戻れない道
背を向けて立つ彼女がやけに小さく見える。
楽しそうに話しをしながら洗い物をする彼女は、 昔と違い今ではきっと俺の腕の中にすっぽりと収まってしまうだろう。
彼女の背丈を越したのも随分と前のことに感じられる。
「手伝うよ」
そう言って立ち上がった俺に、振り向きもせずに「いいってば」なんて言いながら、声に嬉しさをにじませる。
何故、と思う。
何故こんな些細なことで嬉しくなってしまうのだろう。
何故俺は侑奈さんじゃないとダメなんだろう。
もう何度も、何年も反芻した自問が再び湧き上がってくる。
自分が置かれている現状を理解しているからこそ、何度も諦めようと思った。
諦めるために他の人から自分に向けられた好意を受け入れたこともあった。
その度に痛感するのは、枯渇していく心と彼女への渇望。
自分の感情が大きく揺り動かされるのは、彼女のこと以外に何もない。
そんな心情を理解しながらも、心地よいこの関係を崩してしまうことを躊躇っていた。
今この瞬間も迷いを感じているのに、溢れ出しそうな感情に抑えが利かない。
ああ、もう駄目だ。
そう思った瞬間には、自分の腕の中に彼女を閉じ込めていた。
一瞬腕の中で震える身体。
引き返すことはもう、できない。
「…侑奈さんのことが好きなんです」
何度も、何度も口にしようと思って出来なかった言葉。
きっと拒絶される。それはわかってる。
彼女の性格から、必ずそうする。
それは覚悟の上。だからと言って、拒絶の言葉が辛くないわけじゃない。
「蓮司、どうしたの」
まるで何も起こっていないかのような声。
何もなかったことにしようとしていることが悔しくて、抱きしめている腕に力を込めた。
抱きしめられていることを自覚して欲しくて。
「…離して」
静かに言われた言葉には、何の感情も感じられない。
「蓮司、離し…」
「侑奈さんが好きなんです」
何もなかったことにはされたくないと、反射的に繰り返した言葉。
ああ、違う。
計画ではこんなはずじゃなかったのに。
「…好きなんです」
それでも言わずにはいられなかった。
感情のままに言葉が零れてくる。
たとえ拒絶されたとしても、自分の想いを否定されても、ずっと伝えたかった。
侑奈さんが好きなのだと。貴女が欲しいのだと。
小さく吐かれた息に、心臓が脈を早くする。
「大丈夫だから、とりあえず離して。ちゃんと話しをしよう?」
穏やかな声とともに、腕を軽く叩かれる。
離してくれという合図なのだろう。
穏やかすぎる声に、計画が破綻していくような感覚で、腕の力が抜けていく。
腕の中から解放した彼女は、困ったように苦笑を浮かべながら振り返り、幼い子供にするように椅子へと誘導する。
俺を椅子に座らせると、距離を取るかのように向かいに座った。
俺にかける言葉を探すようにしているけれど、そこまで大きく動揺しているようには見えなかった。
違う。動揺していないわけがない。ただ、それを読み取れないくらい俺自身が動揺しているんだ。
「こんなに普通に返されるとは思わなかった。」
落ち着かないと。ここから先は選択を間違っちゃいけないのだから。
揺らいでいた心を落ち着かせ、彼女を見据えると、ふっと彼女の視線が不自然に逸らされる。
「冗談でも、からかってるわけでもないから。さっきの言葉は俺の本心だよ。」
彼女の視線がこちらに戻ってくる。
困ったような顔をしているのに、完全には突き放せない彼女に少しだけほっとしている自分がいる。
「…好きなんだ、ずっと。」
気づいていたはずだよね。そんな言葉を声の裏に隠して彼女に送る。
きっと彼女は拒絶する。揺らいだ瞳のまま、きっと受け入れることはない。
そう分かっていても、もしかしたら受け入れてくれるのではないかと、淡い期待が頭をもたげる。
意識的にその期待を奥底に押し込める。そうしないと彼女の拒絶の言葉を聞くのが必要以上に辛くなるから。
「私は、あなたを自分の子供だと思って育ててきたつもりだよ。それ以上でも、それ以下でもない」
辛い。そう思う一方で、そんな風に拒絶することが辛そうな顔をして言われても説得力がないよ、とそんな風にも思ってしまう。
けれど、侑奈さんのその顔が自分にとっての希望でもあるのだと納得させる。
「わかってる。…ありがとう」
口から零れる言葉が、嘘だとばれないで欲しい。
わかってはいるよ。貴女が拒絶するのは。
でも、それを受け入れて納得するつもりは、まだないんだ。
立ち上がり自分の部屋に帰ると彼女が帰ってくる前に用意しておいたボストンバックを持って部屋を後にする。
リビングを通らないと玄関に行けないような部屋の構造は、今日に限ってはちょっといただけないのだが仕方ない。
足早に玄関に向かおうとすると、慌てたように彼女が止めに入る。
自分の行動が彼女を傷付けると知りながらも、用意しておいた言葉を口にしてそのまま家を出た。
追いつかないで欲しいと願いながら、階段を駆け下りる。
荷物が軽くてよかったと思う。
ボストンバックの中身はほとんどが衣類だ。
明日からの通学に必要な教科書なんかは、ほとんどが光輝の家に置いてある。
階段を下りきって外に出てから、マンションを見上げる。
ほんの数日だけ。けれどもしかしたら一生、ここに帰ってくることはないのかもしれない。
そのどちらになるかは、彼女次第だ。
もう引き返せない。
耐えるようにグッと噛み締めて、駅へと急いだ。