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わたしの敵は

題(電池/一円玉/参考書)

「あれ?」

 何度ボタンを押しても、電動式の給油ポンプが反応しなくなった。

 電池切れか。

 給油を切り上げて、ポリタンクのふたとファンヒーターの灯油タンクのふたをそれぞれ締め、灯油タンクを担ぎながら、ベランダのドアを開けた。

 私はファンヒーターに灯油タンクを戻しながら、訊ねる。

「ねー知哉(ともや)ぁ、単一電池ってあったっけ?」

「ねぇよそんなの」

 カーペットの上に座り、テーブルの上の参考書に気を取られている知哉は、私のほうを見向きもしないで答えた。知哉はこの冬の終わりに行われる予定の資格試験の勉強に追われている。

「そうだよね。んと……買ってくる、ね」

 知哉は頷きもせず、シャーペンを動かしている。

 今回の試験を受けることを、私も最初は、歓迎して、応援した。知哉のキャリアの向上に役立つなら、と。

 でも半年経った今は、受かっても受からなくてもどっちでもいいから早く終わってほしい、それだけだ。私だって働いてるから、今回の試験が大事なのは分かる。分かるけど。いくら割り切ろうとしても、ここまで徹底して相手にされないと、やっぱり辛い。

 やっと知哉との時間だー、と思ってアパートに帰ってきて、黙ってテーブルに向かいっぱなしの知哉のために、なるべく生活音をたてないようにご飯を作り、洗濯をし、掃除をする。二人でお金を合わせて買ったこだわりのステレオは、イヤホンを着けてひとりでこっそりと聴き、テレビやDVDもイヤホン装着でひとりでこっそりと見る。こんなに近くにいるのに、知哉に話しかけることもできずに一日が終わる。勉強が始まったころは深夜まで勉強している知哉に付き合って起きていたけれど、翌日の仕事で、会議中に居眠りをするという失態を演じてからは、布団に入る時間すら合わせられない。


 私は黙ってコートを着込んでから、財布を掴んで、外に出た。目的地は歩いて五分のコンビニ。

 試験が始まる前は、このくらいの距離でも一緒に出掛けてたな。

 小さくため息を吐く。それが空気と混じり合い、白く漂って消えた。最近の私は、空気みたいだ。生きていく為に必要なはずなのに、普段は意識に上らない。

 そう考えてすぐ、生きていく為に必要? と、自分の喩えに疑問を抱く。そもそも私は、今の知哉にとって必要なんだろうか。

 沈んだ気持ちを引きずりながら、コンビニの中に入って電池を探す。

 ……ない。ちょうど単一だけが。

 レジでぼうっとしていた店員に話しかける。

「あの」

「はい?」

「単一電池って置いてありますか?」

「あー、申し訳ありません。単一は置いてないんですよ。需要がほとんどないので……」

「そうですか……」

 確かにほとんど使わないもんなあ、と納得しつつ、私は店を出た。

 十分ぐらいかけて歩いて、次のコンビニにもあたってみた。やっぱり、ない。

 一旦、家に戻って車に乗って探そうかと思ったけど、まだもう一軒歩いて行ける距離にあったことを思い出し、そこへ向かった。

 吹き付ける風の冷たさが身に染みて、私はときどき手を擦り合わせながら歩いた。こんな回り道も、知哉と一緒だったら楽しかっただろうなぁ……。そこでふと、試験なんて諦めてくれればいいのに、と無意識に言葉を浮かべてしまい、一段と、気持ちが沈むのを感じた。知哉にだって仕事の疲れはあるはずなのに、あれだけ一心不乱に勉強に打ち込んでいる彼を、心の底から応援できない自分。それを意識させられるたび、じくじくと広がる自己嫌悪に苛まれる。


 三軒目のコンビニ。ようやく単一電池を見つけた。私は目立たない場所にひっそりと置かれたその電池を手に取り、レジに並んだ。

 順番になって、女性店員がバーコードを読み取る。

「四百二十円になります」

 財布を取り出し、札入れのほうを開いた。一枚も入ってない。そういえば今日の帰り、灯油を買った時に、二枚使ってしまった気がする。

 続けて小銭入れを開く。百円玉が四枚、十円玉が一枚、五円玉が一枚、一円玉が四枚……。

 あれ?

 こんなことって、あるのだろうか。ちょうど一円だけ、足りない。一円玉があれば買えるのに。

 私は顔が熱くなってくるのを感じた。

「すいません、あの、お金が足りないので、やっぱりやめます」

 店員の顔を見れずに、俯きがちに言う。

「そうですか」

 店員が笑いを含ませながら言い、何やらレジを操作した。

「商品は戻しておきますので」

 私は頭を下げて、早足にコンビニを出た。

 やっと見つけたと思ったら、お金が足りませんでした、なんて……。苛立つよりも前に、情けなくなった。こうして私がふらふらしている間にも、知哉は疲れた体に鞭打って、知識を詰め込もうとしている。私は、電池を買ってくることすらまともにできない。さっきまでの自己嫌悪と響き合い、ますます情けなくなってくる。

