断罪イベントは完璧でなくてはならない
私が前世の記憶を取り戻したのは、十歳の誕生日の夜だった。
ケーキの蝋燭を吹き消した瞬間、頭の中に濁流のように押し寄せてきた「別の人生」の記憶。前世の私は、どこにでもいる平凡な日本人だった。ただし、新卒で入った中堅の製薬会社が、いわゆるブラック企業だった。毎日深夜まで仕事に追われて休日も月に二、三日程度という生活は、平凡ではなかったかもしれない。死んだときの記憶はないが、おそらく過労死だと思う。
そんな日々の中、唯一趣味と言えたのは、通勤時間を利用してネット小説を読むことだった。そして、そのことを思い出すと同時に、私は気づいてしまった。この世界は、私が前世で読み漁った、あの物語群とそっくりだということに。
華やかな王宮と、中世ヨーロッパ風の明確な身分制度。それなのに、貴族の子弟と平民が共に通う学園が存在するという矛盾。そして──卒業パーティーで起こる「断罪イベント」。
前世で、私はあの手の物語をよく読んでいた。流行りジャンルで次から次へと新しい作品が生まれていたし、何より「努力した人間が評価され、報われる」結末が用意されているという、安心感があったからだ。
けれど一方で、いつも不満だったことがある。
断罪イベントの出来が悪い。当事者があまりにも愚かすぎる。すべての物語がそうだったとは言わないが、やることなすこと雑すぎて、読んでいて溜め息が出ることも多かった。
そしてこの世界で私は、その断罪イベントの当事者になってしまったようだ。
避けて通れるはずがない立場だ。
だから決めた。
破滅を回避するだけでは足りない。やるなら──完璧にやる。
この物語を、私の手で「完璧な断罪イベント」にしてみせる。
それからの私は、入念に準備をした。
成績は常に上位を保つ。慈善活動も積極的に行う。完璧なマナーを身につけつつも、下位の者を見下すことはしない。社交の場では派閥争いを巧みに避け、取り巻きを侍らすことはせず、隙を見せない。それがどれほど面倒であっても。
前世の知識を活かして、舞台に立つ登場人物を一人ずつ、丁寧に、慎重に、配置してきた。
そして今、学園生活も三年目。卒業パーティーまで残り二週間。
すべてが整いつつある、はずだった。
◇
薬草園の片隅で、この物語の「ヒロイン」——アニェスが大きな目を零れんばかりに見開いた。私が示した二種類の薬草の組み合わせを見て、明らかに動揺している。無理もない。一つは毒草だ。
「あの……これ、本当に混ぜて大丈夫なんでしょうか? 教科書では禁忌の組み合わせとされているんですけれど……」
「配合の比率と加熱の手順を変えれば毒性は中和される。かなり繊細な作業が必要だけれど、あなたならできるはず」
アニェスはなおも不安そうに私の顔を見つめていたが、覚悟を決めたように乳鉢を手に取った。三年間、私の助言が間違っていたことは一度もない。その信頼が、この子を動かしている。それがどういう意味を持つ「信頼」なのか、知ることもなく。
やがて青白い液体が完成し、それを試験紙に一滴垂らした瞬間、紙は鮮やかな金色に変わった。
「えっ、金色!? こんな反応、見たことがありません! これ、もしかして汎用の解毒作用が……いえ待ってください、もし希釈して経口投与に適した形にできれば、辺境の風土病にも——」
「ふふ、興奮するのはわかるけれど、落ち着いて」
そう言いながらも、私は内心で舌を巻いていた。私が教えたのは組み合わせだけだ。そこから「辺境の風土病への応用」まで飛躍するのは、完全にこの子自身の頭脳によるものだったから。
「完璧な断罪イベント」の条件。「ヒロイン」は、ただ知識を受け取るだけの器ではいけない。自分の力で輝ける人間でなければ、舞台に立つ資格がない。
そしてこの子には、確かにその資格がある。
「あの、この知識はどちらで……?」
来た。三年間、繰り返されるこの問いだ。
「古い文献で読んだことがあって。もう題名は覚えてないけど」
