凋落頻伽
39作目です。8月になりました。夏休みを利用して鎌倉に行きたいのですが、今は少し無理がありそうですね。
1
テレビがカラーになったのは驚きだった。人工の色彩に感動するとは思わなかった。モノクロも美しいが、その美しさは格差を埋めるのには足りなかった。結局、人は美学よりも利便性を取るらしい。浅ましいことだと思いつつも受け入れてしまう懐の甘さが憎たらしい。
社会が鮮やかになった頃、前江進吾は高校生になったばかりだった。センシティブな年頃だった彼は人間の技術の進歩に圧倒された。同時に不安になった。限界という付き纏う壁は近いと。
そんな頃、カラーになったテレビの内側ではひとりの新進気鋭のアイドルが注目されていた。名前は伽子美で、それだけが名前だった。彼女の歌声は「女神」や「天女」と讃えられるほどに素晴らしかった。人工の技術を透過しても、自然の素朴さを失わない彼女の歌声は、流行りに鈍感な前江青年の耳にも音速で飛び込んで来た。
それは革命という言葉で表せば的確だった。音楽というものに興味のなかった前江青年は、彼女の一声で目覚めた。己の立ち入ってこなかった、無縁だとばかり思い込んでいた世界の鍵を開け、その扉を易々と押し、絶えず音の響く世界へ踏み出した。
詩作に耽っていた彼はそれすら放り出し、高校を卒業すると彼女のいる業界の門扉を叩いた。最初は無名の男性アイドルのマネージャーを任された。このアイドルは前江がマネージャーに就いて数ヶ月後に傷害罪で逮捕された。それにより前江は管理不足だと責められ、傷ついた。
駅前の巨大モニターから流れる革命的な美声に嘆いた。自分は彼女に届きそうな場所にいたのに、無名のアイドル気取りなんかに立場を追われたのだ。管理不足などではなかった。管理をさせてくれなかった。
アルバイトで日々を繋いでいたが、口から出るのは半壊した「いらっしゃいませ」と「すいません」、それと朝昼晩の欠伸だった。
古呆けた電気屋で埃を払う毎日だった。幾つものモニターから流れてくる彼女の歌声だけが日々を潤わせるファクターだった。彼女の声がなければ、とっくに果てていたかもしれない。
ある日の仕事帰り、疲れていた前江はそれを吹き飛ばすように歌った。それも夜に沈んだ街の中で。
その時、偶然声を掛けてきた人間がいた。それが谷口慧丞だった。彼はギターが趣味で、バンドを作ろうとしていたのだ。そして、偶然、街で適当に歌っていた前江の声を聞いて、バンドの勧誘をしたのだった。
この谷口のギターの腕前は大したもので、名のあるインディーズバンドのメンバー代理を務めるほどだった。
後に谷口の友人の藁肥巡がドラマーとして、成芹耀太郎がキーボードとして加入した。彼らは音大の生徒で、その技能はアマチュアバンドには勿体ないくらいだった。
そして、谷口をリーダーとして「伽藍堂」というバンドを結成した。寄せ集めのメンバーだったが、不思議と調和し、次第に人気を集めていった。作曲は成芹が、作詞は前江が行った。この頃、彼は放り投げていた詩作を復活させた。大人になったことで垢抜けた詩が書けるようになっていた。詩の内容こそ無茶苦茶だと作者の前江でさえも思ったが、成芹の音楽と組み合わせることで独特なハーモニーを形成したのだった。
伽藍堂は数々の「箱」での経験を経て、ついにはテレビで歌声を披露するまでに成長した。前江も谷口も誰も予想していなかった成長だった。伽藍堂に挫折という言葉は見えなかった。とても生意気なバンドだったと思うし、出てきた杭は叩こうという動きもあっただろう。
しかし、伽藍堂は大したスキャンダルもなく、平穏無事に歌を作り世に出し続けた。メンバーの誰もが、それをできているのを不思議がったが、誰も理由はわからなかった。
わかったのは、ある年の大晦日だ。メジャーデビューを果たして、さらに安定した軌道を着実に進む伽藍堂に、大晦日特別ステージ出演の声が掛かった。出演はかなり後半、あと三十分で年を跨ぐ頃だった。そして、その時に同じステージに立ったのが、あの「天使」だった。
