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あるちーちゃんに、花束を

作者: まー

11月1日


「ちーちゃん! お肉売り場の値札貼り代えてぇ」

滝沢主任が、ちーちゃんに声をかけた。

学園研究都市として名高い、T市にある、小さなスーパーである。

夕飯の材料を仕入れる主婦たちが買い物を済ませ、客がまばらになりかかっている。

売れ残りを減らすため、処分価格に値札を貼り代える時間であった。

「はぁい」

ちーちゃんは、返事をすると、どたどたと、肉売り場に移動した。


彼女は、小さいから、ちーちゃんなのではない。

名前が、<ちさと>なのである。

実際は、身長170cm、体重110kgの巨体であった。


値札を、そこそこ手際よく、貼り代えていくちーちゃん。

手先は、決して不器用ではない。

しかし、いかんせん、動きが鈍くならざるを得ず、振り返るとお腹で陳列した品物やお客様を突き飛ばしたりすることも、ままあったりする。

滝沢主任からは、よく怒られている。


「あ、あのう・・・」

「あら、タイゾウさん、こんばんわぁ」

値札の貼り代えに余念がないちーちゃんに、気弱そうなサラリーマンが声をかけた。

近所に一人住まいの、タイゾウさんである。

仕事を終えてからだから、買い物はいつも遅い。

「ち、ちさとさん、そ、そのお肉、ください」

「ちょっと待ってくださいね。値札を貼り代えますから・・・。はい」

「あ、ありがとうございます」

「毎度ぉ〜」


タイゾウさんを見送るちーちゃんに、後ろから、滝沢主任が、長めの髪を掻き揚げながら近づいた。

「ちーちゃん! 値札を貼り代える前の肉を渡せばいいんだよ」

「ええ?! だって、それじゃあ・・・」

「ったく。商売なんだからさ」


ちーちゃんは、大きな身体を精一杯小さくして、しゅん、とした。




11月4日


「脂肪の中には、幹細胞が豊富に含まれます。抽出した肝細胞を分化させ、美容手術や、骨髄再生医療に用いられるのは、皆様ご承知の通りかと思います」

T大学の、大会議室で、島田教授は、熱弁を振るっていた。

薄暗い部屋にプロジェクターで、細胞の模式図が、大写しになっている下を、レーザーポインターを片手に左右に歩く。

島田教授の話にあわせて、小川はマウスをクリックし、プレゼンの画面を進めた。


「しかし、脂肪の抽出とはいえ、体にメスを入れ、それなりに負荷は大きい。特に、美容痩身の脂肪摘出は、クライアントに相当な負荷がかかります。そこで、今回の研究の結果を、実用化すれば、誰でも、極簡単に、痩身の効果を得ることが出来るのです」

「アンギオテンシノーゲンγとアンギオテンシンαをクライアントに投与します。このアンギオテンシノーゲンγは、脂肪内の幹細胞にピンポイントで働き、遅筋細胞に分化させた後、非常に高速に分裂を繰り返し、大量の酸素を取り込んで、脂肪を燃焼します」

「その後、アンギオテンシンαが、遅筋細胞に働いて細胞内部でアンギオテニアノに変化したアンギオテンシノーゲンγと合成し、筋細胞にアポトーシス・・・つまり、細胞の自殺プログラム・・・を惹起させ、筋細胞は死滅します」


