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「ディーバ!!」
ゆったりと生まれた、どこか風変わりな抑揚で響く声。
花の呼び声に応え回廊の端から姿を現したのは、小柄ながらもがっしりとした壮年の狼だった。
視界を殺す顔半ばのベールが異様だが、神聖騎士たる漆黒の衣服に【スマラクト】を表す新緑色の腕章。
鮮やかに、誇らかに目を射るそれは、花護の任に在る者の証だ。
「我らの守護する大切な花にさても無体な仕打ちの数々。花を恋うるは狼の性、野暮はすまいと控えておれば力ずくに騙し討ちとは片腹痛い。うぬにトレニア嬢を得る資格は無いようじゃな」
「……空気読めよ野暮天が、散々傍観しておいて今更邪魔する気か?」
気付いていたのだと、事も無げに認める狼はしかし余裕綽々の態だ。
現れた狼の両の目を覆う黒布は《冥眼》の証。
かつて花の一片を得ながら、むざむざ喪った哀れな盲目の狼。
相手が神聖騎士といえど盲いた相手に少しばかり気を抜くのは、自らの力を自負する者とすれば無理のないことだった。
しかし侮りの報いは、すぐにも。
「では、貰い受ける――」
「――なっ……!?」
一瞬の後に声が上がるのは至近、するりと音も無く間を詰めた黒衣の狼、その鳥肌立つような鮮やかな踏み込み。
狼は咄嗟に花を抱え込むように身を捻り、その勢いで相手の胴を狙い左足を跳ね上げたが。
「……っがぁ……っ!?」
軽く上げた腕で蹴りを受けて冥眼の狼は揺るがない。
精練の極みに達した錬気、その速さ、硬度、精度、石柱でも相手にしたように。
実力ある狼だからこそ分かる力量、ましても尋常でないのは確かに蹴りに込めた気が強制的に散じさせられたことだ。
気をぶつけ合う戦闘なら幾度も経験した狼も覚えのない、そんな仕業は反則だった。
「――裂かぬものなし兇牙のルルカ 南の鬼獣とは黒の大狼 北の鋭射よ金狼の飛爪 わけて東の海狼は夢や怪しの舞を差す――」
黒衣が歌うように口ずさむのは、氣に関する迷信紛いに古びた口伝。
遥か大陸の西端、文化的精練の極みに座するわりに奇人の見本市たるルルカの狼は武器を偏愛する性癖と、手塩にかけたそれらに氣を通わせる超絶技巧で、一般に一目置かれている、というよりその猟奇な業にドン退かれている。
『狂人とルルカ狼に刃物を持たすな』とは、彼らに関わる者達の揶揄と本音の混じる合言葉として有名である。
南に位置する大湖を囲んで大雑把にトリスタンと呼ばれる地に住む狼は、聳えるような長身巨躯を特徴とし、その身体に比例する生命力と、好戦的で苛烈な気性を備えている。
恵まれた身体能力は更に本能の如く抜きん出た氣を纏う感性<センス>に強化され、大陸随一と名実共に最強を謳われる戦士だ。
そしてハールス・ハールベリスの狼は一般の氣の使い方では凡庸だが、冬の支配の長い苛酷な地で培われた狩りの技術が転じて、《遠当て》と呼ばれる中距離を切り裂く氣の刃、散じ易い氣を矢やナイフなどの投擲武器に纏わせる法などが発達したという特徴がある。
地味に陰険な変則使用を得意とし、目的の為に手段を選ばない行動力を持つ、冷徹な狩人と言えるだろう。
一方、ラウハイは国からして異質の遠い島国であり、大陸のどの民よりも小柄で華奢な民族である。
しかしまるで体格の不利を補うように体術は高度な発展を遂げおり、他にもラウハイの狼の氣を使う術は他に類を見ない異様なものだという噂だけが尤もらしく広まる、兎にも角にもヒミツ技の多い狼達なのだ。
種族によって大まかな系統はあれ、氣を最大の武器として頼る大陸の狼達にとって、ラウハイの狼は得体の知れぬ相手であり、またラウハイの民は滅多と自国から出てこない為、いつまでも情報は不足しその不気味さは拭われる事がない。
図らずもその一端を体験した狼だが、無論喜ぶどころではない。
「――千様の牙、万様の技よ、驕る者こそ贄と知れいっ!!」