実物を見て、その声を聞いた。どうしてあれほどに甘美で神々しいのか、彼女には人智を超えたものがあった。同じタイムテーブルで歌ったが、やはり前江は自分の声が彼女の影に呑まれてしまうことを自覚した。
「鳥は眠らず、陽に俯く」
その日、彼女が歌った曲の一節だ。
彼女は自分で作詞作曲をしているそうで、その繋がりで前江は彼女と話を弾ませた。そして、互いに作詞して、提供し合うという試みをした。
「ロンダラ、酩酊の街へ」と前江が歌った。
「夢にまで見た奈落で」と伽子美が歌った。
この試み以降、伽藍堂と伽子美は急速に距離を縮め、一緒にライブをすることも多くなった。伽子美は世間的にはアイドルという括りだったが、実際はシンガーソングライターで、アイドルのような柵に妨げられてはいなかった。
前江青年が夢見た歌声は、今や人工の音声ではなく、自然のものとして聞くことができるようになった。前江もここまでの成功は期待してはいなかった。あの時に逮捕された無名のアイドルに感謝しなくてはならないかもしれない。それで立場を追われなくては、きっと、このステージには立てなかったからだ。
伽藍堂から伽子美に曲を提供し、伽子美も伽藍堂に曲を提供する。この関係は長く続いた。
両者とも、常にCD売上ランキングの上位に名を連ねるようになった。前江は伽藍堂と伽子美のためにしか詩を書かなかった。前江なりの礼儀のつもりだった。
最初に曲を提供してから七年が経過した頃、伽子美は結婚した。世間は宛ら葬儀のようなムードになった。それほどまでに彼女の人気は凄まじかった。同時期、伽藍堂ファンの間でも葬儀のようなムードが漂った。何故なら、ギターの谷口が結婚を発表したからだ。相手は伽子美だった。週刊誌などには、前江との交際が伝えられていたが、いざ蓋を開けてみると、そこに前江はいなかった。
「谷口結婚で伽藍堂内部分裂か?」
そんな見出しを何度も眼にした。
確かに、前江は伽子美のことが好きだった。いや、神様のように崇めていた。それはそこらの愛なんて言葉では書けないような愛だ。故に、前江は畏敬の対象である伽子美と交際なんてしようとは思わなかった。そんな烏滸がましいことが許される筈はないと思った。
「美しいものには触れてはいけない。壊してしまった時に責任を背負いきれないから」
前江は後年のインタビューでそう語った。
ふたりの結婚後も互いに音楽活動は精力的に行った。合同での活動も増え、前江的にはこの頃が最盛期だったと思えるのだ。
前江は愚直に作詞を続けた。年を重ねる毎に廃れる感性と、さらに研ぎ澄まされる感性があり、それでも中心にある感性は不変のままだった。表層のみが、死んだ皮膚のように剥がれ、それでも深いところは変わらない音楽を世に出し続けた。
前江は歌は勿論、作詞家としても名を知られていた。大御所の歌手にも作詞を依頼されるくらいには成長した。自分は樗櫟だとばかり思って、まさにぼんやりとした不安を抱えていたが、そんなものはもうなかった。
「衣食住の中なら音楽を取る」
前江はいつもそう言っていた。見兼ねた谷口や伽子美が扶養を申し出るくらいには作詞を生活の優先としていた。前江は人気になっても質素な生活をしていた。彼は自分の分け前は充分に取らず、メンバーに分配していたからだ。
「自分の我儘に付き合ってくれているのは彼らだ。共感のできない歌詞もあるだろうけれど、彼らはそれを褒めてくれる」
インタビューで前江はそう語った。前江は、自分の存在は眼に見えないのでどうでもいいので、眼に見える仲間を助けたいという考え方をしていた。伽藍堂が長く続いたのもその考えがあったからだろう。
ふたりの言葉は同時代をゆるりと生きて死んでいくものだと思っていた。それが理想だった。しかし、悲劇というものは何処にでもトリガーがあるもので、今回も糸は不用意に引かれた。
静まり返った夜の都市の隅で、谷口慧丞は死んだ。刺殺だった。鈍の出刃包丁で何度も腹や胸を突かれて、血を大量に流して死んだのだ。現場は、それはもう凄絶だったらしい。
