14 私のための謎
茜色の教室。
掴まれた左手。
好きだーーーと告げる、本郷のまっすぐな瞳。
「水無の、巻き込まれたのに、投げ出せない責任感の強さが好きだ。俺のこと怒っていたくせに、困っているからと頼まれたら、助けずにはいられない、お人好しな優しさが好きだ。」
15年の人生で、初めてされた告白。
「俺はずっと、水無が好きだった。」
小説とも、少女漫画とも違う。現実のそれに、七緒は、頭が真っ白になって、何を返せばいいのか、何と答えればいいのか分からなかった。
そのまま、時が止まったように、静かな時間が続いた。それは、とても長い時間のように感じられた。
ふいに、その静寂を、チャイムが破る。
と、同時に、ドアをノックする音。
「あっ……はい。」
普段なら、「教室のドアをわざわざノックするなんて、変だな」と思ったに違いない。
でも、今の七緒にそんなことを考える余裕はなかった。
本郷が、ゆっくり七緒の手を離した。制御を解かれた手が、ダランと下がる。
そのタイミングを見計らっていたかのように、遠慮がちに、引き戸が開いた。
「あの………ごめんね?」
ドアのむこうで、宮迫一花が申し訳無さそうに、両手の平を顔の前で重ねて、まさに『ゴメンネのポーズ』をしていた。
「お取り込み中に、邪魔してしまって。………でも、」
一花は、そろりそろりと合掌を解くと、左に向かって人差し指を突き出した。
ハッと気づいた七緒が駆け寄り、外を見る。
そこには、七緒がイラストを頼んだ1年の男の子が、廊下の壁に寄りかかって、もじもじと所在なさげに、俯いていた。
「少し前から待ってたみたいで……」
教室の前まで来たのはいいが、七緒たちの会話に気づいて、入るに入れず、ここにいたようだ。
「あの……」
男の子は、イラストの描かれた画用紙を七緒に渡すと、「スミマセンでした。」と頭を下げると、横から一花が、
「あーー、今日、ここで聞いちゃったアレコレは、一応、内緒で。」
男の子に向けて、唇の前で人差し指を立てる。男の子は、コクコクと頷き、「失礼します。」と頭を下げて踵を返し、去っていった。
男の子の姿が見えなくなると、一花が申し訳なさそうに、
「というわけで、私もカバンを取らせてもらったら、お暇して……って、ナナちゃんっ??」
七緒は一花が話しているにも構わず、くるりと踵を返して、教室に戻った。
教室の中では、待っていた本郷が、居心地悪そうに、
「悪い………あの…」
「コレ。もらったから、あと、よろしく。」
預かった紙を本郷の胸元に押し付け、早口で言うと、そのまま、教室を飛び出した。
これ以上、何かを喋る余裕はなかった。
七緒は、早足で歩きしながら、自分の中で沸き起こる感情について、考えていた。
告白されて驚いている。人に見られて恥ずかしかった。本郷の気持ちを知って戸惑っている。
ーーーでも……不快ではない。
(本郷が、私を好きーーー?)
本郷から、その言葉を告げられた瞬間、身体の中から何かが、ふわりと立ち上るような、浮かび上がるような、不思議な心地良さがあった。
嫌いだったハズだった。
ナイって思っていた。
なのに今は………
この気持ちは…………ーーー
私は一体、本郷のことを、どう思っているんだろう。
◇ ◇ ◇
それから3日後のことだった。
「ねぇ……あの返事、どうしたの?」
放課後、図書室に寄らないかと誘って来たのは、一花から。
「わざわざ私を誘ったのは、それを聞き出すため?」
七緒がちょっとだけ拗ねたような、意地悪な口調で問うと、一花が「うっ!」と、仰け反った。
「そう……なんだけど…………いや、そうです。」
一花は、「ごめん」と肩をすくめた。
「ナナちゃんが話してくれる前に、こっちから突っ込んで聞くのも、どうかなーって分かってるんだけど……」
言いながらも、好奇心の抑えられない目でこちらを見つめてくる。
七緒は、大げさにため息をついてみたものの、すぐに、フッと口元が緩む。
「ううん。聞いてくれて、ありがとう。」
七緒は今まで、こういう、所謂『恋バナ』を誰かと話したことがなかったから、自分からは切り出せなかっただろう。
一花から聞いてくれたおかげで、一人で考え込まなくて良くなった。
一花が図書室で本を返し終えたあと、二人は中庭のベンチに座った。
ここは、かつて、城崎杏奈から、呼び出された場所。そのときと同じベンチで、また、本郷圭太の話をしている。
「それで? 本郷に、返事はしたの?」
「返事……」
「まだしてないの?!」
「う……うん。」
というか、返事というのは、なんだろう?
