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警察に捕まらないギリギリの速度でかっ飛ばし、エレベーターを待つ時間すら惜しく思い、階段を駆け上がったのが功を奏したのだろう。
どうにか始業時間に間に合った。
はぁはぁと息を切らしながら自席につき、ひとまずぐったりと項垂れる。
勢いで飛び出してきてしまったけど、アリスちゃんをあの部屋に一人にしておいて大丈夫なのだろうか?
というか、こうやって会社についてしまうと、さっきのは全部夢だったんじゃないかと思えてきて仕方がない。
うん。きっとそうだ。そうに違いない。というか──そうであって欲しい。
さっきは目の前にアリスちゃんが現れたことでテンションがおかしくなってたけど、改めて考えると、現実だったらヤバすぎる。
……最近残業多かったしな。疲労の蓄積と睡眠不足のせいで、自分に都合の良い幻覚でも見てたのかも。
きっと仕事を終えて家に帰れば、いつも通りのがらんとした部屋が僕を出迎えてくれるに違いない。
「一ノ瀬くんおはよう。珍しいね。遅刻ギリギリ?」
「あ……田中さん」
顔を上げると、同僚の田中さんが僕を覗き込んでいた。
おはようと挨拶を返すと、僕の顔をまじまじと見て怪訝な表情をする。
「その顔どうしたの? 昨日喧嘩でもした?」
「え、あっ……これ?」
言われて頬を押さえる。僕の両頬は、若干熱を持って腫れている感じがした。
「いや、これは、えっと……今朝寝ぼけてベッドから落ちちゃって。運の悪いことに、ちょうど真下にダンベルが……」
「それで両頬を?」
「うん。まぁ……そんな感じ、かな?」
「……へぇ~?」
田中さんがじっと目を覗き込んでくる。疑ってるんだろう。
でもさすがに本当の理由は言えない。言えるわけが無い。絶対信じてもらえないし。
最悪の場合、『違う方の病院』に連れていかれること間違いなしだ。
「ふ~ん……まあ、そういう事にしといてあげる。一ノ瀬くんのことだから、どうせ女の子にちょっかい掛けてビンタでもかまされたんでしょ? あ~あ。私という同期がいながら、そういう事しちゃうんだ?」
「や、だから違うって。いつも言ってるじゃないですか。僕は彼女とかそういうの、本当に要らないんで」
「またまたぁ~強がっちゃって~」
ムッとしてる僕を愉快そうに見下ろし、田中さんはクスクスと笑う。
田中さんは僕の同期だ。
入社式の時にボールペンを貸したことがキッカケで話すようになり、それから同じ部署に配属され、何やかんやと雑談をする仲になった。
誰に対しても気さくかつ仕事も出来る。おまけにかなりの美人なので、この会社の独身男性だけではなく、一部の既婚男性すらも彼女を狙っているらしい。
僕に対して妙に親しくしてくるのも、これが彼女の性格によるものであり、特に他意は無いのだろう。
「ねえ、そんな事より見てよこれ。今週末肉フェスやるらしいよ。どーせ予定もなくて部屋で一人寂しく過ごすんでしょ? ね、一緒に行かない?」
「行きません。金無いんで」
「私が出すって言ったら?」
「絶対裏があるとしか思えないので、どっちにしろノーですね」
「ちぇっ、バレたか。結構遠いところだから、車出してもらおうと思ったのになぁ~」
「やっぱりそういう事だろうと思った」
「む~。何よ。私みたいな美女が助手席にいたら、少しは気分上がるでしょうに」
「田中さんを車に乗せたなんて知れたら、社内での僕の立場が危うくなっちゃうんでね」
「あいっかわらずつれないわね……まあいいわ。分かったわよ。じゃああんたはいつも通り、一人寂しい週末でも過ごしなさいっ」
ぷいっと僕に背を向けて、田中さんは自席に戻っていった。
怒らせてしまったかな? でもまあそう根に持つようなタイプじゃないし。今度仕事でフォローしておけば大丈夫だろう。
それにしても、やっぱりこの顔の腫れ、相当目立つんだな。昼休みにマスクでも買いに行くか……。
なんとか仕事を定時で切り上げ、僕は急いで自宅へと向かった。
車を停め、駐車場からこっそり自分の部屋を確認する。
電気はついているようだ。ということはやっぱり……今朝の一件は夢じゃなかったということか?
緊張しながらも自分の部屋へと向かい、ついに玄関扉の前にたどり着く。
見間違いであること期待したが、やはり扉の横にある窓から明かりが漏れていた。
ガチャリと鍵を開けるまではよかったが、扉を開けることにしばらく躊躇してしまった。
いや、もしかしたらただ電気を消し忘れただけかもしれない。
大丈夫。今朝のことは夢、全部夢。ただの妄想……。
そう自分に言い聞かせ、ついに扉を開く。
「……ただいま」
一応そう告げて、恐る恐る靴を脱ぐ。
部屋の中はしんと静まり返っており、廊下から続くリビングへの扉が開きっぱなしになっていた。
あれ、アリスちゃんがいるにしては妙に静かだ。やっぱり夢だったのか?