7. そして俺は再び戻る。
「ここだ。一応オレの隠れ家として使っているが。」
「……いや、家と言うか。洞窟じゃん?」
「うるさい。あの出口の外に放り投げられたいのか?」
俺達がピエルが言っていた目的地に着いたのは、地下通路に入ってから三十分が過ぎた頃だった。
端子を登って地下通路を抜けた先はまたも洞窟と言うべきか。
洞窟というよりは崖の中に出来ている小さな穴が正確だろう。
穴の出口が直ぐそこに見えるほど短い洞穴だが、妙に生動感を感じられるというか、こんな所でもちゃんと人が住んでいるとわかるような温もりを感じられる。
所々に本や食糧に見える食べ物達が置いてあるし、ランプもあって夜にもかかわらずこの穴の中を密かに照らしている。
足下には獣の毛皮みたいな物が敷いてあり、厚い布団みたいな布が隅っこに置いてるあたり、どうやら保温対策もちゃんと出来ているらしい。
「へえ~、いいなぁー。どこか落ち着いていて、良い場所じゃないか。」
妙に心が浮き立ってしまう。
確にここは洞穴の中だけど、生活できるように整えているし。
まるで子供の頃にこっそり作った秘密基地を見ているかのようだ。
それとも、キャンピングに来た感じと言うべきかな。
小さな洞穴を自分の部屋のように飾った場所かー。
うん、本当に自分だけの場所という感じがして童心に帰ってしまうな。
心に来るものがある。
「ふん。見え見えの言葉はやめろ。気色悪い。」
「何言うんだよ~!ホントに感嘆しているんだぞ?秘密の場所という感じでいいじゃないか。なあ、シルフィ?お前も良いと思うだろう?」
「うん!」
俺に続いて床に作られている隠し扉から抜け出したシルフィが力強く頷く。
興味深そうにこの秘密基地の中を観察している様子を見るに、どうやらこの子もこの場所が気に入ったらしい。
俺とピエル、そしてシルフィまで全部子供だからな。
こんな夜中にこういう場所にいると、昔、秘密基地で友達と遊んだことを思い出し、懐かしさすら感じる。
……まあ、俺は見た目だけ子供で、中身はおっさんだけどね。
「……そ、そうか。まあ、うむ。」
俺達の反応を見て嬉しいのか、またピエルの耳が赤くなっている。
こちらからプイッと顔を背いてしまったが、きっとニヤニヤしているに違いない。
こいつもやっぱり子供なんだな。
並の奴ではないとは思ったけど、こういう反応を見るとそう感じざるを得ない。
「それにしてもここは……、また絶壁の中に出来てる穴なのか?」
この隠し家の出口から夜空が見える。
しかもかなりの高度だとわかるほどの風景が広がっているのだ。
真っ黒な中、暗い空色が微々に混じっている空。
緑の密林が壮大に広がっている地平線。
それらが合わせ鏡のように向き合っている光景はまさに絶景だ。
俺は高い所が苦手だがこういう景色はきっと高い場所ならではの物だろうな。
それに高度からこそ味わえる新鮮な風も出入り口を通じて入り、この空間を満たしている。
ここが崖のど真ん中にいる洞穴だとわかるのは難しくない。
「ああ。この島が険しい山脈で出来てるせいなのか、絶壁や崖の中にこうした小さな空間が作られている場合が多い。自然的に作られた物だけでなく、人為的に作られた事も含めてかなりの数だ。待避するための空間として作ったのだろう。今通った地下通路とも全て繋がっている。」
「なるほど……。」
ようやく合点がいった。
絶壁の中にできている洞窟のような空間。
そしてそれらと繋がっている地下通路まで。
シルフィが捕らわれていた、あのカルト宗教の基地にも似ている隠し通路があったと思ったが。
そういう経緯ならば頷ける。
この待避用の場所は遠い昔から作られていたようだし、あの一族はその内の一つをアジトとして利用していたのだろう。
またはそれらに着眼して、似たような場所を作ったのか。
まさか絶壁のど真ん中に待避用の隠れ場を作るとか、中々変わった事を考えるものだ。
これも殆んどが山脈でできているセピア島ならではの特徴だろうか。
「……なあ、ピエル。ここが絶壁の中にできている空間なら外に出るのは難しくないか?」
「その心配はない。この地下通路もあるし、この中からはよく見えないが、あの出入り口はちゃんと道と繋がっている。崖の壁面に出来ている細い道だから、危険な事は否定できないが。さすがに道も何もなく、壁のど真ん中に避難所を作ったりはしないだろう。」
それを聞いてシルフィを助けた時、あの絶壁の壁面で階段があったのを思い出した。
