中編
ベッドに横になり、アマリネは毛布にくるまったまま、息を殺して扉が開くのを待った。
「……アマリネ?」
「そうよ」
レジスは寝室の入り口に立ったまま動かない。
おやすみのキスをして、彼女がいつものように部屋に戻ったと思っていたらしい。
この家で初めて迎えた夜、ベッドが別なんてさすがルルカ狼、紳士的だと感動したものだ。
あれから一年半もの間別のベッドで寝るとわかっていたら、初日に彼のベッドへ忍んで行っていただろう。一度築かれた習慣を変えるのは難しい。
食事は一緒、お風呂は別々。
おやすみのキスのあと、ベッドは別々。
暗黙の決まりごとを今夜破った。
怪訝そうにしているレジスに羞恥がこみ上げ、アマリネは逃げ出したくなる自分を叱咤した。まだ始めてもいないのだから、ここで逃げ出しては意味がない。
「具合が悪いの?」
「いいえ、どこも悪くないわ」
「なら僕に用事だった?」
「ええ、あなたに用事よ。だから傍にきて?」
「…………ベッドの中からじゃなきゃ話せない用件なの?」
「……そ、そうよっ」
声が震える。鼻までかぶった毛布に全身潜り込みたい。
困ったような呆れたような息を吐き、レジスがベッドの側に立つ。「座って」と小声で頼むと低い位置に降りた視線が絡む。眼鏡はかけていなかった。
狼みたいに夜目が利けばいいのに。
青白く光る瞳の奥に潜んでいるものを見通すことができたら――。
「どんな用事だい?」
「レっレっレジスにっ……」
「僕に?」
緊張で舌が回らない。ひどくどもってしまい、言葉よりも、と勢いよく毛布をはね除け上体を起こした。
レジスがぎょっとしたように肩を揺らした。彼は見えているんだろう。
顔が熱い。きっと真っ赤になっている。
アマリネは腕を伸ばしてレジスに飛びついた。
不意を衝いたからか、バランスを崩したレジスは後ろに倒れ込み、彼女もろともベッドからずり落ちた。広い胸板を下敷きにして密着した体勢に驚いて離れようとし、目的を思い出してぺたりとくっつく。
自分の心臓がやけにうるさくて、レジスの鼓動は聞こえない。
「レジスに、だ、抱いてほしくて……待ってたのっ……」
恥ずかしすぎて、面と向かってはとても言えなかった。
ぎゅっと握ったシャツの下で筋肉が強張る。狼の聴覚はか細い囁きを拾ったのだ。
「……君を、抱きしめればいいのかい?」
耳を疑う言葉だった。
(一生分の勇気を振り絞った告白だったのに……)
動けずにいるアマリネを抱えたまま上体を起こした狼は、床に投げ出した両足の間に彼女を座らせた。震える身体をおもむろに抱きしめる。
ゆるい抱擁はすぐに解かれ、「これで気がすんだ?」と尋ねてくるレジスの顔が、見れない。
「手が冷たいよ。寒いなら早くベッドに戻らないと」
シャツを握ったまま固まっていた指がそっと外された。
手が冷たいのは緊張しているから、震えているのは嗚咽をこらえているからだ。
「自分で部屋に戻れるね? 僕が抱えていかなくちゃ駄目かい?」
「………もっ……もどれる、わっ……」
「風邪をひかないように、あたたかくして寝るんだよ?」
ぽんぽんと頭を撫でられる。
――衝動的に振り払っていた。
ぱしっと乾いた音が鳴り、手がジンと痺れた。
「触らないでっ! あたしに触らないでよっ……!! 抱きしめてなんて頼んでないわっ! わかってるくせにはぐらかすのはやめてっ!!」
握った拳が細かく震える。小刻みな震えは全身に広がった。
胸が締めつけられて痛い。手は冷たく汗ばんでいるのに、身体の芯は燃えるようだ。思考は怒りに赤く塗り潰され、怒鳴りつけた声がわんわんと耳の中で木霊する。
「あたしがほしくないのならなぜ双属にしたの!? 一花片をっ、容姿も人並なあたしを選んだのはどうしてよっ!?」
「違う! 欲しくないなんて、君は魅力的だよっ」
「触れもせずによく言えたものだわ! ちょっとでも魅力を感じてくれたなら、どうしてあたしを求めてくれないの!!」
ギラギラと闇に光る青白い瞳が、涙で滲んでぼやける。
泣くまいと歯を食いしばっても嗚咽が咽を震わせた。
「……求めているよ。今この瞬間だって君を欲しいと思っている」
嘘つきの狼が憎らしい。
一度も求めてこなかったのに、どの口が言うのだ。
寄り添ったら席を立つ、近づいた分だけ後退る、触れ合わせた手をさりげなくほどかれ、視線が合うのは充分な距離を置いてから。
嫌われているわけじゃない。そのことが余計にアマリネを苦しめた。
「じゃあ抱いてよ! ほしいなら手を伸ばしてっ、あたしはずっとレジスの傍にいたでしょう!?」
「一度抱いたら二度と手放せなくなるとわかっていたからだ!! ……君には、僕以上に相応しい狼がいるよ」
「……あたしに相応しい狼ですって?」
何を言っているのかと瞬きで涙を追いやって見れば、レジスはうつむいていた。
陰になる口元からぽつりと呟きが洩れた。
「僕はルルカの狼だ。ハールベリスの花である君は、僕の《命花》にはならない」
ルルカの狼の《命花》は、ルルカの花にしか現れない。
