1
カンカンカン。
夜のだいたい10時くらい。一服を終えた僕は、ビルの屋上からオフィスへと繋がる非常階段を降りていた。
途中でびゅうと冷たい風が吹き、思わず身震いする。
12月ともなると、さすがにワイシャツだけで外に出るのはきついか。
明日からはジャケットの中にセーターを着てこよう。
ジャケットは苦手だ。極力着たくない。窮屈だし、堅苦しい。
ルールとか、常識とか、倫理とか、そういうものに縛られるのも嫌いだ。
しかしまあ、僕は現状、しがないサラリーマンでしかないので。
『仕事を期日まで終わらせる』というルールの元、上司と部下の板挟みに辟易しながらも働き、その消耗具合と引き換えにサラリーを得て、その範囲を超えない程度の常識的な生活をするしかないのである。
それはきっと誰かにとっては幸福なことであり、不幸なことでもあるのだろう。
僕にとっては一体どっちだろう……まだ分からない。
その答えが分かる時が、いつか来るのだろうか?
ポケットからスマホを取り出し、画面を見る。
愛おしい人がこちらに向かって微笑んでいた。
アリス・ダーウィン。
僕にとっての初恋の相手であり、10年たった今でも最愛の人だ。
初めて出会った時、僕は15歳だった。
彼女を目にしたその瞬間、画面越しだというのに、あまりの可愛さに心臓を撃ち抜かれるような衝撃を受けたのを、今でもはっきりと覚えている。
それから僕は一瞬で骨抜きにされてしまい、彼女に深く深くのめり込んだ。
今風に言うならば、「沼ってしまった」というやつだろうか。
彼女の出てくるシーンを何度も何度も、それこそ全てのセリフを覚えるほどに。網膜に焼き付くくらいに繰り返し見続けた。
グッズだって、なけなしの小遣いとフリマアプリを駆使して、できる限り集めた。
最初はすぐに冷めるだろうと思っていた。十代だったし、彼女以外にも魅力的な人は、他にもたくさんいたから。
でも僕は予想とは反して、10年たった今でも彼女のことが大好きなままだった。
僕にとっての幸せの最高到達点は何かと問われれば。
それは間違いなく、アリスちゃんに実際会って、微笑みかけてもらうことに違いないだろう。
「おい一ノ瀬、な~に携帯見てニヤついてんだよ?」
背後の声に振り返ると、吉田先輩が立っていた。スマホをポケットに突っ込んで愛想笑いを浮かべる。
「や、今ちょっといい感じの子がいて。その子から来た連絡確認してたんすよ」
「お~お~お盛んなことで。いいよなぁ若いヤツは。俺みたいな所帯持ちには、お前が眩しく見えるぜっ」
そう言って馴れ馴れしく肩に腕を掛けてくる。
嫌悪感が顔に出そうになるが、どうにか引っ込める。
この人はこれが平常運転で、仕事で困ったときは自分の手を止めてでも助けてくれる。そう悪い人ではないのだ。
「そろそろ上がるだろ? 飲みに行くか?」
「いや、僕車通勤なんで」
「置いてけばいいだろ」
「明日早出なんすよ」
「しょうがねえなあ~じゃあまた今度な。じゃ、お先」
「お疲れ様です」
僕の嘘を信じたらしい吉田先輩は、のらりくらりとオフィスに戻っていった。
ほっと肩を撫で下ろし、再びスマホの画面をつける。
アリスちゃんが僕に向かって微笑んでいた。
アリスちゃんが好きだって事は人には言えない。言えるわけない。絶対馬鹿にされるし。
だって彼女は架空の存在──アニメのキャラなのだ。
ブリリアントティーン。
通称『ブリテン』。
10年前に革新的なオープニング映像がバズり、爆発的な人気が出たコミック原作のアニメだ。
アリスちゃんはそのアニメのヒロインの内の一人として登場したキャラだ。
ヒロインと言っても正ヒロインではなく、常に主人公と一緒に戦うというような位置づけでもないので、登場する場面はそう多くはない。どちらかといえば、脇役と言ったほうが正しいだろう。
最初はオープニング映像を何気なく見て、彼女の見た目の可愛さに惹かれてアニメの視聴を始めた。
それが全ての始まりだった。
彼女は天真爛漫で、とても魅力的だった。
主人公であるクリスに恋するその姿は、どこまでも一途で、明るくて、元気で、たまに情緒不安定で、見ていて飽きなかった。
そして、どこまでも一生懸命だった。
恋の相手であるクリスが窮地に立たされ、周囲から非難の言葉を浴びた時は、我慢できずに立ち向かって反論するし。彼が意識を失った状態で危機的状況を迎えた時は、彼女はその命を張って彼を守った。
僕はそんな彼女の姿に感動して、心底惚れた。
つまり僕は、主人公に恋する彼女の姿に恋をした、ということだ。
僕はアリスちゃんが好きだ。
ただのアニメキャラとしてではなく、人として。異性として。全てを愛している。
〇〇ちゃんは俺の嫁。なんてネットスラングが昔流行ってたけど。
僕は本当にアリスちゃんを嫁にしたい。
本気で結婚を考えるくらいに好きだ。
でもそれは叶わないということも、ちゃんとわかっていた。
僕ももう25だ。現実と妄想の区別くらいはちゃんとついている。
……いや、初めて好きになったその瞬間に、そんな事くらい、ちゃんと気付いていた。
僕がどれだけ願っても。どんな努力をしようとも。僕はアリスちゃんに指一本触れることが出来ない。
触れるどころか、その透き通る檸檬色の大きな瞳に、僕の姿が映ることすらないのだ。
つまりこの恋は無謀で。異常で。何の意味も持たない。
ただ心の中に空虚なデッドスペースを飼いならすだけの、価値のない感情だ。
……それに、仮に色々な諸問題をクリアして会えたとして、彼女の心には「クリスくん」しかいない。
それが彼女の魅力であるし、僕はそんな彼女を好きになった。
だからこの恋は、最初から成立しないことが決まっていたのだ。
家に帰り、シャワーを浴びて適当に晩御飯を済ませ、早々にベッドに転がる。
部屋の電気をベッドボードにあったリモコンで消し、スマホの充電ついでに画面を見る。
10年経っても変わらない眩しい笑顔で、アリスちゃんはこちらを見ていた。
アリスちゃんはいつまでも16歳のままだけど、当然僕は歳を取っていく。
出世とか、結婚とか、考えなくちゃいけないことはどんどん増えていく。早く現実に目を向けるべきだ。
そこまで分かりきっててもなお、やっぱり僕はアリスちゃんの事が好きなままで──。
「……おやすみ、アリスちゃん」
画面の中の彼女にそう告げて、今日という日を終えるのだった。