 外灯もまばらな道を一人ぼっちで歩いているうち、会社でどんなに嫌なことがあっても、流さなかったはずの涙が、溢れてきた。

 バカじゃないのか。電池が買えなかったくらいで。

 そう自分に言い聞かせるが、涙は止まらなかった。半年分の寂しさと息苦しさが入り乱れて、嗚咽まで出始めてしまった。

「……ひっ……っく……うぅ」

 コートの袖で涙と鼻水を拭きながら、家まで歩いた。三十分くらいで着くはずなのに、ずいぶん家が遠かった。


 私はアパートの部屋の前で、嗚咽が収まるまでじっと耐えた。

 顔を見られたら誤魔化せないけど、大丈夫。どうせ私が帰ってきても、見向きもしないんだから。

「ただいま」

 部屋に入り、なるべく小さな声で、呟く。邪魔にならないように。ただの空気であるように。また鼻の奥が痛んだが、堪えて靴を脱ぎ、台所のドアを開ける。

 台所と居間の仕切りのドアは開け放してあるので、ここから居間も見渡せる。居間のテーブルからは参考書が消え、代わりに料理が用意されていた。不格好な切られ方をしたキャベツに、冷凍してあったはずのメンチカツ、それにお味噌汁。

「おかえ……な、なんで泣いてんだよ」

 ご飯の茶碗二つを運んでいた知哉は、私に気付くと、茶碗を乱暴にテーブルへと放り出し、私のほうに駆け寄ってきた。

 嗚咽がまた、出しゃばってきた。上手く喋れなくて、私は知哉から目を背けた。知哉はそれでも回り込んでくる。私は泣き顔を見られたくなくて、腕で隠そうとした。でも知哉はその腕を掴んだ。

結衣(ゆい)。言いたくなかったら、言わなくてもいい。ひとつだけ教えてくれ。それは、警察が必要なことか?」

 いつになく真剣な声音で、知哉が言う。

 私は、首を横に振った。

「でっ……電池が、買え、なくて」

「はあ?」

「お金が足りなくて、電池が、買えなくて」

 私は嗚咽の切れ間になんとかそう伝えた。

 知哉は、少し間を置いてから、大きく息を吐いた。

「よかったー……。変な奴に襲われたのかと思ったじゃねぇかよ……」

 腕から知哉の手が離れる。

「いや、よくねぇか。結衣が泣くなんて滅多に……。あれ、でも、電池? ん?」

 混乱している知哉が可笑しくて、私は少し、笑った。それから、知哉の胸に顔を埋めた。温かい。他のどんなにいい香りよりも、ずっと、落ち着くにおいがする。そのにおいを感じているだけで、だんだん、嗚咽が収まっていく。

「心配させて、ごめん。知哉がこんなに頑張ってるのに、私は電池ひとつもまともに買えないのかって思ったら、いきなり、涙が出てきちゃって」

 知哉は私を抱き寄せながら、私の髪を、手で優しく梳いてくれた。

「それだけじゃ、ないだろ」

「うまく言えない。いろいろ、混ざっちゃってて」

「俺のせいも……あるよな」

 私は答えなかった。

「ごめんな。俺、最近、ホントに焦ってた。これで合格できなきゃ同期に置いてかれる、ここまで協力してもらって試験に落ちたら結衣はきっと幻滅する、そう考えたら、怖くて。勉強してない時間が、不安でしょうがなかった」

「うん」

「でもさっき、結衣が部屋から出て行ったときに、あれ、結衣、どこに行くんだろう、って思った。そこでやっと、結衣の話もろくに聞いてない、自分の馬鹿さ加減に気付けたんだ。だから、ご飯作って、ご機嫌取りみたいな真似して待とうと……。あー、違うな。えっと、こんな言い訳がしたいんじゃなくて……」

 知哉は私の肩に手を置くと、私の体を引き離し、

「ごめんなさい。許してください」

 と頭を下げた。

 私は単純なことに、たったその二言で、今の今まで霧のように心を覆っていた不安や自己嫌悪の気持ちが晴れていくのを感じた。

「許します」

 私は嫌味にならないよう、できるだけ明るく言った。そして霧の晴れた今、たったひとつ残った気持ちを、素直に言葉にしようと思った。

「だって私、知哉のこと、大好きだから」

 言った途端、知哉が顔を近づけてきた。私は目を閉じ、応じた。軽いものを何度か交わしたあと、それはだんだんと唇に張り付くようなものに代わり、そして最後は、いつになく乱暴に、舌を割り込ませてきた。息が苦しくなるほどの乱暴さだった。私はいつの間にか台所の壁際に追い込まれ、身動きがとれなくなっていた。それでも知哉はやめない。口の中を知哉の舌に隅々まで刺激されていく。知哉と直に繋がってる感じがして気持ちよかったけど、息が続かなくて意識が薄れかけてきたから、私は知哉の体をばしばしと叩いて意思表示をした。

「はぁっ……はぁ……知哉のバカ」

 私は手の甲で涎を拭きながら、知哉を軽く睨みつけた。

 すると知哉は、

「その表情、やばい」

 と呟き、首筋に舌を這わせてきた。私は足に力を入れた。

「あー駄目だ、もう。結衣のこと、大好きだわ」

 けれど一番弱いところを執拗に責められ、耐え切れなくなった私は、その場にずるずると腰を落としていくしかなかった。

「ごはんが冷める……」

 台所の床上というマニアックな場所で仰向けにされた私は、最後の抵抗に、そう呟いた。

「どうでもいい」

 久しぶりだからなんとなく照れてしまって、コートに手をかけ手際よく脱がせていく知哉から目を逸らし、首を左横に向けた。そこにはちょうど、知哉の時間を散々食いつぶしてくれている参考書が積み上げられていた。私はその山を左手で思いきり殴りつけてやった。参考書の山は容易く崩れ去った。思わず笑みが零れる。

 私の勝ちだ。ばーか。




 

(2012/3/31)

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