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歯車が回り始める時  作者: 黒虹
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惑いと苦渋

彼女の元を離れてから、光輝のマンションで生活をしている。


いつも自分の指定席にしているリビングのソファをベッド代わりにして、生活をさせてもらっている。


気心知れる相手であり、自分の事情を知っているから遠慮しながらも協力を仰いだ。


彼が一人暮らしをしているのも一つの大きな要因ではあるが。


高校の頃までは、よく光輝の実家にもお邪魔していた。


光輝の両親にも可愛がってもらった覚えがある。


特に光輝の父親には返しても返しきれないほどの恩がある。


「相変わらず朝早いな」


「はよ。つうか、お前が遅いだけ。」


もうすぐ9時になるのに、やっと起きてきた光輝が伸びをしながらテーブルの向こう側に座る。


「あー 、俺にもコーヒーくれ」


「座る前に持って来いよ」


俺が飲んでいるコーヒーを見て、自分にもと言うように手を伸ばしてくる。


「淹れてくるから待ってろ」


キッチンに行くとコーヒーを淹れ、光輝に渡す。


テレビのチャンネルを回していた光輝が「今日は講義ねぇの?」と聞いてくる。


もともと3年に上がる前に卒業に必要な単位のほとんどを取得しているので、あまり行く必要はないのだが、3年になった今では単位に関係なく興味がある講義に潜り込んで受けていたりもする。


もちろん担当教授の許可は得ているが。


大抵の教授は自分の専門分野に興味を持つ人間を、快く受け入れてくれる。


バイトしないの?と言われたり誘われたりすることもあるが、大学を卒業する程度の資金であれば、高校の時にすでに稼ぎ終わっている。


社会経験を積むのも楽しそうであるが、大学にいる今しかできないことのほうが俺にとっては必要だと思ったし、何よりも不定期シフトで突然の勤務変更もありうる侑奈さんに合わせたいので、バイトをしようと思ったことはない。