「……三年間、図書館でずっと探しているんです。司書の方にも全員お聞きしました。それらしい文献は一冊も見つかりませんでした」
アニェスの目が、笑っていなかった。いつもは好奇心旺盛にあらゆるものを映そうと輝いている栗色の瞳が、今は真っ直ぐに私だけを射抜いている。
私の薬草の知識は、前世の職——製薬会社の研究員に由来するものだ。あんなベンゼン環の知識など今世では何の役にも立たないと当初は思ったけれど、この世界にも前世と似たような植物があり、似たような薬効を持つ薬草があることを知った。
とはいえ、研究員とは名ばかりの勤め人の知識は、それほど大きなアドバンテージとはならなかった。今、この子に教えたものが、最後の手持ち札かもしれない。
「平民の私が知ってはいけないことがあるのは理解していますし、不満もありません。ただ、あなたと親しくなりたい貴族の方は、たくさんいらっしゃいます。なのになぜ、私なのか。それがわからなくて、怖いんです」
「今は言えない。でも、アニェスを危険な目に遭わせるつもりはない。それは信じて」
嘘じゃない。私は本当に、この子に危害を加えるつもりはないのだから。……結果として、この子を危険に晒すことになるのかもしれないが。
アニェスはしばらく私の目を見つめていたが、やがて小さく息をついて、金色に光る試験紙をノートに挟んだ。
「……わかりました。信じます。でもいつか、少しだけでも教えてくださいね」
いつか。
その「いつか」は、卒業パーティーの夜に来る。ただし、この子が期待している形ではなく。
◇
翌日の薬草学の試験で、アニェスは満点を取った。それどころか、教授が想定していなかった第四の効能まで導き出して、教室をどよめかせた。
「独学で、これを……君にはいずれ、王立薬学院への推薦状を書くことになるかもしれないな」
教授の言葉に、教室が再びざわめく。平民が王立薬学院に推薦された前例はない。アニェスは頬を赤くして、ちらりと私の方を見た。私は小さく頷き返した。おめでとう、という祝福を込めて。
あの子の顔がぱっと明るくなる。まさに、花が咲くような笑顔だった。幼い頃から感情のコントロールを叩き込まれた私にはできない、自然な美しさにあふれた表情だった。
(ヒロインは、順調)
あの子が輝けば輝くほど、断罪イベントの「舞台」は整う。
私の考える「完璧な断罪イベント」のための条件は、三つ。そのうち二つは、ほぼ完成している。一つ目の条件、私自身の評判。これは完璧、だと思う。二つ目の条件、ヒロインは申し分なく輝いている。
残るは三つ目——私の対となる、「愚かな人間」だ。
◇
その放課後だった。
中庭を横切ろうとしたとき、私は思わず足を止めた。
噴水の傍で向かい合う、二つの人影が視界に入ったからだ。一つはあの子、アニェス。そして彼女が見上げるもう一つの影、すらりと伸びた背筋が印象的なその人影は、誰あろう私の婚約者だった。腕を組み、どこか憐れみを帯びた目であの子を見下ろしている。
(どうして、そんなふうにあの子を見る?)
私は物陰に身を隠して、耳を澄ませた。
「最近、随分と目立っているようだけれど。教授から王立薬学院への推薦の話まで出ているとか」
「は、はい……ありがたいことに……」
「それだけの成果を、独学で出したというのは見事だと思う。けれど、あなたに知識を与えている人。その人が、なぜあなたに親切にしているのか。一度、よく考えてみたほうがいい」
その言葉に、心臓が止まるかと思った。
「え? あの、それは……」
「善意だけで動く人間は、この学園にはいない。覚えておいたほうがいい」
婚約者はそれだけ言って、あの子に背を向けた。噴水の水音だけが残った。あの子が呆然と立ち尽くしている。小さな肩が震えていた。
私は物陰で拳を握りしめていた。思考が渦を巻いている。
(……知っている。あの人は、私があの子に知識を教えていることを知っている!)
