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無垢な頃  作者: 鮎沢琴美
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第三章

 今日は時間に遅れる心配もなく待ち合わせ場所についた。ただ少々早く着きすぎたかもしれない。

 今日如月愛に会える。

 その嬉しさが空回りしすぎたからかもしれない。

 いつもはあまり着ないジャケットの類を羽織っているからなんとなく体がむずがゆい。

 約束は前と同じ二時、現在十二時五十三分。いつまで持つかわからないが仕方なく携帯電話の画面を見て過ごす。音楽配信のサイトやニュースサイトに目を落としボタンを順々に押していくがその内容は全く頭に入ってこない。電源ボタンを押して元の待ち受け画面に戻る。時計はいつもの十倍遅く進むのだ。会いたくない人に会うとき待ち時間はすぐに過ぎていくのに。

どうしてだろう、無性に会いたい人を待ってるときはどうしてこうも数字は動いてくれないのだろうか。

 如月愛と出会ってからちょうど一週間が経った。

 もちろん平常どおり高校生として生活している僕、いや、僕らがゆっくり会えるのは休日しかないのだ。それに彼女は土曜日アルバイトをしているらしく、会えるのは一週間でたった一日しかない、一ヶ月にたった四日、とても貴重だ。そして会えない時間が長くなると会いたいという気持ちが増していくという当時はあまり実感がわかなかった有名なラブソングの歌詞の意味についてこの一週間で理解することができたのだ。しかし今まで退屈で空虚だった日々の中に一週間にたった一日でもこんな日があるとそれ以外の日々も変わってくるのだ。

             

 「最近、何かいいことあったのか?」

 優は必ず見抜いてくる、今週の月曜日、つまり彼女と会った翌日にだ。

 「別に」

 僕はここで優に言ってしまってもよかったのだが、それじゃあ少しつまらなかったので「何にもないけど」

 このまま会話が続くといろいろ訊かれそうな気がしたので、全く心に思っていなかったが、

 「おまえこそ何かいつもと違うぞ、何かいいことあったのか?」

 そう適当に訊いてみたら

 「そ、そんなことない」と、どこか焦った返事をしてきたので、僕は少し驚いた。

 まさか優にも、か?

 僕はそれ以上何もきかなかった。こっちに返ってくるのがいやだったからだ。

 僕の表情は簡単に優に読み取られるが、優の表情を僕が読み取れるということはない。

 それは単に僕が感情の起伏が激しく表情に出やすいが、優は比較的表情の上では感情の変化はあまり見られないからだと思う。

 当たり前だが優にもやはり心の奥底ではいろいろと思っていることがあるんだろう。さっきの焦った表情がその証明だ。

 そんないつもと少し志向の違う会話を終えると、またいつもの会話に戻る、そして校門まで歩く。

 そんなほとんど変わらない日常も僕には少し明るく見える。

 高校生のカップルを見たって、政治問題のニュースを見たって、授業が難しく退屈だとしてもだ。


 一時五分、全然時間が過ぎていかない。

 今日は彼女が見たい映画があるということで街中まで出てきた。

 いつも利用する駅と何が違うって人の量だ。電車が駅に着き扉が開くたびに多くの人の波が押し寄せる。改札口を待ち合わせ場所に指定された僕はその光景に参ってしまう。

 というのも自宅に近い駅も高校の最寄り駅も比較的小さな田舎の駅だからラッシュの混雑も知れている。だからこんなに大勢の人が行き交うと人に酔ってしまいそうになるのだ。

 よほど大事な用がない限りはこんな場所には来ないのだが今日はよほど大事な用があるので胸を躍らせながらやってきたのだ。たとえ彼女が待ち合わせ場所を薄気味の悪い孤島にしたとしても僕は必ず一時間前にはその場所に到着していることだろう。

 今僕は幸せなのかもしれない。

 これがまさに今まで僕が求めていたものなのだ。

 さあこの退屈な時間をどうしようか。

 

 そう思っていると清楚な感じの女性が僕の方へ向かってきた。髪も黒髪で、やさしい色合いのワンピースを着ている。少しわからなかったが彼女は間違いなく如月愛だった。以前のギャルっぽさはどうしたんだろう。

「早く着きすぎたと思ったんだけどあなたのほうが上手だったわね」

「雰囲気が変わるね。どうしたの?」

「似合わないかな?」

「いや、僕はそっちのほうがいいかな」

「よかった」

 一時十二分。

「私、早くあなたに会いたくて」

 僕は今世界中の男からうらやまれる高校生ではないか、こんなことがあっていいのだろうか。僕に会うために、会いたいがために待ち合わせ時間の五十分前に来てくれる女性がいる。

