君はいつでも
男一人でデートスポットに来るのが趣味だなんて、格好悪いとはわかってる。
別にイチャイチャしてるやつらを見て楽しいわけじゃない。
俺と同じ目的で、つまりは出会いを求めて一人でやって来る女の子だって、いるかもしれないだろ。
今日は淡水区にやって来た。
台北駅で50元のトークンを買い、地下鉄に乗り、約40分かけてやって来た。我ながら暇人だと思う。
漁人碼頭を男一人で歩く。
天気はよくて、こんな暑い夏の日に、日陰の少ない漁港なんかに来るやつらはいないかもなと思ったが──いやがる、いやがる。真っ昼間から、イチャイチャするカップルどもが。
この間行った貓空の動物園やその前に行った幽玄なる湖 日月潭は家族連ればっかりだったが、さすがは恋人たちの聖地。赤いハートの情人橋がお目当てか?
こうカップルばっかりだとさすがに目立つよな、ぼっちの俺。
すれ違うカップルどもに祝福の笑みをお見舞いしながら歩いていたら、さすがに虚しくなってきた。
逃避するように人気のないところでコンクリートに座り、黑松沙士を飲みながら、一人海を眺めていると、女の子が飛び出してきた。
誰もいないと思っていたのに、突然、その女の子は、俺の目の前に飛び出してきたんだ。
夏の暑さにぼうっとしていたので、いるのに気づかなかっただけかもしれない。俺が気づいた時には、白いワンピースに白いハイヒールを履いた白いその女の子は、軽やかな靴音をコンクリートに響かせて舞い降りていた。
羽根をたたむように、長い黒髪がはねるのを落ち着かせて、俺のほうを横目で見ると、女の子は楽しそうに言った。
「あっついね!」
中国語はとても流暢だったけど、台湾人じゃない気がした。大人しそうで、目つきが優しそうで、ハイヒールなんか履いていて──
「日本人?」
俺は聞いた。
彼女は首を横に振り、答えた。
「ううん。宇宙人」
そしてすぐに俺に背を向け、一人で歩きだした。
☼ ☼ ☼ ☼
俺が彼女のあとを尾いていったのは、よこしまな気持ちからじゃない。けっしてそうじゃないぞ。
日本人の女の子は警戒心が薄い。人を信じすぎているのか、たった一人で、あんなに肌を露出して、あんなに可愛い顔を無邪気に笑わせて、まるで自由を楽しむ小鳥みたいに歩いていく。
きっと彼女の祖国が治安がよすぎるせいだろう。我が国台湾だって治安のよさでは負けていないと思うが、それでもあんなに目つきに警戒心のかけらも漂わせていない女の子はいない。
俺は彼女のボディーガードだ。
頼まれたわけじゃないけど、心配でしょうがないから自発的に買って出た。
彼女は水際を踊るように、水鳥の足みたいにヒールを動かして、色んなものを見ながら歩いた。
停泊している小さな漁船を一艘ずつ覗き込むように見ては、一人で笑っている。
何がそんなに楽しいんだろうと思って眺めていると、急にこっちを向いた。
「それ、なぁに?」
俺が手に持っているペットボトルを指さし、聞いてくる。
「黑松沙士。……知らない?」
「知らない」
「台湾じゃ定番のソフトドリンクだよ」
やっぱり日本人なんだろう。台湾人でこれを知らないやつはいない。阮經天(※台湾の人気俳優)を知らないやつがいないように。
「飲ませて」
白い手を伸ばしてそう言う彼女にちょっとたじろいだ。でもまぁ、今どき間接キスぐらい、なんでもないんだろうな、日本では。
俺がペットボトルを渡すと、蓋がついたまま飲もうとした。日本じゃペットボトルって、蓋を取らなくても飲めるようになったのか?
