10
「いい匂~い!今夜はマッシュポテトだね」
「芋・いも・イモか……ハールスの者どもときたら。故郷が懐かしくなる瞬間だのう……」
「そう?ボクは好きだな~、優しい味でさ」
「わしは皮のまま蒸し焼きにしたのが良いな、乳臭いのは好かん」
長く頑丈な大人数用の机に対面して腰掛ける両者の前に、茶はあるが食事は無い。
なのになぜこんな話題かといえば、場所柄炊事の匂いがそのまま伝わって来るのである。
「……まさかポテトサラダは潰しきらないなんてふざけた事は言わないよね?」
「何を言う、嬢こそあのべたべたした芋のなれの果てが好みか?度し難いな」
唐突に喧しくなった戸口を気に留めない風に、くだらない議論を展開する二人だったが。
「うむ、やはり食い物といえど潔さは大事である。人の意のままにその姿を捨て、柔軟な変化で我らが腹を満たす健気なるものらに敬意を表し私はこちらに」
体力が尽きたか気が済んだのか、次々に入って来るのは薄汚れた狼達だった。
一つ席を空けて長机のトレニア側に腰を下ろすのはクルトである、所作は優雅にして目に見える外傷は無しだが座った瞬間歪む表情を繕うことは出来なかった。
「オレもこっちだなあ。奴らのあの舌触りにはそう、なまめかしさを感じる」
「寄るなブルーノ。私の嗜好まで疑われる」
「またそんな、つれないこと言わないで下さいよ」
へらりと笑って席を詰めようとしたブルーノだったが、クルトに音が立つ程の肘鉄を食らって離れた場所に追いやられた。
道化た表情を絶やさないその顔は、今だ引かない汗に濡れ、ついでに薄い痣もいくつか。
「隣にお邪魔しますねディーバさん、僕も常々お芋さんの身上は、あのホクホク感にあるんだ~とか思っていたわけです。フライドポテトだって正道は厚切りですよね?」
「……済まぬルッツ、わしは揚げ芋は細切り、かりっとよく揚がった物が好みでな」
「ひどいっ僕を裏切るんですかぁ?」
「まあまあ、座れルッツ。君の好物ニョッキとてホクホクというわけにはゆかんだろう?」
「それはっ!……そう、ですね……ああっお芋さん、浮気な僕を許して下さい……っ」
ふらりとディーバの隣に崩れ落ちたルッツは目の周りが少々腫れてはいるが、身ごなしに支障はないようだ。
立っているのは後一人、柄にもなく所在無げなグラウに不機嫌な翠の眼差しがちらりと流れる。
「……俺は芋ごときに語るこだわりはねぇぞ」
ぽつりと零して身を捻じ込むのはクルトの隣、そしてトレニアの。
「おれも旨けりゃなんでもええ思うわ」
最後にやってきたアルベルトは大きな水差しと五つの杯を机に置き、ディーバの側にぎこちなく座ると雑な手つきでを水を満たし“いい汗掻いた”狼達に散らした。
ちなみに彼の傷跡は華々しく、年長の狼達との実力差という以上に念入りであった。
「将軍、汗クサい」
「……そりゃ離れろってコトか?」
「なんだよっ、好きで喧嘩に行ったくせに~!!めちゃめちゃ楽しそうでさ!ボクあんな顔見たことない……っ」
「おっ妬いてんのか?けど危ねえからな、幾らお前の頼みでも絶対混ぜてやんねえぞ」
「違~~う!!オマケにボクの目の前で殴られて!!心配するなんて思わなかったっての!?」
「あんなの痣も残らねえって。しかしお前がそんなかわいい表情すんなら、殴られんのも悪かない」
どうにもずれた答えを返し、怒りに言葉を詰まらせるトレニアに牙を見せてじゃれ付くグラウ。
折よくトレニアに覆い被さった広い背にブーツに、ぴしぱし、かこんっ、ぐりぐり、どかっ!と叩きつけられる容赦のない突っ込みは五連発だった。