妻の伽子美も重傷だった。彼女は喉に一撃を食らっていた。何とか命は繋がれたものの、彼女は声を失った。あの「女神」と呼ばれた甘く美しい声は何でもない夜のワンシーンで唐突に失われたのだ。
犯人はすぐに捕まった。琴原海陽という五十代半ばの男だった。安定した職業はなく、独り身。逮捕時、胃癌を患っていた。すぐに裁判は行われ、世間の注目を集めた。何せ、時代の寵児である谷口と伽子美が被害者だからだ。裁判に前江も出席したが、第一印象は非常に弱々しい男という感じだった。琴原は胃癌で残りの寿命を憂いてか、裁判なんてどうでもいいという感じだった。
「愛する伽子美が他の男の手に渡るのが気に入らなかった」
裁判において、琴原の目立った発言はそれのみだった。前江の横の成芹が琴原に怒鳴ったりする場面があったが、彼は意に介さずといった風に裁判長の方を真っ直ぐに見続けていた。
裁判は不気味なほど淡々と続いた。琴原側の弁護士も負け試合だと割り切っていたのか、雑さ加減が露骨にわかった。
結局、琴原は第一審で控訴することもなく、宣告された刑を受け入れた。それの細かい年数を前江は憶えていないが、琴原が寿命を終えるのには充分な時間だったと記憶している。
伽子美は療養のため、裁判には出席しなかった。そうでなくても、自分と自分の夫を引き裂いた男なんて見たくもないだろう。
愛ゆえに殺すというのはお門違いだと前江は思う。そういう歌を書いた。けれど、谷口がいないから歌詞だけの形骸のままだった。
谷口亡き後、伽子美は実質的に伽藍堂のメンバーとなった。谷口の代わりに作曲を担当し、ライブでは谷口の代わりにギターを弾いた。
その後、伽藍堂は十五年続いた。メンバーも年老いたし、何より前江が才能に限界を感じてしまったからだ。
「天の谷へ、ラゥ、ラゥ、待つ貴方の元へ」
これは前江が最後に書いた歌詞の一節だ。タイトルは「無題」で、メンバー全員で作った唯一の曲だ。
ラストライブでは過去最大の動員数を記録した。前江も過去一の調子でライブを終えることができた。
カラーテレビの向こうの景色に憧れていた青年は、今、その景色に立っているのだ。どんな技術を媒介しても再現できない景色。そこは余りに色鮮やかで胸焼けを起こしそうだった。傲慢にも自分たちが世界の中心だと思えてしまうような景色。
現実とは思っていたよりも前向きらしい。
ラストアルバムは「伽藍堂」。グループの名前を冠したそのアルバムは、売上ランキングのトップに数ヶ月間ずっと居座っていた。
「人生は彩れるものなんですね」
ラストアルバム発表後のインタビューで前江はそう言った。このインタビューを最後に「伽藍堂」のメンバーは姿を消した。
「ラゥ、ラゥ、夢に舞って落ちて、ロァ、ロァ、嘔吐の限りではなくて、私は頻伽、声を失くすまで秒読み」
前江はそんな詩を綴ったが、もう何処にも出す場所はない。
時間は急に緩慢になり、前江の前に立ちはだかった。絵を描けど、詩を綴れど、何かが欠如している。
前江は琴原に会うことにした。衰弱こそしているが、まだ会話は可能らしい。しかし、機会を逃せば会話はおろか、会うことさえ叶わなくなる。琴原に会うことで何かが埋まるとは思えなかった。それでも、会うことにした。彼が人生を懸けて綴った詩の解釈を求めるためだ。
春の息吹が騒々しくなってきた頃、前江は琴原の収容されている病院に赴いた。事前に許可は得たのだが、まさか、琴原が面会を受け入れると思わなかった。
病室に通されると、琴原はベッドで横になっていた。十五年前と大して風貌の変化が見られなかった。
「久しいね」
琴原はそう言った。
「ええ、久しいですね。身体のお加減は?」
「悪いよ。生きているのが不思議だ。あのギターの男に呪われているのかもしれんな」
「谷口はそういう男ではないですよ」
「わからないもんさ」
琴原は鼻を鳴らした。裁判で見た時よりも饒舌なようだ。
「今日は何の用かな。……確か、あんたらのバンドは解散したんだろ? テレビで知ったよ」
