とある令嬢の婚約破棄事情
空は昨晩の雨が嘘のように、青色に澄み渡っている。
季節は、秋。
窓から木漏れ日の優しい光が、応接セットしかない狭い部屋に差し込んでいる。そして、ガラス越しに秋風が木の葉をさわさわ揺さぶっているのが見える。
そんな実りの季節に、アネッサは侍女のエリサと共に、婚約者であるライオット=シネヴァの屋敷に呼び出されていた。
シネヴァ邸には応接間がいくつかある。
ちなみにアネッサが通されたこの部屋は、玄関ホールのすぐ隣にある、格下を相手にする部屋だったりもする。
大事なことなので、二度言うけれど、アネッサはこの屋敷の主であるライオットの婚約者であるにもかかわらず、この狭っ苦しい応接間に通されたわけだ。
随分な仕打ちである。
けれどもこれは、軽いジャブに過ぎなかった。
そして、本題はここからで────。
「アネッサ、君との婚約を破棄する」
アネッサの婚約者であるライオット=シネヴァは、部屋に踏み入るなり、そう言い捨てた。
途端に、部屋が冷気に包まれる。
まだ秋といっても木枯らしが吹くには早くて、少し動けば汗ばむ季節。だというのに、窓が凍り付かないのが不思議な程の冷気である。
そんな中、アネッサは長椅子に腰掛けたまま、微動だにしない。17歳という年齢に似つかわしくない程、凛と背筋を伸ばしている。
ただ気丈に振る舞おうとすればするほど、久しぶりに婚約者と過ごす時間の為に、ハーフアップにした流行りの髪型と、上品なブラウンピンクのドレスが痛々しく見えてしまう。
そして瞬きを忘れ、食い入るように婚約者を見つめるアネッサは、頭の中ではこんなことを思っていた。
破棄させて下さい。ではなく、破棄する───随分と一方的で、横柄な態度だけれど、お前何様?と。
そして、しばらくの間のあと、アネッサは口を開く。抑揚の無い声音で。
「理由を聞いても良いでしょうか?」
これはアネッサにとって、当然の権利。
なのだが、ライオットは心底面倒臭そうに鼻をならした。
「君より魅力的な女性が現れた。そして、その女性も私に気があるようだ。だから、俺はその女性を伴侶にすることにする。それだけだ。悪いがこの俺の隣に、君はふさわしくない」
ライオットは今、心臓を一突きで刺されて、20年という短い生涯に幕を降ろしても仕方がないことを口にした。
けれど、心優しいアネッサは、実行に移すことはしなかった。代わりに、別の質問をすることを選んだ。
「どなた………と聞いても?」
婚約者の浮気相手の名前を問いただすアネッサは、なかなか勇気のある女性であった。
反対にドヤ顔を決めていたライオットは、ややたじろいだ。
「……き、君の良く知っている女性だ。それでも知りたいか?」
「はい」
「ガーネット=フォレット」
その名が出た途端、ずっと感情を殺していたアネッサだけれども、ここで表情が動いた。
薄茶色の瞳は信じられないといった感じで、忙しなく揺れ動き、細い肩は震え、艷やかな亜麻色の髪を小刻みに揺らしている。
サクラ色の唇もわなないて、あまりの衝撃に言葉を紡げないでいる。
ガーネット=フォレット。
貴族社会において、その名を知らないものはモグリと言われても致し方無いほど、彼女は有名人であった。
御年18のガーネットは、名門侯爵家の令嬢であり、しかも容姿端麗。
眩いばかりの金色の髪に、アメジスト色の瞳。唇はサンゴのように艶めいており、まるで大輪の花のようであった。
ちなみにガーネットは、貴族男性からの求婚が後を絶たず、それを全て断り続けている。
その理由は、実は妃候補であるとか。既に異国の国王に見初められている。などと、まことしやかに囁かれている、今、貴族社会で最も注目を集めている令嬢である。
そして、アネッサの親友でもあった。
二人の出会いは、アネッサが7歳の時。母親に連れられて、ちょっとした貴族のお茶会に参加したときに知り合ったのだ。
それから10年。二人は姉妹のように仲が良く、互いの親よりも信頼を置いている。
そんな姉のような存在であるガーネットが、ライオットと……。
アネッサの肩が更に震える。両手は膝の上に置いているけれど、きゅっとスカートを握りしめ、必死に何かに耐えているようだった。