複雑な化学式が次々と映されて行く。


「ラットによる実験は、完全に成功です。その後も、何の異常も認められません」

今度は、太りすぎのネズミが、日を追って見る見る痩せていく写真が、スクリーンに映された。


「動物実験の効果は、十分だとお分かりいただけたかと思います。また、このラットは、本日そこに」

といって、島田教授は、小川を指差した。

小川は、ゲージに閉じ込められたネズミを、掲げて見せた。ほっそりとしたネズミである。

「健康状態も良好で、生存中です」

「教授会の皆様に、ぜひ、臨床試験の許可をいただきたい。この技術が実用化されれば、全世界の肥満に苦しむ人たちの悩みを、永遠に解消できるのです!」

島田教授は、はあはあと息を荒げながら、説明を締めくくった。



「圧倒的多数で否決」

「金儲けが露骨。学問の探求が目的たる大学が取り組むべき課題ではない」

「実験の件数が不十分。安全性が証明されたとはいえない」




「ちくしょう、頭の固いじじいどもめ!」

小川助手は、飲み屋で、島田教授に向かってクダを巻いた。

まだ宵の口。

「いや、確かに、実験サンプルが不十分だった。それは、私もわかっていた」

島田教授は、ゆっくりと、熱燗が注がれた茶碗をあおった。

「しかたない。こつこつ実験を重ねよう。一般的な動物実験で言うと、200例は必要だ。あと、3年くらいかけて、地道にやるしかない」

「あと、3年なんて・・・はあ」

この手の研究は、当然、あちこちで進んでいる。

最初に実用化したものには、莫大な富がもたらされる。

(待ってられない。やるしかねえ・・・)