「蓋、蓋が閉まってるよ」
子供に教えるように、手振りで教えてあげた。
「蓋を、こう、ひねって、開けるんだ」
「あっ」
ようやくわかってくれて、笑いながら、彼女が蓋を取った。そして口をつけると、顔を上に傾けて、喉を鳴らして飲んだ。
少し紫がかった琥珀色の炭酸飲料が、ピンク色の唇から彼女の中へ入っていくのを俺はしばらく見つめていた。彼女の長い髪が軽やかに後ろに垂れて、丸いおでこが夏の陽射しにキラキラとした。
「おいしい!」
彼女が笑った。
「シュワシュワしてて、面白いし!」
「ほんとに? 日本人はみんな『湿布風味のコーラ』って言って、嫌がるよ?」
「おいしい! おいしい!」
なんとも無邪気な彼女の笑顔に俺は呆れてしまった。
「もっとたくさん、おいしいもの、教えて?」
そう言われたので、俺は彼女のガイドを買って出ることにした。
けっしてよこしまな気持ちからじゃないぞ。
☼ ☼ ☼ ☼
彼女はお金を持っていなかった。
ワンピースとハイヒールだけで、バッグも持っていない。
「ホテルにでも忘れてきたの?」
「なにも持ってないだけなの」
意味がわからなかったが、仕方なく俺が奢った。冰淇淋を是非とも食べさせてみたかったので。
機械から出てくるアイスクリームをおばさんがコーンの上に巻く。どんどん巻いていく。十巻き、二十巻き──
やがて完成した台北101みたいに高層のアイスクリームを渡すと、彼女はおおきく目を見瞠いて、形のいい唇をゴムのように伸ばして、アイスクリームのてっぺんを見上げて笑った。
「背、たっかい!」
舌を出し、クリームで真っ白になった唇を舐めながら、彼女が目をギュッと閉じて笑う。
「冷たい! 甘い! おいしい! おもしろい!」
そんな彼女を可愛いなと思いながら、どうして俺はこんなボランティアみたいなことをしているんだろうという気もしてきた。
日本人の女の子って、みんなこんな感じで、子供みたいなんだろうか。しっかりしててガードの固い台湾の女の子とは大違いだ。
まぁ、希望通りというか、一人でやって来た女の子には出会えた。彼女も出会いを求めて来たのかは知らないけれど。
しかも俺好みの、可愛い女の子だ。日本映画に出てくる女優みたいに可愛い。歳も俺と同じぐらいかな。
「俺、『玉ちゃん』っていうんだ。交通大学の三年生。君の名前も教えてよ」
「玉ちゃん? へぇ、いい名前ね! 宝石みたいにキラキラしてるね」
彼女は俺の名前を褒めてくれると、自分も名乗った。
「あたしの名前はね、『トル・オッ・ソトー』っていうの」
難しい名前だった。
日本人の名前はよくわからない。
「じゃ、えっと……。『トゥルー』って呼ぶよ」
「うん!」
嬉しそうに、もう半分に減っている冰淇淋をペロッと舐めながら、トゥルーは目を細めた。
「いい名前ね! ありのままのわたしみたいにキラキラしてる」
☼ ☼ ☼ ☼
小吃店で一緒に飯を食った。もちろん彼女のぶんは俺の奢りだ。
俺が単(注文用紙)の涼麺40元 (約140円)にチェックをすると、トゥルーも同じものを注文した。
テーブルを挟んで向かい合い、皿に盛られた麺を一口食べると、トゥルーが不味そうに舌をだす。日本の冷やし中華とは全然違うから口に合わないのだろう。この店のは特に、ニンニクと八角がたっぷり効かせてあってクセが強いからな。
テーブルの上に用意された醤油だれを勧めると、それをかけて食べてみて、ようやくトゥルーが笑顔になった。
「おいしくなった!」
