プロローグ
雑多な人で賑わう真夏の休日の昼下がり。三上達也は季節外れの震えと悪寒、眩暈に苦しんでいた。風邪であろうか、そうではない。彼は人という人全てを気味悪く感じていた。いや、もはや、人が人にすら見えていなかった。この症状に襲われると「それ」は悪臭を放つ肉塊であり、同時にノイズを撒き散らしながら動く壊れたラジオであった。
ぎらつく太陽の下。鉄筋コンクリートのビルディングの間にひしめく肉塊の中で彼は駅にあるトイレへと歩を速めた。鉄と肉塊の間でもがく彼には色鮮やかに描かれたアニメショップの看板のキャラクターだけが救いであった。だが、そのような天使にも等しい存在は受肉して彼を助けることなど出来なかった。
駅まで交差点を渡ればすぐという所で彼は限界を感じた。精神的に切羽詰った時、彼はいつもお気に入りのアニメのキャラクターを頭に思い浮かべて自分を制してきたが、何故だかその時ばかりは上手くいきそうになかった。
「ダメだ、吐きそうだ」
喉元まで吐しゃ物がこみあげてくる前に、彼は財布の中の「お守り」に手を伸ばした。ここ、都心の雑踏の中で嘔吐するなんて恥をさらすよりはマシだ。そう思い、それをおもむろに口に入れかみ砕いた。
空腹で水も無しに飲み込まれたそれはすぐに絶大な効果を発揮し、ヒトが人へと輪郭を取り戻す。心なしか悪臭も嗅覚を刺激しない。念のため、と駅のトイレの個室で彼は30分ほど待つことにした。完全に効いたそれは電車で帰るのには十分な効果をもたらしてくれたのであった。
「あそこまで酷いのは初めてだったな」
薬を持ってきて良かった、と彼は帰りの車内で心から思った。あんな所で吐いたらせっかく意を決して手に入れた予約特典もどうなったか分かりはしない。彼は人気のない車内で、先ほど入手したゲームの箱を少しカバンから取り出し、こうつぶやく。
「家に帰るまで待っててね、ニニムたん」
そのニニムと呼ばれたキャラクターは勿論返事をせず、彼もそれを期待してはいなかったが、何故だか一抹の空しさを彼は感じた。心なしか、輪郭すらぼやけている。彼は暑さのせいだと自分に言い聞かせ、その時その感覚について深く考えることはしなかった。