第2話 あの炎から、君へ
夜の静寂が、耳の奥まで重くのしかかっていた。
午前二時十七分。デジタル時計の青白い光が、俺の瞳に冷たく突き刺さる。
汗が額から顎へ、首筋を伝ってTシャツの襟元に染み込んでいく感触が、まるで誰かの冷たい指先の様に不快だった。
心臓が、喉元で暴れ回っている。
息を吸うたび、肺が焼けるように熱い。吐くたび、胸の奥に空いた穴が広がっていくような錯覚に襲われる。
また、あの夢だ。
十年前の炎の匂いが、今この瞬間に鼻腔の奥まで蘇ってくる。
焼けた鉄の焦げ臭さ、溶けたダッシュボードの甘く毒々しいプラスチック臭、血の鉄錆びた生臭さ、そして何よりも、ガソリンが燃えるとき特有の、甘ったるくて吐気を催す匂い。
全部が混じり合って、舌の根元にまで絡みついてくる。
俺は膝を強く抱え込み、額を膝頭に押しつけた。
指先が震えている。震えが止まらない。爪が掌に食い込んで、じわりと血が滲む痛みすら、今は現実感を呼び戻すための唯一の錨だった。
─────記憶は、いつも同じ残酷な順番で再生される。
夕暮れの高速道路。
オレンジ色の光がフロントガラスに反射して、父の横顔を優しく染めていた。あの瞬間だけは、世界が温かかった。
母が助手席から振り返り、笑顔でグレープ味の飴を投げてくる。
「隼人、はい。落とさないでね」
キャッチした指先が、母の温もりをまだ覚えている気がした。
包装を破る音、甘酸っぱさが舌に広がる瞬間、俺は小さく笑った。
父がバックミラー越しに目を細めて、
「サービスエリアで何か食うか? ハンバーガーでもいいぞ」
その声が、優しくて、頼もしくて、永遠に続くものだと信じていた。
そして、急カーブ。
対向車線から、赤いトラックが猛スピードで突っ込んでくる。
ヘッドライトが異様に大きく、まるで血走った目のように俺たちを睨みつけてきた。
父がハンドルを切った瞬間、世界が横に傾いた。
タイヤの悲鳴。アスファルトを削る甲高い音。ガードレールが紙のように破れる金属の軋み。
車体が宙を舞い、俺の体がシートベルトに締め上げられて内臓が浮く感覚。
衝撃の後、やってきたのは熱だった。
炎が一瞬で車内を舐め始めた。
父はもう動かなかった。
首が不自然に折れ曲がり、ハンドルを握った手だけが、まだ微かに震えていた。
母は——母はまだ生きていた。
顔の左半分が血で真っ赤に染まり、髪が燃え始めているのに、母は必死に俺の方を見ていた。
唇が震え、掠れた、ほとんど息だけの声で、
「隼人……逃げて……!」
その一言が、俺の心臓を握り潰した。
母の瞳に映る俺の姿が、燃える炎の中で歪んでいく。
俺は叫びたかった。母さん、と。助けて、と。でも声が出ない。
煙が肺を焼き、涙が蒸発する前に溢れて頬を伝う。
熱い。熱すぎて、痛みという感覚すら溶けてなくなっていく。
母の最後の表情が、俺の網膜に焼き付いたまま、爆発音が響いた。
ガソリンタンクに火が回った瞬間だった。
俺は誰かに引きずり出された。 救助隊員の腕の中で、俺はただ震えていた。
背後で燃え盛る車。
母の声は、もう二度と聞こえなかった。
病院のベッドで目覚めたとき、俺の中の「如月隼斗」は死んでいた。
白衣の医者が穏やかに言った言葉。
「君は如月隼斗だよ。もう大丈夫だからね」
その瞬間、胸の奥にぽっかりと空いた穴が、永遠に塞がらないことを俺は理解した。
名前を何度も繰り返しても、まるで他人のもののように響く。
両親の顔を思い出そうとしても、炎と煙しか浮かばない。
俺は、自分自身を失った。
それから、俺はほとんど言葉を発しなくなった。
孤児院の窓際で、ただ外を眺める日々。
他の子供たちの笑い声が遠く聞こえるたび、胸の穴がずきずきと痛んだ。
近づかれるのが怖かった。
