第1話 冷遇された「役立たず」の少女
ベルンシュタイン公爵家のお屋敷は私にとって当たり前の場所だった。
とーっても広くて、迷子になったら一週間くらい出てこられないんじゃないかってくらい!
私の名前はロザリア・ベルンシュタイン。
この大きなお屋敷の、一番小さくてあんまりみんなの目に入らない子。それが私だった。
生まれてから10年。ここは剣と魔法の世界だってみんなは言う。本で読んだり誰かの話を聞いたりすると、それは物語の中のキラキラした場所みたいだった。
でも、私が見ている現実はそんな素敵なものじゃなかった。
それは、ただ、私にとっての「毎日」だった。
この世界でのお貴族様にとって、生まれつき持っている「魔力」っていうのが、とっても大事なんだって。
でも、私にはそれがぜんぜんなかった。
ほんのちょっぴりも魔力がないから、「魔力ゼロの役立たず」「ベルンシュタイン家のお恥ずかしい子」って声が、たまーに聞こえてくるけれど、あんまり気にしたことはない。
だって、魔力って何だろう?おいしいのかな?
お兄様もお姉様も私を見るたびに「あ、あなたいたの?」って感じで、ふふんって顔をするだけ。
お父様とお母様は私とお話しすることはほとんどない。たぶん、忙しくて私のことまで見てる暇がないんだ!きっとそうだ!
お屋敷の使用人の人たちも私を「お嬢様」とは呼んでくださるけれど、その態度はいつもさっぱりとしていた。
ご飯はいつもみんなが食べた後の残り物……だけど、お腹はいっぱいになるから、ラッキー!
着るものもボロボロになったお姉様のお洋服のお下がりばっかり……だけど、動きやすいから遊びやすいし、汚しても怒られない!
寒い日は暖炉のそばは人がいっぱいだから、私はいつもお屋敷の薄暗くて隅っこで、こっそり息をひそめていた。そこは寒いけど誰も来ないから、自分だけの秘密基地みたいで結構好きな場所だったりする。
「ロザリア様、またそのようなところでぼーっとしていらっしゃるのですか。お役に立たないのですから、どうか皆様の邪魔にならないようになさってください」
こんな言葉が毎日聞こえた。
私はそう言って毎日気に掛けてくれる使用人の人たちが大好きだ。
だから私は言われた通りに邪魔にならないような庭の隅っこに移動する。
ここは落ち着くし、たまに珍しい虫とか見つけられるんだ。だから全然嫌じゃない。
今日の朝もいつもの朝と一緒だった。
すり減った木でできた靴を引きずりながら食堂のドアの隙間から中をのぞいた。
お父様もお母様も、お兄様もお姉様も、みんなで豪華な朝ごはんを食べている。
私は「おはようございます!」と元気に挨拶をして、指定席である冷たい床にぺたんと座った。
「ロザリア様!」
その日も朝からいつものように庭の隅っこでアリさんの行列を眺めていると、急に私の名前を呼ぶ声がした。
びっくりして振り返ると、お屋敷で一番偉い執事長さんが困った顔をして立っていた。
いつもの厳格な表情じゃなくて、なんだか慌てているみたいだった。
「ロザリア様、急ぎなさいませ!奥様が特別に貴女様にしか頼めない重要な仕事があるとおっしゃっておられます」
「私に、お仕事……?」
私は目をパチパチさせた。
私にしか頼めない重要なお仕事?
家族からそんな言葉を聞くなんて初めてだ。
そう思うって私はドキドキした。
わーい!私でもお役に立てることがあるんだ!
「はい。隣領の伯爵家へ至急届けねばならぬ品がございます。嘆きの森を抜けて向かうことになりますが、この経路でくれぐれも滞りなく務めを果たすように。魔物の活動が活発になる前にお戻りにならねばなりませんよ」
執事長はそう言って私に届け物らしき小さな包みと、小さな革袋、そして手書きの簡単な地図を差し出した。
革袋の中にはほんの少しのパンと水が入っていた。
これは話に聞くところのおやつというものではないかしら!!
みんなのお役に立てる上に、初めてのおやつまで貰えるなんて!!
でも、「嘆きの森」って悪い魔物がたくさんいる、とっても危ない場所だって聞いている。
今まで近づくことすら許されなかったのに……。
でも、私にしかできないって……。
家族のお役に立てるかもしれない。そう思うと、怖さよりもなんだか嬉しい気持ちがふわっと広がった。
やります!やらせていただきます!
そして何としてもやりとげる覚悟でございます!!