もちろんアネッサとて、人並み以上の容姿ではある。
オフホワイトや桃色などの淡い色のドレスが似合う甘く可憐な雰囲気を持っている。
ただ、原色のドレスが似合うガーネットと比べれば、どうしたって霞んで見えてしまうのも事実であった。
一方その頃、ライオットといえば、やれやれといったご様子だった。
その態度は『言わんこっちゃない』と言わんばかりのそれ。
今、この男が生きているのは、このノールバリスク国の七不思議に加えるべきである。
ただ、今回もアネッサは、ライオットの脊髄を粉砕することはない。
代わりに感情を落ち着かせるように、大きく息を吸って、吐いた。
けれども、深呼吸程度では毛ほども役に立たなかったようだ。
俯き、ライオットから表情を隠す。そして震える声のまま、こう告げた。
「そうですか、わかりました。……では」
文字だけで見たらアネッサは、随分、淡白な言葉を吐いた。
妙齢の女性が、ゴミクズ以下のような理由で婚約破棄をされたのに、だ。
でも、今はきっと、ここにいるのが何よりも辛いのだろう。
アネッサは、罵倒も恨み節も何もかも、胸の内に収めて立ち上がる。次いで、足早に扉へと向かう。
今まで空気のように気配を消していたエリサも、後に続く。
「───……ああ、アネッサ」
流石に良心の呵責に耐えきれなかったのか、ライオットは慌てた様子でアネッサに声を掛けた。
呼び止められたアネッサは、うっかり振り向いてしまう。
その瞳は潤んでいた。もしかしたら、全て嘘。そんな言葉を期待しているかのようにも、見えてしまう。
けれど、現実はなかなか手厳しいものだった。
「結婚式には呼んであげるよ。どうか僕たちの幸せが末永く続くように祈ってくれ」
この男、言うに事を欠いて、何をのたまってくれるのだろうか。
再び、応接間が凍りつく。
アネッサが、無視をして部屋を出なかったことを後悔したのは、言うまでもない。
玄関ホールからすぐの部屋に通されて、本当に良かったとアネッサは思った。
なぜなら、長々と廊下を歩かされたら、無表情を貫き通すことができなかったから。
「エリサ」
震える声音でアネッサは、後ろを歩く侍女の名を呼ぶ。
「はい。何でしょう」
すかさず侍女であるエリサは、アネッサに短い返事をした。
それをきちんと背中で受け止めたアネッサは、足を止めることなく、侍女に指示を出す。
「自宅には戻らないわ。このまま、フォレット邸へ向かって」
「かしこまりました」
一礼したエリサは、早足にアネッサを追い越すと、すぐさま御者にそれを伝えた。
秋の季節特有のキラキラとした日差しと、インクで塗りつぶしたような青い空の下、アネッサを乗せた馬車はカラカラと軽快に車輪を回す。
向かう先は、ここ王都リュフタナシムの閑静な住宅街にあるフォレット邸。
言い方を変えると、アネッサが婚約を破棄された原因でもある、ガーネットが住まう屋敷に向かっている。
それなのに車内にいるアネッサの口元は、うっすらと笑みを浮かべていた。
***
「突然お邪魔して、ごめんなさい。ガーネット」
「何言ってるの、アネッサならいつでも歓迎よ」
にこやかにアネッサを迎えるガーネットだけれども、まだ、突然の来訪者が今しがた婚約を破棄されたことは知らない。
「で?今日はどうしたの?」
「……ごめんなさい。ここでは、ちょっと……」
言葉尻を濁すアネッサに訝しむガーネットだったけれど、すぐに自室へと案内した。
モスグリーンの壁紙に、猫脚の家具で統一されたシックで上品なこの部屋は、名門侯爵家の令嬢に相応しいガーネットの自室。
ただここが、一瞬にして阿鼻叫喚の図に変わるかもしれなくて。
そして翌日の新聞の一面に【痴情の縺れで、伯爵令嬢が侯爵令嬢を殺害!血に染まった愛憎劇!!】なんていう見出しが飾られるかもしれなくて。
けれど、そんな雰囲気をおくびにも出すことはせず、アネッサはガーネットの部屋に入る。そして進められるがまま、一人掛けのソファに腰を降ろした。
「ねぇ、改めて聞くけど、何かあったの?」
人払いをしたせいで、ガーネット自らが、もてなす為のお茶を淹れている。