いや、待て。冷静になれ。「知識を与えている人」という言い方は、必ずしも私を名指ししているわけではない。あの子の成績が急上昇しているのは学園中の噂だ。誰かが裏で助けていると推測するのは不自然ではない。
けれど——『善意だけで動く人間はいない』。
あれは一般論として言ったのか。それとも、私の「善意」の裏にある意図を、見抜いているのか。
前世の物語なら、答えは明白だ。婚約者がヒロインに近づいて甘言や苦言を弄する場面は、十中八九、支配欲や嫉妬の表れと相場が決まっている。
だが、あの人はきっとテンプレに収まる人間ではない。
気づくと、私は婚約者を追いかけていた。
「さっき、あの子に何を話していたの?」
振り返って私を見る表情に、驚きはなかった。
「聞いていたの。盗み聞きは感心しないけれど」
「答えて」
「別に? あの子が独学であそこまでの成果を出すのは不自然だと思っただけ」
「余計なお世話では?」
「本当にそう思う?」
私を見る目が、ほんの少しだけ細められた。笑みとも挑発ともつかない、微かな表情の変化。
「あの子に何か吹き込むつもりなら、やめてほしい。あの子はただの——」
「ただの?」
(しまった)
「ただの?」の一言で、私の言葉が途切れた。「ただの友人」と言えば不自然になる。「ただのクラスメイト」と言えば、なぜそこまで庇うのかという疑問が生まれる。
冷たい沈黙が訪れた。
追い詰められるでもなく、見逃されるでもなく、ただ観察されている。その空気に耐え切れなくなったのは、やはり私だった。
「……あの子を巻き込まないでほしい。それだけ」
「巻き込む? 何に?」
また、私は言葉選びに失敗した。
「何でもない。忘れて」
「忘れたほうがいいのなら、忘れることにするけれど」
軽く肩をすくめて背を向ける姿に、気づかれないようほっと溜息をついた。けれど数歩後、振り返ることなく低い声で追撃が降ってきた。
「あなたも、善意だけで動いているわけではない。違う?」
足音が遠ざかっていく。
私はその場に立ち尽くしたまま、この短時間に自分がどれだけ墓穴を掘ったかを数えていた。
条件の三つ目、「愚かな人間」。
私とあの子の関係に目をつけた婚約者が、興味本位で、あるいは感情のままに介入してくる。そういう構図を、私は長い時間をかけて作り上げてきた。
その意味で、この出来事は想定通りだ。
……想定通りの、はずだ。
◇
社交パーティーの夜。
大広間は金と白で飾られ、弦楽四重奏が柔らかな旋律を紡いでいる。卒業を控えた三年生の親睦会という名目だけれど、実態は貴族の社交の場だ。
私は壁際に立って、果実水のグラスを傾けながら会場を観察していた。
条件の一つ目、私自身の評判の確認。
社交の場では誰にでも公平に、にこやかに接する。この三年間、一度たりとも隙を見せたことはない。この夜も、立ち替わりやって来る同級生たちに愛想よく対応し、装飾品や衣裳を褒め、興味のありそうな話題を振って適度に会話を盛り上げる。何度やっても非常に疲れるが、我ながら上出来だったと思う。ようやく人の流れが引けて、ひと息ついたところだった。
前世の物語で、私がいつも不満だったのはここだった。断罪イベントの当事者が、日頃から脇が甘すぎるのだ。横暴に振る舞ったり、阿諛追従の徒だけを取り巻きとして傍に置いたりして、周囲に自分がどう見られているのかに無頓着すぎる。自ら味方を討っているようなものだ。
だから私は、たとえ内心でどう思っていても、誰が見ても「完璧な人物」であり続けるよう努力している。
あの子は会場の隅で、数人のクラスメイトに囲まれて笑っている。入学したばかりの頃は一人で立っていたあの子が、今では身分を問わず友人に恵まれている。条件の二つ目も、やはり順調だ。
その時、近くで談笑している令嬢たちの会話が耳に入ってきた。
「マルグリット様は最近ますますお忙しそうよね。国王陛下とも、直接ご相談されているとか」
「政治のこと? 卒業前なのにすごいわよね」
「本当に、完璧な人っているんだって思うわ。お美しくて、学業も社交も非の打ちどころがなくて。正直、王位を辞退されたお父様の代わりに——」
