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無垢な頃  作者: 鮎沢琴美
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第四章

 月曜日の朝は今までもっとも憂鬱な時間であった。時間の縛りのない休日から何かに引っ張られるように現実に引き戻される。逃げても逃げても捕まえてくるそれから逃れることを断念し、諦めにも近い感じでこの時間を迎えていたのだが、今は前日の彼女との時間が余韻となりクッションとなりその憂鬱をやわらげてくれる。

「もう起きたの?どうしたの?」

 母が困惑顔できいてくる。

 失礼だな、その言い方は。と思いながらも

「よくわからないけど早く目が覚めた」と答えた。

「そう、珍しいこともあるものね」

 やはり僕が早く起きることは異常である。しかしその以上の原因を思うと顔の筋肉が緩んでくるのだ。

 幸せで少しおかしくなったかもしれない僕はいつもより三本早い電車を待つ。自分の乗る電車が遅すぎて他の学生を見ないということはあったが、今日のパターンは初めてだ。

 生まれて初めてだ。

 電車に乗り、開いたドアと逆のドアにもたれて朝の景色を見る。とても清々しい。僕は別に早く学校に行く必要は無いのだ。朝早く起きたとしてもそのまま家でいつもの時間までゆっくりしていればいい。しかし僕には理由があった、理由といっても全然重要ではないのだけれど。

 優を驚かすのだ。

 優は話によればいつもクラスで一番に学校に着いているらしい。正確に何時についているかは知らない。調べれば良いと言われればそうだが、そんなにこんなイタズラに凝りたくない。 とりあえずいつもより三本早けりゃ優より先に着けるだろうと思い、この電車に乗っている。

 電車が駅に着き、降りる。

 時計を見てその速さに驚く。

 ちょっと待てよ、これで優がもし来なかったらかなり退屈なことになるぞと少し不安になった。


 しかし教室に着いた途端その心配は跡形もなく消えた。

 こっちが待つどころかもう優は着いていた。

 早いって言ってもこんなに早かったんだ。

 優は携帯電話を見ていて廊下に僕がいることに気づいていない。後ろから近づいて驚かしてやろうと思った。

 誰かとメールしているのか、それとも何かのサイトを見ているのか、まさか待受画面をじっと見つめているわけではあるまい。そう思うくらい優は画面に集中していた。

 これはたぶん気づかないだろう。

 僕はそっと優に近づいていく。

 できるだけ足音を立てないように、ゆっくりゆっくり。

 ちらっと携帯の画面が見えた。きっとメール画面だろう、

 『マリ』、『OK』という文字が見えた。

 マリ?

 僕は優の肩を叩いた。

「おはよっ」

「うわっ」

 優は持っていた携帯を落としそうになりながら、あたふたしていた。優は携帯の画面を一度見て、僕を見返して、

「見た?」ときいてきたので

「いや、ちらっとだけ。大丈夫、マリって名前は見えてないから」

「見えてんじゃん」

 僕はおどけてそう言ったが優はかなり焦っていた。しかしひとつため息をついて

「まあ、見たんなら仕方ないけど」

「誰だ?マリってのは?」

「それは教えない」

「なんだ、つまんねえな」

 優は絶対に言わないぞといわんばかりのオーラを出していた。

「わかった、わかった、俺も男だからそんなにしつこくは聞かないよ」

「よし、それでいい」

 結局僕はマリの詳細を優からきくことはできなかった。まあいいさ、誰にだって秘密はある。僕にも如月愛という秘密があるんだから。


 朝の教室でそんなことがあって、始業のベルが鳴って、一日が始まって、いつもどおり授業が進められ、担任の長い話を聞かされ、いつものように門の前で優と別れ、駅まで歩き、駅で電車を待つ。

 いつもと同じようで少し違うのだ、ポケットの中で携帯が振動し、愛する人からのメールが届く。


『今度はどこでデートしよっか』


 どこだっていい。

 君さえいればいい。

 君の笑顔があるだけで僕はいい。

 それだけでいいのだから。


 帰りの電車に乗り込むと久しぶりに空席を見つけた。僕は空席があれば迷わず座ることにしている。毎日電車で立っているからこそ電車で座ることが出来るというのは嬉しく感じるのだ。しかしこの夕方の時刻、程よい温かさと電車のゆれ、睡魔に勝てる自信はない。