「はい。解散しました。自分の才能が枯渇したことがわかりましたので、もうメンバーの人生を動かすのは止めよう。そう思ったからです」
「いい決断だよ」
「それで今日は……あなたに質問があって来ました」
「質問? 何であんなことをしたのかって?」
「まぁ、ざっくり言えばそんなところです」
「そうか。思ったよりも普通なんだな」
「私も一般人ですから」
琴原は前江の顔を見ると微笑んだ。
「そうか、そうだね。おれの方が一般人じゃないのか」
「早速、質問しても?」
「いいよ。いつでも」
「では……、月並みな質問ですが、何故、あんなことを?」
「ははは、本当に月並みだな。それは裁判でも言っただろうけど、愛する伽子美が結婚したのが許せなかった。遣り場のない憤怒をぶつけるのには実際に傷つけてしまうのが一番だった。ちゃんとふたりの帰路も調べたよ。人気スターだってのに歩いて帰るなんて無防備だよな」
「私もそう思いますよ。えっと、それだけですか?」
「他に理由を添えた方がいいか? 愛するものを汚したくないってのは罪を犯すのには立派な理由だと思うがね」
「それなら、何で伽子美の喉まで切りつけたのでしょうか」
「……あぁ、確かにな。そう言われたら何も言えんね」
「では、まだ理由があるんですね?」
「……そうだな。なぁ、ところでさ、あんたはもう時間が有り余ってんだろ? だったら、その時間を少しでも潰すのに手を貸すよ」
「というと?」
「……伽子美は元気か?」
「さぁ? 解散してから会ってませんね」
「そうか。偶には会ってやってくれ」
「わかりました」
琴原とは約三時間面会した。前江が帰る時、琴原は「伽子美に会うことがあったら、もう少し手があったと伝えてくれ」と言った。
「わかりました」
二度と会うことはないだろう。そう思いながら病室を出た。
2
今更、テレビがモノクロに戻ることは可能だろうか。そんなことを思いながら未舗装の道を歩いていた。都市から遠く離れているのは、やはり、人との接触を極力避けたいからだろう。森の奥、ひっそりと佇む洋館に伽子美は住んでいる。この洋館は十年以上前に伽子美が作品製作で籠るために買ったものだ。
館の近くはまるで侵入者を拒むかのように凹凸が多く、岩も多く転がっている。車での行き来は不可能だろう。前江は息を切らしながら、何とか鉄製の門の前に辿り着いた。事前に来ることは伝えてあるので、門に付属する装置にパスコードを打ち込んで、中に入った。
庭には寂しいことに花などはなく、ただ、綺麗に刈られた芝のみが広がっていた。彼女が整備の面倒さを憂いて植えていないのか、単純に花に興味がないのか。恐らく前者だろう。
無駄に大きなドアの無駄に大きなドアノッカーを叩く。これで本当に伝わるのか不思議に思う。少し待っているとドアがゆっくりと開いて、若い女が顔を出した。喉に縫い傷のある女だった。
「前江進吾です」
彼が名乗ると女は彼を中に入れた。
少し黴臭かったが、それもまた創作のエッセンスだろう。
女中だと思われる女は何も喋らず、淡々と前江を案内した。螺旋階段を上り、二階へ。そこは薄暗く、洞窟の中にいるように思えた。
女中はひとつの扉の前で止まった。
「あなたも声が出ないんだね?」
前江が訊ねると女中は頷いた。そして、ドアを叩き、少し間を開けてドアを開くと、ハンドサインで何かを伝えた後、前江に入るように促した。女中は前江を入れると、そそくさと消えてしまった。
通された部屋は非常に簡素なインテリアをしていた。安っぽい赤い絨毯に、色褪せた壁紙。少しだけ凝った造りの鏡台と机。明るいのは窓際のベッドの傍だけだった。そのベッドに彼女は腰掛けていた。
「久し振りですね」
彼女はにこやかに頷いた。
「お変わりないですか?」
彼女はベッドの脇にあったキーボードを操作した。すると、不器用な声が上から聞こえてきた。どうやら「はい」と言ったようだ。前江は思わず笑ってしまった。
「失礼。先駆的な技術ですね」