小川は、酔った頭で、考えた。



小川は、ふらふらと自宅に向かって歩いた。

途中に、スーパーが、まだ開店中である。

喉が渇いた小川は、ミネラルウォーターでも買おうと、店に入った。

そこに、ちーちゃんが、いたのである。

小川は、とっさにかばんの中の、アンプルを圧力式の注射器に装着し、後ろ手に持った。



弊店間直。

野菜の陳列棚に向かって、ちーちゃんは、棚卸の準備をしていた。

すると、右腕に、ヒヤッという感覚がした。

はっと振り返ると、若い男が走って逃げていく。

「・・・? 待てぇ。万引き? いや? 違うよねえ? ん? ん?」

ちーちゃんは、男を追おうと、どたどたと少し走ったところで、あの男を追わなくてはならない理由がないことに気づいた。

そもそも、ちーちゃんが走ったところで、追いつくわけはなかった。

「なにやってんの? ほら、ちーちゃん!」

滝沢主任が、一人で騒いでいるように見えたちーちゃんに、うんざりしながら仕事に戻るよう告げた。

「はぁい」

右腕を見ると、ちょっと赤くなっている。

ちーちゃんは、なんだったんだろう、と思いつつ、棚のチェックに戻った。




11月5日


小川は、翌日昼近くになって、やっと布団を抜け出した。

二日酔いで頭が痛い。

だが、記憶はあった。

あそこのスーパーの、とても太った女性店員に、いきなり例の試薬を注射したのだ。

万一ばれれば、医学界から永久追放モノの反倫理的行為である。

酔った勢いとはいえ・・・。これで研究者人生も終りかもしれないと思うと、憂鬱だった。

あの、女性店員に、顔を見られたかもしれない。

もしそうなら、人生を賭けた実験の経過観察さえ出来ないのだ。

とりあえず・・・。土曜日だし、もう一回寝ることにした。



ちーちゃんは33歳。独身、一人住まい。

高卒で、ずっとこのスーパーに勤めている。

高校のときから、ぽっちゃり、というより、デブだった。

働きだしてからも、ずっとデブだった。


主任さん。滝沢主任は、大学を卒業して入ってきたので、ちーちゃんより、5年もあとの入社だ。新人のときは、同い年なのに、新人指導した。

ちょっと長めの髪をなびかせる滝沢くんは、ちーちゃんにとって、指導すべき後輩であると同時に、憧れの人だった。

いまや、主任さん。次期店長候補だ。ちーちゃんは、ヒラの店員のまま。


指導していたときに、一回、関係を持った。

滝沢くんは、ちーちゃんの初めての人である。

そして、一回きりだった。


滝沢くんに振り向いて欲しくて、何度か、ダイエットに挑んだ。

そして、リバウンドした。

繰り返して、いまや、100kgの大台を上回っている。


パンツも、ブラも、特注。

無理矢理、身体の肉を、服に押し込んで、出社の支度を整えた。

今日も、遅番である。

早番の日は、7時に起きて、店に入り、陳列をして、夕方前には上がる。

遅番の日は、10時に起きて、お昼に店に入り、最後に棚卸。

ちーちゃんの、15年の繰り返しの日々である。


「あらあ。ちーちゃん、今日もお元気?」

近所に住む主婦の佐藤さんが、お昼過ぎに買い物に来た。でっぷりと太った50前の主婦。

お友達の田中さんと一緒だ。逆に、田中さんは、やせこけて、もう少し太っていたら、美人かもしれない、皺っぽい奥さんだ。

「こんにちわぁ。元気ですよぅ。このお肉、どうですかぁ? お勧めですぅ」

ちーちゃんが返事をする。

「いやだあ、ちーちゃんのお勧めのお肉食べたら、太っちゃわないかしら?」

佐藤さんは、いつもこうである。

田中さんは、佐藤さんの物言いに、はらはらしている。

ちーちゃんは、にっこり返事をした。

「そうですねぇ。じゃあ、アジの開きが特売ですよぅ」

「ふぅん。じゃあ、お肉と、アジ、両方いただくわ」

「あ、あたしも」

こう見えて、ちーちゃんは、存在感が強烈なせいもあるが、売り場の人気者である。


(なにかしら・・・)

ちーちゃんの目は、店内でサングラスをかけて、特に買うものもない様子の男の目に留まった。

万引きかもしれない。

ちーちゃんの身体では、万引きを捕まえるなど、かなわないが、15年もやっていれば、普通の買い物客と、怪しい人の区別など、一目でつくものだ。

他の女の子たちは、主任さんに、言いに行く。

滝沢くんと話ができることもあるし、万引きさんが、怖いから。

でも、ちーちゃんは、万引きさんに、できれば、万引きしないで帰って欲しかった。

だから、一息大きく、約5リットルの空気を吸い込むと、怪しいサングラスの男にのしのしと近づいた。

「あのぉ。何かお探しでしょうかぁ?」

サングラスの男は、慌てふためいて、逃げていった。

ちーちゃんは、今日も、ひとつ、いいことをしたんだな、と満足した。

サングラスの男が、昨日もちーちゃんから逃げた男だったことには、気づかなかった。




11月7日


ちーちゃんは、今日は早番の日である。

早番と遅番、どっちもどっちだが、遅番の後の早番の日は、当然、ゆっくり出来る時間が少ないので、嫌いだった。

よいしょと身を起こして、特注のパジャマを脱いで、特注のブラに、巨大な乳房を収めようとした。

入りづらい。

(やだなあ、また太ったのかなあ・・・)

