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最後の小説

作者: 矢本MAX

あなたは、小説の存在しない世界を想像することが出来ますか?

これはそういう世界の物語です。

これからしばしの間、あなたの心はこの不思議な世界へと入っていくのです。

〃小説〃というものを読んでみたい、と大澤ユンタは思った。

 どこか記憶の片隅に、そんなものがこの世に存在するということがひっかかっていて、ふいに気になりはじめたのだ。

 それが一体どんなものなのか?

 友人に訊いてみたが、誰もそんなものに興味を示すものはなく、そもそも小説という言葉すら知らない者が多かった。

 紙の書物というものがほとんど消滅して久しい現代だが、電子データでも小説はすでにどこにも存在していなかった。

 試しに検索してみたが、

「小説 過去に存在した文章表現の一種」

 という素っ気ない説明が表示されただけだった。

 そうだ、図書館へ行こう!

 とユンタは思った。

 書店というものが存在しない今の社会、それが存在するとしたら、図書館くらいしかない。

 休日になるのを待って、彼は市営図書館へ足を運んだ。

 人気のない館内は、深海のように静まりかえっていて、古い書物が発する黴臭い匂いがした。

 ユンタは迷わず「文学」という分類の棚に向かった。

 そこはさらに細かく分類されていて、「詩」「俳句」「短歌」「随筆」「評論」、そしていちばん大きなスペースを占めているのが「大説」だった。

 大説なら読んだことがある。というか、学校で半ば強制的に読まされた。

 あまりいい思い出がない。

 天下国家を論じ、社会のために貢献する人間を描いた教訓的なお話ばかりで、ちっとも面白くなかった。

 背の高い棚の谷間を、隅から隅まで見回したが、やはり小説は発見出来なかった。

 ため息をついて立ち尽くしていると、

「あの、何かお探しでしょうか?」

 背後で若い女性の声がした。

 びっくりして振り返ると、黒いセーターに灰色のスカートを穿いた、地味な身なりの小柄な女性が立っていた。

 おかっぱ頭に眼鏡をかけていた。

 名札には「司書・月島ホタル」と書かれている。

 どうやら図書館の職員らしい。

「小説を探してるんだけど……」

 ユンタが言うと、

「申し訳ございません。当館は小説を一冊も所蔵しておりません」

 まるで図書館全体を代表しているかのように、申し訳なさそうな顔で彼女が答えた。

「そうか、やっぱりね」

 ユンタが肩の力を落として立ち去りかけると、彼女はもう一度「申し訳ございません」と言って、深く頭を下げた。

 ところが、彼が図書館を出て歩きはじめると、

「待ってください!」

 呼び止められて振り返ると、先ほどの司書が走り寄って来た。

「あの、小説に興味がおありでしょうか?」

「うん、このところずっと気になっていたんだ」

 問われるままに答えると、彼女はそれまでの緊張した表情をゆるめて、

「それなら、もしかしたら古本屋さんをお探しになられたら良いかと思われます」

 口調にはまだ堅苦しさが残っているものの、同好の士を見つけた喜びに、声のトーンが上がっているのが感じられた。

 真摯にこちらを見つめる、眼鏡の奥の瞳が潤んで結晶のように光っているのを見て、ユンタは思わずドキリと心臓が高鳴るのを感じたのだった。

「それじゃ」

 ひとつ深呼吸してからユンタは言った。

「この次の休みの日に、古本屋に行くのをつき合ってくれないかな?」

 一瞬、時が止まったように感じられた。そして、

「はい」

 と彼女は答えた。

「わたしで良ければ御一緒させてください」

 小さく何度もうなずきながら、顔一杯に喜びを浮かべるホタルを、ユンタはかわいいなと思った。


 次の週の月曜日、図書館の休館日に合わせて勤務先の食品工場の同僚に勤務交代をしてもらったユンタは、ホタルと待ち合わせて、旧市街にある通称「古本横丁」へと向かった。

 古本横丁は、百年以上の歴史を持つ古本屋街で、全盛期には通りの両側と路地裏を含めて二百軒を超える古書店が軒を連ねていたと言われていると、道すがらホタルが教えてくれたけれど、辿り着いたそこは、シャッターを閉めた店の方が多く、人影もまばらで、木枯らしが吹き抜ける、どこか寒々とした場所だった。

 それでもホタルは嬉しそうで、端っこの店から順番に、本棚をめぐりはじめた。

 店にはそれぞれ専門があり、文芸書を扱っている店は、三軒に一軒くらいだった。

 きちんとジャンル別、著者別に分類している店もあれば、もうほとんど整理を放棄し、混沌としたまま本が積み上げられている店もあった。そういう店は、店主もすでに商売を放棄しているのか、死んだような眼をして奥の椅子に坐っていたりした。

