西園寺薰
夜間のバイトは校則で禁止されているため充は家からだいぶ離れたコンビニまで足を伸ばしていた。電車とバスで乗り継いで一時間。しかも都会の方からは逆走したベットタウン。ここまで来れば誰も充のことを知るものはいるまいという算段だった。
そもそも受験を控える高校三年生がバイトなどしているとは誰も想わないだろうが、もしも生活指導部の岡山なんかに見つかってしまった日には大変なことになる。
帰宅ラッシュを乗り越えて、少し暇になったので、充は息をついて時計を見た。
時間は九時半を指し示している。後三十分で今日の仕事は終わりだ。ちらほらと幾人かはまだ店内にいるが、ラッシュ時に比べればだいぶましだった。
相方の店長はそうそうに休憩室に姿を隠し、出てくる気配を見せない。ラッシュ時には流石にレジを打っていたが、充は店長がまともに働いている姿を見たことがない。
もしかしたら僕が店長だと想っている人は架空の人物ではないでしょうか――などとくだらないことを考えていると、自動ドアが開く。いらっしゃいませ、と声をかけようとしたところで声がつまる。
絹のような長い髪に、白磁のような白い肌。誰もがつい目で追ってしまうほどに美しい女性。
紛れもなく西園寺薰がそこに立って居た。
ここでアルバイトをしていて同級生が来店するのは初めてのことだった。隣のクラスで、今まで口をきいたことはないが、むこうも僕の顔くらいは覚えているかもしれない。
これは想定外だ、やばいぞ――と充は内心で冷や汗を垂らす。学校内で誰それが何をしていたなどという噂話は速やかに広がるものであり、そしてそれが規則から逸脱しているものであればなおさらであった。なるべく顔を見られないように西園寺から顔を背けてみせたが、効果のほどはわからない。
充は横目でちらりと西園寺の行動を見る。まっすぐと飲み物コーナーへ進んでいた。恐らくこちらには気がついていないのだろうと、充は安堵の息を吐く。
問題はレジに商品を持って来た時だが、仕方がない。そのときは架空の店長をどうにか召喚して、自分は品だしという名目で逃げよう。
店長を呼ぶためバックヤードに行こうと想い意識を戻したとき、目の前に髪を金色に染めた客が立って居た。西園寺さんの動向を気にしすぎて気がつかなかったようだ。
くしゃくしゃの鞄を肩にかけ、ここらでは見かけぬ学生服を着ている。腰のあたりには呪い師であるのか聞きたくなるほどチェーンを巻いて、じゃらじゃらと音を鳴らしていた。そして辺りを威嚇しているかのように眉間に皺を寄せ、ぶっきらぼうに「7番」と口にする。タバコの種類のことを口にしているのだろう。
温和しく渡してやれば全て丸く収まるのだろうな、と想いつつも仕事である以上はその責任を果たさなくてはならなかった。
この後の顛末に、充は気がつかれないよう小さく嘆息をつく。
「お客様、身分証のご呈示をお願いします」
「ああ。うるせえよ。てめぇは黙って出すもん出しゃあいいんだ」
「未成年へタバコを販売するのは法律で禁止されておりますので……」
「うるせえよ、てめぇ。やっちまうぞコラ」
今時コラかあ。などと場違いなことを想う。
レジ前が不穏な空気になっていく。これはやはり暴力的帰結を迎えてしまうのだろうか、と充は他人事のように考えながら、迫り来る結末に備えるため身を小さくした。問題が生じているのは分かっているはずなのに店長は未だに出てこない。やはり店長とは架空の人物であるらしかった。
周囲の手助けを得られないかと期待したが、みな脅えた目でこちらを見ている。外部からの手助けも期待できそうもない。これはいよいよ確定したみたいだぞ――と充は自らの勤勉さを悔いる。
西園寺の方を気にして、ちらりと視線をやると、彼女も片手にオレンジジュースを握ったままこちらをじっと見つめていた。せっかく自分の存在を知られないようにあれこれと考えていたのに全ては無駄だったみたいだ。
「あまり乱暴なことをされますと警察を――ッ!」
最後まで言い終わる前に胸ぐらをつかまれる。善良な学生生活を送っている充はこのような威圧的行動に慣れていない。健康優良不良少年が常日頃から身を置いている、非生産的な暴力的環境下に引きずり込まれてしまっていた。自分には不慣れな領域内での勝負は奇策の一つや二つがない限りは避けるべきである。
つまるところ、正論しか持たない充は目の前の不良に圧倒されてしまっていた。
しかし充は冷静だった。脅えながらも、どこまでもこの出来事を客観視していた。それもそのはずだ。充は既にこのことを知っていたのだから。
そして充の記憶が正しければそろそろ――。
瞬間、視界がぶれる。身体はそのまま後ろに倒れ込み、気がついたら床に突っ伏していた。右頬がひどく熱い。殴られたのだ、と理解するのに数秒を要した。そして遅れて悲鳴。舌打ちと共に走り去る足音。
タバコが買えない腹いせに店員殴り飛ばしてそのまま逃げ出すなんて、どれほど短絡的な生き物なんだ。充は心の中で悪態をついて緩慢な動作で立ち上がる。
周囲を確認するとそこには固まっている四十代くらいのおじさんと、携帯を片手に持っている厚化粧のおばさんしかいなかった。西園寺の姿はない。西園寺は暴力的な光景に耐えきれずコンビニを後にしたのだろう。充も話したことのない同級生が不良に絡まれていたら、何となくバツが悪くなって足早で立ち去るであろうから、彼女の行動は当然と言えた。
充は西園寺が自分の顔など覚えていないことを祈りながら、携帯を持って警察に連絡をしようとしているご婦人を制止する。
「大丈夫ですよ。大丈夫。警察に連絡しなくても平気ですから」
「え、で、でも……」
「大丈夫ですよ。後はこちらで対応しますから。大変ご迷惑をおかけいたしました。こちらのレジへどうぞ」
「は、はあ。それなら……」
そのまま店内の客の精算を終わらせる。せっかくのご厚意はありがたいが、そして自らも警察の介入を示唆した言葉を使用したが、実のところ大きな問題にされるのは充にとってもよろしくなかった。学校に秘密にしてアルバイトをしている身分として、面倒ごとは避けられる限り避けなくてはいけない。
普通は店長が何らかの対策をとるべくして行動するはずなので、その説得も考えなくてはいけないのだが、幸いここの店長は架空の人物なので心配する必要がない。
はあ――と嘆息をつく。
解っていたとはいえ、やってられない。口の中を少し切ったようで、鉄の臭いが口内に充満しているのも不愉快だ。まったくついていない。
うつむいて自分の不運さを呪っていると、すっと濡れた青色のハンカチが目の前に表れた。
「大丈夫? 充君?」
そこには心配そうな表情を浮かべた西園寺さんが居た。
呆気にとられる充に対して西園寺は続ける。
「そこのトイレで冷やして来たの。ごめんね。本当に大丈夫?」