今日もいくつか興味のある講義はあるのだが、昨日の今日では講義に身が入るとは思えなくてやめた。


「俺より、お前の方にそれ聞きたいんだけど。」


こんな時間まで寝ていて大丈夫なのかと心配になる。


「今日は午後から出る…つもりだったけど、気晴らしに宇野の解剖学にでも顔出してみっかな。」


伸びをしながら言う光輝は、俺に「一緒に行くか?」と聞いてくる。


多少なりとも俺がまいっているのに気を使ってくれたのだろう。この誘いは自分が気晴らしをするのではなくて、俺の気晴らしのための誘いだ。


「…宇野先生の講義面白そうだよね。行くんだったらさっさと支度しろよ。」


仕方ないな、と言うかのような反応をした俺に、軽い返事を返した光輝はマグカップを持って自室に引っ込んだ。


一人では講義に行く気にもならないのに、人に誘われると行く気になるのも不思議だと思う。


助けてくれる人がいるというのは本当にありがたいことだ。


おとなしく一人で過ごそうと思っていたけれど、こういう日は一人じゃないほうが気がまぎれるのかも知れない。








解剖学の講義は案外楽しめた。


授業として成り立っているのか、と思うほど解剖学以外の話が多かったが、終始和やかで、豊富な話題と話の構成の上手さに難なく引き込まれていった。


不安な心情がほんの一時軽くなる。


「ありがとうな」


隣で眠そうにしていた光輝にお礼を言う。


「めし、食べに行くぞ」


何の事へのお礼であるのかは、言わずとも分かっているのだろう。それに対する返事はなく、鞄を掴んで立ち上がった。


有無を言わせず、そのまま講義室を出ていく光輝に苦笑しながらその後を追う。


午前中のどんよりとした天気が、今は少し晴れ間が見えるくらいになっている。


季節が変わり始め、肌寒くなってきたなと思うと同時に、寒い風が体ではなく心に堪えるものだなと思う。


たわいもない話を光輝としながら廊下を歩いていると、こちらに手を振る数人の女の子が見えた。


俺の知り合いではないので、隣の光輝に目をやると一瞬嫌そうな顔をするが、すぐにそれを隠し余所行きの外面の仮面が顔に張り付いた。


「井田くーん」


手を振りながら友人の手を引いて近づいてきた女の子は少し頬が上気している。


多分、光輝に想いを寄せているのだろう。きゃあきゃあと言いながら光輝の袖を引っ張り嬉しそうにしている。


「今日みんなで飲み会やるんだけど来ない?」


そう話し始める彼女に、長くなりそうな予感がして光輝に先に行くことを伝えてその場を離れようとした。


「あ!日下君も一緒にどう?学部違うけど、井田君が一緒なら日下君も来やすいでしょ?」


すでに光輝が行くことは決定しているかのような言い方と、顔見知りでもない人間がまるで知り合いであるかのように話しかけてくることに苛立った。


「…ごめんね、俺ちょっと用事あるから。」


不快な思いを隠して対応しその場を離れようとするが、どうしてこう女子は集まると徒党を組んで囲い込むようにしてくるのだろう、いつの間にか進行方向を塞がれている。


「日下君っていっつも飲み会に参加しないでしょ?なんで?たまには一緒に行こうよ!楽しいよ!」


乾いた笑いを浮かべつつ、心の中で暴言を吐いてしまう。


自分が楽しいと感じることを、他人も同様に感じるだろうということをさも当然に思い、疑いもしない。


決して飲み会に参加したことがないわけではないが、自主的でないただの押し付けでしかない他人の集まりに参加するつもりは毛頭ない。


酔っ払いの介抱は侑奈さんだけで十分間に合っている。まぁ、侑奈さんに関しては俺が好きでやっているだけだが。


「悪い、今日は俺ら先約があるから。また今度ね。」


イライラを隠しきれなくなってきた頃、光輝が彼女たちの声を遮って群れの中から連れ出してくれた。


「えー、いっつもそう言って来てくれたことほとんどないじゃん!」


不満そうに声を上げるが、それ以上の追求はしないでいてくれるのは、以前に光輝がブチ切れたせいもあるのだろう。


静かに不機嫌をあらわにして低い声で論破する光輝は、傍から見ていても怖いと思う。


実際にその場にいた女子は泣いてしまったし。


それもあってか無事に彼女たちを突破できたのだが、短い時間だったのに異様に疲れている気がする。


「ああいう誘い上手く断れねぇとこの先苦労するんじゃねぇの?」


「分かってる。」


他人に対して割と八方美人なのも自覚しているが、こればっかりは生まれ持った習性だから仕方ないと思う。


その点でかなり光輝に助けられてきた。


「めし、一旦家に帰るか?」


「そうしてもらえるとありがたい」


午後も講義があるのに付き合わせるのは申し訳ないと思うが、気を紛らわせたい一心でそう答える。


こういう時に恋人がいれば簡単に断れるのだろうと思う。


そう思っても、自分の気持ちが行きつく先は一つしかないことを知っているからどうしようもない。


本当にどうしようもないんだ。


見上げた空は、雲が晴れ青空が広がっている。


俺の心に立ち込めた雲もこんな風に晴れてくれるといいのだけれど。


ため息を一つだけ吐いて、光輝の家に向かった。







家に着く間際、ポケットの携帯が震えだした。


表示は『侑奈』。


ぐっと息を詰めた。


時間が時間だから来るだろうとは思っていた。


玄関の前で鳴り出したそれの画面をただ見ているだけ。


「侑奈さんからの電話?」


画面を見て固まったままの俺には構わず、玄関の扉を開けた光輝がこちらに視線を向けた。


「ああ」


絞り出すように出した声が少し掠れた。


掌の上で震えているそれが表示する名前を見ると、出ないと決めているから余計に胸が抉られる。


すぐにでも声が聞きたいと、通話にしてしまいそうになる。


そんな衝動を何度か押さえ込んではいるけれど、すぐに限界を迎えそうだ。


それでも手の中のものを放り出すことができない。


表示される文字すら愛おしい。


我慢することが、こんなにも精神を削り取られるなんて思わなかった。


今迄の我慢なんて、本当に大したことがなかったのだと思い知る。


やっと鳴り止んだ電話をぐっと握り締めた。


「やめとけ、それ以上は壊れる。」


光輝に腕を取られ、携帯電話を取り上げられた。携帯を持ったまま部屋の中に入っていく光輝の後を追うようにして部屋の中に入る。


「返せよ」


「じゃあ壊すんじゃねぇよ。今はそれが唯一の繋がりだろ。」


不機嫌を露わにする俺に対しても動じることなく、取り上げた携帯をこちらに放り投げた。


「悪い」


「…別に。すげぇムカつくけどな。」


ソファに座った光輝に頭を下げると、そんな言葉が返ってくる。


「…ちがうな、羨ましい、の間違いか。」


テレビを点けながら呟かれた言葉に、ぐっと奥歯を噛み締めた。


「すまない。色々と迷惑をかける。」


「 別に、今更だろ。」


俺の身勝手な行動にも不機嫌になることが無い相手に、本当に頭が下がる。


多分、俺が同じ状況なら耐えられないかもしれない。


けれどこれ以上謝っても、相手を不快にさせるだけだと知っている。


「ありがとう」


呟いた言葉に光輝が少しだけ口の橋を上げた。


「何度も考えた上で、実行したんだろ?苦しいのは分かるけど少しくらいは我慢しろよ。」


「ああ。」


「ぜってぇに成功させろよ。」


「…ああ。」


顔はテレビを向いたままこちらに投げられた言葉に、少しだけ苦渋が混ざっているように感じるのはきっと気のせいじゃ無い。


光輝には開かれなかった道が、俺の前にはあった。


その違いを知っているから、これ以上は何も言えない。


「昼飯、作るわ。」


そう言ってキッチンに入る。


少しだけ気まずい雰囲気を無視するように食材を探し始めた。


今ここで苦しいからと折れるわけにはいかないのだと、自分を叱咤しながら。


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