本来なら、アネッサの侍女が淹れるべきなのだが、彼女は現在壁と同化している。もしかして、ガーネットは存在に気付いていないのかもしれない。
立場的にアネッサは、エリサを咎めるべき。なのだが、そこに触れることはしない。ただ、ガーネットがお茶を淹れ終わるのを静かに待っている。
そして、ガーネットがティーポットをテーブルに置いた途端、アネッサは静かに口を開いた。
「私、婚約破棄されたの」
ガーネットは全て知っているという感じで『そう』とだけ短く返事をした。
ただ、お茶を口に含むことはしない。じっとアネッサが続きの言葉を紡ぐのを待っている。
「あなたに、心変わりしたそうよ。ガーネット」
「それって、本当に?」
「ええ、間違いないわ───……ね?エリサ」
壁と同化している鉄面皮の侍女は、表情を変えることなく、でも、しっかりと頷いた。
その途端、部屋の空気が一変した。
「あはははっははっはは」
突然、ガーネットが弾けたように笑い出したのだ。
そして、そのままの勢いでアネッサに向かって声を掛ける。
「やったっ。上手くいったわね!!」
「うんっ。本当にありがとう!ガーネット。あなたのお陰で、私、あのクズ野郎と結婚しなくてすんだわ」
アネッサもガーネットに負けず劣らずの満面の笑みを浮かべた。
そして二人は、阿吽の呼吸でハイタッチをし、熱い抱擁を交わした。
「こんなシナリオ通りに、婚約破棄できるなんて夢みたい!!」
感極まったアネッサが、ガーネットの胸の中で叫ぶ。
ガーネットはその言葉に同意するかのように、更に強くアネッサを抱きしめた。
──……そう。この婚約破棄は、アネッサとガーネットが仕組んだことだった。
今だから話せることだが、アネッサは、はなからライオットと結婚などしたくはなかった。
けれど、家同士の繋がりが重要といわれる貴族社会では、令嬢などただの駒。
どれだけ両親に嫌だと訴えても『仕方がない』『諦めろ』『これが貴族令嬢の務め』と3つの単語が返ってくるだけ。
無論、アネッサは貴族の家に生まれ、貴族としての教育を受けてきた。だから、その考えは骨の髄まで染み込んでいる。けれど、それはそれ。相手があまりに酷い相手なら、話は変わってくる。
ライオット=シネヴァは、その中でも最低の部類に属する男であった。
甘い容姿だけが唯一のとりえ。
その他は、なぜ生まれてきてしまったのか?と首を捻るほど、人間の悪い部分だけしか持ちあわせていない男であった。
下半身は猿以下。女性であれば、年齢問わず、また身分の上下も関係なく口説きまくる。
そして、火遊びがバレれば、見え透いた嘘を堂々と吐く。
挙句の果てには、あり得ない言い訳をこいて責任転嫁をする始末。
しかも家督を継いで早1年。シネヴァ家の財産は、維持するどこか右肩下がり。それは全て胡散臭い投資話にホイホイ乗っかるライオットのせいである。
ちなみに、手グセの悪いライオットだけれども、アネッサに対してだけは、健全に婚約者として接していた。肉体的な意味限定という前置きがつくけれど。
それは、なぜか。
理由はとても単純で、大変失礼なものだった。
アネッサのことを持参金としてしか見ていなかったから。
アネッサの家はそこそこ繁栄している。そして一人娘であるアネッサが嫁ぐとなれば、持参金はかなりのものになる。
だから、ライオットはアネッサに対して、婚約者以上の触れ合いを避けたのだ。アネッサの父の心象を良くするために。
けれど、金づる扱いされたアネッサからしたら、それは大いにプライドを傷付けられること。
そんな男の元に誰が嫁ぎたいというのだろうか。
控えめに言って、誰もいないだろう。馬か鹿と結婚したほうが、まだマシである。
確かに、ライオットの父親である先代は堅実に生きてきた。その評価は貴族社会の中で高いものである。
余談であるが、アネッサの父であるモータリア卿がシネヴァ家との婚約を決めたのは、父親同士の友情からくるものであった。
そしてどれだけアネッサがライオットの素行の悪さを父親に訴えても、モータリア卿は男同士の友情を優先した。
そんなわけで、アネッサはキレた。ガチでブチ切れた。
父親が娘より男の友情を選ぶなら、こっちは女同士の友情で不幸な未来を回避することを選んだのだ。
