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ぴちち……ちゅんちゅん……。
沈んだ意識の中、小鳥のさえずりが波紋のように鳴り響く。
……あれ、僕、また寝てたのか。
そうか、さっき朝の五時に起きて、二度寝しようとして……それから、どうしたんだっけ?
「……! ……!」
誰かが必死で僕に呼びかけているような声が聞こえる。誰だ? 僕、一人暮らしなんですけど──。
「大丈夫ですかっ!? 起きてっ! 起きてくださーい!」
「ん……んアっ!?」
まぶたを開け、僕を覗き込んでいる顔を視認し、僕は素っ頓狂な声を上げる。
「あ、あっ……アリスちゃん!?」
「よかったぁ~……大丈夫ですか? さっきはすみません。正当防衛とはいえ、少し強く殴りすぎました……」
そう言ってぺこりと僕に頭を下げてくる。それで事の顛末をようやく思い出した。
「あ、こちらこそっ! さっきは本当にごめっ……!」
ずきんと左頬が痛む。さっきちょっとした手違いで、アリスちゃんに強烈なパンチを食らったのだ。
まあ、我々の業界ではご褒美です。本当にありがとうざいました。
っていうかガチで痛いんですが。もしかしてこれ……夢じゃないのか!?
ふむふむ。これは夢かどうか、早急に確かめる必要がありますな。
「ごめんアリスちゃん。ちょっとお願いしたいことがあるんだけど、いい?」
「へ? なんでしょうか?」
「左頬だけ痛いとバランス悪いからさ……右頬も殴ってくれない?」
「…………は?」
アリスちゃんが怪訝な顔で僕を見る。僕はそれに臆することなく、至極真剣な顔で言った。
「実は僕、敬虔なクリスチャンでさ。聖書に書いてあったんだ。『右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ』って。それに、もしかしたら僕の右頬を殴ることによって、アリスちゃんが元の世界に戻れる可能性もあるよ。ゲームとかでもよくある仕掛けだ。両方のスイッチを押すと扉が開く的な。ということで、さあ……お願いします」
そう言って僕は起き上がり、姿勢を正してアリスちゃんの前に正座する。
まあ、クリスチャンってのは全然嘘なんだけど。嘘も方便って言うしさ。
……なんですかその目は。人生で一度も嘘をついたことが無いと神に誓える人だけが、僕に石を投げなさい。
とりあえず罪の所在に関しては隅に置いといて、僕は目を閉じてその時を待った。
「本当にいいんですか? というか貴方、正気ですか?」
「正気だよ。めっちゃ敬虔なクリスチャンなんで」
「……じゃあ、いきますよ」
「どんとこいでござる」
気合を入れるような大きなため息が聞こえ、アリスちゃんが振りかぶる気配。
拳の風圧がすぐ目の前に近づいた時、僕は声を張り上げた。
「待って!」
「っ!」
ぴたりと僕の眼前でアリスちゃんの拳が止まる。すごい。そのままぶん殴られるとばかりに思ってたのに。
やっぱりアリスちゃんは天才だ。力のコントロールの神。
「なんですか?」
「セリフ指定とか、してもだいじょぶっすか」
「……セリフ指定?」
「殴りつけるときに言って欲しいんだ。『このどすけべー!』って。恥ずかしさ全開な感じで」
僕の指定したセリフは言わずもがな、アニメ3話でクリスがコケた時にアリスちゃんを巻き込んで倒れこみ、ラッキースケベが発生したシーン。
照れ隠しにアリスちゃんがパンチを食らわせる時に言ったセリフだ。
「…………」
目を閉じていても空気感で分かる。アリスちゃんは明らかにドン引きしていた。
きっと僕のことをゴミでも見るような目で見ていることだろう。
想像すると……ちょっと興奮しちゃうな?
「一応聞いておきますが……これは元の世界に戻るために必要なことですか?」
「そう。イグザクトリー。これ、重要なこと。言うなれば、元の世界に戻るための魔法の呪文みたいなもんだから」
「はぁ……分かりました」
再びアリスちゃんが振りかぶる気配。
僕は姿勢を正してぐっと丹田に力を込め、来たるべきそのときに備えた。次の瞬間。
「このっ……変態ドスケベ野郎がぁー!!」
ドスの効いた声とともに、殺人的なパンチが僕の右頬にめり込む。
あれ? 声の感じとセリフが思てたんとなんか違う。でも、これはこれでっ……良い~~~♡♡
ドガーン!
僕の身体は再びさっきと同じ壁へと叩きつけられる。
やべえ、壁ぶっ壊れたらどうしよう。修繕費いくら掛かんだろう。今月金欠なんだけど。
自分の身体よりも壁の心配をしながら、耐え難い幸福感と痛みを全身で感じつつ、僕はずるずるとその場に倒れ込んだ。
「だ、大丈夫……ですか?」
アリスちゃんが引き気味に、様子を窺うように僕の方へと寄ってくる。
「ああ、これがアリスちゃんの照れ隠しパンチ……魔法防御の使えないクリス以外の一般人が食らったら……安易に吹っ飛んでしまう威力……さいっこうだぁ……」
「……貴方、クリスくんのこと、知ってるんですか?」
意識朦朧としながらうわ言のように呟いた僕の言葉に、アリスちゃんが反応する。
僕はフラフラとなんとか起き上がり、両頬が腫れた状態で正座し直した。
「ありがとうアリスちゃん。二度も僕を殴るのはさぞ心が痛んだだろう……感謝です」
「いえ、それほどでも……それより貴方、どうしてクリスくんの名前を? それに私の名前も知ってますし……私達について、何か知ってるんでしょうか?」
僕は現状で分かっている事をアリスちゃんに説明した。
どうやらこれは夢では無さそうだということ。
アリスちゃんはこの世界ではアニメの登場キャラクターであり、本来は実在するはずがない存在だということ。
ここはアリスちゃんのいた世界とは違い、魔法が存在せず、色々と生活の勝手が異なるということ。
元の世界に戻す方法は、今のところ不明だということ。
僕の説明を、アリスちゃんは驚愕の表情で聞いていた。
「へ? つまり私は……この世界では空想上の存在なんですか!?」
「うん。そういうことになってるね」
「じゃあどうして私はここに?」
「それは僕にもよく分からないんだ……って、そういえば今何時!?」
「ふぇ? えーと……あそこの掛け時計は8時10分になってますね」
「やばい遅刻だ! ごめんアリスちゃん! 僕、仕事行ってくる!」
「え!?」
ワイシャツとスーツを引っ掴んでバタバタと支度する。アリスちゃんは背後でおろおろとそれを見ていた。
「そ、そんなっ! じゃあ私……一体どうしたらいいんですか!?」
「出来るだけ早く帰ってくるようにする! あ、冷蔵庫のものとか、好きに飲み食いしといて! あっ、外には絶対出ちゃダメだよ!」
「え、ちょっとっ!」
「じゃあ行ってきますっ!」
戸惑いの表情を浮かべるアリスちゃんを置いて、バタンと扉を閉める。
しっかりと鍵を締めたのを確認し、僕はマンションの階段を駆け下り、車に乗り込んだ。