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「……ん、」
ふと目を覚まし、ぼんやりしたまま窓の方に視線を向ける。外は暗かった。
スマホの画面を確認すると、朝の5時だ。
良かった。まだ2時間も寝られる……二度寝しよう。
そう思って布団を被ろうとすると、尿意を催した。仕方なく布団を出て、冷たいフローリングの感触に身震いしながらトイレへと向かう。
トイレを出る頃には眠気はすっかり覚めてしまった。
いくらなんでも起床するには早すぎる。もう少し寝ていたい。布団に戻ってごろごろしてみるが、どうにも寝付けなかった。
そうこうしている内に、なんとなくムラムラしてくる。
そういえば最近、忙しくて全然抜いてなかったな。時間もあるし丁度いい……やるか。
布団から出て、デスクにあるPCの電源をつける。
半額セールで購入したゲーミングチェアに座り、マウスをカチカチとやりながら、僕は「オカズ」を探し始めた。
お前、そこはアリスちゃんで抜かないのかよって?
まあそりゃそういう時も勿論あるけど。男のサガと言いますか、やっぱ色々つまみ食いはしたくなるものだ。
その時々によって興奮するシチュや年齢層が違ったりするし。
オナニーする時はね。誰にも邪魔されず自由で、なんというか救われてなきゃあダメなんだ。
独りで静かで、豊かで……。
なんて、某グルメ漫画の主人公じみた言い訳を心の中でしながら、カチカチと忙しなくマウスをクリックする。
……よし、今日はこの動画にしますか。
そう決めて動画の再生ボタンを押し、パンツごとズボンを下ろしたその瞬間だった。
ドタン!
背後で何か大きなものが落下するような音がする。
突然の事に、僕は下半身丸出しのまま椅子から飛び上がった。そしてそのまま固まる。
なに、なんだ。一体何が落ちた?
明らかに本とかコップとかそういう次元の音じゃない。
例えるならそう、まるで人が落っこちてきたような。
もしかして、屋根裏に潜んでいた泥棒が落っこちてきたんじゃ──。
そう認識した途端、全身に緊張が走り、心臓がドクンドクンと嫌な音を立てはじめる。
やばい。今手元にある武器になりそうなもの……ボールペンくらいしかない。
どうしよう。どうやって反撃しよう!
パニックになりながら咄嗟にボールペンに手を伸ばすと──。
「いたたぁ~……何なんでしょうか? 急に」
「……え、」
背後で聞こえた呑気な声がずいぶん耳馴染みのある声で、僕は思わず立ち上がり勢いよく振り返る。
すると背後にいた人物も顔を上げた。
「「え、」」
視線がかち合った瞬間、僕達は同時に声を上げる。
ぱっちりとした青い大きな瞳。雪のように白い肌。出身校ですらないのに、ソラで完璧に描ける程に見覚えのある制服。
光り輝くセミロングの金髪。そしてその頭の上で結ばれた、瞳と同じ鮮やかな青色のリボン。
そう、それはこの10年間、一日たりとも欠かすことなく見てきた顔。
「あ、あ……、」
目の前にいるその存在が信じられなくて、僕は目を見開いたまま口をあんぐりと開けたまま固まる。
僕の部屋のフローリングに座り込み、きょとんとこちらを見上げているその人物。その正体は。
僕が10年想い続けてきた、ここに存在するはずがない空想上の少女──アリス・ダーウィンだった。
なんだこれ。もしかして……夢か?
あ、そうか。そうだな。
ということは……ついに、ついにアリスちゃんが夢に出てきてくれたんだ!
くぅーーー!!! 苦節10年! こんだけ好きなんだから一度くらいは夢に出てきてくれないかなと期待してたけど、ついに、遂にぃーーーー!!!
やばいッ! 嬉しーーーーーッ!!!!
目が覚める前に、とにかくいっぱい喋らないと!
伝えよう! 僕の気持ち!!!
「あ、あの、き、キミはっ……あ、ああっ……アリスちゃん? だよね?」
逸る気持ちを抑えながら、僕はそう問いかけた。いや、全然抑えられてなかった。
鼻息荒いし、めちゃくちゃどもってるし。ついでに顔は完全ににやけている。
僕の挙動は言い逃れようもなく、紛うことなきキモオタのそれに違いなかった。
名前を呼ばれたアリスちゃんはびくりと身を震わせ、そして何故か、僕の下半身へと視線を注いだ。
突然のことに僕はドキリとする。
ん? なんだ? アリスちゃん。どうして急に僕のプライベートゾーンを見て……しかも凝視したまま固まってる。
もしかして、興味があるのか? 僕の下半身に? ……えっ!? えーーー!? これってそういう夢えッ!?
今から僕っ……アリスちゃんと!?!? エッッッ!? マッッ!?!? ファッッ!?!?
どうしよう。今日僕どんなパンツ履いてたっけ! 使い古したダッセーやつじゃなかったらいいけ……ど?
と、確認のために自分の下半身に視線を落とす。
なぜだろう。そこには履いていたはずのスウェットが無く、すっぽんぽんの剥き出し状態のマイサンが、「こんにちわー」とお辞儀でもするかのように股間にぶら下がっていた。
よく目を凝らすと、パンツとスウェットは足首までストンとずり落ちている。
あっあれ~? 僕、どうして下半身すっぽんぽんなんでしょうか?
……あ、そうか。さっきまで僕、抜こうして──。
『あんっあん♡ すっごい……イイッ♡……長兵衛さんっ……もっと激しくしてぇ~♡』
背後から聞こえた艶めかしい声に振り返ると、ディスプレイの中で、熟した感じのお姉さんが、八百屋っぽいおじさんに組み敷かれて喘いでいた。
タエ子、65歳 禁断の不倫現場~絶倫男、八百屋の長兵衛の強襲~。
動画のタイトルにはそう書かれていた。そう、僕が見ようとしていた動画は、いわゆる熟女モノだったのだ。
光の速さでブラウザを閉じ、恐る恐るアリスちゃんを振り返る。
予想通り、この上ないくらい青ざめた表情でこちらを見ていた。
血色を失った唇がわなわなと震え、そしてすう、と酸素を求めるように息を吸い上げ、大きく開く。
「きっ……きゃあああああああああああーーーー!!!!」
「わああああああああああーーーーーーーーー!!!!」
僕達はほぼ同時に叫んだ。
そして叫びながら冷静に思考した。「あ、これ、近所に通報されんじゃね?」と。
どうしよう。これでもし警察来たら、僕──絶対捕まるやつやんっ!
「ぎゃああああああ!!! ヘンターーイ!! ちかーーーーん!!!!」
アリスちゃんは涙目で悲鳴をあげながら、ずりずりと後ずさっている。どうやら腰が抜けてしまっているらしい。
「ち、ちがっちがくて! 僕はただっ──」
「イヤーーーー!!!! 来ないでくださーーーーい!!! 犯されるうううう!!! 助けてくださいクリスくーーーーん!!!」
「あ、あわ、あわわ……っ」
ヤバイ、一旦どうにかして落ち着かせないと。
パニックになった僕は素早く上半身を捻り、デスクにあったボールペンを握る。
そして振り返り、ペン先をアリスちゃんに向けて叫んだ。
「う、動くな!!!」
必死の形相で僕が叫ぶと、アリスちゃんはびくりと大きく身を震わせ、ようやく黙った。
良かったとほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間、改めてアリスちゃんを見る。
長いスカートから覗く白いタイツに包まれた足はガクガクと震え、こちらを見上げる顔はより一層青ざめていた。
そう、例えるならその表情は──犯罪者に向けられるそれだった。