ちーちゃんは、そんなふうに思っていたが、実際は、乳房が、硬くなっていたのである。

ちーちゃんは、気がつかなかった。

必死に何とか収めると、出勤した。




11月8日


ちーちゃん、今日は、お休みの日。

ゆっくり起きて、たまった掃除やら洗濯やらを、こなしていく。

パジャマのままだった。

買い物に行く必要はない。

食料品は、自分の勤めるスーパーで買ったり、もらったりできる。

衣料品はそうは行かないが、買い物には行かない。全部特注だからだ。お取り寄せである。

ちーちゃんは、仕事がない日は、引きこもるのが普通なのだ。


その夜、お風呂に入るときに、やっと異常事態に気がついた。

乳房が、メロンのように筋張っていた。

いや、鏡で確認すると、乳房だけではない。

全身メロンのようだ。

顔も。

どうなっちゃったんだろう、とちーちゃんは、不安に思った。

だが、お医者さんにかかろうとは思わなかった。

お医者に行くと、体調不良は全部デブのせい、風邪でも風邪そっちのけでダイエットの薦め。それが、お医者さんという種類の人たちだ。




11月9日


今日は遅番だ。


ちーちゃんは、昨日、風邪のマスクを買いに行った。

ただでさえ、デブで背丈も大きく、道を歩く人の注目を集めがちなのだが、昨日はその上に、顔がメロンのようだった。

応対したドラッグストアの女性店員は、一生懸命ちーちゃんの顔から、視線をそらそうと、努力しているのが、手に取るようにわかった。


マスクをつける。

いつも、髪は後ろに縛っているが、前にたらして、できるだけ、顔面の皮膚のさらされている面積を小さくする。

鏡で確認したが、かなり怪しい。

だが、メロン顔よりはマシだろう。鼻やまぶたには、あまり筋は浮き出ていない。



夜、閉店間近。タイゾウさんが買い物に来た。

「あ、あの、その、お肉ください」

「あら、タイゾウさん、こんばんわ。はい、毎度ありです。ありがとうございますぅ」

「ちち、ちさとさん、お風邪ですか?」

「え、えええ。そうなんですぅ。ちょっと風邪ひいちゃいまして」

「あ、あ、あの、そのちさとさんの、ええと、その、いえ、お大事に」

タイゾウさんは、逃げるように去っていった。

顔を、あんまりじろじろ見られなくて、助かったと、ちーちゃんは思った。




11月16日


ちーちゃんは、異変の深刻さに、もう少し気づいた。

身体の表面がメロンのようになっているのは、もう、この1週間ほど見慣れていた。メロンの筋が固いから、乳房がブラに入りづらいのも、気づいていた。

だが、休みの後この日。

ブラに乳房を収めて、ブラがガバガバなことに気がついたのだ。

いや、ガバガバというのは大げさだが、とにかく、余っている。


相変わらず、マスクに、髪を下ろした姿で働いている。

その日、不安な気分で勤めに出たちーちゃんは、店で、いつかのサングラス男に出会った。

今日も、声をかける。

男は、逃げていった。


夜、タイゾウさんが買い物に来た。

「ち、ち、ちさとさん、少し、痩せました? お風邪のせいですか?」

「ええ? いやですぅ、タイゾウさんたらぁ」

「いや、本当に。お体、気をつけてくださいね」

いつも、ちーちゃんに声をかけては、逃げるように去っていくタイゾウさんは、今日は、心底心配そうにして、いつもより少し長く、ちーちゃんと会話した。


ちーちゃんは、タイゾウさんの言葉が気になって、家に帰って、数年ぶりに体重計に乗った。

100kgを超えてからは、体重計など見たくもなかったのだが。

体重計は、89kgを指した。

タイゾウさんの指摘は、間違っていなかった。

この、メロン病と、関係があるのだろうか。




11月18日


「あら、ちーちゃん、痩せた?」

佐藤さんが、売り場を歩くちーちゃんに声をかけた。

「い、いいええ。そんなことぉ」

ちーちゃんは、あいかわらず、マスク姿である。

ちーちゃんの顔を見た佐藤さんが、少しギョッとした顔をした。

メロンのすじは、隠しようもなく、目の周りにも現れていた。

だが、ちーちゃんの体重は、すでに、80kgを切っていた。

その様子を、小川助手が陳列品の陰から窺う。



11月22日


勤労感謝日の前日。ちーちゃんは休みだった。

メロンのすじは、徐々に消えつつある。

お風呂の鏡の前に立ったちーちゃんは、呆然とした。

(これが・・・わたし)