「でしょう? 今からは機械が歌う時代です」
「機械が、ですか」
「はい。人間よりも正確に歌うでしょう」
彼女がキーボードで打つ時間がある分、会話に間がある。
「でも、心だけは入力できませんね」
「仕方がないことです。それすらも可能なら人間は不要です」
「そうですね」
前江は頷いた。扉が開いて、女中がコーヒーを運んできた。
「ありがとうございます」
「ありがとう、早生さん」
女中が部屋を出て行った後、前江は訊ねた。
「彼女はどういう素性なんですか?」
「詳しくは知りませんが、喉の病気を患っているそうです」
「そうなんですね」
「他のメンバーは元気ですか?」
「さぁ、解散した後は会ってませんからね。死んだって話は聞かないから、少なくとも元気に暮らしてはいるのでは、と思います」
「そうですか。歌を提供し合った日々が懐かしいですね」
「まだ詞を書いたりしてるんですか?」
彼女ははにかみながらキーボードを操作した。
「はい。未練がましいですよね」
「いえ、私も書きますから。世に出すわけでもないのに。時間ばっかり余ってますから、何かを書かないとやってられないのですよ」
「お互い暇なんですね」
彼女は微笑み、口を動かした。何と言ったのかはわからなかった。
「ところで、態々どうしたんでしょうか? こんな辺鄙なところまで出向いたからには、何か理由があるのでしょう?」
「勿論。……思い出したくない話になるかもしれません」
「構いません。準備はできています」
「私は琴原と会いました。そして、あの日のことを訊ねました。何故、伽子美と谷口を襲ったのか、それを訊ねました」
「それで?」
「裁判で述べたことと同じでした」
「そう」
「でも、何か隠してるようでした」
「隠してる?」
伽子美は首を傾げた。
「はい。それはあなたに関してのことです。取り敢えず、先に伝言を伝えておきましょう」
「伝言?」
「はい。もう少し手があった、そう言っていました」
「そう」
伽子美は眼を押さえた。
「私の推測ですが……、琴原海陽はあなたの保護者だった時期があるのではないでしょうか? 血縁はないでしょうけれど」
伽子美は涙を流しながら頷いた。
「ありました。私が小学生の頃でした。琴原は母親の内縁の夫でした。不器用ですが、優しい人なんです。私が歌手になった時も真っ先に喜んでくれたのは彼でした」
「そうだったんですね……。しかし、どうしてあんな凶行を?」
「不器用な人でしたからね。私が自分の限界を感じて引退を相談した時、世間が認めざるを得ない引退にしたいと私が言ったからでしょう。慧丞は完全に巻き込まれた形になってしまいますが……」
「世間が認めざるを得ない引退ですか……。それが首を掻き切って声を失うことですか。下手したら死んでたかもしれませんよ」
「そうですね。でも、私がそう頼んだのです。最悪、私の死による引退でも構わないと」
「過激ですね」
彼女は涙を拭って微笑んだ。
「迦陵頻伽って知ってるでしょう?」
「ええ。天界にいる半身が人、半身が鳥で美声を出す生物ですね」
「私はそれになれなかった。こうして落ちてしまったのだから」
「落ちてしまうのは生き物ならば当然のことです。でも、そんなに気にはしてないんでしょう?」
彼女はよくわかるね、という顔で前江を見た。
「そう。さっきも言ったけど、ここからは機械が歌う時代。私が歌えなくても、私の言葉は機械が歌ってくれるのよ」
「その活動はもうしてるのですか?」
「準備中。詩は書いてるけれどね。そうだ。進吾くんが書いた詩を見せてくれないかな」
「いいですよ」
前江はバッグを漁った。そして、詩を記した紙を取り出して彼女に渡した。彼女はそれを受け取ると微笑んだ。
「何か変ですか?」
「いえ。進吾くんらしいなって。ねぇ、歌ってみてよ」
「いいですけど、伽子美さんや谷口みたいに作曲できないんで、聞き苦しいかもしれませんが……」
「いいよ」
「ギターを貸して下さい」
前江がそう言うと、伽子美はベッドの傍からギターを持ち上げて彼に渡した。ギターを軽くチューニングして、前江は歌い始めた。