アネッサには幸い、名門侯爵家の親友がいた。
それが、此度の婚約破棄の原因となったガーネットである。
ちなみに、一見たおやかな貴族令嬢にしか見えないガーネットだけれども、正義感が強く、血の気も多い。
そしてアネッサのことを本当の妹のように可愛がっているガーネットにとって、これは怒り心頭の案件であった。
というわけで、二人はすぐさま円満に婚約を破棄するための緊急会議を開いた。そして、綿密な打ち合わせの末、今回のシナリオを作ったのだった。
ライオットはガーネットから遠回しなアプローチを受けたように感じ、そして、下半身でしか物事を考えられない彼は、あっという間にアネッサを捨てたのだ。
ただガーネットの名誉の為に言っておくが、彼女はライオットと手すら握っていない。口付けなんてもってのほか。
そんな肉体的接触がなくても、ガーネットはライオット程度の下等な生き物をオトす技くらいは身に付けている。
……それはどんなもの?などとは、聞かないで欲しい。単なる貴族の嗜みの一つである。
そしてもう言う必要はないかもしれないけれど、アネッサがここに来たのは、いの一番にガーネットに作戦が成功したことを伝えるため。
あと、ライオットと会話をしている間アネッサが震えていたのは、悔しさではなく、嬉しさのあまり高笑いしてしまう衝動を抑えていた為であった。
「──……でも、本当に良いの?ガーネット」
つい先ほど、ぱっと花が咲いたような笑顔を浮かべたアネッサだけれど、今の表情はとても暗いもの。
それは、自分の厄災が親友の元に移動してしまうからであって。やはり、自由の身を手に入れたことを手放しで喜ぶことができないのであった。
けれど、ガーネットはそんなアネッサを見てカラカラと笑う。
「あら?大丈夫よ。ふふっ。しっかり、教育してあげるから」
そう言って、ガーネットはポキリと指の関節を鳴らした。
余談であるが、ガーネットは武芸に秀でている。そして、女性であるので、口も達者。頭も良いので、回転も速い。
だから理攻めで、力づくで、ライオットを再教育するのは、造作もないこと。
ちなみにガーネットには兄が2人いる。
長男は既に家督を継いでおり、もう一人は、軍人として国の為に剣を捧げている。が、妹の為に、その剣をライオットに向けることは合法であるとも思っている。
ま、下世話な表現で言うなら、超が付くほどのシスコンである。
そんなある意味、最強である侯爵令嬢は、アメジスト色の瞳を猫のように細めて、こう言った。
「これまで、弄ばれた令嬢の恨み、そして、虐げられたあなたの苦しみは私がしっかり晴らして差し上げるわ。ライオットにはいっそ殺してくれと言いたくなるようなこの世の地獄を見せてあげるわ」
意気込むガーネットであっても、ライオットと結婚する気はない。
ある程度教育と言う名の制裁を与えたら、即座に捨てるつもりである。
なにせライオットは、伯爵家。格下だ。文句は言わせないし、そもそも、身分の低い下種な男がガーネットに求婚することなど恥知らずも良いところ。
例え、婚約破棄という噂が立ったとしても、笑い話として処理されるだけ。ガーネットの名が汚れることなどない。
……ということを、ガーネットは丁寧にアネッサに説明をする。
そうすれば、やっとアネッサは心からの笑みを浮かべた。
「じゃあ、乾杯しましょう」
そう言って、ガーネットはテーブルに置かれたままのティーカップを持ち上げた。
アネッサも、それに倣う。
「アネッサの明るい未来に乾杯!」
「二人の友情に乾杯!」
キンッと音を立ててティーカップが合わさる。
淑女らしく香り高い紅茶で乾杯するところが、妙に育ちの良さを感じる。
そして、二人は満面の笑みを浮かべて、紅茶を飲み干した。
さて、気になるライオットのその後であるが、彼はガーネットの教育的指導によりこれまでの悪行を悔い改め……爵位を返上し、雀の涙ほどの財産を全て孤児院へと寄付する。そして、聖職者への道を歩むことになる。
え?アネッサとガーネットのその後は、どうなったかと?
それは愚問である。なぜなら、彼女たちは自分の力で幸せを得ることを知っているのだから。
そんな二人の未来は、明るいものに決まっている。