表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君がそばにいるのは偶然じゃない。だから俺は目を逸らした  作者: 東雲 明


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/3

第3話 目を逸らした守り手

屋上おくじょうそらはまだ青く、雲の切れ間から差し込む光がコンクリートの表面に細かな影を落としていた。俺は膝を立てて座り、弁当箱べんとうばこの蓋を外した。隣で美奈が小さな手で同じように蓋を外す音が、静かな風の中に小さく響く。


隼人はやとおにぃ、今日は卵焼たまごやきを多めに焼いたんだよ。隼人はやとおにぃの好きな、ちょっと甘いやつ」


美奈みなの声が耳に届いた瞬間、胸の奥がきゅっと締まる。期待に満ちたその瞳を見ると、いつも決まって同じことが起こる。嬉しいのに、嬉しいって認めたくない自分がいて、喉の奥で言葉が詰まる。


「……別に。いつも食ってるだろ」


ぶっきらぼうに吐き出した言葉とは裏腹に、蓋を開けた瞬間に広がった卵の柔らかな香りと、ほのかに焦げた醤油しょうゆの匂いが鼻腔びこうをくすぐって、腹の底が小さく鳴った。美味い。頭ではわかっているのに、口に出すのが怖い。こんな小さな子の作ったものを、こんなに無条件に美味いと思ってしまう自分が、なんだか情けなくて、悔しくて、でもそれ以上に温かくて、どうしようもない。


 美奈はにこっと笑って、ばし卵焼たまごやきを一つ摘まむと、俺の口元に差し出してきた。


「はい、あーんして」


 その仕草に、心臓が一瞬跳ねる。無邪気すぎる。無防備すぎる。こんな距離で、こんな笑顔を向けられたら、俺はどうすりゃいいんだ。慌てて顔を背けると、耳の裏が熱くなった。


「やめろって。自分で食える」


 声が少し上擦った。自分でもわかるくらい震えていた。 


 美奈はくすくす笑いながら、今度は自分の口に卵焼たまごやきを運んで、目を細めて味わうように頬を動かした。 


 その横顔を見ているだけで、胸の奥が疼く。こんな小さな体で、こんなに俺を振り回すなんて、ずるい。反則だ。守りたいと思うたびに、守らなきゃいけない理由がどんどん重くなって、息が苦しくなる。


 風がまた吹いて、フェンスの鉄が小さく軋む。遠くの校庭からは野球部やきゅうぶの声が断続的に届いてきて、金属バットの乾いた音が空気を切り裂く。


 美奈の前髪がふわりと舞い上がり、彼女は「あっ」と小さく声を上げて手で押さえた。その一瞬の仕草が、俺の視界に焼きつく。こんな何気ない瞬間さえ、俺にはやけに鮮やかで、目を離せなくなる。離したくない。


「……美味いな、これ」


 ぽつりと漏れた言葉に、美奈の目がぱっと輝いた。


「ほんと? よかった! 昨日より塩をちょっと減らしてみたの。隼人はやとおにぃ、しょっぱいの苦手だもんね」


 その一言が、胸の奥に深く刺さる。しょっぱいの苦手だなんて、いつ言った? いつ気づかれた? そんな些細なことを、こんなに真剣に覚えていてくれる。


 嬉しい。嬉しすぎて、怖い。俺なんかに、そんな価値があるはずがないのに。


 孤児院こじいんで育った、記憶もろくにない、ただのガキなのに。


 美奈が笑うたびに、俺は自分がどんどん小さくなっていく気がする。


 守る側でいなきゃいけないのに、守られているのは俺の方なんじゃないか。そんな矛盾が、胸の中で渦を巻く。


 おれたちが黙って食べ進めていると、屋上の扉が軋む音を立てて開いた。


 三年の田中だった。肩幅の広い体に、ネクタイをだらしなく緩め、口元にいつもの嫌な笑みを浮かべている。


「おおー、今日もイチャイチャかよ。如月きさらぎ新川あらかわちゃん」


 その声が耳に届いた瞬間、俺の箸が止まった。美奈はきょとんとして顔を上げた。


「田中先輩、こんにちは」


 無邪気な挨拶に、田中はさらににやりと笑みを深くした。


「可愛いねぇ。孤児院こじいんの貧乏兄妹が、こうやって二人きりで弁当べんとうとかさ。絵になるわ。なぁ如月きさらぎ、お前ほんとに義理の兄貴で終わる気か? こんな可愛い子、置いとく手はねぇだろ」


