孤独とその反対
二ヶ月ほど月のものがきていない気がする。不順な私には珍しいことではない。
恋人とは三年近くの付き合いでお互いフリーターをしながら怠慢な生活を送っていた。未来のことなど大して考えず、「子供が出来たら結婚しよう。」そんなありふれた言葉とともに生きていた。
子供は出来ても良かった。寧ろぼんやりした今を生きる私には未来を示す希望にさえ感じていた。
あるときふと思い立って妊娠検査薬を手に取った。
そこに現れたのは二本の線だった。
すぐに恋人に報告した。驚きと喜びの混ざった期待通りのその反応に私はこの上ない幸福を感じた。
すぐに病院に行き、妊娠が確認された。
私たちの十月十日が始まった。
大好きだった食べ物のにおいが嫌いになり食べられなくなった。普段食べないものを食べるようになった。
恋人は前よりもたくさん働くようになり、私はあまり働けなくなった。
バイト先には早めに報告し、祝福の声を受けた。幸せだった。
お互いの家族には言えなかった。
お腹に命が宿るずっと前、祝福してもらえない妊娠をした人の嘆きを目にしたことがあった。そのときはそんな人もいるんだとしか思っていなかった。
怖かった。自分もそうなる。そう思うと家族や友人には相談できなかった。
こんなに幸せな生命の誕生を、こんなに愛おしい生命の瞬きを私たちは二人で静かに噛み締めることしかできなかった。
二十代も半ばに入る私の周りでは祝福され結婚し、子供を産む人たちが数多いた。それが私たちをより孤独へと導いた。
自業自得だ。そんなことにはとうに気づいている。
付き合っていることさえ良く思われていなかった。自堕落になっていく我が子を見る親を想像すれば当然だろう。
無情にも何も出来ぬまま月日は流れ、悪阻は落ち着いていた。
そして気づくと二人で頑張ろうとその決意だけが強くなっていた。
病院に行く度エコー写真の隅に記載された身長と体重を見て、恋人と二人その小さな命に思いを馳せた。
気持ち良さそうに眠る顔が見えた日、強く握る手が見えた日、指の骨が五本見えた日、足しか見えなかった日、全てが愛おしく崇高な姿をしていた。
妊娠するまで街で騒ぐ子供を疎ましく思うこともあった。子供が好きかと言われれば苦手な方だったような気もする。
だが、気づくとそんな子供たちを自らの中で育つ我が子に重ね、日々に彩りが増していた。
悪阻が落ち着くと身体が疲れやすくなり、少しお腹も膨らんだようだった。食欲が増し、食べ始めると止まらなかった。
お腹の調子が悪いような気持ち悪いようなそんな感覚が度々訪れた。
恋人は人が変わったかのように朝から晩まで働いた。
仕事の合間には友人との時間を過ごし、休みの日には私との時間を過ごした。
一方の私はその頃から幸せと同時に孤独に似た感じたことのない感覚が付き纏うようになった。
友人の少ない私にとって彼こそが恋人であり、一番の友人であり、大切な家族だった。
だが、社会に飛び出し順応していく彼を見ているとどこかに一人置いていかれる感覚に苛まれた。
追いかけたいのに追いかけられない。
私の足は泥沼に掴まれている。前に踏み出そうと足を抜こうとするが気づくと抜けないところまで埋まっている。
何が私をそんな気持ちにさせているのか分からなかった。
思い返せば立ち止まるべきところだったのだからそこに負い目を感じる必要などなかった。しかし、ずっとゆっくりと二人の時間を歩いていたはずの恋人が走り出して私は何も出来ずまだ自分だけの時間を一人で歩むことが不安だった。