 「僕も君に会いたかった、この一週間君のことしか考えてなかった」

 少しかっこつけすぎたと思ったが、彼女は微笑んで

 「じゃあ相思相愛だね、嬉しい」と僕の耳元で囁いた。

 僕はなぜかすごい不安に思えてきた。

 こんな風で良いのだろうか。

 僕はずっと退屈な生活を送ってきた。ドラマや小説のような理想の世界に憧れてはいたものの現実の世の中を知ることによってそのことをあきらめざるをえなかった。もちろん意識してあきらめたわけではなく。そんな日々を過ごすうちに世の中はこんなもんだと高校生にして少々悲観してみていたのだと思う。でもそれはそれでリアルであり、少々の不自由を感じても それでやってきた。

 でも今の状況はどうだろう。

 彼女といると、彼女のことを考えると自分の中の満たされたい部分すべてが潤っていく。不足は何もない、不満も何もない、少し何かあったとしても簡単に乗り越えられるし、蹴飛ばせる。

 僕はここ数日で全く別人になってしまったようだ。

 人に恋するというのは、人から愛されているという実感は人を変えるのだ。

 いいんだよな、これで。

 たぶん。

 こんなふうにややこしく考えるのだって隣で並んで歩く彼女の横顔を見れば知らぬ間に消えているのだ。

 彼女のすべてに見とれ続けていた僕はすでに映画館についているのを彼女の声で気づかされた。

 「あっちょうどいい時間。早く券買いに行こ、あとジュースとポップコーン」

 「オ、オッケー」

 そういえば何の映画みるのか聞いてなかったな、いや聞いてたか。さっきここまで歩いてくるときにずっと彼女の顔見てたから、話には注意してなかった。今度からは彼女の言葉を一字一句聞き漏らさず聞こう。そんな自分でもバカだなと思うことを考えながら、電光掲示を見た。

 そうそう「シトラスミント」ってタイトルだ。コマーシャルで何度か見たな、たぶん青春もので、どんな感じだったかな?

 「学生証だってさ」

 「え?ああ」

 お金のない学生にとって学割は重要だからな。

 「ねえ、どうしたの?ずっとぼうっとして」

 「あ、いや」

 「さっきからなんか変」

 「いや、その、嬉しすぎて」

 「もう」

 彼女は少し赤くなって僕を押した。

 僕はもうどうなってもいい。

 こんなに食べるのかと思うくらいの一番大きなサイズのポップコーンを抱え、ジュースを持ち、座席を目指す。

 「ここか、ちょうど見やすい位置だね」

 少し彼女と話しているとすぐに暗くなり始めた。

 「ホントにちょうどだったね」

 「お客さんいっぱいだね、やっぱりこの映画人気なんだ」

 彼女は本編前の予告編も真剣に見ていた。彼女は映画が好きなのだろうか。僕はあまり映画を見ない、それこそデートコースの一部くらいに思っていたから。たぶん僕は映画が始まっても内容に集中できないだろうな。

 いや、でもちゃんと見て、あとで彼女とこの映画について話すことが出来る。映画について話す如月愛を想像するとかなりほほえましくて、まだ本編も始まっていないのに僕は有頂天になっていた。

 しかし、本編が始まると彼女だけでなく僕もじっと見入ってしまった。僕らより少し上の大学生の話であるがなんだか切ない雰囲気がその世界を彩っていて、危うく泣いてしまうのではないかとも思った。


 『ごめん、ずっと言えなかった。マジだったから勇気が出なかった』

 『何?急に改まって』

 『好きだ、それだけ言いたかったのに言えなかった』

 『私、知ってたよ。ずっと前から』

 『え?』

 『だからずっと待ってやろうって思った。私にその言葉を言ってくれるまで』

 『待つって』

 『そうよ、もし大ちゃんが私じゃない誰かと付き合ったとしても結婚したとしても』

 『絵里?』

 『私もずっと好きだった、大ちゃんのことずっと好きだった』


 結局僕は泣いてしまった。

 僕が以前の心理状態ならこんなことはないのかもしれない。大ちゃんと絵里のありきたりな恋物語に感動したりはしないかもしれない。それだけ僕の心は浄化されているのだ。   

 横を見た。彼女も泣いていた。僕の上着に彼女の手が触れた。上着越しに彼女の手の感触が伝わった。僕の心臓が高鳴った。どこかでここはチャンスだと思っていたのかもしれない。彼女のほうを見ると彼女のほうも僕を見つめてきた。今度は彼女が僕の手を握った。僕の上着に触れたのはその合図だったのかもしれない。

 僕はぎゅっと強く優しく手を握った。

 本編が終わりエンドロールが流れ始めても出て行く客はあまりいなかった。涙をすする音が館内に響き、エンディングテーマに重なった。映画が終了してホールから出るときも僕と彼女の手は繋がれたままだった。

 そして夕日に染まる街を二人で歩いて、彼女の門限の時間になって別れた。

 彼女との距離がまた縮まった気がした。


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