「しっ、それ以上は駄目よ」
(こんな場所で、足元を掬われかねない噂話をするなんて。こんな人間ばかりなら、世の中簡単なのだけれど)
現国王は、先代国王の嫡男ではない。次男、つまり第二王子だった。
それが第一王子を差し置いて王位に就いたのは、血塗られた権力闘争の末でも、複雑な事情があったわけでもない。単に第一王子が病弱で、政務を執ることも後継者を残すことも難しいからと、王位継承権を自ら放棄して公爵として臣下に降ったためだ。
けれども王位という柵から解放されたためか、公爵となった第一王子の体調は、周囲の予想に反して目覚ましい改善を遂げた。そして弟に嫡男ジルベール——つまり現王太子だ——が生まれた翌年には、娘も生まれた。現在でも壮健とは言い難いものの、以前のようなベッドの上の住人ではなくなっている。
つまり何が言いたいのかといえば、公爵とその娘こそが正統な王位継承者だという声も根強い、ということだ。必然として、王太子と公爵令嬢という従兄妹同士の婚約が成立した。
(……冗談じゃない)
前世の記憶を持つ私には、ただでさえ政略結婚というものに抵抗があった。加えて、婚約者として宛がわれた相手は、非常に気の詰まる人間だった。口論をしたわけでも、ましてや暴力沙汰になったこともない。単純に、相性が壊滅的に悪いだけ。一生を共に過ごさなければならないと思うと、気が滅入ってくる。
けれど一方で、私の婚約者が優秀なのも事実だ。確かに気位は高い。人の上に立つことに一片の疑いも持っていない。だが、それは空虚な傲慢さではなかった。そのことが評価できないような、狭量な人間ではないつもりだ。
三つ目の条件——私の対となる、「愚かな人間」。
本当に私はあの人を、その立場に落とし込むことができるのか。以前はあったはずの確信が、最近ほんの少しだけ揺らいでいる。
……いや。計画は変えられない。あと二週間で、幕が上がる。
◇
社交パーティーもそろそろ終わりとなる頃、あの子が私の傍にやってきた。
「あの、少しよろしいですか」
声が小さい。周囲に聞かれたくないらしい。私は頷いて、バルコニーに出た。
「……さっきからまた見られていたんです。ずっと。私とあなたのこと、交互に」
あえて主語を排除した物言い。先ほどの噂話好きの令嬢たちとは違う、慎重さが心地よい。私は黙って続きを促した。
「私は平民ですから、こういう場に慣れていないだけかもしれないんですけど……怖いんです。何かを値踏みされているみたいで」
彼女は自分の腕を抱いた。
「あの……あなたは、あの方のこと、どう思っていますか?」
少し考えてから、私は正直に答えた。つまり、わからない、と。
「わからない? あなたにも、ですか」
彼女は小さく笑った。
「じゃあ、しかたないですね。私も気にしないようにします」
月明かりがバルコニーの欄干を白く照らしている。遠くで弦楽器の音がかすかに聞こえる。
「あの、あのですね」
あの子が欄干に肘をついて、空を見上げた。
「卒業したら、あなたに会えなくなるのは……寂しいです」
——やめてくれ。そういうことを言われると、計画が揺らぐ。
「私、入学したとき、ここでやっていけるか本当に不安でした。平民で、知り合いもいなくて。あなたが声をかけてくださったとき、私、あのとき世の中にはこんな美しい人がいるのかって、天使様だ、なんて考えたりして」
あの子がこちらを向いた。月明かりの中で、栗色の目が潤んでいる。
「あのときから全部が変わったんです。ありがとうございます。改まって言うのは恥ずかしいんですけど、今のうちに言っておきたくて」
私は微笑んだ。それ以上は、できなかった。
バルコニーから会場に戻ると、空気が変わっていた。
婚約者がこちらを見ていた。一瞬だけ、目が合った。そしてふっと微笑んで、視線を逸らした。完璧な社交の微笑みだった。つい数ヶ月前に見せていた、こちらを探るような目は、もうどこにもない。
代わりにあるのは、穏やかで、優雅で、一点の曇りもない視線。
(……どうして?)