……なるほど、そういった道がここにもあるという事か。
高所恐怖症がある俺としてはまたそのような経験は真っ平ごめんなのだが、背に腹は変えられない。
「シルフィ。」
「うん!」
名前を呼ぶと、ここに着いてから不思議そうに色々触っていたシルフィが目を光らせながら俺に近付く。
どうやら、名前ができたのがよっぽど嬉しかったようだ。
俺がシルフィと呼ぶ度に、子犬のように満面の笑顔で走ってくる。
ちょっと可愛い。
「ここで待っててくれるか?俺はピエルと話してくるからさ。」
「……。」
シルフィの目が少し憂鬱になる。
首を傾げながら静かに見つめてくるあたり、ほぼ間違いなく'一緒に行ったら駄目?'と聞いてるな、これは。
「ごめんな。すぐ帰ってくるからね。大事な話なんだ。」
「……うん。」
「よしよし、ちゃんと我慢できて偉いぞ。」
シルフィの頭を撫でながら褒めてやる。
サラサラとしていて、やっぱり綺麗な白金髪だとつい思ってしまう感触だ。
「じゃあ、ピエル。悪いが話に付き合ってもらうぞ。お前も言いたい事があるだろう?」
隣でずっと俺とシルフィを観察していたピエルがその言葉を聞き微妙に顔を歪む。
やっぱりというか、こいつにとっても決して看過できないものがあるのだろう。
ならば、俺との会話を拒むはずもない。
……正確にいうと、会話ではなく交渉というべきだろうけどな。
「ああ、付き合ってやる。それにしても……。」
「うん?どうした?」
「……慣れているな、貴様は。やっぱり経験からか。」
腕を組み壁に背中をつけながら立っているピエルが、何かと意味不明な事を言い出した。
一瞬、何を聞いているのか理解できなかったが、ピエルの目が俺の隣でくっついているシルフィに向けているのを見て気付く。
成る程。
どうやら、シルフィに対しての言葉や仕草を見てどこか慣れていると判断したらしい。
珍しいと思うのは無理もないだろう。
なにしろ、アイツはカイルという少年をあのゴロツキ共の仲間と思っているからな。
ずっと嫌悪していた傭兵見習いが子守りに慣れているように見えるとそりゃまあ、不思議がるだろう。
「まあね。以前にもこういう経験はあった訳だし。」
「……そうか。」
うん、小さい頃、何だかんだと妹の世話は殆んど俺が焼いてやったものだ。
父さんと母さんは二人とも夜遅くまで仕事をする場合が多かったので、俺が妹の面倒を見る場合が多かった。
シルフィに対しての言動が慣れていると思うならきっとそれが原因なんだろう。
……アイツも小さい頃は可愛かったし、よく懐いたのにな。
お兄ちゃん呼ばわりしてよく俺に付きまとったが、中学生になってからは全然懐かなくなった。
呼び方も兄貴呼ばわりになったし、何かよく怒るようになったし。
それでいて時々には鳥肌が立つほど甘えてくるし、ホント訳がわからない。
「シルフィはそうなったら駄目だぞ?」
「?」
俺が少し憂鬱になって呟くと、シルフィは小首を傾げて俺を見上げる。
この子も後であの妹のように生意気になるのかと思うとちょっと怖くなる。
まあ、ここに来てからはそれもちょっと懐かしく思うようになったけど。
……とにかく、いつまでもこういう話をしている場合ではない。
残された時間は少ないのだ。
このピエルと話をつけないといけない。
やるべき事は山のようにあるのだから。
***
「それで、話とは何だ。わざわざあのシルフィという子を遠ざける真似までして。」
あの秘密の隠し穴から抜けて、何とか絶壁にある小さな道を辿り頂上に立った直後、ピエルがすぐに話を持ちかけてくる。
俺は少し夜風に当たりたいというか、また手すりが全くない道を登ったせいで心臓が爆発しそうなのに、何とも元気な事だ。
……それにいい加減、これ以上はキツイ。
傷の痛みが段々酷くなっていて正直今直ぐ座り込みたい。
「……少しは休憩してから話をしてもいいだろうに。せっかちな奴だな、お前は。」
「時間を無駄にしたくないだけだ。貴様もそれぐらいは……。」
ピエルの声が途中で止まる。
どうしたかと思うが、そこを見ることはできない。
……っていうか、もう立つこともできないのだ。
近くにいる木の下に座り、ずっと我慢していた息と共に呻き声を出す。
今まではシルフィを心配させまいと我慢していたし。
この頂きに登る時は一歩間違うと落ちかねないので、ちゃんと歩むのに集中していたから何とか苦痛を誤魔化していたが。
もうそれもできなくなった。
シルフィはここの下にある隠れ家にあるし、ここまで来るともう落ちる心配もない。
