10 城崎杏奈
七緒が城崎杏奈に話しかけられたのは、2学期の始業式の日だった。
「ねぇ。ちょっと、いいかな?」
帰宅しようと教室を出たところ。睫毛の長い、ぱっちりとした瞳が、七緒を捉えた。
「あ、ええっと、本郷なら、まだ教室に……」
以前、同じように呼び止めていたことを思い出して、そういうと、杏奈が「ううん。」と、首を横に振った。
人より少し色素の薄い髪が、窓から差し込む光で、際立ってみえる。
「圭太じゃなくて、水無さんに用事なの。」
「えっ……わたし?」
そもそも、杏奈が七緒の名を知っていることに驚いた。
やや日本人離れした、整った顔の杏奈とは違い、七緒はひたすら、地味だ。
顔も髪も、服装も、頭の中身も、これといって、突き抜けているものは一つもない。
一学年7つもあるクラスで、同じクラスになったことのある人にさえ、覚えられているのか、怪しいと思っているのに、まさか、一度も一緒になったことのない杏奈に、名を呼ばれるなんて……。
戸惑っている七緒に構わず杏奈は、覗き込むように首を傾げて、
「ちょっと時間、もらってもいいかな?」
「あっ……うん。えーっと……大丈夫。」
杏奈は、中庭のベンチに七緒を連れきた。
直ぐ側に、校舎を繋ぐ渡り廊下があって、時々人が行き交う。向こうから、二人の様子は見を見ることができるが、会話は聞こえないだろう。
(話したこともないのに、わざわざこんな場所に連れ出すなんて、何の用…?)
という疑問の答えは、続く杏奈の一言で、すぐに明らかになった。
「あのね……水無さんって、圭太と付き合っているのかなぁ……って。」
少し節目がちに尋ねる姿は、どこをどう切り取っても絵になる美少女。
その美少女が、「突然、変なこと聞いて、ごめんね。」と、謝りながら、
「実は、夏休みに二人で駅前歩いているのを、見ちゃって……」
「駅前?……あぁっ!!」
図書館に行った日のことだ。午前中、自習室を借りて、昼過ぎに図書館を出たので、お昼を一緒に食べないかと誘われた。
それで、駅前のファーストフード店に行ったのだ。
「あれは、文化祭実行委員の打合せで……」
「文化祭実行委員? あぁ……そう。そうなのね。」
夏休みの最中に、二人だけで会うなんて、おかしいだろうか。
でも実際、図書館に行って、打ち合わせをしていただけなのだから、嘘はついていない。突っ込まれても、疚しいことは何もないのだから、ちゃんと説明できる。
そう心構えをしていたが、杏奈はそれ以上、詳しく聞いてくることはなかった。
ただ、何かを考えるような、少し思い詰めたような顔で俯いているだけだ。
どうして、わざわざ七緒を呼び出して待で、こんな話を聞くのだろう。
ううん。
その理由は、考えるまでもない。
「圭太」とう親しげな呼び方。
悩まし気に揺れる表情。
城崎杏奈はーーー彼女は、本郷のことが好きなんだ。
そのことを理解した瞬間、七緒の心の中に、ツキンと、小さな何かが刺さったような音がした。
七緒は、膝の上に置いた手を、思わず握りしめる。
「私ね、」
ふいに杏奈が何かを決意したように、七緒を見た。
「私、1年のときに、圭太に告白したんだ。まぁ……フラれたんだけどね。」
『告白』という単語に、一度、どくんと跳ねた七緒の心臓は、なぜか「フラレた」という言葉に、安堵していた。
「圭太は6年の夏に転校してきて…… あっ、ほら私、同じ小学校だから。」
ここの中学には、主に3つの小学校の卒業生が集まってくる。七緒と本郷は、違う小学校だったが、杏奈は同じ小学校で、6年のときにクラスメイトだったらしい。
「それで、仲良くなって……好きになって、中学に入って、クラスは隣になったけど、ずっと好きだったから………だから告白したの。」
中学1年の林間学校のときの話だという。
「結構、自信あったんだよね、これでも。」
杏奈は、肩をすくめた。ちょっと大げさな仕草も、日本人離れした顔立ちの彼女には、サマになっていた。
「周りの皆もお似合いだって、言ってくれていたし。」
「そう…なんだ。」
七緒は、圭太の横に並ぶ杏奈を想像した。確かに絵になりそう。
絵になりそうだけど……どうしてだろう。素直に「素敵だ」と褒められそうにない。
「でも、ダメだったの。」
杏奈は、軽く頭を振った後、七緒の顔をまっすぐ見た。何かに挑むように、
「圭太、好きな子がいるんだって。ずっと……ずっと好きな子。」
二人の間に、ピリリとした空気が流れた。杏奈の視線は、七緒を突き刺すかのように鋭い。