なぜだ。なぜあの人は、急に「理想的な婚約者」になったのだ。
以前の方がまだよかった。探る目は怖かったが、少なくとも「何を考えているか探ろうとしている」ことがわかった。
今のあの微笑みからは、何も読めない。何も見えない。
それが一番、怖い。
考えすぎだ。計画は完璧だ。今さら変えられない。
◇
パーティーが終わり私室に戻ると、私の好きなハーブティーが用意されていた。けれども部屋に控えていたのは下級使用人ではなく、家令のピエールだった。彼が私の部屋を訪れるのは珍しい。驚きに軽く目を見開いた私に、彼は心配そうな声で言った。
「……最近、お疲れのご様子です。どうか、ご無理をなさらず」
「ありがとう。でも、少し考え事があっただけだから」
私の言葉に、納得していないのだろう。ピエールは少しだけ表情を曇らせ、それでもそれ以上は問いを重ねることなく静かに下がっていった。
信頼できる使用人だと思う。けれど、計画は話していない。家族にも、誰にも。
一人になった部屋で、窓の外を眺めた。
月が高い。あと二週間。
私の掲げた三つの条件。
少なくとも、二つは揃っている。今夜の社交パーティーで確認したとおり、私自身の評判は完璧。ヒロインは輝いている。三つ目の「愚かな人」は——大丈夫。まだ、想定の範囲内にいる。
なのに、あの子の言葉が、まだ耳に残っている。
『ありがとうございます』
(あの目で、あの声で、あんなふうに言われたら、どう返せばいい?)
……邪魔だ。この感情は邪魔だ。
私は首を振って、机の上に広げた書類に目を落とした。
◇
卒業パーティー前日の夕刻、私は学園の学習室で最後の確認をしていた。
証人の配置。発言の手順。証拠書類の所在。すべてが頭の中で、精密な時計の歯車のように噛み合っている。
扉を叩く音がした。
あの子だった。
「すみません、こんな時間に。明日の準備ですか?」
「もうほとんど終わったから。それよりも、何か用事だった?」
私は書類を裏返しにして、椅子を勧めた。
「あの……明日、大切なことが起きるっておっしゃっていたでしょう。私、ずっと気になっていたんです。聞いてもいいですか? 何が起きるんですか?」
「まだ、話せない。ただ、アニェスは怖がらなくても大丈夫」
私はまた、曖昧な返事をした。嘘はついていない、と言い訳をしながら。
「……わかりました。あなたがそうおっしゃるなら、信じます」
彼女は窓辺に座って、夕焼けを眺めていた。
「私、ずっと思っていたんですけれど……あなたは、ときどきすごく遠い目をしますよね。何か、大きなものを背負っているみたいな顔。私には話せないこと、たくさんあるんでしょう」
私は何も言えなかった。だって、全部だから。話せないことは、全部。
「いいです、無理に聞きません。ただ、明日何があっても、私は私でいます。それだけ言いたかったんです」
あの子は立ち上がって、扉のところで振り返った。
「おやすみなさい。明日、ですね」
扉が閉まった。
『私は私でいます』
そう言い切った、あの子は知らない。明日、自分がどんな「舞台」に立たされるかを。
前世で何百と読んだ物語。私にはどれも不完全で、どれも不満が残った。
でも明日は違う。明日、私の手で完璧な断罪イベントが実現する。条件はすべて揃っているはずだ。完璧に輝いているヒロインがいて、完璧な告発者がいて、その対になる愚か者。
胸が高鳴る。
不安か、期待か、自分でもわからない。
……いや、わかっている。これは期待だ。私はこの日をずっと、待っていた。