裂帛の気勢、轟く一喝は耳の良い狼に痛みすらを与え、場を支配する均衡が揺らいだ。
隙を逃がさず蹴りを制した黒衣の腕がするりと絡み、掌に満たされた氣が容赦なく狼の脚を撃ち抜く。
一撃目で与えた損傷を効果的に駄目押しする、その踊るように滑らかな手際に。
「ぅっぐ……てめえ見えてんのかっ?」
「この程度の芸当に眼など要らぬ。どうした若造、一度打たれてやればその様か?品位に欠け力もない狼なぞ花に触れるもおこがましいぞ」
一時感覚の失せた脚を持て余し危う気に立つ狼を、優雅に退いた影の痛罵が追い打つ。
意地か本能か、それでも潰れそうな程狼に抱き込まれている花は――トレニアは、泣きそうな顔をして。
「離して将軍、もっと怪我するよ。ディーバはボクの花護なんだ、ボクさえ抱えてなきゃ教会のお客に手なんか挙げないから……!」
「黙れっ!自分の花狙われて誰が引くか!!」
「“立派”なものじゃ、命花と見初めた花を盾とする気か?益々もって気に食わんのぉ……」
「野良育ちなもんでな、何と言われようと構わんさ。こいつの身は気にすんな、傷一つつけやしねえよ」
「ほっ、ならば試してみようぞ」
「ディ、ディーバ?」
「応よ、来やがれジジイ!!」
「イヤ、待ってってばっ!」
すっかり火がついた狼達の様子に、もはや彼女も悠長に泣いてはいられない。
方針転換とばかり比較的冷静に見える自らの護衛騎士、花護たるディーバをかき口説く。
「やめてよディーバ、このヒトはボクの大事な人なんだ!!酷いことしないでよっ!」
「じゃが嬢よ、こやつは嬢の思慕を勘違いしておるようじゃぞ?花として魅力を感じぬなら早う分からせた方がよい……こやつの《花請い(フラーゲン)》、拒んだのよな?」
「だって……っ何だって貴方達は狼のクセに解ってくれないのさ!?大好きだから受けないんだっ足手纏いになんてなりたくない!!一花弁なんか相手にしてって誰にも笑われて欲しくない!笑い者になって、出世も出来ないで、いつかはきっとボクを恨むっ!……なら友達で、いいじゃないかぁ……っ!」
ぐしぐしと、結局泣きながら怒る彼女に突き刺さる視線はしかし白い、驚きの白さだ。
意識的な深呼吸で自らを必死に宥める様子の狼は、しかし途中で諦め、片手を空けると中指を親指に掛けて輪を作るとぐっと接点に力を込めた。
ずるり、腕の中のトレニアを床に滑らせると、大きな左手で肩を押さえその眼を睨め据えながら何か言葉を待つようだったが。
一歩も引かず生意気に睨み返す彼女に、もはや躊躇など消えて失せたようで。
――ずびしっっっ!!
イロイロな思いの篭もった瞬速の一撃、その威力の程をデコピンとは思えぬ音が物語る。
痛みに飛びのいたトレニアが張り上げたのは、戸惑いと怒りに揺れる声。
「ったぁあぁい!?なんだよっ!!」
『そんな理由かっ!?』
「そんなって言うな~っっ!しかも二人して!!」
「くっっだらねえ、なんだそりゃ!?他人の言う事ことなんざ俺達に何の関係があるっ?しかも命花見つけた狼を笑う奴なんかどこにいるってんだよ!?」
「……なるほどの、花の教育の偏りが原因じゃな。上昇志向が強うなって狼の考え方や風俗なんぞ伝わっておらぬというわけか。嬢よ、狼の至上は命花と共に在ること、競い勝ち抜くは確かに本能じゃが我ら野の獣ではないぞ?笑う声など憧憬の裏返しよ、気にするでない」
「違うっ、違うだろ?!ボクは一花片だ!生命力も生まれる子の能力も一番低くて弱くて……っ将軍の血も能力も眼も、ボクなんかじゃ背負えないよぉ……っ」
厳然たる事実として、花の花片数は生命力に比例する。
香りの強弱、生まれる子の資質優劣、全ては生まれついてのそれに基づくのだ。
だから下位の花はその事実に折れぬよう強い心と向上心を持つが、どこか冷めてもいるのだ。
理想を持たず、我を殺し、調和を……身の程に応じた居場所だけを求める。
だからこんな状況は在り得ない、受け入れられないハズ、なのだが。
