惑いの答え
ベランダから交差点を見下ろす。
まだ秋には早いとでも言うように、晴れ上がった空から日差しが容赦なく降り注いでくる。
光輝の部屋で生活をするようになってから3日。
まだたったの3日しか経ってない。ぐっと拳を握り、耐えるように奥歯を噛み締めた。
ジワリと額に浮かぶ汗を、手の甲で乱暴に拭うが視線を一向に動かすことができない。
「蓮司」
帰ってきた光輝の声が背後から聞こえる。
ベランダから見送った彼女の後姿は、痛々しく思えた。
「だいぶ、憔悴してるように見えたよ。」
分かっていた。俺のエゴと欲望のために彼女に無理を強いることを。
その結果を目の当たりにして、後悔しまいと思っているのに、どうしても後悔が襲ってくる。
それでも実行しないという選択肢が無かったことに、納得するしかない。
「お前もほとんど寝てないんだろ。」
「…侑奈さんは、何て?」
自分が寝れてないことなんて、抉られるようなこの痛みに比べたらなんてことない。
「……無理に連れ戻すつもりはない、と。」
「そっか。」
彼女の後姿が消えた先から視線を無理やり引き剥がすように、ベランダの鉄柵に額を付ける。
いつもみたいに何処にいるのか、いつ帰ってくるのかって聞かれるのだろうと思っていた。
少しだけ、バカなことをしてないで早く家に帰って来いと、怒られたいとも思っていた。
けれど彼女が選んだのは、俺を手放すこと。
もう少し、彼女にとって俺は手放したくないものと思われているんじゃないかと思っていたが、それはただの自惚れだったらしい。
「追いかけねぇの?」
ベランダから動けない俺に光輝が訊ねる。
「追いかけてどうするの?俺、侑奈さんに捨てられたんだけど。」
自嘲するように笑んで見せようとするが、顔がただ引き攣るだけだった。
「…違ぇだろうがっ!!」
地に這うような声で叫んだ光輝が、ずかずかと距離を詰めると俺の襟元を乱暴に掴み引き寄せる。
「侑奈さんはお前が大事だから自分が引いたんだろ!泣いて縋り付くような人じゃねぇのはお前が一番よく知ってんじゃねぇのか!?この程度のことで諦められるほどお前の想いは薄っぺらいのかよ!?」
襟元をぐっと握りしめた掌は緩められることはなく、さらに絞るようにしてくる。
光輝の怒りと苛立ちが鋭利に突き刺さる。
「分からないんだよ!!諦めたいはずないだろ!?でもこれ以上彼女を追い込みたくない!あんな侑奈さん見てられない…」
あんな彼女はどの記憶を探っても出てこない。それが覚悟していた以上に俺を動揺させる。
自分が傷つくならなんとか耐えられる。でも、彼女があんなにも傷ついた姿になるなんて思っても見なかった。
自分の想いをこのまま貫いていいのか、強く迷いが生じている。
「お前が始めたことだろうが!!中途半端に傷つけるだけ傷つけて、尻尾巻いて逃げるのか?追い込めよ。とことん追い込まなきゃ自分の腕の中に落ちてくるはずがねぇだろ。」
光輝の言葉にひゅっと息を吸い込んだ。
唇を噛み締めて、強く目を閉じる。
そうだ。
彼女は自分を殺してでも相手を優先させる人。
こちらが追いかけなきゃ、逃げたまま手に入れることなんて叶わない。
追いかけて追いかけて、手を伸ばしてやっと手が届く人。
分かってたはずなのに…。
「……すまない」
「謝ってる暇があるんなら、さっさと追いかけろ。」
掴んだままの襟元を引っ張り、俺の身体を部屋の方へと押しやる。
「お前が次にここに来ていいのは成功の報告を持って来たときだけだ。」
怒りと苛立ちを含んだままの強い目が、俺の背中を押す。
「ああ」
短く返事をして光輝の家を後にした。
9年間過ごした自分の家と呼べるところに向かう足取りは重いように感じる。
光輝に押してもらった背中でも、生じた迷いが完全に消えたわけじゃない。
彼女になんて言えばいい?どんな顔して彼女に会えばいい?
どうしたら彼女は笑顔に戻るのだろう。
俺が諦めてしまえば……
そこまで考えて頭を振る。
ここまで来ても「諦める」の選択肢を選べない。
光輝は追い込めと言った。だけど、憔悴している彼女を目の前にして追い込めるだろうか。
決心が鈍る。
手に入れたい唯一の人。
その彼女の憔悴した姿は、想像していた以上に俺に衝撃を与えた。
迷いながらも足を進めれば、距離はなくなる。
玄関の前まで来るのは、あっという間だった。
玄関の扉に手をかける。唾を飲み込み、力を込めて扉を引くと、カチャリと何の抵抗もなく扉が開いた。
一瞬、鍵がかかっていないことを不審に思った。彼女は常に鍵をかけておく人だったから。
鍵がかかっているかもしれない事を失念していたのは自分も同じだが、不安と心配が込み上げてくる。
「侑奈さん?」
声を掛けながらリビングの扉を開けて血の気が引いた。
「侑奈さん!」
崩れ落ちたように扉に寄りかかる彼女に駆け寄った。
肩に触れて暖かいことに少しだけほっとする。
髪に隠れた顔を確認するためにそっと髪をかき上げて、心臓が跳ねた。
青白い頬に幾筋もの涙が零れ落ちた痕。
そっと拭うと目尻に残っていた涙が指を濡らす。
気丈で、いつも笑顔でいたイメージしかないのに。泣いた彼女なんて、母の葬儀の時にしか見ていない。
泣くとは、思っていなかった。
こんなに泣き崩れるくらい、俺と離れたくなかったのだろうか?
ただの保護者なら、憔悴はしても泣きはしない。
こんなにも泣き疲れて意識を失ったりなんてしない。
俺を想って…?
そう考えて震えた。
嬉しさで震えそうになる腕を抑えて、そっと彼女を抱き上げる。
腕にかかる重みが、嬉しさを増した気がする。
起こさないようにそっと彼女の部屋へと運ぶ。
ベッドに横たえるとそれ以上は触れないように、部屋の入口に戻る。
彼女が起きるのを待つのはきっとリビングでも構わないだろう。
それでも、この部屋から出ることが惜しかった。
振り返って、入口の壁に寄りかかり、さっき思い至ったことを頭の中で反芻する。
本当にそうなら、諦める理由がない。
祈るように、彼女が目を覚ますのを待った。