「痛えっ!!ただの痴話喧嘩だろうがっ!?」
「この程度でも痣は残らないだろう」
「お嬢さん真剣よ?はぐらかすのは失礼ってモンでしょ」
「いやぁ、つい皆につられちゃって」
「痴話ゲンカとかふざけんな、男の純情ナメんなやオッサン!」
「トレニア嬢の身柄はまだ正式には教会の保護下にある。我が物顔に振る舞うでないわ」
反射的にグラウに締め付けられたトレニアは暫らく固まっていたが、やがておずおずと眼の前の巨体に腕を回した。
背を庇う両の手はさらりと布地だけ掠める軽さ、それでも痛みより鋭く疼くらしきヨコシマな感覚に、グラウの背がぎしりと伸びる。
「味方してくれてるのは分かるけど……将軍が痛いの、嫌!!」
どうしても金髪碧眼の狼には嫌悪を抱くトレニアが、これまでディーバ以外の騎士達をまともに見ることはなかった。
角突き合わせることも多かったアルベルト相手にも、焦点をぼかし顎の辺りに目を留めるのが精一杯だったのだ。
ただしそれはこれまでの話、多少気弱でもそれは希望ではない、譲れない要求だった。
反発、或いは侮りを込めた苦笑を想像してきっと周囲を見渡す翠眼は、一様にしょんぼりした狼達を捉え見開かれる。
こうも易々と、声が届くことに驚いたのだ。
「っ…………!?」
裏返せばこれまでの忌避がどれだけ不条理なものだったかに思い至り、トレニアにはもう顔を上げることはできなかった。
たった二人のハールス人の罪に拘り、今までどれだけの騎士たちを拒んできたのだろうと。
思い返せば、始まりまで。
トレニアを遠巻きにする花護達が示したのは、本当に無関心だっただろうか。
今は在ったと信じられそうな、不遇な花への遠慮と罪悪感が、彼らとの壁になってしまったのだろうかと。
今度庇うように腕を回したのは、グラウだった。
何故かしょげてしまった彼の花を訝りながらも抱きしめて、ぽんぽんぽん、とあやし付ける。
今回は、誰も咎めなかった。
「……例え箱庭だったとしても、流れた時間は無為ではない。此処もまた確かにお主の居場所だったと胸に留め置いてくれるなら何よりの報いだ。それに我らは皆、嬢を好いておるよ。さあ、笑ってくれぬか?」
四族の中で最も花の心の機微を理解すると評判も高いラウハイ狼の、面目躍如たる見事な推察だった。
気にするなと、無茶を言わないところがまた心憎い懇願に応え、グラウの陰からひょこり覗いた、僅か目を潤ませた花の笑みに。
安堵と、少しの未練の吐息がそっと空気を震わせた。
グラウとトレニア、そしてディーバは花狼の契約を報告するため副司教の元へと赴き、経過はさておいて義務を果たした。
半ば公認として教会の隅から隅まで認知されていた彼らのこと、強引な宣誓も顰め面と厭味少々で片が付いたが、一花片たるトレニアがグラウの命花であった事実には、事情を聴く者全てが驚きを見せた。
残る時間二人して中庭で過ごす彼らを、遠巻きにする多くの眼差し。
好奇心を隠さない無遠慮なそれに、頑として無視を決め込んでいたトレニアだったが。
僅かに仲間意識を持ってきた同じ一花片達が投げかけてくる、辛辣な視線には気まずげに顔を背けた。
掛け替えのない一ひらを差し出すだけでも相当な葛藤を負うというのに、野心を燃やして群がり来る狼達がいかに簡単にそれを強請ることか。
力を手に入れ伸し上がりたいという狼の本能、手に入れ得る中で最も忠実な護衛を望む花の保身。
利害の一致した結び付きは故に強固な契約だが、そこに甘やかな情など望むべくもないのだ……常ならば。
ただ一度の賭けを制した花、不釣合いな幸運を独り占めする花。