そう言って笑う彼女を見て、なんで自分が今日初めて会った女の子に、持ち金も少ないのにこんなに奢ってあげているのか、わかった気がした。
彼女の笑顔は凄いのだ。
夏の暑さも吹っ飛ばす。
☼ ☼ ☼ ☼
「わあっ! 空、青い!」
広い夏空を見上げて、トゥルーがはしゃぐ。
「雲、白い!」
トゥルーはすべてのものを、まるで今産まれて初めて見るように楽しそうにする。
そんな彼女を見ていると、なんだか自分までそんな気分になってしまう。見飽きているはずのものまで、世界のすべてが新鮮に思えてきてしまう。
白いハイヒールをコンクリートに鳴らしてはしゃぐ彼女を見守りながら、俺はお願いをした。
「なぁ、夜まで一緒にいてくれないか?」
笑いながらも『は!?』というようにトゥルーが眉間にシワを寄せたので、慌てて俺は言い直した。
「へ……、へんな意味じゃないぞ? ここは夜になるとすっげぇ綺麗になるんだ。情人橋がライトアップされて……確か今夜は花火が上がるはずだ」
「花火!?」
彼女の顔から怪訝そうな色が、消えた。
「みたい!」
「……で、さ。一緒に情人橋を渡ってほしいんだ」
照れてしまいながら俺は言ったが、トゥルーにその意味がわかっているとは思えない。
巨大客船みたいなあの白い橋の上を一緒に渡ったら、二人はもう恋人どうしだ。俺は是非とも彼女ともっと仲良くなりたかったのだ。
しかし彼女はまるでその意味を知っているかのように、真剣な笑顔でうなずいた。
「うん、いいよ。玉ちゃんとだったら」
☼ ☼ ☼ ☼
木陰を見つけて座り、日が落ちるまで、トゥルーと色んな話をした。
「日本のどこから来たの?」
「日本じゃないよ。外宇宙のバセスカ・ラってところから」
警戒心が低いように見えて意外にガードが固い。
俺に正しいプロフィールを教えてくれる気はまだないようだ。
作り話に乗ってやった。
「じゃあ、そこってどんな所? 文明は進んでるのか?」
「全然。みんな体がない思念体だから、ここみたいに建物とかもないの」
「体がないの?」
プハッと俺は吹き出してしまった。
「トゥルーの体はここにあるじゃん。俺の目の前で、笑ってるじゃん」
「玉ちゃんが思い浮かべてくれたからだよ」
トゥルーはそう言って、微笑んだ。
「誰かが思い描いてくれたら、その通りにわたしは形をもつことができるの」
「俺、ぼうっとしてただけだけどなあ……」
そう呟く俺を、何も言わずに、トゥルーは長いまつ毛の下の優しい目で見つめていた。そういえば俺、ぼうっとしながら、こんな女の子に出会えたらいいななんて、思っていたかもしれない。
☼ ☼ ☼ ☼
空がオレンジ色に変わりはじめた。
あっちこっちで明かりが点き、漁人碼頭がロマンチックなムードに包まれていく。
俺とトゥルーは橋の入口に立つおおきな赤いハートの前に立った。周りはカップルばっかりだ。でも俺ももうぼっちじゃない。
「手……、繋いでもいい?」
俺が聞くと、トゥルーは笑顔で手を差し出してきた。白くて、やわらかくて、冷たい手だった。
何も言わずに、ただ手を繋いで、一緒に橋を渡った。
繋いだ手から、トゥルーの心が流れ込んでくるようだった。
俺はまだ彼女の笑顔しか見た覚えがない。
だが俺の手を通じて流れ込んでくる彼女の心には、様々な表情があった。
彼女にも俺と同じような苦しみがあった。悲しみも、怒りも、寂しさも。だが今の彼女はただひたすらに楽しそうで、俺に笑顔ばかりを見せてくれる。それを俺はトゥルーの優しさだと思った。
彼女がもし、その笑顔を消して、泣いてしまうようなことがあったら──
俺はどうしてあげられるだろう?