付き合ってくれと言われたなら、答えはイエスかノーの二択だと思う。でも、七緒は、本郷から単に「好きだ」と告げられただけだ。
そしたら、その答えは何を返せばいいんだろう?
『私も好き』とか?
七緒は慌てて頭を振った。
今まで、本郷のことを、そんなふうに思ったことはない。
ないーーーはず。少なくとも、そう意識したことは。
「まぁ、本郷がナナちゃんのこと、好きなのは見え見えだったよね。」
「えっ?! そうなの?」
一花が、「気づいてなかったの?」と目を丸くした。
「あれだけ、あからさまだから、当然ナナちゃんも分かってるんだと思ってた。」
「いやいや、相手が自分のことを好きかもしれない、なんて考えないでしょ?」
「えー? そう……なのかな?」
一花は「うーん」と首をひねってから、
「確かに、誰と誰がくっついたら尊いかとかは妄想するけど………」
「ごめん、それもよく分からない。」
マイペースな一花が、七緒の顔を伺うように下から覗き込んだ。
「それで、わたし的には、ナナちゃんと本郷なら、わりと『尊い』なんだけど、ナナちゃんには、何か引っかかってることがあるの?」
いつもどおりの一花の、いつもより鋭い一言。
思わず視線を反らした七緒に、「さては、何かあるのだね?」と、目を光らす。
「この前、体育祭で話たこと? アリって言われたやつ。」
「いや、あれは誤解だって分かったし、もういいんだけど……」
「じゃあ、なに? 他にもあるの?」
一花が覆いかぶさって、くすぐってくる。
「さぁ、吐いちゃいナ。」
「分かった! わかりました、言います!!」
一花を引っ剥がした七緒は、心を落ち着かせると、
「本郷って、ずっと昔から好きな子がいるんだって。」
七緒は、城崎杏奈から聞いた、本郷の「ずっと好きな子」の話をした。一応、杏奈が告白したことは割愛して。
七緒と本郷が会ったのは中学1年の図書室だから、その相手が七緒であるはずがない。もちろん、人間なのだから、単純な心変わりもあるだろう。
でも、夏休み前に城崎と本郷が話してから、この短い間に、あの本郷が、そんな簡単に心変わりするだろうか?
七緒には、そのことが、ずっと引っかかっている。
「……なにそれ?」
話を聞き終えた一花は、顔をしかめた。
「うん。ホント、どういうことって感じ……」
「そうじゃなくて。何で、城崎さんがそんなこと言ってくるのよ?」
それは、杏奈が本郷のことを好きだから…というのは、説明してないわけだけど。
「いや、理由はいいや。どうせ城崎さん、本郷のことが好きなんでしょう?」
当たってる。
「でも、今、城崎さんは関係なくない? 本郷とナナちゃんの問題でしょ? それとも何? 本郷、嘘ついてると思ったの?」
一花は言ってからすぐに、「そんなこと絶対ない。」とキッパリと否定する。
「本郷は、去年からずっと、ナナちゃんのことが好きだった。本郷の気持ちは本物だよ。」
そうだ。それは、七緒も疑っていない。
あの真剣な目と気持ちを疑うことなんて、出来ない。
一花が、
「本人に直接尋ねれば?」
言ってから、すぐ、
「って、それが出来れば、やってるよね。」
「え?」
「小説とか漫画の主人公って、すごいなーって思うんだ。 皆、思い立ったら、即行動、即発言だもん。ウジウジ悩んでも数ページがいいところじゃん。いや、そうしないと話が進まないから、分かるんだけどさ。」
腕を組んで、うんうんと頷く。
「でもさ、現実だと、頭ではそうしたほうがイイって分かってても、なかなか勇気出ないよね。」
ニコッと笑って、七緒の手を取る。
「だから、焦らなくてもいいと思う。本郷なら、ちゃんと待っててくれると思うから、ナナちゃんの勇気が集まって、聞けそうだと思ったら聞けばいいんだよ。」
焦らなくても大丈夫だと、励ましてくれる。
いつも本のことばかり考えている一花から、こんなことを言われるなんて、思ってもみなかった。
でも、その一花だからこそ、その言葉は優しい重みを伴って、七緒の心に響いた。
◇ ◇ ◇
一花と別れ、家に帰った七緒は、本棚から、あのノートを取り出した。
特に何か意図があったわけではない。ただ、なんとなく、手に取りたくなった。
ベッドに腰掛け、最後のページを開く。そこには、未だに解けていない謎。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
