第1話 孤独な日々に差し込んだ光
朝の孤児院は、いつも少しだけ湿っぽい空気が漂っている。
古い木造の建物で、廊下の床板が歩くたびに小さく軋む音がする。
窓から差し込む朝日が埃を浮かび上がらせて、まるで時間が止まったような静けさを演出する。
でも、そんな静けさを一瞬でぶち壊す存在が、毎日決まった時間に現れる。
「隼斗おにぃ——! おはよぉ〜っ!」
玄関の引き戸が勢いよくスライドして、朝の光と一緒に小学六年生の新川美奈が飛び込んできた。
まだ制服のネクタイは曲がったまま、リボンの結び目が左右非対称で、髪は寝癖でぴょこぴょこ跳ねている。
白いブラウスに紺のセーラー服スカート。膝上丈の裾が少し揺れて、朝の冷たい空気に触れた太ももがほんのり赤くなっているのが見えた。
それでもその笑顔は、まるで夏の陽射しみたいに眩しくて、俺は思わず目を細めた。
「……おはよう、美奈。 またそんな勢いで開けたら、いつか戸が壊れるぞ」
俺の声はいつもより少し低くなる。
自分でも気づいている。美奈の前だと、無意識に抑揚が消えて、冷静を装ってしまう。
「えー、だって隼斗おにぃが起きてるか確かめたかったんだもん!
まだ布団にくるまってたら、起こしに行っちゃうところだったよ?」
美奈はそう言って、俺の腕にぴたっとくっついてくる。
甘いシャンプーの匂い——フローラル系の柔らかい香り——と、ほんのり温かい体温が直撃した。
12歳にもなってこんな距離感、普通じゃないってわかってる。
周りの目も気になるし、何より俺の心臓が持たない。
なのに、どうしても突き放せない。
「ほら、離れな。朝食冷めるぞ」
「やだ。今日は隼斗おにぃと一緒に登校するんだから、ずっとくっついててもいいよね?」
「……お前、昨日も一昨日も同じこと言ってただろ」
「だって、隼斗おにぃの隣が一番落ち着くんだもん」
その一言が、俺の胸をずきりと刺した。
可愛いとかじゃなくて、ずるい。
無自覚に、こんな言葉をさらっと言える美奈が、時々怖くなる。
まるで俺の心の隙間を、ぴったりと埋めに来てるみたいで。
俺は4年前、12歳の時にこの孤児院に来た。
両親は交通事故で亡くなって、天涯孤独。
それまで家族というものが当たり前だった俺にとって、孤児院の生活は味気なくて、毎日が灰色だった。
友達はできるけど、深い付き合いは避けていた。
誰かと深く繋がるのが、怖かったから。
そんな俺の前に、突然現れたのが美奈だった。
当時8歳くらいの小さな女の子。
夜中に門の前で蹲って泣いていて、職員さんが保護した。
最初は怯えていて、誰にも懐かなかった。
でも、俺がたまたま近くに座って黙って本を読んでいたら、
「……おにぃちゃん、こわくない?」
と、震える声で話しかけてきた。
それが始まりだった。
次の日から、美奈は俺の後ろを子犬みたいについて回るようになった。
「隼斗おにぃ」と呼び始めて、俺の袖を掴んで離さない。
俺は最初、面倒くさかった。
でも、美奈の笑顔を見るたび、胸の灰色が少しずつ薄れていくのを感じた。
気づいたら、俺の日常に美奈が欠かせなくなっていた。
今では美奈は孤児院のアイドルだ。
みんなに可愛がられて、職員さんたちにも「美奈ちゃんは天使」とまで言われる。
でも、俺だけは知っている。
美奈が「新川」という新しい姓を名乗るようになった理由を、誰も知らないということ。
4年前に保護された時は「冬美」という名前だった。
ある日突然、「新川美奈でいい?」と言い出して、職員さんたちも戸惑いながら受け入れた。
理由は誰も聞けなかった。
美奈が時折見せる、遠くを見るような寂しげな瞳も、誰も触れない。
俺だけが、そっと見守っている。
「隼斗おにぃ? ぼーっとしてる」
美奈が俺の頬を両手で挟んで、顔を覗き込んでくる。
至近距離。
長いまつ毛がぱちぱち動いて、瞳がキラキラしてる。
息が止まりそうになった。
「……なんでもない。
ほら、ネクタイ直してやるから、じっとしてろ」
俺は慌てて美奈のネクタイに手を伸ばした。
でも、美奈は逆に俺の胸元に指を伸ばしてくる。
「隼斗おにぃのネクタイ、曲がってるよ。
私が直した方が可愛くなるもん」
細い指が器用にネクタイを結び直していく。
真剣な顔で俺の胸元を見つめる美奈。
俺は視線を逸らした。
心臓の音がうるさい。
「できた! ほら、完璧!」
美奈は満足そうに一歩下がって、ぱちぱちと手を叩く。
その仕草が子犬みたいで、俺の理性がまた少し削られる。
「……ありがと」
「えへへ、どういたしまして〜。
お礼に今日はお弁当、一緒に食べよ?」
「いつも一緒に食べてるだろ」
「じゃあ今日は隼斗おにぃの膝の上に座って食べてもいい?」
「却下」
「えー! なんでー!」
「高校生がそんなことしたら、周りが変な目で見るからだよ……」
「隼斗おにぃは私のこと、変な目で見てくれるの?」
「……見てねぇよ!」
顔が熱くなった。
美奈はきょとんとした顔で首を傾げて、
「ふーん。じゃあ今日は普通に隣で食べるね。
でもおかず交換は必須だよ!