誰が自分の為身体を張って賊から助け、一体幾らの時間を自らの為に費やしてくれるだろうと。
グラウほどに高位でなくとも、彼ほどに自身だけを求めてくれる狼が現れるだろうかと。
最良の予想さえ目前の奇跡に及ばないのなら、裏返しの憧憬は氷の針へと姿を変えてしまうのだ。
ねっとりと絡みつく視線に肩を落とし、無意識にもしきりに胸元を擦るトレニア。
並んでそぞろ歩くグラウはそれに気付くと目線を下げ、言い放った。
「一花片を恥じるな」
「……誇ることでもないよ」
「俺は満足だぜ?心の底から幸せだ。お前は俺の為だけの花だ、俺が死んでも俺だけの……くくっ、こんなに可愛い花が他に居るか?」
「……だから、幸せ?」
トレニアは彼の居ない日々を思う。
二度と見られない顔を探し、泣いて、消えた花紋に泣いて、それから……グラウを愛した自分は消える。
身体ごとか心だけか、どちらにしろどんなに大切なものでも、時間の狭間にゆっくりと埋もれたなら、その存在は変質する。
今も忘れない故郷の光景が、止まった時間、思い出の中の仲間達が、二度と同じ形では戻らないように。
そんな未来がグラウにとって薔薇色に映るのだとしたら、腐った頭を一度本気で殴っておいたほうがいいのかと。
「そんなこと言う将軍は嫌いだっ!」
「ああ、だろうな」
「っ……ねえ、将軍ってときどき凄く恐い眼する。どうして?」
違う、本当に訊きたいのはなぜその目で彼女を見るのか、だ。
応えず低く喉を鳴らす相手に、湧き上がる戦きをしかしトレニアは抑える。
深く知るには少々野蛮な狼と呼ばれる者達に、怯えてばかりはいられない。
それでも一緒に居たいのだと、切に望んでしまったからには。
「そうだ、言っとくがもう俺はここにゃ来ねえぞ。お前も来るなと言ったしな」
「あっ、あれはそんなつもりじゃないっ!嫌だよ、怒ったの……?」
突然の話題の転換に、そしてそのあんまりな内容に、普段は狼を振り回すトレニアが何とも可愛らしい上目遣いでグラウを窺う。
途方に暮れた主の顔を、見下ろす僕〈しもべ〉は無頓着に肩を竦めた。
「だってその方がやる気になんだろ?……早く、俺に逢いたくて」
余りにあざとい言い草に、二の句を失うトレニアを楽しげに見詰めて。
初めて望んだままに求められる感覚を味わうグラウは声を上げて笑う。
咄嗟とはいえ彼を拒んでしまったことへの意趣返しかと、トレニアが邪推する程度には晴れ晴れと。
次いでは牙を剥くように、いつもの顔でにんまりと。
「早く俺の傍に来い。全部、俺のになってみせろ」
「行く、なるから、少しだけ待ってて、ぐ…………“グラウ”……さんっ」
知るだけだった狼の名を、トレニアが大事に紡いだ瞬間。
しかし息を呑むだけのグラウの様子に、元々染まっていた頬を更に上気させ、小さくなって座り込む。
「だって……呼び方だけでも近付きたかったんだもん……」
「……………………おう」
「…………嫌、かなぁ?」
「凄っげイイ、これからはそう呼んでくれ。けど“さん”は要らねえな」
「いいの?」
「ったり前だ、じゃねえな。ンンッ……貴女の思し召すままに――ってか?」
芝居がかって見えるほど美しい一礼、洗練された所作にはグラウのまた別の面、トレニアの知らない姿が垣間見えた。
交わる将来など無いと、探りもしなかったグラウの世界に飛び込んでいくのは、遅くともたった数カ月の後。
教会内部は勿論、トレニアの知る素朴な辺境の暮らしともかけ離れた世界が待っていることは理解していた。
湧き上がる好奇心と不安のない交ぜになった震えが、彼女に言葉を継がせる。
「分かった、だから、ホントにボクを待っててねっ?」