体重は、60kg台。

相撲取りかというような体型ではない。

女性らしい、丸みを帯びた体型、と言えなくもない。

持っている服、すべてのサイズが合わない。

無理やり着られる一着のベルトを目一杯締めて、買い物に出かけた。

このままでは、着るものがなくなる。


給料は高くない。貯金も多くない。

散財である。

だが、これほど、楽しい買い物は久しぶりだった。

百貨店の服屋を回る。

店員たちが、あれこれ薦めてくれた。

「そうですね、このサイズだったらいかがでしょう」

自分が着られる服が、店にある。

私は、普通なのだ。

ちーちゃんは、叫びだしたいほどだった。

欲しかった服。いままで、素敵だと思ったけれど、どうにもならなかった服。

すべてが、金さえ払えば、手に入って、着る事ができる。

ちーちゃんは、一日、試着し続け、気に入った服を買い続けた。



11月24日


「あ、あ、あらあ・・・。ちーちゃん、ずいぶん痩せたのねえ・・・」

佐藤さんが、売り場のちーちゃんに声をかけた。

ちーちゃんの体重は、佐藤さんと同じくらいだが、身長は、ちーちゃんのほうが、頭二つ大きい。

「佐藤さん、こんにちは。今日は、このお肉、お安いですよ?」

「いやだわ。栄養がない肉なんて」

佐藤さんは、ぷりぷりした様子で、肉をとらずに、進んでいった。

ちーちゃんは、首をかしげた。



「ち、ちさとさん・・・」

「どうされました? タイゾウさん?」

「ず、ずいぶん、おやつれに・・・」

「あら、痩せたっていってくださいよぅ」

「そ、そうですね・・・。すごく、きれいに・・・」

「え?」

「おーい、ちーちゃん、ちょっとこっち来てもらえるかな」

滝沢主任が、倉庫から、売り場のちーちゃんを呼んだ。

「はぁい。すみません、ちょっと行ってきます」

ちーちゃんは、タイゾウさんに声をかけて、倉庫に向かった。

ちーちゃんは、主任さんから呼ばれる回数が増えている。

「え、ええ、また・・・」

タイゾウさんは、がっくりと肩を落としていた。



12月7日


ちーちゃんは、貯金すべてを使い果たした。

わずか、2週間前に、1日かけて買った服のほとんどが、ぶかぶかになりはてていた。

今日、また、気に入った服を、百貨店に買いに行ったのだ。

体重は、50kgを切った。

身長170cmで47kg。

モデルか、マラソン選手か、というところだ。

メロンのすじは、すべて消えた。

裸で、鏡の前に立ったちーちゃんは、メリハリのある自分の体型に、気恥ずかしささえ覚えた。

自分の身体からあばら骨が浮き出ているのを見たのは、初めてかもしれない。

気をつけをしてまっすぐ立つと、閉じた腿の間から、後ろの空間が見えた。


同じ人間が同じ百貨店に、2週間後に、服を買いに行くのだ。

同じような服を買うに決まっている。

違うのはサイズだけだ。

店も同じなのに。

店員も同じところが多かったが、誰一人として、自分のことを、おぼえていなかった。

そうだろう。

ちーちゃんは、変わりすぎていた。



12月8日


佐藤さんと田中さんは、もう、ちーちゃんに声もかけてくれなくなった。

タイゾウさんも、ちーちゃんから逃げるように買い物をしている。

そのかわり、若い大学生やサラリーマンの買い物客に声をかけられることが多くなった。

すると、主任さんから、呼ばれる。別の売り場も、見ろ、と。

主任さんから、呼ばれることも多くなった。

ちーちゃんは、なんだか、うれしかった。



12月9日


「おかしいな・・・。小川君、ラットの体重をチェックしてくれないか」

T大学の島田研究室。

例の実験のラットが、再び、太りだしていたのだ。

(そんなばかな)

小川は、ラットをゲージから取り出し、計量して、確認した。

確かに、体重の増加が始まっている。

(人間にも、効いたのに・・・)



