白、白、白
題(傘/ゴミ箱/ヨーグルト)
ヨーグルトや牛乳は台所中にぶちまけられた。ティッシュはガムテープで取り出し口を塞がれた。白いプリンターは床に叩きつけられた。
そして今、白い食器が片っ端から割られている。最初は耳を聾するほどに感じられた音にも、だんだん、慣れてきた。
学校に行く必要はないのに高校の制服を着て、鎖骨の辺りまである茶髪を揺らしながら、狂ったように白いものを拒絶していく妹の莉央を、俺は、ただ黙って見ていることしかできない。今日の朝になって突然、莉央がこれほどまでに取り乱すなんて、俺にとっては本当に意外な状況だった。正直、こうして目の当たりにしていても、信じ難かった。
「何やってんだお前ら! 外まで聞こえてるぞ!」
玄関の扉が荒々しく開く音が聞こえて少し経つと、親父が居間に入ってきた。
食器棚を開いて一つ一つ床に投げ捨てて割っている莉央の足元には、破片が飛び散っている。親父は、安全な場所からぼうっと莉央を眺めていた俺を押し退け、破片を避けながら莉央に近づき、彼女の腕を掴んだ。莉央は生気がなく生白い顔を親父に向けた。
「何で止めなかったんだ!」
親父に怒鳴られるが、俺は答えることができなかった。俺も莉央の行動を手伝おうか迷っていた、なんて言ったら、殴られると思ったから。
親父は莉央が足を怪我しないように抱き上げ、ソファの上に移らせた。
俺は、しゃがんで食器の片付けに取りかかった背中に、
「片付け、やるよ」
と声を掛けた。
朝起きてすぐ、タイヤをスタッドレスに変えるついでに、車の手入れをしていた親父は、俺の提案を素直に受け入れた。そして居間から出ていく際に、俺のことを一瞥した。
「……頼むぞ」
俺は頷いた。
玄関から靴を持ってきて履き、軍手をはめて、とりあえず片づけを始めた。大きな破片からビニール袋に入れていき、小さな破片は最後にまとめて掃除機で吸い取ることにした。莉央が俺の横で食器割りを突然再開するかもしれないと警戒したが、そんなことはなく、黙って俺の片づけを見守っていた。
だけど、大きい破片を片付け終えて、やけに莉央が静かなことに気付いた時には、莉央の足元には白い衣服の残骸が積み重なっていた。莉央の持つ白の下着やシャツが、はさみでばらばらに切り刻まれていた。
あまりにも無表情にやっているので、そのうち彼女自身の白く細い指まで切り落とそうとするのではないか、と妙な想像が浮かんで、鳥肌が立った。
さっきの思い込みは訂正する。莉央の行動を手伝うなんて、俺にはできない。俺は立ち上がって莉央の前まで行き、屈んだ。何も言わずに莉央の手首を掴む。
ソファに座ったままの莉央はぼんやりとした目つきで俺を見下ろした。莉央の握り拳をゆっくりとほどき、はさみを莉央の手から取っても、彼女は抵抗しなかった。
「あんなに嫌ってたのに、なんで今更こんなこと……」
俺はそう、呟いた。
莉央は、俺から視線を逸らし、窓の外に広がる道路に目を遣った。そして、「あ」と小さく零した。俺もつられて目を遣るが、そこには特に目新しいものはなく、車が行き交っているだけだった。強いて言えば、ぽつりぽつりと雨が降っているくらいか。
「どうした?」
「なんでもない」
今日、初めて成立した、妹とのまともな会話。俺は少しだけほっとして、莉央の手を離した。
「片づけが終わるまで我慢してくれ。そしたら、とりあえず、白いものは別の場所に移そう。それでいいか?」
莉央が頷き、俺は片づけに戻った。
「アキにい、私、お父さんの手伝いしてくる」
戻ってすぐ、背中に、そんな声がかけられた。
それならここの手伝いを、と言おうとすると、莉央はもう居間から姿を消していた。
燃えないゴミ用のゴミ箱に、大きな破片をまとめて入れた。続けて掃除機をかけ微細な破片を取り終えたところで、
「本格的に降ってきやがった」
親父が呻きながら居間に入ってきた。俺は、掃除機をしまおうと思って持ち上げながら、笑った。
「一日中、雨かもしれないって言ってんのに、なんで車洗うんだよ」
訊かなくても、本当の理由は分かった。 理由が分かってしまうからこそ、俺は冗談めかして言った。
親父は外で何かに集中して、気を紛らわせようとしていただけだ。親父はいつも、洗車はガソリンスタンドで済ませる。自分で車を洗うところなんて見たことがない。
「雨かもだろ、雨かも。降らない可能性だってあったんだ」
親父は不格好に積み上げられた洗濯物の中からタオルを引っ張り出し、頭を拭き始めた。
「……なあ、莉央はどうだった。あれから、何かしたか」
「いや。自分の下着をはさみで切っただけ」
「そうか……。で、今はどこにいる?」
俺は手に持っていた掃除機を放り、玄関へ駆け出した。靴を履きながら、親父にも莉央の言い分を伝えた。俺はそのまま出ていこうとしたが、親父に呼び止められ、莉央が使っているピンク色の傘を投げ渡された。
「俺は国道に抜けるほうを探してみるから。お前は反対を」
「わかった」