誰かと繋がったら、また失う。
また、あの焼けつくような喪失感に飲み込まれる。
「如月って、なんか……気持ち悪いよね」
「目が、死んでるっていうか……」
そんな囁きが聞こえても、俺は顔を上げなかった。
どうせ俺も、誰とも目を合わせたくなかった。
「……っ……はっ」
俺は跳ねるように上体を起こした。
汗が目に入って痛い。
「……また、いつもの夢か……」
俺は吐き捨てるように呟くと、前髪を乱暴に掻きむしる
息が乱れ、喉が焼けるように渇いている。
そのとき、ドアが勢いよく開いた。
「隼人おにぃ!」
小さな体が、暗闇を切り裂くように飛び込んできた。
美奈。
乱れた黒髪。涙で濡れた瞳が、街灯の薄明かりを反射してきらめいている。
美奈は躊躇なく俺の右手を両手で包み込んだ。
その小さな掌は、熱くて、柔らかくて、震えていた。
「どうしたの……? また、叫んでたよ……怖い夢、見たの……?」
声が震えている。
美奈の瞳に映る俺の姿が、恐ろしくて、哀れで、でもどうしようもなく愛おしくて、俺の胸が締め付けられた。
言葉が出てこない。
喉が詰まって、息すらまともにできない。
「……なんでも、ねぇよ」
掠れた声で、それだけ絞り出した。
美奈の眉がきゅっと寄る。
涙が一粒、頬を伝って落ちた。
「うそ……顔、真っ青だもん。手、こんなに冷たいし……汗もすごい……」
その小さな声に、俺の心の奥底で何かが軋んだ。
冷え切っていた胸の穴に、じわりと温かいものが染み込んでくる。
痛い。
痛くて、苦しくて、でも離したくない。
俺は震える右手で、美奈の頭に触れた。
黒髪はさらさらと指の間を滑り、夜露を含んだ草のような清潔な匂いがした。
シャンプーの甘い香り。
子供の体温。
生きている証。
「……早く、学校行かないと。風紀委員に、叱られるぞ」
いつもの、冷たく突き放すような口調。
本当は違う。
本当は、この小さな手を離したくなくて、ぎゅっと抱きしめてしまいたくて、でもそんなことしたら壊れてしまいそうで、怖くて仕方なかった。
美奈は唇を尖らせながらも、こくりと頷いた。
「うん……でも、隼人おにぃも、ちゃんと寝てね? 約束だよ」
「ああ」
短く答えて、もう一度、美奈の髪
を梳いた。
指先が震えているのを、必死に隠しながら。
美奈が部屋を出て行った後も、俺は動けなかった。
胸の奥で、熱いものがぐるぐると渦を巻いている。
喪失と、恐怖と、わずかな救いと、罪悪感と、愛おしさと——
全部が混じり合って、息ができないほどだった。
ゆっくり立ち上がり、汗まみれのTシャツを脱ぎ捨てる。
新しいシャツに袖を通すとき、鏡に映った自分の目を見た。
十六歳の、死んだような瞳。
でも、
美奈だけは違う。 美奈は、俺の目をまっすぐ見てくれる。
怖がらない。
怯えない。
ただ、そこにいてくれる。
「……行こう」
俺は小さく呟き、鞄を肩に掛けた。
玄関を開けると、朝の冷たい空気が頬を刺した。
まだ薄暗い空に、淡い朝焼けが滲んでいる。
美奈が待っていた。
ランドセルを背負い、両手でスカートの裾を握りしめて、こちらを見上げている。
「遅いよ、隼人おにぃ」
「……悪かった」
俺は小さく笑って、美奈の頭を軽く叩いた。
その瞬間、胸の穴が、ほんの少しだけ——本当に少しだけ、温かくなった。
俺たちは並んで歩き出す。
朝の住宅街。
まだ閉まったシャッターの金属音、遠くのカラスの声、どこからか漂うトーストとコーヒーの匂い。
俺は、隣りを歩く小さな背中をじっと見つめた。
俺がまだここにいる理由。
まだ、言葉にはできない。
でも、この子がいる限り——
この温もりが、俺の手のなかにある限り——
俺は、あの炎のなかから、這い出せるのかもしれない。
そう、信じたいと思った。




