始まり
「侑奈さんのことが好きなんです」
耳元で聞こえた男の人の声。
それは古い記憶のソレとはもう違う。
後ろから、まるで縋りつくように抱きしめた力強い腕も、もう立派に男の人のものだ。
突然のことに動くことができなかった。
今までだってスキンシップが多かったわけではない。
突然こんな風に抱きしめられれば驚くのは当たり前だろう。
ましてや実の息子のように育ててきた人物から、こんな風にされて驚かない人間はいないと思う。
「蓮司、どうしたの?」
あくまでいつもと変わらないように、さっき聞こえた言葉を無視するように後ろから抱きしめている彼に話しかける。
いつもと同じように…そんな意識をすれば当然いつもと同じようになるはずがないのに、必死で平静を装うとする。
そんな私を責めるかのように、彼の腕に少しだけ力がこもる。
「…離して」
混乱している。
今自分が置かれている状況を把握しようと必死に頭が動くが、状況を正しく理解していても自分の感情がそれについてこない。
拒絶しなくては。
そう思うのに彼の腕を振りほどけないでいるのは、彼の性格を少なからず把握している自分がいるから。
この行動に至るまでに、どれだけ苦悩したのか。
それでも、それを受け入れるわけにはいかない。
「蓮司、離し…」
「侑奈さんが好きなんです」
もう一度拒絶するように彼に話しかけると、私の言葉を拒否するように声が被さる。
「…好きなんです」
呟かれた言葉に彼が震えていることがわかる。
抑えるように、それでも抑えられずかすかに震えている。
震えた声が幼かった頃の彼を思い出させる。不思議とそこで初めて気持ちがストンと落ちた。
軽く息を吐き、なだめるように静かに声を掛けた。
「大丈夫だから、とりあえず離して。ちゃんと話をしよう?」
落ち着かせるように首に回されている彼の腕を優しく叩く。
いつもの保護者の顔で。
いまだに動揺している心を押さえ込んで。
ゆっくりと回されていた腕がほどかれていく。
完全に体を解放された私は少し距離を取るようにして体ごと彼に向き直る。
「座って」
そう言えば素直に彼はテーブルに着いた。
その正面に自分も座り彼を見る。
少しだけ居心地が悪そうに、いつもの自分の居場所に座る彼は、昨日までの彼とは印象が違う。
まだ子供だと思っていた。自分の子供だと思って育ててきた。
それが今さっき崩れてしまったのだと知る。
どうやって声を掛けたらいいのかわからない。居心地が悪いのは私も同じだ。
少しの沈黙が続いたあと、先に口を開いたのは彼の方だった。
「こんなに普通に返されるとは思わなかった。」
気付かぬうちに落としていた視線を上げると、顔を引きつらせるように苦笑を浮かべた彼が目に入る。
こちらに視線を合わせないようにしながら、少し考えるような仕草をしてからふっと私に視線を向けてくる。
合わさった視線に見ていられなくなって、不自然に逸らしたのはこちらの方だった。
「冗談でも、からかってるわけでもないから。さっきの言葉は俺の本心だよ。」
誤魔化す事もなく素直な言葉が心に痛い。
視線を向ければ、先ほどと変わらずこちらを見ている彼の視線とぶつかる。
多分私は困ったような顔をしているはず。
「好きなんだ、ずっと。」
覚悟を決めているのだろう。もう視線が揺るがない。
視線を揺らがせているのは自分のほうなのだ。
様々なことが頭を駆け巡る。
何を言うべきなのか、どう言うべきなのか。少し冷静になったと思っていたのに、やっぱり頭の中はごちゃごちゃになっている。
「…私は、あなたを自分の子供だと思って育ててきたつもりだよ。それ以上でもそれ以下でもない。」
言いながら胸に訪れる痛みに気づかないふりをした。
それは受け入れてはいけないことなのだと、自分に言い聞かせる。
「わかってる。…ありがとう」
そう言って立ち上がった彼は、そのまま踵を返し自室に帰る。
決められていたかのように、そのあとの行動は早かった。
自分の部屋に帰ったと思った彼はすぐにボストンバックを持って出てきた。そのままリビングを通り抜けて玄関へと向かう。
「ちょ、待ちなさい!」
慌てて止めようとする私に、一度足を止めるがこちらを振り向きもせずに早口で話し始める。
「さすがに一緒に暮らすのはもう無理でしょ。侑奈さんが大丈夫でも、俺が無理なんだ。残りの荷物は侑奈さんがいない時に取りに来るから。…捨ててもらっても構わない。」
それだけ言ってしまうと、リビングを出て行ってしまう。
玄関に追いかけたけども、玄関の閉まる音が虚しく響いた。
その音に強く拒絶された気がして、足が止まってしまう。彼を拒絶したのは自分のほうなのに、喉の奥がきゅっと潰れたような気がした。
彼が出て行くとは思っていなかったから。
大学に行くにもここから通っていた。一人暮らしをしているわけではない。彼が帰れる場所はここなのだからと、どこかで安心していたのかもしれない。
ハッとして、すぐに後を追いかける。
エレベーターは1階で止まっていた。
エレベーターが上がってくるのも待てずに、階段を駆け下りる。
マンションの外の道路に飛び出すが、彼の姿はどこにもなかった。
「バカだ、私…」
彼が帰れる唯一の場所を、自分で奪ってしまったのだ。
彼はどこに行ったというのだろう。
ずっと仲の良い疑似親子でいられると思っていた。
それがただの夢でしかなかったのだと、思い知らされる。
彼がいずれ自立して自分のもとから離れていくことは理解していた。
けれどこういう形を望んでいたのではない。そう思っても今更遅い。
探さなきゃ、という思いと、探してどうするのだという思いがないまぜになって足が動かない。
そのまま立ち尽くす以外何もできなかった。