第3話 目を逸らした守り手
屋上の空はまだ青く、雲の切れ間から差し込む光がコンクリートの表面に細かな影を落としていた。俺は膝を立てて座り、弁当箱の蓋を外した。隣で美奈が小さな手で同じように蓋を外す音が、静かな風の中に小さく響く。
「隼人おにぃ、今日は卵焼きを多めに焼いたんだよ。隼人おにぃの好きな、ちょっと甘いやつ」
美奈の声が耳に届いた瞬間、胸の奥がきゅっと締まる。期待に満ちたその瞳を見ると、いつも決まって同じことが起こる。嬉しいのに、嬉しいって認めたくない自分がいて、喉の奥で言葉が詰まる。
「……別に。いつも食ってるだろ」
ぶっきらぼうに吐き出した言葉とは裏腹に、蓋を開けた瞬間に広がった卵の柔らかな香りと、ほのかに焦げた醤油の匂いが鼻腔をくすぐって、腹の底が小さく鳴った。美味い。頭ではわかっているのに、口に出すのが怖い。こんな小さな子の作ったものを、こんなに無条件に美味いと思ってしまう自分が、なんだか情けなくて、悔しくて、でもそれ以上に温かくて、どうしようもない。
美奈はにこっと笑って、割り箸で卵焼きを一つ摘まむと、俺の口元に差し出してきた。
「はい、あーんして」
その仕草に、心臓が一瞬跳ねる。無邪気すぎる。無防備すぎる。こんな距離で、こんな笑顔を向けられたら、俺はどうすりゃいいんだ。慌てて顔を背けると、耳の裏が熱くなった。
「やめろって。自分で食える」
声が少し上擦った。自分でもわかるくらい震えていた。
美奈はくすくす笑いながら、今度は自分の口に卵焼きを運んで、目を細めて味わうように頬を動かした。
その横顔を見ているだけで、胸の奥が疼く。こんな小さな体で、こんなに俺を振り回すなんて、ずるい。反則だ。守りたいと思うたびに、守らなきゃいけない理由がどんどん重くなって、息が苦しくなる。
風がまた吹いて、フェンスの鉄が小さく軋む。遠くの校庭からは野球部の声が断続的に届いてきて、金属バットの乾いた音が空気を切り裂く。
美奈の前髪がふわりと舞い上がり、彼女は「あっ」と小さく声を上げて手で押さえた。その一瞬の仕草が、俺の視界に焼きつく。こんな何気ない瞬間さえ、俺にはやけに鮮やかで、目を離せなくなる。離したくない。
「……美味いな、これ」
ぽつりと漏れた言葉に、美奈の目がぱっと輝いた。
「ほんと? よかった! 昨日より塩をちょっと減らしてみたの。隼人おにぃ、しょっぱいの苦手だもんね」
その一言が、胸の奥に深く刺さる。しょっぱいの苦手だなんて、いつ言った? いつ気づかれた? そんな些細なことを、こんなに真剣に覚えていてくれる。
嬉しい。嬉しすぎて、怖い。俺なんかに、そんな価値があるはずがないのに。
孤児院で育った、記憶もろくにない、ただのガキなのに。
美奈が笑うたびに、俺は自分がどんどん小さくなっていく気がする。
守る側でいなきゃいけないのに、守られているのは俺の方なんじゃないか。そんな矛盾が、胸の中で渦を巻く。
俺たちが黙って食べ進めていると、屋上の扉が軋む音を立てて開いた。
三年の田中だった。肩幅の広い体に、ネクタイをだらしなく緩め、口元にいつもの嫌な笑みを浮かべている。
「おおー、今日もイチャイチャかよ。如月と新川ちゃん」
その声が耳に届いた瞬間、俺の箸が止まった。美奈はきょとんとして顔を上げた。
「田中先輩、こんにちは」
無邪気な挨拶に、田中はさらににやりと笑みを深くした。
「可愛いねぇ。孤児院の貧乏兄妹が、こうやって二人きりで弁当とかさ。絵になるわ。なぁ如月、お前ほんとに義理の兄貴で終わる気か? こんな可愛い子、置いとく手はねぇだろ」
貧乏。孤児院。その言葉が、いつもなら聞き流せるはずの棘なのに、今日は美奈の隣にいるせいか、胸の真ん中を抉るように刺さった。
美奈を、俺たちの関係を、そんな目で見られるのが、許せなかった。許せない自分が、怖かった。
「……何だよ、それ」
声が低く、抑えていた。田中は肩をすくめて続ける。