そんなことを思いながら、俺もずっと笑っていた。トゥルーと二人、笑顔で並んで情人橋を渡りきった。
花火が上がりはじめる頃には、俺はトゥルーのことをすっかり好きになってしまっていた。
体をくっつけ合い、夜空を色とりどりに彩る大輪の花を眺めた。
「なあ!」
花火の音にかき消されないよう、大声で俺は彼女に言った。
「君のことが好きだ! 俺、ずーっと君の側にいたい!」
「ありがとう!」
トゥルーも負けずに大声で返してくれた。
「玉ちゃん、わたしのことを追いかけてきてくれて!」
「ほんとうは俺、あんな積極的なヤツじゃないんだぜ!?」
「じゃあ、どうして、あんなにストーカーみたいに追いかけてきてくれたの!?」
「君の目が優しかったからだ!」
「あっ! わたし、甘い女にみられた!?」
「違う! それだったらとっくに襲いかかってる!」
「あはははは! 他の男の子に襲われないよう、守ってくれたんだよね!?」
「違う! 君と仲良くなってから、君に襲いかかりたかったんだ!」
そう言って、横から彼女の細い体を抱きしめた。
トゥルーは抵抗しなかった。
俺が彼女を抱きしめて、彼女は俺にされるがままになって、二人でチークを踊るようにゆっくりと揺れながら、夜空に轟く花火の音を聞いていた。二人の体はここにあるようで、ここにないようだった。花火とともに空へ打ち上がり、大気圏を超えて、二人で宇宙に漂っているみたいだった。
「でもわたし……もう、帰らないといけないの!」
トゥルーが俺の聞きたくなかったことを口にした。
「ずっといろよ!」
俺は彼女の髪の香りを嗅ぎながら、叫んだ。
「無理なら俺が日本へ行く! 留学して! 日本で就職して! 日本語も頑張って覚える!」
「わたしはほんとうに、思念体しかもたない宇宙生命体なの!」
トゥルーがなんでそんなことを言うのか、俺にはわからなかった。
「あなたがわたしのことを考えている間だけ、形をもつことができるの! あなたがわたしのことだけを考え続けるなんて、できないから! だから、あなたが他のものに見とれただけで、わたしは消えてしまうの!」
「消えさせない!」
強く、強く、俺はトゥルーの体を抱きしめた。
「他のことなんて、考えないから!」
「それでも……ね!」
トゥルーの声は笑っていた。
「もし消えてしまっても、わたしはいつでもあなたの側にいるよ! だから、悲しまないで!」
「いやだ!」
少し体を離して、トゥルーの顔を見た。
長いまつ毛に囲われた優しいその目が、俺を見つめ返していた。その形のいい唇に、俺は口づけをした。
いつの間に……眠ってしまったのだろう。
気がつくと、俺は一人、花火の終わった夜空の下にいた。
隣にトゥルーはいなくなっていた。
夢だったのだろうか?
それとも彼女はほんとうに、思念体しかもたない宇宙人だったのか?
「トゥルー……?」
呼んでみたけど、返事はなかった。すっかり人気のなくなったワーフに虚しく声が吸われただけだった。
波の音だけが辺りに響いていた。
─ ─ ─ ─
トゥルーは俺の側から消えてしまった。日本へ帰ったのか、それともほんとうに宇宙人だったのか、今となってはわからない。
日本へ帰ったのだとしたら、俺は弄ばれたのだ。一人旅にやって来た台湾で、見た目はいいけれど意気地のない、つまりは害のないタイワニーズのイケメンを見つけて、一夏のアヴァンチュールを楽しんだだけだったのだ。
でも、もし、ほんとうに彼女が宇宙人だったのだとしたら──
トゥルーは今でも側にいる。目には見えないし、声も聞こえないけれど、いつでも俺の側にいて、笑ってくれている。
君はいつでも笑顔で側にいてくれる。
そう考えたら、俺はいつでも善良な人間でいようと思えてくるのだった。
彼女にどんなところをみられても恥ずかしくないように。
☼ ☼ ☼ ☼
世界中を巡る旅に俺は出た。
大学を卒業し、物理教師になることはもう決まっている。それまでの間に長い休暇期間を取り、少ないカネを握って旅に出た。
トゥルーがほんとうに思念体の宇宙人で、今もすぐ側にいてくれるのなら、色んなものを彼女にみせてやりたい。
トゥルーの代わりに色んなものに触れて、彼女を笑わせてやりたい。
彼女はあの日、初めて形を得ることが出来て、だからこそあんなに楽しそうだったのだから。
トゥルーの声が聞こえるようだ。
「凄い! おもしろい! 楽しい!」
君はいつでも側にいてくれる。