狼たちが本能で求める命花は、血が近すぎても遠すぎても現れないのだ。生粋のルルカ狼であるレジスに、ハールスの血が混じっているとは考えられない。アマリネは彼の主花にはなれても、命花である可能性は皆無だ。
教会が他国の狼を敬遠する理由の一つが、命花の問題だった。ハールベリスの花を捨てて去る時が来るか、国外に花を連れ出されることを警戒しているのだ。
「知っているわ。でも、あたしじゃ駄目なの? ……あなたも命花がほしいから?」
今さらそんなことを言い出されるとは思わなかった。命花の件はお互いに納得していると信じていた。ハールベリスに彼の命花はいない。双属になる前から、花結びに来る前からわかっていたはず。
苦笑してレジスは首を振った。
「それは狼の本能だからね、気にならないとは言えないよ。だけど僕はもうルルカに戻るつもりはない。君と出逢って決めたことだ。君以外に、誰かを求めようと思わなくなったんだ」
――嬉しかった。
狼は命花を求めて、本能で餓えているという。水で喉は潤っても満腹になることがないように、狼は絶えず欲している。唯一でなければ埋められない、本当の意味で満たしてくれる存在を渇望する。
レジスは永遠の餓えが満たされなくてもいいと言っているのだ。
花として、何にも勝る言葉だろう。
笑顔綻ぶ花を見ることもなく、うつむいた狼はボソボソと呟く。
「……君はとても好い匂いがするし、見た目も性格も愛らしいし、掃除や料理といった家事までこなせる。国中の希狼が君を欲しがるだろう」
「そ、それはないと思うけど?」
レジスがどう思っているか、彼自身の口から聞くのは初めてだが、緑の瞳はかなり曇っているらしい。贔屓目が尋常じゃない。
希花の数が少ないのは他の系統に対しての割合だ。事実ペレル聖堂教会にはアマリネ以外にも二花片や三花片、中位の希花もいたのだから。
「……君は自分の魅力をわかっていない。これまで虫除けに費やした苦労を聞かせてあげたいよ。僕が《花狼》になれば、君は一生僕から離れられなくなる。寄ってくるハールスの狼に君が命花な者がいたとしても、だ」
「あたしはレジス以外と誓約を交わしたいと思ったことはないわ。他の狼がなんだというの? あたしが選ぶのはあなたよ。誰が来ても同じことだわ、誓約は成立しない」
胸の一片を捧げる相手はレジスだと決めていた。花紋だけでなく、心も身体も。
彼の言う通り、いつか彼女を命花とする狼が現れる日が来たとしても、双方の合意なくして誓約の成立はない。待つことは無意味だ。
その点では、狼は花の気持ちがわからないのだろう。どんなに「あなたはわたしの《命花》なのです!」と訴えてもフラれる理由。
命花を求めるのは狼だけ。花にそんな本能はなく、できることなら自分が愛した相手と誓約を交わしたいと思っているのだ。基本的に花が狼を選ぶ基準は強さと財力、そして容姿という現実を知ったら世の狼たちはどうするだろう。
「僕は決して強い狼じゃない。ルルカからこの国に、逃げてきたんだよ。……君も気づいているだろうけれど、眼鏡は伊達なんだ。むしろ人より“眼”は良い方でね――僕には、《氣》が視える」
《氣》は狼固有の能力だ。拳に纏わせ素手で岩を穿つことも、剣に通わせ鉄を両断することもできるという。精神力、体力、生命力から生まれる氣は目に見えないが、まれに視認する狼もいるらしい。それも一種の才能に近いと思うが、レジスに誇る様子はない。
狼は誓約の破棄を示す《冥眼》を連想させるため、瞳を隠す物を避ける。伊達眼鏡をかけるレジスは変わり者だと思っていたが、見るためじゃなく見ないための眼鏡だったようだ。
「氣が視えるってすごいことじゃないの?」
「いいや、羨むのは弱い狼ばかりだよ。実力があれば気にもしない瑣末事だ。ルルカでは僕も武器を造っていた。そこで自分の限界を知ったんだよ。どんな業物を持ってしても埋まらない力量の差というものが、視えてしまう……。自棄になって国を出て、この街に居着いた。教会の保護制度は素晴らしいと思うよ。一花片でも強い狼との出逢いがある」
「あたしはレジスと出逢ったわ。あなたがいいといってるじゃない!」
「……君に後悔してほしくないんだ、僕を選んだことを。君と、君を命花とする狼の間に生まれる未来を壊すことが、僕に許されるのか?」
アマリネの中で何かがぷつりと音を立てて切れた。
堪忍袋の緒、というものかもしれない。
「――レジス・ル・カリエ。ここで双属を解消しましょうか」
「……アマリネ?」
狼が顔を上げた。尖った耳がぴくぴくと動いている。
ことさら冷たく出した声に警戒しているようだ。
「あたしを貶めるのはやめてちょうだい。後悔してるのはあなたじゃないの。未来を壊す? 今のあなたの方がよっぽどあたしの未来を壊しているわ!」
現れるかどうかもわからない狼を気にして、彼女を放っておいたというのだ。強い狼と言うけれど、一花片が望めるのは位階が釣り合う相手だ。夢を見ているのはレジスの方だ。
これまで共に過ごした時間は何だったのだろう。
(……愛する人と暮らす喜びを感じていたのは、あたしだけだったの?)