私は執事長に急かされてお屋敷の裏口に用意された一台の馬車に乗った。
御者台には帽子を目元まで深く被った見慣れないおじいさんの御者が一人。
私の顔を見ると、目を合わせることなく軽く頷いた。
馬車はゆっくりと動き出すと、ゴトゴトと揺れながらお屋敷から遠ざかっていく。
だいたいお昼かな?おやつはいつ食べようかな?なんて考えていた頃、前方になんだか怖いくらいに木がたくさん生えている森が見えてきた。
森の木は信じられないくらい茂っていて、ほとんどお日様の光も届かないくらい。まるで森が悲しんでいるみたいに、しーんとしていた。それが「嘆きの森」だ。
馬車は森の中へと進んでいく。
冷たい空気が肌をチクチク刺すし、地面は湿ってて、馬車の車輪がたまに滑っている音が聞こえる。
私は初めて通る森の景色を車窓越しにぼーっと眺めていた。
こんなに大きな木もあるんだな、とか、これだけ木が生えてるのに鳥の声もしないのは不思議だな、とか。不安よりもちょっとした好奇心の方が大きかったかもしれない。もしかしたら珍しい動物とか見つけられるかな?
そんなことを考えていた時だった。
「お嬢様、申し訳ございませんがここで一度お降りいただけますか。馬車の車輪が泥にはまってしまったようで、少し確認を……」
御者のおじいさんが困ったような声でそう言った。
私は言われるがままに馬車を降りた。
「泥が飛び散ってお召し物が汚れるといけませんから、少々離れていていただけますでしょうか?」
私はおじいさんの言うとおりに馬車から離れて、近くの木の下に移動する。
するとおじいさんは素早く御者台に飛び乗り、手綱を叩いた。
「え……?」
馬車は私を置き去りにして、あっという間に森の奥へと走り去ってしまった。
私は呆然と立ち尽くす。御者は振り返りもせず、その背中が小さくなっていく。
「……あれ?行っちゃった……?もう直ったの?あの……私、まだ乗ってないよ……」
私は手の中の包みをぎゅっと握りしめた。
これ届けなきゃいけないのに……どうしよう。
大切な役目を任されたのだから最後までやり遂げなければ。
おじいさんはすぐに戻ってくるかな?
それとも、私が乗ってないのに気付いてないのかな?
だったら私一人で伯爵家まで行かなきゃいけないのよね。
初めてのお仕事だから頑張らないと。ちょっぴり遠いけど地図もあるし、きっと大丈夫。
私、頑張れるもん!
その時だった。
「グォオオオオオオオオッ!」
どこからか地を揺るがすような大きな声が聞こえた。
その声にびくっとした瞬間、近くの草むらの奥からとてつもなく大きな影が飛び出してきた。
大きな大きな犬みたいな見た目、多分これが森の奥にいるっていう、とっても怖い魔物なんだ……。
するどい牙と、血みたいに赤くなった目が私をじっと見ていた。
「きゃ……!」
私は思わず小さな悲鳴を上げた。
足がまるで地面にぺたりとくっついたみたいに動かない。
怖くて体がカチカチに固まった。
一人になった不安と、とても逃げられないという絶望がその瞬間にどっと押し寄せた。
周囲は暗く、どこまでも続く森の静けさがひどく怖かった。
誰もいない。
誰も助けてくれない。
目の前には私を食べようとしている大きないぬ(グリムウルフさんていうらしい)の大きくて怖い影がどんどん近づいてくる。
いきなり襲い掛かってくることなく、ゆっくりと、ゆっくりと。
大きないぬ(グリムウルフさん)は分かっているんだ。
私がどんなに頑張っても逃げることなんてできないってことを。
そして大きないぬ(グリムウルフさん)の影が私の頭から全身を覆うほどの距離まで近づいた時、その恐ろしい大きな口がにやりと笑ったように歪んだ。
大きく開かれた口から見える鋭い牙が私に向かってくる。
その時、私は生まれて初めて死ぬってことをはっきり感じた。
「ああ、こんなところで、私、死んじゃうんだな」っていう、もうどうしようもない気持ちが私の心をいっぱいにした。
その死ぬほどの怖い気持ちが一番大きくなった時、私の体の一番奥から今まで一度も感じたことのない、すごく大きくて、熱くて、なんだか圧倒されるような「何か」が、ぶわーっと溢れ出した。
「あ……れ……?」
私自身も何が起こっているのかぜんぜんわからない。
そして私の周りで変なことが起こり始めた。
足元の地面がゴゴゴゴッて音を立ててもこもこ盛り上がってきた。
周りの木もまるで強い風に吹かれたみたいに大きく揺れて、やがて根っこからバキバキ音を立てて倒れていく。
そして、私に襲いかかろうとしていた大きないぬ(グリムウルフさん)が、急に何の音も立てずに、あっという間に目の前から砂ぼこりみたいに消えちゃった。
「え……?」
私は目をまん丸にした。
私の手のひらからはなんだか優しい光が漏れている。
それは、生まれて初めて感じる、そして、私が「魔力なし」って言われてきた、その「魔力」だった。
突然私の内から溢れ出したとんでもない魔力。
私にはどうしたら良いのかわからないまま、静かに、でも確実に何かが変わっていくのを感じていた。