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ならば応援の騎士が来ないうちにもう一度だけ円満解決を図ろうと、職務に反した差し出口を挟むディーバだ。
「なぁ嬢、こやつはそれなりに手順を踏んでおる、無理強いを招いておるのは嬢じゃぞ?命花かどうかなど狼でなくば分からぬ事、命花でなくとも主花には成れよう。こやつを憎からず思うなら何故受け入れぬ?わしには解せん」
「止せよジジイ。所詮狼と花、分かり合えねぇなら力ずくだ。おら行けよチビ、掻っ攫って引ん剥いてお前の花を奪ってやる。お前が誰のものか思い知らせてやるよ」
射抜くような視線を胸の一点に受け、トレニアはじわりと後退る。
冴え冴えとした狼の眼差しはもう、人格を持つ“ヒト”を見るものでなく、理性ある“ヒト”の持つものでもなく。
「嬢っ、覚悟を決めよ!こやつ堕ちるぞっ!!」
「いいじゃねえか、命花に拒まれた狼に何の価値がある?」
「……主花としてすら認められない花と、どっちが無価値か分かんないけどね」
疲れたような、諦めたような、けれど奇妙に焦燥の欠けた。
無邪気な声音に似合わぬ、溜め息のような囁きだった。
耳の良い狼達が聞き漏らす筈も無く、不審気な面持ちでトレニアを見遣る。
「将軍と逢わなきゃボクは自分が一花片だからって恥じずに済んだ。恨むことなんかなかったよ」
貫頭衣を嫌うトレニアはいつも男物のような薄手のシャツを纏っている。
その前身を閉ざす小さなボタンをぎこちなく外しながら、ゆったりと狼の方へ歩を進める。
「怖いよ将軍。そんなに必要としてくれても、ボクは主花の器でさえないかもしれない。一花片にも自尊心はあるんだからね?」
しどけなく開ききった前身ごろをくしゃりと掻き合わせ、迷い果てた末の凪いだ声で自らの花護を制する。
「少し、退いてほしいんだディーバ」
ディーバは黙して過ぎるほどに潔く回廊の端まで引き下がり、優雅な一礼を取った。
覆われた眼は表情の多くを隠すが、くるりと外を向き見ざる聞かざるの姿勢を示す姿は、事態好転の風向きを嗅ぎつけ今までにないキレが戻っていた。
一方狂おうと務める狼にしても逃げるから追えるのだ、拒まれてこその狂気なのだ。
命花と思い定めた花に正面からひたと見据えられては、本能が醜態を曝すなと騒いで下手な動きは取れない。
「花統も意識して聞かなかった。僕の香りが分かるかだなんて冗談としても聞けなかった。ボクが緋紋に変わった日、変な顔してたから、もしかしてとは思ったけど……将軍何も言わなかったから」
「ここの奴らは誰でも知ってるし、聞いてるもんだと思ってた。それに怖いだろ?蕾の頃といきなり態度変えたら……」
「うん、きっと困っただろうね。もしそうだったらって、思うだけでもそわそわしてたもん」
「おい、妙な態度とるんじゃねえよ。今更思わせ振りなこと言ってんなっ、お前は俺の花になるのが嫌なんだろっ!?」
「違うってば。嫌なんじゃない、怖いんだよ。一花片のボクなんかが将軍の、世界に一つの命花な訳がない、そんな奇跡が起こるもんか。それは諦めるよ、でも主花にさえ成れなかったら?ボクたちの位の差は圧倒的だもん、そんな主従お伽噺だよ」
「待てよチビ、何が言いたい?」
「貴方達に一蹴された断り文句だって本心だけど。ホントの一番は誓言を交わしても主花になれなかったら屈辱的だからだ。でもごめんね、将軍を傷付けた」
「俺を……嫌がったわけじゃねえのか?」
「うん、当たり前だろ!」
「…………俺の命花になる気はあるか?」