俺は親父の提案に頷き、車庫入れに走って自転車を引っ張り出し、ピンクの傘をハンドルの根本に引っ掛けた。家を出るとき、親父が車に乗り込むのが見えた。
雨は容赦なかったが、風はさほどでもない。全身がずぶ濡れであることさえ気にしなければ、冬を迎えようとしている寒ささえ我慢できれば、走ることそのものに問題はなかった。ただ、問題は妹がどこまで行ってしまったかだ。人間の歩く速さは時速数キロぐらいだと聞いたことがある。莉央がいなくなって二時間ほどだが、歩き続けていれば、ずいぶんと遠くまで行ける。
脇道まで調べていたら、時間がいくらあっても足りない。とりあえず俺は、幹線道路沿いをまっすぐ進むことにした。
けれどそれは失敗だったようで、いくら走っても莉央の姿はなかった。十キロ近く離れた場所までたどり着いたところで、俺は引き返した。ひとつひとつの路地を覗き込み、しらみ潰しにやっていったが、それでも莉央は見つからなかった。
俺は家まであと半分くらいのところにあった公園の前で、一旦、自転車から降りた。さすがに寒気が酷くなってきていた。きっと唇は紫色だ。あのバカ莉央のせいで。自転車を押しながら、公園の景色を見るとはなしに眺める。公園の街路沿いは黒い柵がめぐらされていて、少し息苦しい。その隙間から公園内を窺ったが、この土砂降りの中、遊具に飛びつく子供や、立ち話に興じる親の姿はない。遊具が雨粒を跳ね、木の葉の落ちた木々がうら寂しく立ち尽くしているだけだ。
ふと、景色が途切れ、駐車場が姿を見せた。その駐車場に停まった、一台の白い普通車の前。そこに、目を引かれた。一生懸命探しているときには見つからなかったものが、あるときぽろっと出てくる。そんな感じで、莉央がいた。莉央は白い普通車のフロントバンパーに手を掛け、ぐったりと前のめりで、コンクリートに頭をつけていた。
俺は自転車を歩道の端に停め、ハンドルにかけていた傘を取った。震えを堪えながら駆け寄り、雨ざらしの莉央が隠れるように、傘を差した。
雨が遮断されたことに気付いたのか、莉央が顔を上げた。顔からは色味が失せ、唇は紫色だ。
「アキにい……」
俺は莉央の頭を小突いてから、右手を差し出した。
「早く立て」
莉央は右手で俺の右手を掴み、立ち上がった。
莉央の目は、白い普通車に向いた。震えながら、莉央はそれを指差す。
「アキにい、私、この車が、お母さんを、轢いたんじゃ、ないかなと思って、追いかけて、きたんだけど」
俺は思わず莉央の言葉を遮ろうとしたが、どうにか堪えた。
白い普通車で母さんのことを轢き逃げした女は、昨日行われた葬儀の前に、捕まった。母さんを、白ずくめの霊安室に送った奴は、ちゃんと、捕まった。
そんなこと、莉央も分かってる。莉央は今、現実逃避をしているだけだ。
「車体のどこにも、傷がないから、違う、かもしれない」
「やめろよ」
「私が、見つけないと……。せめて車は、私が……」
「やめろ」
俺は右手で莉央の右手を掴んだまま、左手で傘を差したまま、自転車に向かって歩き出した。
自転車の前で、俺は莉央の手を離し、代わりに傘を押し付けた。莉央に背を向け、自転車のスタンドを外そうとすると、濡れて気持ちの悪い感触だけを伝えてくる服が、引っ張られた。そのまま背中に、うっすらと温かい何かが、当たった。
「だって、あの朝、私が、死ねなんて言ったから……。ちょっと喧嘩したくらいで、死ねなんて言っちゃったから、お母さんは」
「……後悔するくらいだったら、最初から言うな」
俺は今度こそ莉央の言い分を遮り、できるだけ冷たく言い放った。自転車のスタンドを蹴り上げる。
「警察の人は、歩道に突っ込んだ車側の過失だって言ってた。……だいたい、前提がおかしい。お前の命令に従って死ぬほど、母さんは物分かりのいい人じゃなかっただろ。強気で、強情で、一度言い出したら絶対に退かなくて……。でも、子供を人殺しにさせるほど、思いやりは欠けてなかった。だから、俺も父さんも、お前のせいで死んだなんて思ってない」
自転車を押して、歩き始めた。
莉央の手が、歩き出してもまだ、服の背中の辺りを引っ張っている。俺は自転車に乗るのを諦め、押して歩き始めた。
家までまだ、五キロ近くはある。慌てて出てきたから、親父への連絡手段もない。着の身着のままの莉央だって、同じようなものだろう。これからの道のりを思ってうんざりしたところで、今まで体に降りかかり続けていた雨粒が、和らいだ。右肩のあたりを少し、撫でるくらいになった。
俺のすぐ左横では、莉央が、左手を目いっぱい使いながら、俺と自分を、ひとつの傘の中に納めようとしていた。
俺は莉央側に寄って、やや屈みながら歩くようにした。
すると莉央は、右腕を、俺の左腕に絡めて、体をぴったりとくっつけてきた。
「くっつくなよ」
歩きにくくなったので振りほどこうとすると、莉央は、離さないとでも言うようにもっと強く、俺の腕を抱き締めてきた。
「アキにいの体も、冷たい……」
「莉央のせいだから」
結局、家に着くまでの間ずっと、俺の頭上すれすれを、ピンク色の傘が行ったり来たりしていた。
(2012/3/30)