「言われるまでもねぇよ、俺はお前の何だ?」
「恩人で、友達で。それから――」
「――花狼だ」
力強く答えたグラウは、しゃがみこむトレニアを引き起こすとくしゃり、頭を撫でた。
そして、いつの間にか傍まで来ていた正門へと、おもむろに足を向けたのだ。
今日一日散々に触れられ撫でられかいぐられてきたトレニアは、あっさりとした退き方に違和感と、ほんの少しの寂しさを感じて。
「もう帰っちゃうの?」
「……ああ」
「その、最後にもう一回だけギュッてしてって言ったら、困る……?」
「何だよ帰さねえ気か?覚えとけ、俺はそこまでお行儀良くねえんだ」
「じゃあ、じゃあっ、知らせたらすぐ迎えに来てね!」
「任せとけ。じゃあな、元気でやれよ。風邪なんてひいてみろ承知しねえぞ“トレニア”?」
「~~っ!!うわぁ……ねえ、もう一回呼んでっ!」
「了解。次に逢ってから、一生な」
一度だけ後ろ手に手を振り、堂々と去ってゆく大きな背中を切なくも幸せに見送って。
傾きかけた日差しを浴びながら庭園を引き返しかけたトレニアは、お目付として陰に控えていたディーバから『あまり煽るな』と窘められ、懇々と花狼の忍耐の限界を言い聞かせられる破目になった。
黄昏、つうのは侘しいやねー。
赤く燃え上がった陽も褪せちまって、閉門の鐘がカーンなんて薄闇に掠れて消えてくわけだ。
…………加えて今日はまた陰気な音が、隣をじめじめ這ってるときたらもう、鬱陶しいのなんのって。
「悲しいんすね、寂しいんすね旦那。ずっとそんなとこに座り込んで……でもいい加減邪魔なんで避けてくれませんかね?」
「うるせっ……グスッ……っ」
「大の男の啜り泣き、いやはや不気、ん~んん~お労しい、気持ちお察ししますよ。せっかく花狼になったってのに愛しい花とはハナれバナれ……っておおっ!!今の上手くねぇですかい?」
「こンの間抜けっ!!俺は落ち込んでんだよ……っ」
「まあまあ、旦那の命花だってきっと落ち込んで、寂しがってらっしゃいますよ……」
「ぅおぉおトレニア~~っ!!何で今すぐ連れて帰らせてくれねぇんだぁ……っ?」
「ってなコトもないかもしれやせんね、仲の良い花護もいますし」
「黙れ。っつうかテメエ…………俺で遊んでねぇか?」
「へっへっへっ」
「表出ろやチクショウがっ!!足腰はおろか首も回せん身体にしてやるぜっ!」
「そりゃ激しいっすね。でもじきに退勤なんでご勘弁、家で待ってるか~いい命☆花!さんが心配しちゃいますからね」
「…………はあぁっ!?」
「おや、おいらの花刻気付いてなかったんすか?」
「こんなのが俺より幸せだとぉ!?もう嫌だ、ほんとイヤだお前……実は俺をいたぶる為にいる暗魔とかじゃねえのか?」
「あ、ナゼかそれ色んな奴に言われるんっすよ。じゃ、お先に~~♪」
「だろうなっっ!!…………くそう、俺も帰るか……うぅうっ」
「アぁァ~~ん♪一人ぼぉっちでぇ~~♪♪」
「てめっ、マジぶっコロス!!」
言葉にならない唸りを上げ、怒り狂って外まで追いかけてくるでかい影の向こう、戸締り担当の同僚が感謝の仕草を寄こす。
感情豊かに見せて弱味なんてチラとも晒さない頑丈なのが珍しく落ち込んでるから、気を盛りたててやろうとしただけなのに旦那ったら、眼がマジなのがつらいね。
まあいいさ、逃げ足にはちょいと自信アリだ。
「ぬがぁああぁあああ~~っっ!!」
「うぃーす、捕まえてごらんなさ~い」
にしてもおいらこ~~んなに優しいのに、何だって愛しの命花さましか解っちゃくれないんだろ?
ヤレヤレだね。
トレニアの花言葉/可憐な欲望