隼斗おにぃの卵焼き、今日も楽しみ〜」
と、勝手に決定事項を積み上げていく。
俺はもう抵抗する気力すら失っていた。
登校中もずっと腕を絡めてくる。
通学路は桜並木で、今はまだ蕾が固い。
春の風が冷たくて、美奈の髪が俺の頬をくすぐる。
信号待ちで立ち止まるたびに、
「隼斗おにぃの手、あったかいね」
とか
「今日の隼斗おにぃの匂い、いつもよりちょっと好き」
とか、さらっと地雷を踏んでくる。
俺は毎回「うるさい」「黙れ」「離れろ」のどれかを返すのが精一杯だ。
でも、心のどこかで、この時間がずっと続けばいいと思っている自分がいる。
俺は高等部に着いて教室に入ると、いつもの喧騒。
俺の席は窓際の後ろから2番目。
美奈は初等部のクラスだけど、休み時間になると必ず俺の教室に顔を出す。
今日も、チャイムが鳴る前にやってきた。
「ねぇ隼斗おにぃ、数学の宿題見せて〜」
美奈は俺の机に頬杖をついて、甘えた声で寄ってくる。
俺の解答を覗き込みながら、
「わぁ、字きれい……さすが隼斗おにぃ」
とか言って、
無意識に俺の肩に頭を預けてくる。
クラスメイトの視線が痛い。
でも美奈本人は全く気づいていないらしい。
天然すぎる。
昼休み。
約束通り、屋上で二人でお弁当。
屋上は風が強くて、制服のスカートがはためく。
美奈は俺の隣にぴったりくっついて座り、
唐揚げを「あーん」してくる。
「はい、隼斗おにぃの分」
「……自分で食える」
「だーめ。今日は私が食べさせてあげる日!」
仕方なく口を開けたら、
美奈が急に真顔になって、
「隼斗おにぃって、こういうの嫌い?」
と聞いてきた。
急に不安そうな瞳で見つめられて、俺は慌てて首を振る。
「嫌いじゃない……けど、恥ずかしい」
「……そっか。じゃあ、次からは隼斗おにぃが私に『あーん』して?」
「それも恥ずかしいだろ!」
美奈はくすくす笑って、
「隼斗おにぃのそういう顔、好きだよ」
と、また無自覚の一撃。
俺は空を見上げて、深いため息をついた。
青い空に白い雲が流れていく。
この子に振り回されるのは、もう4年目だ。
そろそろ慣れてもいいはずなのに、
毎日心臓が持たない。
でも、このドキドキが、俺の日常を色づけているのも事実だ。
放課後。
掃除当番を終えて、校門を出る。
美奈はもう待っていて、俺の手を握ってくる。
夕陽が校舎の影を長く伸ばし、オレンジ色の光が美奈の横顔を照らす。
少しだけ大人びた表情に見えて、胸が締め付けられる。
帰り道、いつもの桜並木。
美奈が急に立ち止まった。
「ねぇ、隼斗おにぃ」
「ん?」
「私、ずっと隼斗おにぃのそばにいていい?」
唐突な質問に、俺は一瞬言葉を失う。
美奈は少しだけ俯いて、指先でスカートの裾を握っていた。
風が吹いて、髪が揺れる。
「……当たり前だろ。
お前がいなくなったら、俺、困るし」
本音だった。
美奈がいなくなったら、この灰色の世界がまた戻ってくる。
俺はもう、あの味気ない毎日に戻りたくない。
美奈の顔がぱっと亮くなった。
次の瞬間、俺の腰にぎゅっと抱きついてくる。
「やったぁ! 約束だよ! ずっと一緒!」
「……重いって」
「いいじゃん、ちょっとくらい」
そう言って離れない。
夕陽が俺たちを長く伸ばして、
二つの影が重なり合って、一つになる。
なんだかすごく、幸せな時間だった。
でも、心の奥底で、俺は知っている。
この幸せが、いつまでも続くわけじゃないってことを。
美奈が隠している何か——
夜中にすすり泣く理由、左手の小さな傷跡、
そして「新川」という姓に変えた本当の意味。
まだ、俺は何も聞けていない。
それでも今は、この温もりを、
この笑顔を、この「隼斗おにぃ」という呼び声を、 ただただ大切にしたいと思った。




