2 七緒と圭太
『幼い日の想い出』という感傷に浸っていても、朝の時間は、いつも通り流れていく。
階下から呼ぶ母の声を合図に、七緒は、本棚から目を離すと、朝のルーティンを始めた。
七緒の朝は、いつも同じ。
顔を洗って食卓についたら、朝食のパンにバターとブルーベリージャムを塗って食べ、キシリトール入の歯磨き粉で歯を磨く。
制服に着替え、学校推奨の黒いリュックを背負って、白いスニーカーを履いて、「いってきます」と家を出る。
水無七緒。
地元の公立中学校に通う3年生。
運動があまり得意ではなかったり、読書が好きで、本を読むスピードが人より少し早かったり、そんな多少の得手不得手はあるものの、総じて見れば、平凡で平均の域を出ない中学生……だと自認している。
それでも、毎日同じ時間に起きて、同じ時間に家を出る規則正しさは、美点の一つなのだと思う。
いつも通り、学校の少し手前の信号で、歩行者用のボタンを押して待っていると、背後から声をかけられた。
「水無! おはよ。」
声の主は、振り返えらなくても分かっている。
「……本郷。おはよう。」
「おう。今朝も会ったなー。」
本郷圭太がニッと笑う。
「私は毎日、同じ時間だから。」
NHKニュースのお天気コーナーが始まったら家を出る。テレビが時計代わりだから、緊急ニュースでも入らない限り、時間通りだ。
本郷がヒュウッと唇を鳴らし、
「さっすが、punctual。」
パンクチュアルではなく、punctual。
時間に正確であること。
お父さんも、この言葉が好きで、よく口にするけれど、本郷が発音すると、まるで違う言葉みたいに聞こえる。
本郷圭太は帰国子女、というのは専らの噂だった。
小学校6年生のときにアメリカから転校してきたのだという。ただ、七緒とは別の小学校だったから、本人に直接その話を聞いたことはない。
「本郷こそ、最近早いね。」
七緒は中学1年の時から、この時間に家を出ている。けれど、過去2年、通学中に本郷に会ったことはなかった。
それが3年で同じクラスになって、急に朝、この横断歩道で出会うようになったのだ。
クラスメイトなのだから、挨拶されれば無視するわけにもいかないし、そのまま、話かけられれば、一緒に教室まで歩いていく。
毎日そうしているうちに、いつの間にか、それが日課のようになっていた。
七緒の通学時間は比較的早い。毎朝、教室につく時刻には、まだ2~3人しか来ていない。
七緒はそのことに、密かにホッとしていた。
本郷は、背が高く、顔も整っている。テストでは常に上位常連組で、当たり前だが、英語が得意。運動の方も、人並みより、やや上といったところで、一言で言うと『目立つタイプ』。
だから、毎朝、一緒に歩いているのを見られたら、周りに何を言われるのか、考えただけでも憂鬱だ。
「まぁ……な。早起きは何とかの得って言うし。」
「三文、ね。」
答えながら、私に取っては、ビタ1文ほども得していない。というか、むしろ損なんですが、と考えている。
だって、そもそも、私は……
ーーー本郷圭太が嫌いだ。
そう、嫌いなのだ。
だから、極力関わりたくなきし、絡まないで欲しい。
無論、これには、理由がちゃんとある。七緒だって、むやみやたらと、人の好悪を決めたりしない。
積もり積もった、あれや、これやがあっての末の「嫌い」なのだ。
そのいろいろの中の、決定打は先月のことだった。
たまたま、図書室に寄って遅くなった日、教室の側を通ったとき。中から、本郷と他の男子が話している声が聞こえた。
その時、本郷は、言ったのだ。実に、はっきりと。
「水無は、アリかナシで言ったら、アリだなー。」
何様ッ?!
というのが、正直の感想だった。次いで、浮かぶのは、「私はナシですけど?」という、至極真っ当な反論。
そう、私は本郷圭太は、ナシなのだ。
嫌いなのだ。
にも関わらず、毎朝、毎朝、話しかけてくる。
しかも、信じられないほど、人懐っこい笑顔で。よく、本で「持ち前の」という表現を見るけど、こういうののことを言うんだろうな、と思ってしまう。
そして、話しかけられたら、応えずにいられない律儀さも、多分、七緒にとって、持ち前の性格なのだと思う。
今日の授業やテストの話をしているうちに、すぐに教室に着いた。
と、教室の手前で、急に本郷が足を止めた。
「そういえば、今日、委員会だけど、忘れてないよな?」
つられて足を止めた七緒は、くるりと振り返って、本郷を睨みつけた。その確認は、これまでの当たり障りのない空気を一変させ、あのときの怒りを呼び覚ますには十分すぎた。
「ちゃんと覚えてるよ。」
覚えている。
私は、文化祭実行委員会の委員なんだもの。
「委員になった以上は、責任もってやります。たとえ、あんなふうに巻き込まれたとしても、ね。」
これこそが、笑顔の影に隠れた、本郷の本性。相手の意思を与しない強引な性格の為せるわざ。
そして、七緒が本郷を嫌う、もう一つの大きな理由。
「あのときは……スミマセンでした。」
七緒は、しおしおと項垂れる本郷を置いて、さっさと教室に入っていた。
本郷は、再燃した七緒の怒りに、大きな身体を、しゅんと丸めているけれど、仕方がない。
そんな顔をしたって、あのことは赦してなんかいない。
だって、あんなだまし討ちみたいな決め方されたんだから。