又左は配下の足軽を率いつつ、戦場を駆けていた。
その間、幾度も敵方の軍勢に取り囲まれるものの、又左自らが振るう皆朱の長槍が打ち崩し、その勢いを止めることは能わない。
(これで……本陣まであと少し……!)
今、又左が立っている場所は草深き草原の小高い丘の上。そこからやや見下ろすような位置に、相手方の本陣を示す旗印が風に棚引いているのが見えた。
(よりにもよって、武士が銭などを自らの旗とするなど……浅ましい)
又左は永楽銭を意匠とする旗印を忌々しげに一瞥すると、
「これより本陣に突撃するっ! はあっ!」
周囲の配下に声をかけながら、又左は自ら先陣を切って、丘を駆け下り始める。
敵方の兵たちが気付いたのか、その行く手を阻むように展開してくるが、本陣近くだというのに、その数は決して多くはない
(急襲が功を奏したか……もらった!)
好機と見た又左は体内の『気』を励起させる。その瞬間、左肩に刻まれた『紋様』である梅鉢紋が輝き始める。
「梅花雷槍!」
裂帛の気合と共に又左の槍が突如、雷の気を帯びる。雷神となった菅原道真を祖とする、前田家のこの『紋様術』は、又左が自らの槍術と共に絶対の信頼を置く絶技だ。
殺到する足軽を一度に幾人も薙ぎ払い、蹴散らして、遂に又左は敵将の待つ本陣へと到達した。
「前田家当主、又左衛門利家見参!」
陣幕を裂き破り、又左は目の前の敵大将に槍を向ける。
「……流石は『槍の又左』だな……」
敵兵に本陣に踏み込まれたというのに、落ち着き払った声で返事が返ってきた。
湯帷子を片肌脱ぎで着、腰には朱鞘の太刀のほか、火打ち袋や瓢箪などをぶら下げるその様は、戦場の将とはとても思えない。当世流行りの傾奇者の風貌だ。
だがその顔立ちは奇抜な服装とは不釣り合いに、どこか童子のような幼さを残しており、その唇に浮かべる笑みも、どこかあどけない。
「……もはや勝敗は決した。お覚悟を」
その様相に一瞬虚を突かれたものの、又左は改めて帯電する槍の穂先を向ける。
だというのに、敵将は依然、床几に腰掛けたまま、悠然としている。
「ご自身のお立場、分かっておられるのか?」
又左は苛立ちながら問いかける。既に逃げ去ってしまった後なのか、敵将の周囲には旗本ばかりか、小姓の姿さえない。
「そなたも一人ではないか」
彼の言う通り、本陣に突入したのは又左ただ一人だ。どうやら単騎で突出し過ぎてしまったらしい。
敵将は落ち着き払った様子で、自らの旗印でもある永楽銭を指先で弄んでいる。
「それがしを愚弄されるおつもりか……?」
静かに怒りを燃え上がらせた又左が、さらに一歩を踏み込んだ時だった。
キイイイイイイン
唐突に、敵将が指先で永楽銭を中空に弾いた。
次の瞬間。
又左の槍に帯びていた雷の気が一瞬で霧消した。
(なっ……)
こんなはずはない。未だ又左の『気』は充実しており、『紋様術』が途切れる筈など無い。
(か、構うものか!)
雷に頼らずとも、もはや敵将はもう少しで突ける間合いにある――そう判断した又左が槍を握りこんだ時だった。
「――『五色鱗粉・黄』」
どこからともなく響いた声と共に、突如辺り一帯に数十匹もの黄色い蝶が現れ、一斉に羽ばたき舞った。
「っ! 『紋様術』か!?」
気付けば、又左は数十人もの足軽たちに囲まれ、四方から槍の穂先を突きつけられていた。
おそらく敵方の術者により姿を隠されていたか、自分が幻覚を見せられていたのだろう。
囲みを破ろうにも、足軽たちがその手に持つ槍の長さはおよそ三間半。又左のものより、さらに一間あまりも長い。下手な動きをする前にこちらが突かれてしまうだろう。
頼みの綱の梅花雷槍で切り抜けようにも、肩に刻まれた紋様の輝きは未だ鈍く、その槍に雷が宿る気配はない。
「く……もはやこれまで」
どれだけ突かれようと構わない。一暴れしてみせようと、又左が槍を振り上げようとしたときだった。
「前田又左衛門利家!」
「!」
その童顔からは予想外の大音声で突如名前を呼ばれ、又左はビクッ、と身を竦ませ、不覚にも槍を取り落す。
「もはや勝敗は決した」
「――くっ」
先程の又左のそれをなぞるかのような、敵将の言葉に又左は内心歯噛みする。そうしている間にも、敵将はゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
「…………」
慌てた様子で止めに入る足軽や小姓を手で制し、なおも近づいてくる敵将との間はもはや数歩分しかない。又左が腰の刀を抜き払い、斬りかかるに支障はない。
(ここで……討ち取るか……?)
当然、そのようなことをすれば、確実に又左の命もないが、元より覚悟の上だ。又左はまさに『その為』にここにいるのだから。
予想外の好機に、又左が刀に手を伸ばそうとした時だった。
「……感服した! まさに噂以上の武勇、見事であった!」
唐突な賞賛に又左が虚を突かれる。
その顔には勝者の愉悦も、敗者に対する侮蔑も一切感じられない。純粋な賞賛の意だけが感じられた。
「それだけに口惜しくもあろう。だが堪えてもらえぬか? 我もこのような『試し合戦』で無益な血は見とうはない」
傍の足軽たちからすれば、模擬戦である試し合戦での敗北に震える又左を窘めているように見えるかもしれない。が。
(悟られたか!? だが、どういう……つもりだ?)
自らの『真意』を読まれたかと、又左が身を強張らせる。だが、そう言いながら敵将はさらに距離を詰めてくる。もはやいつでも組み打ちに持ち込める距離だ。
今は戦国乱世の世。目的の為であれば親兄弟さえも騙し、裏切ることも珍しくない世だ。『模擬戦たる試し合戦の場だったから』などとは言い訳にもならない。ましてや敵将は又左の『目的』を看破したのではなかったのか?
混乱する又左をよそに、敵将は思わぬ言を告げる。
「我に仕えよ」
「は?」
「我に仕え、その武を活かせ」
自らを殺そうとしたことが分かっていながら、又左を仕えさせようとする敵将の真意は読めない。
だが。
「は……ははっ!」
このままでは自分は確実に討ち取られる。目の前の敵将を道連れにできるのなら、それも厭わないが、万が一にも討ち損じる可能性があるのなら、ここは次の機会を待つべきだろう。
「うむ……で、あるか」
敵将は満足げに頷く。
(今は膝を折るが、いずれ――)
そんな内心を知ってか知らずか、敵将は平伏する又左にそっと近づき、肩に手を置きながら、周囲に聞こえないよう、そっと耳打ちする。
「――で、諱は何?」
「はっ、『千代』と申しま――」
思考の虚を突かれた形で、思わず『本当の名』を答えてしまう。
「あ、いや、あの――」
慌てて顔を上げる又左に、
「やはり……君は女子だろう? その身、今少しばかり大事にね」
(なっ――)
彼女が思わず顔を上げると、口調を一転させた敵将、尾張国那古野城城主『織田信長』は、あどけない微笑みを返して見せたのだった――。