束の間の沈黙。破ったのは七緒だ。
「……どうして、私にその話を?」
すると杏奈が、次の瞬間、「あははっ。」と笑った。
緊張を孕んだ空気が、寒々しく揺れた。
「だって、好きでしょ? 水無さん、圭太のこと。」
「は……?」
杏奈の一言に、七緒は口をポカンとあけたまま、固まった。
しかし、杏奈はそんな七緒などお構いなしに、
「だから、教えておいてあげようと思ったの。」
可愛く立てた人差し指を、口元に当てて言った。
「ね、さっきの言葉の意味、分かるデショ?」
杏奈は、ベンチから立ち上がるとくるりと振り返って、小首をかしげる。
髪の毛とスカートが、連動するように、ふわりと揺れた。
「圭太には、ずっと好きな子が、いるってこと。私が、中学1年で告白した時点で、ずぅっと好だった子が。圭太、今もその子のことが好きなんだって、この前、言ってた。だから、ね………?」
杏奈は、そこで言葉を切った。
これ以上は、言わなくてもわかるだろう、とばかりに。
七緒だって、馬鹿じゃない。
七緒と圭太は中学1年のときは、顔見知りですらない。
だから、杏奈が言外に含んだことの意味くらい分かる。
つまり、
ーーーあなたのことなんか、好きにならないわよ。
それが、杏奈の目的。
わざわざ、七緒を呼び出してまで、自分のフラレた話を告げてまで、言いたかったこと。
「多分ね、圭太の好きな子は、アメリカにいるんだと思う。今は、遠くにいて、ほとんど話せないって言ってたから。でも、圭太は、その子のこと、絶対に諦めたくないんだって。」
小首を傾げた杏奈は、憐れむように微笑む。慈悲深く。やや色素の薄い髪の毛が、陽の光で、キラキラと焦げ茶色に輝いていた。
でも、七緒は、さっきまでのように、手放しで、杏奈のことを可愛いと思えなかった。
可愛い。
けれど……少し冷たい。
そう感じてしまうのは、私の心のせいなのかしら。黒くて嫌な感情が、シミみたいに、七緒の心の中に、ポタッと落ちた。
七緒は思わず、セーラー服の裾をキュッと握った。心の中にシミみたいに広がった嫌な気持ちは、指先で白い布を扱いているうちに、少しだけ薄まった。
なぜ、こんな気持ちになっているんだろう。本郷のことなんて、私とは何の関係もないのに。
そもそも、嫌いだったはずなのに。
そうだ。
本郷なんて、何の関係もないじゃない。
「圭太は多分、中学を卒業したら、アメリカのハイスクールに行くと思うんだ。だから………」
「そんなこと、教えてくれなくても大丈夫だけど。」
七緒は、杏奈の言葉を遮った。意図したより早口で。
「私と本郷は、同じ委員をしているだけで、別にそんな関係じゃないよ。」
おかしなこと言うのね、とわざとらしいほどに呆れた顔で笑ってみせる。
喉の奥に舌が張り付いて、声がうまく出ない。これは、多分、緊張。
きちんと誤解を解かなくちゃ。
その気持ちが、七緒の心を焦らせているだけ。
「だから、本郷の好きな子のこととか……もう、勝手に他の人に言わないほうがいいよ。」
だって、それって失礼でしょう?、と七緒が言うと、杏奈は一瞬、綺麗なピンク色の唇をキュッと尖らせた。
だが、すぐに、いつものかわいい顔に戻って、
「そっか。」
大きな瞳を申し訳無さそうに伏せた。
「そうだよね。ごめんね、おかしなこと言って。水無さんのために、良かれと思ったんだけど……。」
甘い声で、「余計なこと言っちゃった」と、髪をかきあげる。
「ごめんね。変なことで呼び止めて。私、もういかないと。」
それだけ言うと、くるりと踵を返して、去っていった。
杏奈を見送り、一人でベンチに残った七緒は、すぐに立ち上がる気力がなかった。
別に、落ち込んだわけじゃない。
フラレたとはっきり言い切った杏奈は、その言葉とは裏腹に、本郷に対する強い執着を全身から放っていた。
七緒はただ、その気に当てられて疲れただけ。
本郷には、ずっと好きだった子がいる。今は離れ離れでも、諦められない程に好きな子。
だとしたら、私と本郷の距離は、近すぎるんじゃないだろうか。
毎朝、僅かな距離とはいえ、時間を合わせるみたいに一緒に登校したり、夏休みにわざわざ、二人で会ったり。
本郷との距離感を考え直したほうがいい、と思った。
親しくしすぎるのは、良くない。本郷にとっても、自分にとっても。
でも、七緒は、どうしてそれが「自分にとって」良くないことだと思ったのか、深く考えることはなかった。