「関係ねぇ。寿命なんぞお互い様だ、俺だって戦に出りゃいつ死ぬか分からん。それに俺達の子ならお前がその辺の三下と作るより強ぇよ、それでお国の繁栄とやらには充分だろうが?」
「それに寡狼になったとて死ぬわけでなし。確かに目の見えぬ生活が快適とは言わぬが、慣れれば何とでも成るものよ。この程度の代償、わしが命花を得て過ごした日々の幸福に比べれば些細なものじゃ」
「そ、そんなの誤魔化しだっ!高位の花ならもっと強い子どもが……っ」
「お前以外の花なんざ要らねえ」
「となれば当然子も出来ず、血も絶えるのう?」
「……ぅうっ、そっそれにディーバが冥眼になっても生きてけるのだって、凄く心が強いからで――」
「――てめぇ……俺がこのジジイより軟弱だと言いたいのかオイ?」
「分かっておるではないか嬢、しかし案ずるでないぞ。こやつ根性だけは在りそうじゃ、万一の事在らばわしが鍛えてやろうよ」
畳み掛けてくる狼達の、その仲の程は微妙ながら、どういうわけか二対一の構図が場に形成されていた。
その組合せが誰憚らぬ猛者二人ときては、相対するか弱い花の身にとって非常に威圧的である。
花護の騎士たるディーバは彼女の味方であった筈、またそれ以前に彼らはどちらも彼女を好く者達であった筈であるのにこの状況、というのは理不尽なこと甚だしく。
彼女はぱたぱたとディーバに駆け寄り黒衣の端を掴んで詰め寄る。
「どうして将軍を止めてくれないのさっ!?」
「……すまぬ、わしとて狼じゃからな。真に花を恋う同胞を邪魔するのは気が進まんよ」
「ボクは嫌だって言ってるのに!!」
「それよ、心底あやつを嫌っておると得心すれば止めもしようが…………さてのう?」
元来生真面目な騎士の、悪戯に吊る口の端と揶揄の声音。
慣れない空気に思わず後退るトレニアを、背後から我が物顔に捕らえる腕がある。
「なあ、どう言ったら解るんだチビ?俺以外の狼に懐くな。触るな。声掛けるな。見るんじゃねぇ」
「うむ、花狼の嫉妬は恐ろしいぞ?わしとて我が命花と相対し笑い掛けられる狼なんぞ見ると、殴りとうて蹴りとうて総身が疼いたわ」
「ジジイ……分かってんじゃねえか。つうかその割りにゃ俺の花に馴れ馴れしいぞ」
「はて、青二才相手に何故わしが譲らねばならん?」
「変なトコで通じ合わないでよっっ!!馬鹿ばかバカ~~っもう、何に怒ってんのか分かんなくなっちゃうじゃないかっっ!!」
「ハっ、なら怒らなきゃいいだろうが?」
「も~~っ誰に怒ってるのかまで忘れない、よっ!!」
言葉と同時に花が浮かせた左足は踵から、跳ね上がる語尾と共に背後の狼を狙い落ちる。
華奢で非力な花の蹴りなど頑強な狼にとっては痛くも痒くもないが。
ディーバに痛めつけられていた脚を狙い済ましてとなれば流石に、響いた。
歯噛みで堪えるは狼の矜持、しかしすばしこいトレニアが腕から逃げ出すだけの隙にはなった。
するり、すり抜ける淡い熱が、舞い上る残り香が、狼を煽り駆り立てる。
「ボクは貴方の花じゃないっ!」
「またソレかよ…………俺はこれ以上言うことは無いぞ」
「将軍となんてどこにも行かないんだから!」
「………………へぇ?」
「嬢、落ち着け!」
「も、もう……会いに来ないでいいっ!!」
ディーバは額に手をやり眩暈を堪えるように、トレニアは己の言葉に打ちのめされ俯き、そして狼は。
例えそれがみえみえの虚勢であろうと、激情の余波から来る心にもない言葉だろうと。
「俺を、拒むのか」
不穏というには静かに過ぎる声、瞳に三度の冷気を宿し。
笑むは貪狼、うっそりと。
「逃げろチビ」
「逃げよ嬢っ!!」
重なる言葉は同じでもその切迫の度合いが違う。
音も立てずに狼へと翻る黒衣、ぼんやり眺めるトレニアを打つ、低い叱咤の強さ、鋭さ。
「命花に拒まれた狼に道理など通じぬ、走れっ!逃げよっ!!」
言いながらも首から提げた鎖のその先、呼子の銀笛を探るがぐんっと迫る狼が早い。
鎖を引き千切られる衝撃にのめる身体へ無造作に繰り出されるのは、胴を狙う射程の長い拳。