「それは絶対ないと思うけど、まあ将軍の為なら泣いてあげる。試してみるよ、だって……お詫びはしなきゃね?」
開いていたシャツを肘までずらし、白い肌着の襟元を思い切りよく引き下げるトレニア。
薄っすらと肋骨の浮く厚みのない胸元で、小さなハート型の花紋が清艶に映える。
くすくすと悪戯に笑うのは照れ隠しのせい、無防備に肢体を曝す羞恥に身体中が薄紅に上気してゆく。
立ち昇る芳香が、その姿すらも、狼をこれでもか!!と、刺激する媚薬だとは気付きもせずに。
「花紋をどうぞ、《旦那様》」
戯れのような呼びかけに滲む、隠しきれない思慕こそがトドメ。
回廊の端で佇むディーバが成り行きを追っていた耳を思わず塞ぐほど、甘ったるい雰囲気を振り撒いていることなど気にも留めぬ両者は、メロメロと見詰め合った末引き寄せられるように距離を縮めた、が、しかし。
「……ねえ将軍、怖いから。刃物持ったまま近寄んないで」
「うおっ、すまん!」
「わあっ投げちゃ駄目だよ!それはディーバの大事な剣だろ!?」
「ま~だ言いやがるかこのチビっ、この期に及んで浮気者が!!……叩き折るぞ?」
もういい、めろめろでいいと、勝手な遣り取りから愛刀を守るべく喚き出しそうな口に今度は手をやり、必死に存在感を消す苦労性のディーバ。
一通り言い合った末、太刀は無事廊下の端に置かれ、両者息を荒げつつも仕切り直しとばかりに対峙する。
「じゃあヤっちまうからな、後で泣くんじゃねえぞ!?」
「将軍こそ覚悟はいいの?そっちこそ泣いたって知らないからっ!」
葛藤など忘れて向き合っているようだが、やはりそこには年長たる狼の配慮がある。
なんせ跪いても頭一つ以上に差がつき、引き寄せる為とった手の平は己の半分程度で。
肩も首も貧弱そのもの、吹けば飛ぶような華奢な身体の持ち主に男として触れようというのだ。
少しぐらい気を逸らしておかなければ、怖がられてしまいそうで。
「なあ、本当にいいのか?生半な覚悟じゃ弱い方に負担がかかる。迷ってんなら……」
「次なんかないよ」
「マジかよっ!?」
「遠慮はいい、言葉じゃなくて気持ち、見せて?」
こくり、頷いた狼はそのまま顔を上げない。
首肯の仕草に繋げてのいきなり花紋を覆う吐息だ、ひゅっと息を呑み逃げそうになる痩身を太い腕がきつく抱き留める。
背から後頭部に添う左手、右手はほっそりとした腰に絡めてしならせ、曝された胸元に喰らいつく狼。
柔い温もりが掠めたのも一瞬、とろりと熱い感触が幾度も幾度も執拗に花紋を弄る。
トク、トクと緩やかに早まる鼓動と共に心地良い精気が花紋を核に渦を巻く心地、トレニアが震える息を吐く。
覚悟していたような痛みも衝撃も無く、むしろこのまま微睡んでしまいそうな圧倒的な安心感に浸されてしまう。
半信半疑どころかきっぱり片を付け、諦めてもらう為に臨んだ形ばかりの儀式だったのだ。
だというのにどうした事かこの安堵、充実感に達成感、ナンとかかんとかなりましたと、言わんばかりの幸福感。
一縷の予感がぞくりと背を駆け、恐る恐ると声を出す。
「しょーぐん……?」
無言という返答、ふっ、ふっと細かな息を吐く狼は埋めた顔を上げる気配もない。
「将軍ってば!」
依然変わらず、呼気に混じりる濡れた響きに合わせ黙々と塗り重ねられる熱。
トレニア、咳払いを一つ。
「お顔を見せて?旦那様」
限りを尽くした甘い囁きに、ぴくぴくぴくぅっと長い耳が震える。
愛らしくも現金なそれを細指が摘み上げぎりりと引っ張ると、それでも焦らすように緩々と。