 貧乏。孤児院こじいん。その言葉が、いつもなら聞き流せるはずの棘なのに、今日は美奈の隣にいるせいか、胸の真ん中を抉るように刺さった。


 美奈を、俺たちの関係を、そんな目で見られるのが、許せなかった。許せない自分が、怖かった。


「……何だよ、それ」


 声が低く、抑えていた。田中は肩をすくめて続ける。


「何って、事実だろ。どうせお前ら、血の繋がりもないんだし。そろそろ手ぇ出すか? それともまだガキのくせに童貞どうていかよ」


 その瞬間、頭の中で何かが弾けた。


 弁当箱べんとうばこを乱暴に置いて立ち上がり、田中の胸ぐらを掴んだ。


 指先に力がこもり、布地が軋む。怒りなのか、悔しさなのか、恥ずかしさなのか、自分でもわからない感情が渦を巻いて、視界が赤く染まる。


 美奈を、そんな言葉で汚されるのが、耐えられなかった。美奈の笑顔を、こんな奴に踏みにじられるのが、許せなかった。


「お、おいおい、マジかよ。殴る気か?」


「黙れ」


 声が震えていた。美奈が小さく「隼人はやとおにぃ……」と呼ぶ声が聞こえた。その声が、俺の胸をさらに締めつける。


 怖がらせたくない。守りたいのに、こんな姿を見せてしまっている自分が、情けなくて、涙が出そうになる。


 田中の顔が近づき、息が頬にかかる。タバコと汗の混じった匂いがした。


そのとき。


「田中先輩、何やってんすか?」


 静かな声が背後から響いた。


 振り向くと、沖田総司おきたそうじが立っていた。スマホを片手に、穏やかな表情の奥に冷たい光を宿して。


「今の、撮りましたよ」


 スマホの画面に映る俺の姿を見て、田中の顔色が変わる。俺はまだ拳を握ったまま、肩で息をしていた。美奈がそっと袖を引く。


隼人はやとおにぃ……大丈夫?」


 その声に、ようやく力が抜けた。ゆっくり息を吐き、しゃがみ込んで弁当箱べんとうばこを拾い上げた。


 卵焼たまごやきが崩れていて、胸が痛んだ。俺が壊してしまったみたいで。


沖田が近づいてきて、肩を軽く叩く。


「お前さぁ、最近マジで短気すぎるぞ。風紀ふうきの連中、もうお前たちのことガチでマークしてるからな」


「……知ってるよ」


 ぶっきらぼうに答えたけど、頭の中はぐちゃぐちゃだった。美奈を守りたいのに、俺のせいで美奈が噂の的になる。


 俺のせいで、美奈が傷つくかもしれない。そんな恐怖が、胸の奥で膨らんでいく。


 沖田は小さくため息をつく。


「知ってるなら、もっと我慢しろよ。特に美奈ちゃんが絡むと、お前すぐ熱くなるじゃん。あれ、高等部じゃもう完全に噂になってるぞ。『如月きさらぎ新川あらかわ義妹いもうとにベタ惚れ』ってさ。規律委員会きりついいんかいの連中、すげぇ真剣に『不健全な関係』とか言ってるらしいし」


 耳まで熱くなる。ベタ惚れ。確かに、そうかもしれない。でも、それを認めたら、俺はもう後戻りできない気がした。

 

 美奈はただの義妹いもうとで、守るべき存在で、それ以上でも以下でもないはずなのに。なのに、胸の奥で疼くこの気持ちは、何なんだ。


 美奈はきょとんとして、俺と沖田を交互に見つめている。


「不健全って、どういうこと?」


「なんでもない」


 俺と沖田が同時に答えた。沖田は苦笑して頭を掻く。


「まぁ、とにかく気をつけろって話。俺は別に咎める気はないけどさ」


 沖田が去った後、俺たちは黙って座っていた。


 風がまた吹いて、美奈の髪を揺らす。俺はそっと彼女の頭に手を置いた。さらさらとした髪の感触が、掌に優しく伝わってくる。


 守りたい。この温もりを、ずっと守りたい。でも、俺なんかにそれができるのか。こんな感情を抱いたまま、兄貴分でいられるのか。


「……ごめん。怖かったか?」


 美奈は首を振って、俺の手をぎゅっと握り返した。


「ううん。隼人はやとおにぃが守ってくれるって、わかってるから」


 その言葉が、胸の奥に深く沈む。嬉しいのに、怖い。


 守るって言われるたびに、俺の弱さが浮き彫りになる気がする。


 美奈を狙う何かがあるような予感が、最近ずっと消えない。俺が弱いから、美奈が危ないんじゃないか。そんな不安が、喉の奥で絡みつく。


 遠く、屋上のフェンスの向こう、隣の校舎の影で、誰かが動いた。


 小さなカメラのレンズが、陽光を一瞬だけ反射して光った。


 俺は気づかないまま、美奈の手を握り返した。彼女の小さな指が、頼りなく、でも確かにそこにあった。


 この手を、絶対に離さない。そう誓うたびに、心の奥で何かが軋む音がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