「こういうところに、けっこう掘り出し物があったりするのよ」

 と、ホタルは眼を輝かせて本の背表紙をたどり、奥の方の本を引っ張り出したりしたが、店内に充満した黴の匂いが強くなるだけだった。

「あんたたち、何を探してるんだね?」

 十数件目に入った店の主が、不思議そうな顔で尋ねて来た。

「小説です」

 ユンタが答えると、店主はあきれたような顔になって、

「今どき、小説本だなんて、奇特な人もあったもんだね。あんなもん、もう誰も読みやしないのに」

 と言った。

「どうしてですか?」

 店主の口調にやや不快なものを感じて、ユンタは問い返した。

「あんなものを読んでも碌な事はないと、みんなが気がついたからじゃないかね。世のため人のため、何の役にも立たないからね。だからお上もさっさと処分しちまったんだろうな」

 ユンタは何か反論したいと思ったが、悔しいけれど何の言葉も浮かんで来なかった。

 半日ほど、二人は足を棒にして古本横丁を探し歩いたが、ついに一冊の小説も見つけることが出来ず、疲れ果てて、通りに面した煉瓦づくりの古い喫茶店に入り、どこか懐かしい味のするナポリタンを食べ、香りのいいコーヒーを飲んだ。

「ごめんね、こんなことにつき合わせちゃって。おまけに小説も見つからなくて」

 ユンタが言うと、

「ううん、でも楽しかった。本を探すのって、楽しいし、一人じゃなかったから、もっと楽しかった」

 ホタルが答えて、はにかむように微笑んだ。

 なんか立場が逆転しているような気もしたが、それはそれでいいと、ユンタは思った。

「オレも、楽しかったよ」

 言ってから、ちょっと恥ずかしくなり、うつむいた。

「小説のことは、母から聞いたの。子供の頃、母はよく小説の話をしてくれた」

 しばしの沈黙の後、ホタルが独り言のように語りはじめた。

「恋とか夢とか冒険とか、大説では描かれないような荒唐無稽な物語だったり、英雄でも偉人でもない、あたしたちのような一般の人が主人公で、小さな幸せや哀しみや、出会いや別れや、何気ないささやかな日常を描いたものもあって、何を書いても自由な、そんなものだったって」

「それって」

 と、ふと思いついてユンタが言った。

「今日のオレたちみたいだね」

「あたしも、今そう思ってたの」

 嬉しそうに、ホタルが答えた。

 ホタルの話を聞きながら、ユンタはあることを思い出していた。

 それは若くして亡くなった自分の父親のことだった。

「あんたのお父さんはね、小説家だったんだよ」という母親の声が、ふいに甦って来たのだった。

 その時は、小説家という言葉の意味すら解らなかったし、父親が何で死んだのかも、そもそも写真一枚残っていない人物について、何の興味も関心も持てなかった。

 しかし、今なら何で自分が小説というものに興味を持つようになったのかが、解るような気がした。

 そのことをホタルに話すと、彼女は眼を輝かせて言った。

「そうね、きっとその通りよ。素晴らしいわ」

 冬の日は短く、窓から射し込む西日が、ホタルの顔を遠い想い出のように、セピア色に染めていた。

 ユンタは、なんだか胸が締め付けられるような想いだった。

 そろそろ帰ろうかと、店を出ると、すでにあたりは暗くなり、早くも店を閉める古本屋もあって、吹く風をさらに冷たく感じさせた。

 並んで歩くホタルが身を寄せて来た。

 ユンタはその手を、おずおずと握った。

 相手の手が、握り返して来た。

「オレ、小説を書いてみようかと思うんだ」歩きながらユンタはホタルの耳許で言った。「今日のこと、なんだか小説のような気がするんだ。大説みたいな教訓とか、ためになることとか、全然ないし、ほんとにほんとにちっぽけなことでしかないかも知れないけど、オレにとっては大切でかけがえのない時間だったし、そういうことを書きとめれば、それはきっと小さな小説になるんじゃないかって、そう思うんだ」

「素敵!」

 とホタルが答えて、胸に飛び込んで来た。「あなたなら、きっと書けると思うわ。書いたら、あたしにも読ませてね」

「もちろんだよ。君が読者一号だ」

「きっと、きっとよ。約束!」

「ああ、きっとだ」

 それから二人は、冬の街を、肩を寄せ合って、どこまでもどこまでも歩き続けた。

 いつの間にか、雪が降り始めていた。

 このまま、今日という一日が、終わらなければいいと、ユンタは思った。

 いつまでも、いつまでも……。


※これが現存する最後の小説である。即刻処分すること命ずる。

                    了

あなたの世界に、まだ小説は存在しますか?

それを自由に読むことは出来ますか?

この小説を読むことは出来ましたか?

大丈夫、それが出来れば心配はありません。

それではまたお逢いしましょう。

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