明日が終われば、あの子はもう私に笑いかけてはくれないだろう。
それでいい。それが計画だ。
窓の外で、夜鳥が一声鳴いた。
私は静かに目を閉じた。
◇
ついに、卒業パーティー当日を迎えた。
大広間に足を踏み入れた瞬間、全身が粟立つのを感じた。シャンデリアの光が大理石の床に反射し、ワルツの旋律が天井の高い空間を満たしている。着飾った同級生たちの笑い声。この光景を、何年待っただろう。
あの子も来ていた。少し不安そうに目を伏せて、純白のドレスの裾を握っている。私の姿を見つけると、小走りに駆け寄ってきた。
「あの、今日が『大切なこと』の日、なんですよね? 私、ちゃんとここにいます」
昨夜の約束を覚えている。あの真っ直ぐな目。
まだ、謝ることはできなかった。
もう少ししたら傍にいてほしい、と伝えた。
「はい、わかりました。すごく緊張されているみたいですけど、大丈夫ですか?」
大丈夫だ。……大丈夫なはずだ。
そして、婚約者が現れた。
長身を漆黒の衣裳に身を包んで、大広間の反対側に立っていた。人の隙間から、私を見ている。軽く微笑みを浮かべながら。
黒の衣裳に、計算し尽くされた威圧感。まさに物語から抜け出たような「悪役」。
役者は揃った。舞台は整った。
私は深呼吸をして、一歩、前に踏み出した。
あの子の傍に歩み寄り、その肩にそっと手を置く。震えていた。
大丈夫。すぐに終わる。
全校生徒の視線が集まるのを感じながら、私は声を張り上げた。
「——マルグリット」
低い声に、会場が静まった。さきほどまでの喧騒が嘘のように消え、数百の視線が一点に集中する。
「私ジルベールは、嫉妬に狂いアニェスを虐げた君との婚約を、今この場で破棄する」
(ああ、最高だ)
この瞬間のために、何年もかけて準備してきた。
十歳の夜に決意してから八年。前世で読むことしかできなかった「完璧な断罪イベント」を、この手で現実のものにした。
三つの条件はすべて満たされた。悪役令嬢は高慢で、ヒロインは可憐に震えていて、そして王子——この私、ジルベールは、正義の執行者として堂々と宣言を果たした。
証人は配置通り。証拠は完璧。宣言文は一字の無駄もなく会場に響き渡った。
これぞ理想の断罪劇。前世のどの物語にもなかった、完璧な——
……のはずだった。
マルグリットが泣かない。怒らない。
彼女はただ、静かに扇を閉じた。
そして、あの目で私を見た。笑っていない。三年間ずっと感じていた、あの冷たい目。今日だけは見なくて済むと思っていたのに。
「ええ。すべて事実ね」
マルグリットの声は、凪いだ水面のように静かだった。一拍の沈黙。
「あなたが——殿下がその平民の少女を利用して、わたくしを陥れようとしていたことも含めて。すべて、事実ね」
思考が白く弾けた。利用? 陥れる? 何を——
「殿下」
マルグリットが一歩、前に出た。漆黒のドレスの裾が大理石の床を滑る。
「少しばかり調べさせていただきましたの。殿下がこの三年間、何をなさっていたか」
懐から取り出された書類の束。見た瞬間、背筋が凍った。——見覚えがある。
「殿下がアニェスさんに教えていた『知識』の出典調査報告書。この世界のいかなる文献にも存在しない知識であるという、王立図書館司書長の署名入りですわ」
もう一枚。
「断罪の進行手順を記した殿下直筆のメモ。証人の配置図、発言の台本、想定される反論への対策。すべて、殿下のお部屋の二重底の引き出しから発見されました」
二重底の引き出しを、知っている? どうやって。誰が?