12月10日


「ちーちゃん、今晩、久々に一緒に食事でもどう?」

「え、主任さん・・・。あのう」

「用事でもあるの?」

滝沢くんは、整った眉根を寄せて、顔を曇らせた。

「いえ、そんなじゃないです」

「じゃあ、決まり」

滝沢くんは、さわやかに微笑んだ。


滝沢くんは、おしゃれなイタリアンレストランに、ちーちゃんを連れて行った。

繁華街を通るとき、ちーちゃんは気がつかなかったが、何人も男がちーちゃんをみて、振り返った。

少し垢抜けないところもあったが、すらりとした長身のちーちゃんは、男の目を引き寄せずにはいないのだ。


「なあ、俺たち、やり直さない?」

滝沢くんは、ワイングラスを傾けながら、言った。

やり直すも何も、10年前に一回関係しただけで、滝沢は、ちーちゃんと付き合ったというほどではない。

だが、ちーちゃんにとっては、大切な思い出だった。

滝沢は、それを見透かしてもいた。

「うん・・・」

「これから、俺のうちに来ない? ちょっと散らかってるけど」

「うん・・・」



12月12日


体重が、48kgになっていた。

昨日は、47kgだった。

170cmで48kgといえば、まだまだほっそりとしている。

だが、ちーちゃんは、慌てた。

体重が減る一方の状態が、ここのところ普通だったからだ。

(お昼ごはん抜きね)


