10 ヨハン
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「インスタント・ヌードルほど偉大な発明品はないね」
ヨハンはお湯を注いだカップに蓋をかぶせながら言う。
紙製の蓋に重しをのせてから砂時計をひっくり返し、自身は螺旋階段の中ほどに腰掛ける。その位置は、ちょうど室内を一番広く見渡せた。
部屋の入り口付近にあるダンボール箱には、インスタント食品が詰め込まれている。そのダンボール箱を覗き込み、あきれ果てた表情を浮かべる青年がいる。――彼の名は、マキ・セイファという。
彼は小さなころから妙に几帳面な性格で、ヨハンがするような大雑把なことを決してしなかった。散らかしっぱなしを嫌い、規則正しい生活を好む。整理整頓されたかばんの中には必ずハンカチとティシュが入っている。
現在はイスヴィラ市内にある総合芸術大学に通っている。すでに在籍二年目なのだが、友人は得られていないらしいとヨハンは感じている。
――なぜならば、市内から来るには一時間以上かかるこの天文台に、ちょくちょく足を運んでくるから。
友人なり恋人なりが近くにいるならば、そっちとの交流が忙しくて当たり前だ。世間から捨てられた天文台に住む、世間からは外れた男などに構っている暇、普通はないだろうに。
「なんで僕の周りには生活が破綻してる人間ばっかりなのかな」
セイファは心底あきれた様子で呟く。
「失礼だな。人類の宇宙進出への歩みを止めないための、大事な大事な研究だぞ。そのための昼夜逆転生活だ」
ヨハンの腰掛ける螺旋階段は、屋根裏へと続く。そこには天体望遠鏡があり、かなり精密な観測のできる設備が整っていた。星を観測するためにはやはり夜がいいので、昼過ぎに起き出して一晩中起きている、という生活スタイルになってしまう。
「ヨハンに対しては、食べ物のことを言ってるんだよ」
「効率、優先順位、選好順位の問題だな」
砂時計の砂が落ちきったのを見て、ヨハンは蓋を剥ぎ、カップと箸を持った。
「うん、のびかけ最高」
「・・・・・・」
ものを言うのも嫌そうに、セイファはため息をついた。
あきれながらも彼は何度だってここへ来る。口と態度ほどに、ヨハンの生活を嫌っているわけではないのだ。
現に今も、机の上に散乱した計算の跡や、天体の写真に興味を示している。
「今日は、何しに来たんだ?」
「風景の写生」
「ふうん。ま、お好きに。食べ物はインスタントばっかりだけどな」
「だと思って、いろいろ持ってきてるよ。っていうか、不法占拠はいい加減にやめなよ。ちゃんとここを住所登録してくれれば、宅配便使えるのに」
「研究所にバレたら捕まるからなぁ。下手したら研究施設に一生缶詰じゃん。ほんとやめてほしいよなぁ、研究所の独裁」
「研究所に学費全部出させて就職しなかったあんたは言える身分じゃない」
「はっはー。そうかもね」
会話をしている間に、カップの中は空になった。汁まで飲み干している。
食事を終えれば、再び観測と分析だ。最低限の生きるための行為を除いて、ヨハンの生活はそれらに捧げられている。
「さってと。好きにしてくれていいが、邪魔はするなよ。あと、夜食に期待してる」
ヨハンの笑顔に、彼は渋々うなずく。
観測所の心臓部は、ヨハンが今座っている螺旋階段を上った先にある。
旧世界でも、それなりに名の通った観測所と望遠鏡である。
天文学は、平面世界となってからはほとんど切り捨てられた学問だ。天文学だけではない。システム維持に必要な学問以外は無駄だとされ、その歩みを止められた。科学の発展を支えてきた基礎研究にはほとんど研究費がまわらない。
世界は閉塞感に満ちている。
それは発展がないからだとヨハンは思っている。
狭い観測部屋へと体を押し込める。周囲は計測器とそれにつながれたコンピューター。一人だけでは到底把握しきれない量のデータが毎日毎日蓄積されていく。
このデータは、いつかどんな学問も自由に追究できるようになったときに役に立つはずだとヨハンは信じている。
宇宙は刻一刻と変化していく。見逃してはならない。この世に生を受けたならば、生きている限り、目に、脳に、この世界の姿を焼き付けてゆくべきだ。
「ヨハン」
階段下から、声がする。氷のように滑らかに見せ、その下に温度を湛えている。そんな声だ。
「見せてもらって、いい?」
ヨハンは「おう」と短く答える。
セイファは知的好奇心旺盛だ。こどもの頃から変わらない。――こどものすべてが、知的好奇心は旺盛だろう。成長する段階で、それを削がれない環境に、ヨハンもセイファもいることができた。環境を整えてくれたのは、システム研究所だ。それについては、心の底から感謝している。きっとセイファもそうだろう。
「ねえ、新しい星見つけたの?」
セイファがモニターを食い入るように見つめながら言う。
「ああ、それか。今まで別の天体の影になって見えなかったんだ。発見できて当然なんだよ」
「ふうん」
「観察は大切だよ。計算だけじゃすべてを把握できやしないんだから」
「うん」
「それに、計算するには観察から得られる膨大なデータがいるんだ。だから俺はここにいる」
「知ってる」
人の中に蓄えられた知識と経験は、その人を一生援け続けるだろう。だが、人類が積み上げる知識は脆い。絶え間なく確実に知識を受け継ぎ伝えていかなければ、失われてしまう。知識だけは紙上に残るかもしれないが、それを理解し確かめるための技術や機器は維持し続けなければあっという間に消えうせるのだ。
けれどシステム研究所はほかの学問を無駄だと切り捨て、なおも続けようとする人々を弾圧する。旧世界の知識は記録してあるからと言って。
「俺は研究所には戻らない」
「・・・うん」
今言ったことは、いまだにシステム研究所と関わり続けるセイファには、どんなふうに響くだろうか。ヨハンは観察を続けながら、頭の片隅で考える。
セイファが人生の目的に芸術を選んだ、とは思えない。
セイファはレナの後を追い続けている。きっと、ただそれだけだ。
ある種、世界でもっとも〈レナラスト〉に影響された人間だろう。
過去の上に今が存在しているのだから、過去を引きずるなというのはきっと無理な話だ。――今になってみれば、遠い記憶。懐かしい思い出。
やっと口をきけるような幼児から、十五歳までが一緒くたに同じ部屋で生活していた。古くなったコンピューターや、さまざまな計器がおもちゃで、遊びと学びはほぼ同義だった。
今思えば大人たちの――システム研究所の思う壺だったのだろうが、毎日が楽しくて仕方のなかった頃でもあった。
今も好きなことをやっているから楽しい。ただ、生きていくための最低限を自分で確保しなければならない煩雑さがある。
(まあ、それが人生だろう。お前も悩め悩め)
四歳下の幼馴染は、相変わらず興味深げに辺りに散らばる資料やモニターを見ている。それを横目で見ながら、ヨハンは小さく笑みをこぼす。