どう察するのか紙一重でかわし、踊るように身を返すディーバは背を向けたままなめらかに擦り寄り、裏拳をしならせ狼の顎を捉えた。
全身によどみなく廻らせる気により攻守共に強力・鉄壁と、ラウハイの体術には定評がある。
手応えは確か、仰け反る狼へと振り抜いた勢いのままに向かい合い、身構えるが。
盲故に警戒怠らぬ鋭敏な耳は、間を取る寸前で腰元に発した、物騒な異音を聞きつけていた。
「あーぁ……殴られるのなんざ久しぶりだ」
「貴様ぁっ!!」
花を訪う者の常として牙、その他武具の携帯は禁止されている筈の狼の手に、いつの間にやら一振りの白刃。
酷く薄い刀身は片刃で微妙な反りを備え、ひゅっと空を斬る刃は波の文様を描いて煌く。
その美しい異国の剣はラウハイ特産にしてルルカ狼垂涎、氣の伝達の極めて良い《顕精鋼》をふんだんに使ったディーバ自慢の品だった。
痛恨の念に歯を軋らせつつ、空しく探る手に触れるのがやはり滑らかな鞘のみと確かめ、ディーバは今だ動かないトレニアを背に飛び退る。
続く一振りは風鳴りから違った、跳ね上がる切先から不可視の刃、トレニアを庇う彼を掠めるが如くの一閃が歩廊の石柱を深々と抉れば、ぎぃんっ、と耳に痛い高音が辺りを払い、一拍置いてがらん、と欠片が落ちた。
生身で受けたならば間違いなく、致命傷。
「流石はラウハイの秘蔵、遠当ても威力が違うな?」
飄々と言い放ちながらも殺気を収めない狼に、不利を悟った栄えある花護は躊躇なく見栄を捨てた。
そう、本来ならこの程度の敷地に呼子など不要なのだ。
――ゥォオォォォンッ!!
獣の如き呼び声に喉を震わせ吠えるディーバを、対して余裕の狼が嘲る。
「弱い犬ほど何とやらってな、へっ、人前で吠える羽目になったのはどんだけ振りだ?」
「抜かせ、急が伝われば良わ。皆駆けつけよう、貴様はどうする?」
「愚問だぜ、なあ花狼?」
「そうじゃったな。しかし手癖の悪い……よいか?我が太刀一片でも欠かそうものならぎゅうという目に遭わせてくれるぞ!」
「そいつは当たり所次第、あんた……邪魔だぜ?」
「光栄じゃよ、このような時の為にこそ我らは居るのだからな。さあ嬢、聖堂へ!!」
余りに目まぐるしい攻防に、何より彼らの気迫に目を見張って立ち竦むトレニア。
それでもこの状況を置き捨てては動けなかった。
「行けないよっ、やめてよ二人ともっ!!」
「ならばあやつの花となるか?」
「な、なれないけど……!!」
「『花の意曲げし万象を、我らが牙もて打ち払わん』じゃよ。案ずるな、嬢の友人にとどめなどささん」
「トドメって!?」
「じゃからささんと言っておる、ぶちのめすだけよ。もとより教会で騒ぎを起こした狼はその地位に関係なく厳罰に処されるが決まりなのでな」
花結びでもなんでもない場での花請いであり揉め事が、そこまでの影響を及ぼすなどトレニアには想像もつかないことだった。
愕然と振り仰ぐ馴染みの狼は、軽く片眉を上げて、どうでもいいと身振りでしめす。
渦中にありながら彼女の持つのは二択のみ、どれだけ止めたいと願っても花絡みの狼たちの闘争を繰れるのは彼らの主、主花や命花だけで。
涙を交えて届かない、その無力さにまた濡れる声。
「将軍……っ!」
「まあココは逃げとけよチビ。逃げて、逃げて、俺に狩らせろ」
凪いだ声に底冷えの狂気、細まる瞳に滲むは愉悦、本能のままに。
「口を慎め若造っ!」
「三年だ。俺が骨までふやけてる間にこいつは俺なんぞ要らなくなったんだと。緋紋になる前から俺を惹いた花だぞ?花に生まれたってだけで生きる事に何の努力も要らない奴らが、俺はずっと嫌いだったのに。ちょっとずつ懐いてきて、笑いかけてきて、腕ん中で泣いて。好きだといったその口で俺を拒むんだぜ?…………堪んねえよ」
「そうじゃないっ、要らなくなんかないっっ!!ずっと、ずっと友達だよ、それじゃいけないのっ!?」
「ああ、クソくらえだ」
瞬きもしない銀の目に囚われ、トレニアは動く気配もない。
 