大広間の入り口から、見慣れた人影が歩いてきた。私が生まれた時から王家に仕えていた家令。信頼できる使用人。その彼が顔を伏せて、一礼して、マルグリットの後ろに控えた。
「ピエール……?」
声が掠れた。
「申し訳ございません、殿下。殿下の御為を思えばこそ、でございます」
ピエールは顔を上げなかった。
「一年半前からです」
マルグリットが淡々と言った。
「ピエールさんが異変に気づいて、わたくしに相談に来たのが一年半前。それから少しずつ、殿下のなさっていることの全容が見えてまいりました」
一年半。一年半も前から——
「わたくしが『高慢な婚約者』を演じて差し上げたのは、殿下に油断していただくため。おかげで、証拠を集める十分な時間がございましたわ」
あの探るような目が消えた時期。あの意味ありげな笑顔。
あれは、罠だった。
マルグリットは証拠を並べていった。入学前にアニェスの特待生試験に介入した記録。私が裏で行った贈賄の痕跡。工作に流用した資金の帳簿。一つ一つが、私の「完璧な計画」を白日の下に晒していく。
会場がざわめく。驚愕と非難の視線が私に突き刺さる。
そのとき、アニェスが前に出た。
私は縋るように彼女を見た。
だが、あの子の目から、あの栗色の目からは「信頼」の光が消えていた。代わりにあったのは、深い失望と、静かな怒りだった。
「殿下」
あの子の声は震えていた。けれど、目を逸らさなかった。
「私が殿下からいただいた知識は……すべて殿下の『お芝居』の小道具だったんですね」
昨夜。マルグリットがアニェスを訪ね、すべてを打ち明けていた。あの子は一晩泣いたのだろう。目が赤い。
「私は——私の意思で証言します」
声が震えている。でも、目は真っ直ぐだった。あの子は、自分で考え、自分で判断した。私が教えた知識でも、マルグリットの証拠でもなく、あの子自身の意思で。
「殿下は、人を道具にする方です」
『何があっても、私は私でいます』
昨夜のあの言葉は、こういう意味だったのか。あの子は最後まで、自分自身でいることを選んだ。私の台本ではなく。
あの子が、私に背を向けた。小さな背中。月明かりの下で「ありがとうございます」と言ってくれた、あの子の背中。
それが、前世のどんな物語よりも残酷に、私の胸を抉った。
大広間の扉が、ゆっくりと開いた。重い足音が響き、近衛騎士たちの甲冑が鳴る。
「ジルベール」
父の声だった。国王その人が、この場に現れた。マルグリットが事前に報告を上げていたのだ。証拠の一切を添えて。
父は私の前に立ち、長い沈黙のあと、低い声で言った。
「……恥を知れ」
しかし、物語のような廃嫡の宣告は、続かなかった。そのかわり——
「マルグリット。これは国王としてではなく、ただの叔父としての問いだ。息子の愚行にもかかわらず、この婚約を継続する意思はあるだろうか」
マルグリットは深く一礼した。
「ございますわ。陛下、いえ叔父様。この方には、わたくしの目の届く場所にいていただく必要がありますので」
会場から、かすかな笑い声が漏れた。
視界の端で、マルグリットが扇を広げた。そして——私を見て、微笑んだ。
「殿下。貴方は『完璧な断罪イベント』をお望みでしたわね」
一拍。
「ですから、最高の断罪劇にして差し上げましたわ。……貴方の、ね」
完璧に輝いているヒロインがいて、完璧な告発者がいて、その対になる愚か者。
それは確かに、『完璧な断罪イベント』だった。
◇
私の即位から五年が経った。
我が王国は、かつてないほどの繁栄を迎えている。外交は安定し、内政は行き届き、民は豊かに暮らしている。
王妃マルグリットの手腕によって。
私は今日も、執務室で書類に目を通している。正確に言えば、マルグリットが決裁した書類に、私が承認の署名をしているだけだ。