アマリネを命花とする狼の訪れを待っていたからだとでもいうのか。教会から引き取ったのは花守りを気取って庇護していただけ、いつか誰かに譲るつもりで手に入れたなんて、あまりに彼女を侮辱している。
「ねえ……あたしを命花だという狼が来たらどうするの? それが君の幸せだといって差し出すの? 手つかずの花ですからどうぞって? さぞ喜ぶでしょうね、未来のあたしの花狼は」
「アマリネ!!」
「怖いわ、《狼》が怒らないでよ」
皮膚一枚で渦巻く痛嘆は噴き出さずにいる。
悔しくて苦しくて悲しくて。
不可視を視るという緑眼。なんと役立たずな“眼”だ、切り裂かれた心が見えないのだろうか。
「明日の朝、グイードに連絡するわ」
「……どうして元花護に?」
「もう元をつけることはなくなるかもしれないわよ。あたしをほしいというのは口だけだったようだし、守ってくれる自信もないんでしょう? お望み通り教会に戻ってあげる。彼と顔を合わせたくないなら、明日は工房にこもっていてね」
花の番人として睨みをきかす花護騎士が、外の狼から好かれることは滅多にない。レジスもアマリネの花護を「いけすかない」と愚痴る一人だった。
グウッと唸り声が上がった。
「…………なんだって?」
低く、掠れた問いかけはアマリネの肌を粟立たせた。ぶるっと震えたのは武者震いだと己に言い聞かせ、一触即発の空気を破る。
「わからなかった? 臆病者、といったのよ。グイード相手じゃあなたも尻尾を丸めるしかないでしょう? ルルカの狼さん」
揶揄に交ぜた当て擦りにレジスの雰囲気が変わった。
狼は怯懦を嫌う。
爪牙への矜持が、他者と比べられるを良しとしない。犬と例えられるを許さない。
「不思議だね、怖いと言った君が、僕を煽るのかい……?」
荒々しい息づかい。
不穏に牙を軋らせ、獰猛に輝く狼の目がひたりとこちらに狙いを定めていた。
「図星を突かれたから怒るんじゃないの? 否定したいなら証拠を見せて。口先だけじゃないってその腕で抱きしめて! 手放すなんていわないでよっ、あたしの|《狼》!!」
「――後悔しても知らないよ?」
アマリネは答えなかった。
夜着に右手を潜らせる。太腿の懐剣はひだを作る裾にまぎれて気づかれていなかったようだ。探り当てた得物を引き抜き、裸の刃を左手でしっかり握った。
驚いている狼の鼻先に両手を掲げる。
拳を解かずに刃を横へ滑らせると、鋭い痛みが走った。守り刀としてレジスからもらった懐剣の斬れ味は抜群だ。
赤に塗れた刀身が姿を見せる。
ぽたり、ぽたり、と雫が膝に、床に落ちる。
「後悔なんてしないわ。覚悟を決めるのはあなたの方でしょう?」
開いた掌を上に、レジスへ差し伸べた。
花は血が香る。
アマリネの香りに惹かれたというなら、寝室という閉ざされた空間で流された血に抗えるか、いつまでたっても触れようとしない狼に対する捨て鉢の作戦だった。
――挑んだ賭けには勝ったようだ。
大きく息を吸い込んだ狼が、わらう。
上機嫌に声を上げて。
「ははははっ……! そうだっ、そうだね、覚悟を決めるのは僕の方だった」
ようやく肩の揺れをおさめた狼が向けたのは、吹っ切れたように楽しそうな、屈託のない笑みだった。初めて逢ったときと同じように、アマリネの胸が高鳴る。
『さあ、僕の《希花》、誓約を交わそう?』