今日は、遅番。

滝沢くんは、早番だった。帰りがけの滝沢くんが、ちーちゃんに声をかける。

「なあ、24日の夜、空いてる?」

「うん・・・」

「じゃあ、空けといて。素敵な店、予約してあるからさ。お先」

「うん・・・。お疲れさまぁ」


閉店間直に、例のサングラス男を見かけた。

ちーちゃんは、気づかないフリを装って、近くまで寄ると、一気にダッシュして、男を捕まえようとした。

男も、全力で逃げる。

レースは、店内で決着がつかず、店外に出た。

男の靴は、皮のビジネスシューズだった。走るのに向いていない。

一方、ちーちゃんは、つい先日まで110kgの身体を引きずっていたのが、いまや半分以下の体重であり、人生最速のスピードで軽々と走っている。

ついに、男の襟に、ちーちゃんの手がかかった。

道端に倒れこむ二人。


男は、いきなり土下座して謝りだした。

「ぐ・・・。ご、ごめんなさい、ごめんなさい」

ちーちゃんは、単なる万引きだったかと、誤解した。

「盗んだものを、出してくださぁい」

「は?」

「出して! 警察さん、呼びますよぅ」

「あ、あのう・・・」


ちーちゃんが店を上がった後、ちーちゃんと小川は、夜の街を、歩きながら、話した。

「それで、小川さん、あたしが、急に痩せたのは、あなたのせいだと・・・」

「はい。このことは、一つ、他言無用に願います。私の、研究者人生がかかっています」

「うん・・・。わかりました」

「それで、最近の体調はどうですか?」

「すごくいいし、なんか、気持ちまでうきうきするみたい」

「体重が、また増えたりしてませんか?」

ちーちゃんは、足が止まった。今日の朝、体重が増えているのを発見したからだ。

「この、これは、元に戻っちゃうんですか?」

「私と教授は、効果が永続するものだと思っていましたが、実験用のラットの体重が、元に戻ってしまったのです」

「・・・そんな! そんなの困ります、すごく! なんとかしてください!」

「いえ、ですから、あのホルモンの効果は、私たちも、まだ手探りで」

「あなたがやったんでしょう?! なんとかしてよぅ。もう、元に戻りたくないの。お願いします。本当に・・・」

ちーちゃんは、泣き崩れてしまった。

小川は、おろおろするだけだった。



12月13日


体重、53kg。

なんで、飲み食いしないのに、体重が増えるのか、ちーちゃんには理解できなかった。

小川に電話しても、小難しい話をするだけで、結局何の手も思いつかないようだった。

店に出るのも、だんだん億劫になりつつある。



12月16日


体重、65kg。

ちーちゃんは、店に電話した。

「風邪なので、休みますぅ」

15年で、初めてのズル休みだ。



12月18日


体重、70kg。

意を決して、店に勤めに出た。

服は、やせだして、一回目に買ったものに、戻った。

二回目に買ったものは、もう、着ることができない。


仲間の店員たちが、おや、という顔をして、ちーちゃんをじろじろ見ている。

滝沢くんは、ちーちゃんを見るや、ぎくりという表情をした後、にっこりした。

売り場に出たときにする、営業スマイルであり、彼本来の笑顔ではない。

10年も、そばで一緒に働いているのだ、ちーちゃんにだって、それくらいはわかる。



12月19日


体重、78kg。

店を上がり際、滝沢くんが声をかけてきた。

「申し訳ない。24日の夜の件なんだけど、実家に急用でかえらなくちゃならなくなって」

「へえ。そうなんだ」

「ごめんね。なにか、埋め合わせはするよ」

「そう。別に、いいよぅ」


ちーちゃんは、死ぬことを考えた。



12月23日


天皇誕生日。体重、85kg。

いろいろ調べてはいるが、なかなか、踏ん切りがつかない。

車の社内に排気ガスを引き込んで、一酸化炭素中毒というのが、きれいに、楽に死ねるらしいが、ちーちゃんは車を持っていない。

今度の休みのときに、レンタカーを借りて、北のB山のふもとの、景色がきれいなところに行こうと思った。



12月24日


遅番の日。明日は、休みだから、レンタカーを借りようと思う。

ちーちゃんは、サンタクロースの格好で、店に出ている。

去年のものと、同じ、ちーちゃん専用の、サンタクロース衣装。

少し、まだ、服が余っているが、少しだけ。

ちーちゃんは、華やかな店内が、うっとうしく感じる。


買い物に来た佐藤さんが、ひさびさにちーちゃんに話しかけてきた。

「あらやだ、ちーちゃんったら、またずいぶん太ったわねえ」

結局、この人が、店に来るたびにちーちゃんに親しげに話しかけてきたのは、優越感に浸りたかったからなのだろう。

自分より、デブがいる。自分は、まだましだ。

ちーちゃんは、感情のこもらない返事をした。

「ええ。おかげさまで」

「やだ、ちーちゃん、暗くない?」

「ええ、おかげさまで」


あと、2時間で、閉店だ。

ちーちゃんは、サンタクロースの格好のまま、値札を貼り代える。

この作業も、今日が最後だ、とふと思った。

だが、特に何の感慨もわいてこない。




「あ、あのう、ちさとさん」

タイゾウさんが、閉まる直前に、店にやってきた。

まっすぐ、ちーちゃんに向かっていく。

「あら、タイゾウさん、こんばんわ」

タイゾウさんは、カチカチに緊張していて、右手と右足が同時に前に出る歩き方になっていた。

「タイゾウさん、どうしたんですか?」

「ああああ、あのう、これ、プレゼントです」

「わたしに?」

「は、はい」

「どうして?」

「あ、あ、あのう、ちさとさんが、痩せて、きれいになっちゃって、僕なんか、声かけられなくなっちゃって、でも、そのう、また、元のちさとさんに、戻ってくれて・・・」

「・・・」

「そそその、め、迷惑でしたか?」

「・・・ありがとう」


クリスマスは、誰にでも、平等に訪れるのである。

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― 新着の感想 ―
[一言] あからさまなパロディだが、ダイエットしたい人にはいい話かもしれない。でも、そんだけ。もっとエグく、あるいは美調に、偏らせればもっとよかったかもしれない。
2007/01/25 10:02 通りすがり
[一言] 作品お読みしました。 アルジャーノンをこんな形にされるとは、素晴らしいアイデアだと思います。 500枚ぐらいの長編でじっくり読みたいと感じました。 アルジャーノンを読んだときに湧き上がった切…
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