「何って、事実だろ。どうせお前ら、血の繋がりもないんだし。そろそろ手ぇ出すか? それともまだガキのくせに童貞かよ」
その瞬間、頭の中で何かが弾けた。
弁当箱を乱暴に置いて立ち上がり、田中の胸ぐらを掴んだ。
指先に力がこもり、布地が軋む。怒りなのか、悔しさなのか、恥ずかしさなのか、自分でもわからない感情が渦を巻いて、視界が赤く染まる。
美奈を、そんな言葉で汚されるのが、耐えられなかった。美奈の笑顔を、こんな奴に踏みにじられるのが、許せなかった。
「お、おいおい、マジかよ。殴る気か?」
「黙れ」
声が震えていた。美奈が小さく「隼人おにぃ……」と呼ぶ声が聞こえた。その声が、俺の胸をさらに締めつける。
怖がらせたくない。守りたいのに、こんな姿を見せてしまっている自分が、情けなくて、涙が出そうになる。
田中の顔が近づき、息が頬にかかる。タバコと汗の混じった匂いがした。
そのとき。
「田中先輩、何やってんすか?」
静かな声が背後から響いた。
振り向くと、沖田総司が立っていた。スマホを片手に、穏やかな表情の奥に冷たい光を宿して。
「今の、撮りましたよ」
スマホの画面に映る俺の姿を見て、田中の顔色が変わる。俺はまだ拳を握ったまま、肩で息をしていた。美奈がそっと袖を引く。
「隼人おにぃ……大丈夫?」
その声に、ようやく力が抜けた。ゆっくり息を吐き、しゃがみ込んで弁当箱を拾い上げた。
卵焼きが崩れていて、胸が痛んだ。俺が壊してしまったみたいで。
沖田が近づいてきて、肩を軽く叩く。
「お前さぁ、最近マジで短気すぎるぞ。風紀の連中、もうお前たちのことガチでマークしてるからな」
「……知ってるよ」
ぶっきらぼうに答えたけど、頭の中はぐちゃぐちゃだった。美奈を守りたいのに、俺のせいで美奈が噂の的になる。
俺のせいで、美奈が傷つくかもしれない。そんな恐怖が、胸の奥で膨らんでいく。
沖田は小さくため息をつく。
「知ってるなら、もっと我慢しろよ。特に美奈ちゃんが絡むと、お前すぐ熱くなるじゃん。あれ、高等部じゃもう完全に噂になってるぞ。『如月が新川の義妹にベタ惚れ』ってさ。規律委員会の連中、すげぇ真剣に『不健全な関係』とか言ってるらしいし」
耳まで熱くなる。ベタ惚れ。確かに、そうかもしれない。でも、それを認めたら、俺はもう後戻りできない気がした。
美奈はただの義妹で、守るべき存在で、それ以上でも以下でもないはずなのに。なのに、胸の奥で疼くこの気持ちは、何なんだ。
美奈はきょとんとして、俺と沖田を交互に見つめている。
「不健全って、どういうこと?」
「なんでもない」
俺と沖田が同時に答えた。沖田は苦笑して頭を掻く。
「まぁ、とにかく気をつけろって話。俺は別に咎める気はないけどさ」
沖田が去った後、俺たちは黙って座っていた。
風がまた吹いて、美奈の髪を揺らす。俺はそっと彼女の頭に手を置いた。さらさらとした髪の感触が、掌に優しく伝わってくる。
守りたい。この温もりを、ずっと守りたい。でも、俺なんかにそれができるのか。こんな感情を抱いたまま、兄貴分でいられるのか。
「……ごめん。怖かったか?」
美奈は首を振って、俺の手をぎゅっと握り返した。
「ううん。隼人おにぃが守ってくれるって、わかってるから」
その言葉が、胸の奥に深く沈む。嬉しいのに、怖い。
守るって言われるたびに、俺の弱さが浮き彫りになる気がする。
美奈を狙う何かがあるような予感が、最近ずっと消えない。俺が弱いから、美奈が危ないんじゃないか。そんな不安が、喉の奥で絡みつく。
遠く、屋上のフェンスの向こう、隣の校舎の影で、誰かが動いた。
小さなカメラのレンズが、陽光を一瞬だけ反射して光った。
俺は気づかないまま、美奈の手を握り返した。彼女の小さな指が、頼りなく、でも確かにそこにあった。
この手を、絶対に離さない。そう誓うたびに、心の奥で何かが軋む音がした。