気晴らしに王都の市場をお忍びで歩いても、商人たちの会話が聞こえてくる。
「王妃様のおかげで商売の景気がいいよ」
「国王様? ああ、いい方だよ。でも実際に国を回してるのは王妃様だろう?」
「まあ、それはみんな知ってることだけどね。こんなふうに大声で言ったところで、誰も咎めやしないよ」
知っている。国中が知っている。
私は王であって、王ではない。玉座に座っているだけの署名係だ。
前世で読んだ物語の「愚かな王子たち」は、断罪された後、廃嫡されて物語から退場した。「おしまい」の一言で、すべてが終わった。なんと楽な結末だったことか。
現実は、退場させてなどもらえない。
あれから私は、まだ持っている「この世界のいかなる文献にも存在しない知識」がないか、あらゆる分野の学者に期待され、締め上げられる日々を送った。なかには多少、有益なものもあったが——既に私が「搾りかす」であることが判明するのに、それほど時間は要しなかった。学者たちの興味は、潮が引くように去っていった。
私は今、毎朝あの日の恥辱と向き合いながら目を覚まし、マルグリットの完璧な判断に頷き、自分の無力を噛みしめ、それでも王として玉座に座り続ける。終わりがない。物語のように「おしまい」はやってこない。
アニェスは王立薬学院を首席で卒業し、今は辺境で薬師として人々を救っているらしい。あの子の活躍を伝える報告書が届くたび、胸が痛む。あの知識は、あの出会いは、すべて私の「台本」の一部だった。でもあの子は私の台本を超えて、自分の力で道を切り拓いた。
家令のピエールは今も私の傍にいる。王家に対する彼の忠誠は、変わらない。
あの日以来、私たちの間に言葉は少ない。けれど、毎朝変わらず私の好みのお茶を用意する。私の形骸的な、儀礼的な予定を完璧に差配し、私個人の予算を過不足なく管理し、私に仕える使用人の教育を徹底する。少なくとも彼の目の届く範囲において、私が「お飾りの王」と侮られることはない。
ピエールがマルグリットに相談したのは、私への裏切りではなかった。私が暴走するのを止めようとした、彼の忠義だったのだと、今は痛いほどわかる。
執務室の扉が開いた。
「陛下。午後の会議の資料をお持ちしましたわ。目を通しておいてくださいまし」
マルグリットが書類の束を机に置いた。分厚い。今日も膨大な量だ。
マルグリットは一瞬だけ立ち止まり、あの目でこちらを見た。探るような目。いや、最近は少しだけ柔らかくなった気もする。
「それから、アニェスさんから手紙が届いていますわ。支援していた新しい薬が完成したそうです。辺境の風土病に効果がみられるとか」
(ああ、あの子はついに完成させたのか)
マルグリットが出ていった後、私は窓の外を眺めた。
王都の街並みが夕日に染まっている。活気のある市場。笑い合う人々。マルグリットが治め、アニェスが救い、ピエールが支える。この国の繁栄に、私が貢献したものは何もない。
前世で私は、物語の「愚かな王子たち」を嗤っていた。自分はもっと賢くやれると、信じて疑わなかった。
結果はどうだ。
私は彼らよりも愚かだった。少なくとも彼らは、台本を書いて人を配置し、断罪劇を「演出」しようなどとは考えなかった。
マルグリットを「高慢な悪役」としか見なかった。アニェスを「純朴なヒロイン」としか見なかった。ピエールを「忠実な駒」としか見なかった。
現実の人間を、物語の登場人物として扱った。それこそが、最も愚かな過ちだった。
夕日が沈んでいく。
明日もまた、マルグリットの決裁した書類に私が署名する一日が始まる。
物語ならとっくに「おしまい」になっているはずの日々が、終わることなく、続いていく。
某有名推理小説を久しぶりに読み返して、やってみたくなったのです。