「君を射る光は時間の徒人、ラゥ、ラゥ、騒々しい未来へ、ロァ、ロァ、単調のままで、夢で射る飾り羽の空は、リァ、リァ、眠気に吸い込もう、レゥ、レゥ、逆さまの風の色、街は平然と進んでいく、街は平然と進んでいく、ラゥ、ラゥ、夢に舞って落ちて、ロァ、ロァ、嘔吐の限りではなくて、私は頻伽、声を失くすまで秒読み……君を射る言葉は欠損の月、ルォ、ルォ、鳴り止まぬ声、レィ、レィ、アパシーな明滅を、君がいない夜の淵に座る、ラァ、ラァ、無意味な詩と音楽で、ロゥ、ロゥ、正常を教えて、街は緩慢に廃れていく、街は緩慢に廃れていく、ラゥ、ラゥ、夢に舞って落ちて、ロァ、ロァ、嘔吐の限りではなくて、私は頻伽、声を失くすまで秒読み……ラゥ、ラゥ、夢に舞って落ちて、ロァ、ロァ、嘔吐の限りではなくて、私は頻伽、声を失くすまで秒読み、ラゥ、ラゥ、私は頻伽、また来る筈の朝を待つだけ、また来る筈の朝を待つだけ」
前江は澄んだ声で歌い上げた。伽子美は笑顔で拍手をした後、キーボードを操作し、「進吾くんらしい歌詞だね」と言った。
「ありがとう。でも、伽子美の書く詩も参考にしたんだ」
「わかるよ。ありがとう」
彼女は立ち上がると、部屋の隅にひっそりと置かれたピアノのところまで行き、椅子に腰掛けた。蓋を開けて、鍵盤に指を置き、爆発したように弾き始めた。それは曲作りに没頭している時の伽子美だった。前江はその姿に離愁を感じた。あの日々が戻らないことなんて、すっかり納得していたし、そもそも諦めていた筈なのだ。なのに、今は何かが溢れ出しそうになっている。
伽子美の指が鍵盤の白と黒で跳ね回っている。まるで穢れを知らない子供のように、或いは落ちることを知らない鳥のように。
前江はピアノから眼を反らして立ち上がり、光を取り込んでいる窓の方に寄った。窓から外を覗くと深い森が広がっていた。こうしていると春愁に囚われてしまいそうだと思った。
ピアノの音が部屋の中を揺らしている。彼女が弾いているのは、前江の作った曲のリメイクだろう。即興で作ったとするなら、才能なんて全く衰えていないだろう。
彼女は弾き終わると、ベッドの方に戻り、キーボードを操作した。
「どうだった?」
「相変わらずのセンスだ。才能の衰えなんて見当たらない」
「それは進吾くんだって同じ」
「それはありがたい。私たちは才能が枯渇した時点で、ただの人になってしまいますから」
「あの曲、タイトルは?」
「言ってなかったですね。あの曲は『凋落頻伽』と言います」
「『凋落頻伽』ね。もしかして、私?」
彼女は悪戯好きの子供のように微笑んだ。前江はゆっくりと頷き、「そう、あなただ」と言った。
「いいタイトルね」
「ありがとう」
「……」
「やっぱり、もう一度、音楽を作りたい?」
「え?」
「顔に出てるよ」
「うん……そうですか……」
前江は額を掻いた。自分という人間も丸くなったものだ。ポーカーフェイスには自信があったのだが、随分と下手になっているらしい。
「作りたいけれど、一度消えたものがのそのそと表舞台に出るのは恥ずかしいとも思うのです。特にあなたはそれでいいのですか?」
「確かに、自分の表舞台からの抹消を望んだ身として、『もう一度』なんて言葉は言えませんね」
彼女はキーボードをカタカタと打ち続ける。
「そこで提案です」
「提案?」
「私たちの音楽を機械に歌わせませんか? 別の名義で、作曲は私、作詞は進吾くんで」
「……なるほど」
前江は顎を擦った。
「ナイスなアイデアだと思います。残りの余りに余った時間は、そこに注ぎ込んでみますよ。では、早速、『凋落頻伽』を完成させましょう」
「はい!」
『凋落頻伽』は約一週間後に完成し、広がりを見せる電子の海に投下されて、拡散された。
カラーテレビに憧れていた青年も今や余生を楽しむ歳までやって来た。電子の海で音を流し続ける彼らの分身が表舞台に出るのは、もう少し後のことだが、それを語るほど饒舌ではないので控えておこう。