前触れ
家への帰り道、携帯が小刻みに震えているのに気がつく。
ポケットから取り出してみれば『侑奈』と表示されている。
その名前に心臓が震える。
嬉しさと、少しの不安と。
小さく息を吸って、ゆっくりと吐き切ると同時に通話にする。
「もしもし、どうしたの?」
「ごめん蓮司!今どこ!?」
電話口から慌てている彼女の声がする。
そんなにも慌てなきゃいけないことが今日、何かあっただろうかと思いつつ、必ず居場所を確認する彼女のことを微笑ましく思う。
「これから家に帰るところだけど、そんなに慌ててどうしたのさ」
「あー、ごめん。残業が確定した。…夕飯の材料を買っておいてもらえないでしょうか?」
申し訳なさそうな声が耳元から聞こえる。
昨日珍しく『明日は私がご飯を作る」と宣言した彼女のことだから、それができなくなりそうなことに罪悪感を感じているのだろう。
「いいよ。適当に作っておく。」
「いや、今日は私が作りたいので、材料のリストこの後送るから買っておいて欲しいんだ。」
仕事で遅くなるのはいつものことだからと申し出れば、また珍しい答えが返ってくる。
それが妙に心をざわつかせた。
「…どうしたの、珍しいね」
平静を装いながらそう尋ねるが、声には出さなくても眉間にしわが寄り、表情に不機嫌さが表れる。
目の前に彼女が居ない分、表情は俺の心情を素直に表現する。
しかも、何かを迷っているようで、彼女は電話の向こうで言葉にならない声を発している。
それが一層に心を冷やす。
誰かに作るために練習したいとでも言うつもりなのだろうか。
「あー、うん。本当は内緒のつもりだったんだけど…」
申し訳なさそうに再び話し始める彼女の言葉に、血の気が下がるような気がした。自然と携帯を握る手に力がこもる。
「蓮司、明後日誕生日でしょう?休み取ってたのに急に病欠の子が出て夜勤に変更になったじゃない?明日は遅番だし、だから今日早いけどお祝いしようと思って…って祝う本人に材料を買いに行かせるのもどうなんだって思ってはいるんだけどさ…」
彼女の言葉を聞きながら、体の力が抜け次第に嬉しさが込み上げてくる。
「そんなの気にしなくていいのに」
そんな言葉が口を出るけれど、本当は彼女が誕生日に仕事になったことは少なからずショックだった。それを口にするほど子供ではなかったけれど。
それでもサプライズでお祝いをしてくれようとしていた彼女の気持ちがこの上なく嬉しくてたまらない。
「頑張って仕事早く終わらせるから!」
「了解。お腹空かせて待ってるよ。」
揶揄うように答えると、通話を終了する。その後すぐにメールが届いた。
届いた材料のリストを見て、震えるほどの幸せを噛み締めた。
彼女が作ろうとしているのは全部俺が好きなもの。
季節感は全く無視しているけれど。
そのすべてが愛おしく感じられる。
……この場に彼女が居なくてよかった。
目の前にいたら多分耐えられなかった。理性が瓦解していたと思う。
それでなくても、もう抑える事が限界にきている。
だからこそ、この関係に終止符を打ちたいと望んでいる。
待っている未来がたとえ絶望であったとしても。
身の内に巣食ういろいろな感情を全て吐き出してしまうように大きく息を吐く。
「それでも勝算があると思っているんだ」
小さく呟いた言葉は藍色から濃紺に変わろうとする空に溶けていく。
見上げると濃紺に変わりつつある空に、一等星が自分の存在を主張するように輝いている。
自分がしようとしていることは、もしかしたら砂漠の中から砂金粒を見つけるくらい難しいことなのかもしれない。
それでも砂金粒がそこにあると知ってしまった以上、掴み取るためには自分から取りに行かなくちゃいけない。
他の誰にも取られたくなどないのだから。
携帯をポケットに押し込むと、来た道を戻る。
彼女から送られてきた指令を完遂するために。