おりひめさま
ここまできたら、きみの かち。
これが さいごの もんだいだよ。
こたえを あつめて、ならべてね。
ひこぼしまけた
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
と、その時、ノートの上に人影が差した。
「なに? それ、まだ持ってたの?」
視線を上げると、4つ年上の兄、隆也が上から覗き込んでいた。
七緒は、慌ててノートを閉じた。
「勝手に入ってこないでよ。」
「ノックしただろ。ちょっと電子辞書の電池が切れたから、英和辞典貸してくれ。」
デスクの横の本棚に手を伸ばした。
「自分のは?」
「大学受験が終わって捨てた。」
そう言って、辞書を手に取ると、またノートに視線を寄越して、
「それより、それって、あれだろ? 七緒が保育園のときに、引っ越した子がくれたやつ。」
「お兄ちゃん!! この子のこと、覚えてるの?!」
「まぁ……なんとなく、は?」
「何となく………名前とかも?」
「名前ぇ?」
隆也は、辞書を片手に、反対の手で頭をカリカリとかいた。
「七緒の友だちってことは分かるけど、俺は、ほとんど絡んだことないからなぁ。」
七緒と隆也は4歳離れている。七緒が保育園の年長のとき、隆也は小学校4年生だ。保育園児と遊ぶような年ではないだろう。
「ちょっと待って、考えてみる。絶対に聞いてるはずだから、思い出せそうな気はするんだけど………」
隆也は七緒の勉強机の椅子に腰掛け、「何だけっけなぁ?」と呟きながら、辞書をパラパラと弄んだ。と、ページを捲る手がふと、止まった。
「そうだ! ケー!」
「K?」
隆也の指は、英和辞典の『k』のインデックスのところで、止まっている。トントンとページを叩いて、
「アルファベットみたいな名前だなーと思ったんだよ!ケイだ!ケイ!!」
「ケイ………くん?ケイちゃん?」
「そうそう。確か、そう呼んでいた。本名は分からないけど。」
その時、幼い日の記憶が、ふいに蘇った。
別れの場面。濃紺色のバンに手を振る七緒。
ーーーケイちゃん、元気でね!!
そうだ。確かに、そんな名前だったかもしれない。
ケイが名前そのものなのか、あるいは一部なのか。
一部だとしたら、ケイスケ、ケイイチ、ケイタ………
「ケイ……タ?」
本郷のフルネームは確か……『本郷圭太』。
ケイちゃん………?
まさか、本郷がケイちゃん?
その可能性に至った瞬間、七緒の頭は沸騰するみたいにカッと熱を帯びた。
本郷があのときの子?
このノートをくれた?
七緒はパラパラとノートを捲る。
分からない。ヒントらしきものは何もない。
「そんなに気になるなら、母さんに聞けば?」
七緒が思い出したことに満足したらしい隆也が、部屋から出る間際に言った。
「わざわざ引っ越しの日に見送りに行ったくらいだから、名前くらい覚えてるだろ? 卒園アルバムもあるだろうし。」
そうだ。アルバム。
両親の部屋には、アルバムが置いてある。今まで、この子の正体について、そこまで真剣に考えたことがなかったけど、本気で知りたいなら、いくらでも手はあるのだ。
それに、そんなに気になるなら、本郷本人に直接聞いてしまえばーーー………
ふいに、夏休み、市立図書館でこのノートについて、話したときのことが蘇る。
本郷は言った。
ーーーそのノートを書いた子は、水無に解いて欲しくて、解いてもらうために、その謎を作ったんだ。だから、最後まで諦めずに、水無が解いてやってよ。
もし、このノートを書いたのが本郷だとしたら、七緒が解けていない最後の謎の答えが何か、分かっているはずだ。
七緒に解いて欲しくて、この謎を作ったのだから。
そして、今もーーー七緒に解いてもらうのを待っている?
「ううん。やっぱり聞くのはやめる。」
隆也は、一瞬、不思議そうな顔をして、「そうか?」と呟いたが、あまり興味はないようで、「じゃあ、辞書借りてくわ」と部屋を出ていった。
一人になった部屋で、改めてノートを捲る。1ページ、1ページ丁寧に。
これは、私のために作られたノート。私のことを想って作られた謎。
これはーーー私が解くべきものなんだ。
この答えを見つけることが、七緒の気持ちを、見付けること。
なぜだか、強く、そう思えた。