「中学も一緒になったね」

「当たり前だ。校区が一緒なんだから」

「それもそっか」

 中学の入学式で当たり前のように言葉を交わす僕と圭。

「全然、中学生になった気がしないよ、勉強とか難しくなるのかな」

「圭なら大丈夫だよ、がんばりやだから」

「そりゃそうよ、私は大丈夫よ。心配なのは」

「僕?」

「そう、小学校のときみたいにいちいち勉強を教えないといけなくなると今から心配で」

「大きなお世話だよ。中学からは定期テストがあるらしいけど絶対に負けないよ」

「心配しなくても教えてあげるよ、算数とか、あ、中学からは数学だね」

「全然人の話聞いてないんだな、見てろよ、絶対に勝ってやるからな」

「はいはい、楽しみにしておくよ」


 入学式に桜というのは切っても切り離せないもののようで僕の中学にもたくさん植わっていた。風が少し強かった入学式当日、新入生を歓迎するように花びらが舞って僕はその景色をずっと見ていたかったがあわただしい進行の中そんな暇はなかった。


「中学になったけど、またよろしくな」

「うん、よろしくね」

「じゃあ行くわ、クラスで集まるみたいだし」

「そうだね、私も行かなくちゃ」


 僕のクラスには小学校時代の友人はいなかった。何人か見知った顔はいるものの僕は少しがっかりした。でもだからこそ新しい友人を作るチャンスでもあった。教室に入って僕は少し不安だった。出席番号で僕の名前は真ん中くらいになることが多い。だから座席の位置も真ん中の列の三番目でクラスの中心に位置とっていた。知らない顔ばかりでつまらないなと思っていると僕の前に座っていた生徒が僕を振り向きこう言った。


「よろしく、名前は?」


 あまりに突然で、しかもあまりに簡略化された台詞に一瞬戸惑い、座ったまま一歩後ろにひいてしまった。僕はすぐに体制を整え、笑顔で名前を言い、今度は逆に

「君の名前は?どこの小学校?」

 そう聞き返した。彼とこんなに仲良くなるとはこのときは思っていなかった。優と初めて言葉を交わした瞬間だった。


「一緒に帰ろ」

 ある日、優が僕にそう言った。

「いいよ、でもいつも小学校のときの友達と帰ってるんだ。その子も一緒でいいかな?」

 少し遠慮しながら僕が言うと

「全然かまわないよ、人数多いほうが楽しいし」


「僕の幼馴染の圭、こっちは僕のクラスメートの優」

 僕は帰り道お互いを紹介した。

「よろしくね、優君」

「こちらこそ、圭ちゃん」


 中学校の生活が始まった頃はいつも三人で下校していた。クラスであったことを話し合ったり、好きな歌手について話したり、ただふざけあったり、帰り道がいつも楽しかった。毎日三人で帰っていたが優はいつも途中の道で別れた。優は僕や圭より少し家が遠く方向も違ったし、最寄り駅もひとつ違うくらいだった。


 少したったある日、圭が一緒に変えるのをやめると言い出した。僕は少し残念だと思いながらも仕方ないと感じていた。同じクラスの友達と帰りたいらしい。女同士で話しながら帰りたいのだという。それから別々の帰り道になった。圭とはそこから一気に疎遠になったような気がする。話さないわけではなく、お互い避けているわけでもなく、それぞれ友人を見つけ、中学生活を送っていく。それはごく自然のことであった。圭と前みたいに話したのはいつだったか何度かあった気がする。いつだっただろうか。


 電車の扉の開く音がする。その音で目覚めた。しっかり眠ってしまっていたらしい。振り返ってどこの駅かを見た。僕の降りる駅をひとつ過ぎていた。

 しまった、寝過ごした。

 急いで電車から降りた。

 階段を上がって反対ホームに行かなければならない。

 携帯電話を見るとメールが一件受信されていた。


『今度は買い物デートってことで、それでいいかな?』


 メールを見て完全に夢から覚めた。急いで返信する。


 また五十嵐圭の夢を見てしまった。


 夢についてこんな話を聞いたことがある。夢とは記憶の整理だという説だ。過去をすべて脳に記憶させようとすると脳がパンクしてしまう。そうならないために必要な記憶と不必要な記憶の選別を眠っている間に行っているらしい。その選別作業にかけられている過去の映像が夢であるという説。

 もう一方で夢とは人の無意識を映すものだとも言われる。自分の中で意識は全くしていないが、無意識に強く思っているために同じ無意識状態である睡眠中にその映像が夢として流されているという説。


 僕は忘れようとしているのか、それともどこかで強く思っているのか。


 反対ホームに着くと次の電車のアナウンスがされる。ちょうどよかった、あまり待たなくてよさそうだ。日はすっかり沈んでしまっていた。頭の中ではさっきの夢がまだぐるぐる回っていた。


 僕は忘れようとしているのか、それともどこかで強く思っているのか。


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