となると、当然ながら今まで必死に我慢していた痛みが一気に押し寄せてくる。
「……おい、待て。まさか、貴様!」
慌てる足音が聞こえる。
それと同時にピエルが近く来る気配を感じる。
……おかしい。
きっと直ぐ近くのはずなのに、安心したせいか、それとも激痛のせいか足音がどこか遠く聞こえる。
俺が後ろの木に背をつけると、俺の元へ走ってきたピエルが腰を下ろし、俺を脇腹の方を見ては慌てて俺の服をまくり上げる。
その直後、灰色の少年は顔を青ざめて怒鳴っり出した。
「ッッ!この馬鹿者が!何故言わなかった!?傷を負った状態のまま、あの子を背負って来たのか、貴様は?!」
「……いや、流石に大げさだぞ。回復用のポ─ションも持ってきたし、これぐらいは何とかなるって。」
黄色くもねばねばしている水薬の瓶をポケットから取り出して少年を安心させる。
これはゲームでも結構使っていた代物だ。
まあ、ポ─ションの中では一番値段が安く、効果も微々だがそれでもゲームの初盤では体力を結構回復してくれる物として愛用していたな。
これがあるから、今まで黙っていてもよかったと思ったのだが。
何故かそんな俺と、俺が手に取っている瓶を見るとピエルの顔が酷く歪み始めた。
どうしようもなく怒りを感じ、それをどうやって放つべきか悩むかのような表情。
「ふざけるな!!」
「え……?」
ピエルが叫び出す。
夜空はもちろん、周りの森にすら広く響くほどの大声で。
灰色の少年はその緑の瞳を熱く燃えながら俺を睨む。
俺の脇腹の傷を再び見てからは、もはや子供とは思えないほどの迫力で圧迫してくる。
「馬鹿な事を言いやがって……!ポ─ションは万能ではないのだ!それはあくまで個人の自然治癒力を高める物であって、どんな傷も治せる物ではない!なのにも関わらずこれで大丈夫だと抜かしながら今までこれほどの傷を放置するとは……!正気の沙汰ではない!!」
「そ、そうだったのか。それは知らなかったよ……ごめん。」
余りの迫力に何の言葉も出せず素直に謝ると、ピエルが'くっ'と苛っとするような声を出し地面を拳で殴る。
……一体、この子はいきなりどうしたのだろう。
現実が色々とゲームと違う以上、今回はポ─ションの効果をちゃんと知ろうとしなかった俺の落ち度だけど。
そこまで酷いのだろうか、俺の傷は。
……服の中がどうなっているのか見るのがちょっと怖くなるんですけど。
「……何故、今まで黙っていた。これほどの傷で何故、あの子を背負うなどの無茶をする。」
「それは仕方かないだろう。あの子は口にしないけどもう本当に限界に近いのが見え見えだったし。それに俺が痛い素振りを見せるとシルフィが心配するだろうが。」
「……それだけの理由で、これほどの傷を放置していただと?」
ピエルが今にも殴りかかりそうな目で俺を直視するが、流石に今の事は聞き捨てられない。
傷の痛みを忘れてしまうほど、ちょっと頭が熱くなってしまう。
「'それだけ'ではないんだよ。お前も見ただろう。アイツは素直で純粋な子だぞ?なのに、自分を庇ったせいで俺が傷を負ったと知ってみろ。自分のせいだと自責して無駄に落ち込むに違いない。アイツはずっと苦しめて来たんだ。体力も疾っくに限界なのに、精神的にまで追い詰めたくないんだよ。」
そう、だからこそ今まで必死に我慢したのだ。
俺はあの子を預かる身だし、あの子と違って大人であり、成人だ。
責任をもって面倒をみると決めたのに、俺がアイツにとって憂いの元になってどうする。
「だが、それで貴様が倒れては元も子もないだろう。あのシルフィという子をそこまで心配するのなら、なおさら自分の身も気にする事だ。」
「だから大丈夫だって。確に痛みはずっと感じていたけどさ。こうしてピンピンと話しているし、そこまで酷くは……。」
何とか'俺は元気ですよ!'とアピールするため話していると、段々とピエルの目が鋭くなる。
どうやら過敏な反応ではなく、心から俺の状態を気にしているらしい。
……えっと。
もしかして脇腹の傷、本当に酷い状態なのかな?
医学についてある程度知識があるこの子が見ても?
「……一応、聞くけどさ。大げさも何もなく、本当に深刻?マジで?」
「ああ……。このまま放置すると命にもかかわる。今、貴様が大丈夫だと感じているのはあくまで魔力により傷が悪化する事を止めているからだ。」
「へ??」
いきなり魔力という、俺とは縁のない話が出てきて首を傾げてしまう。
この子は何を言っているのだろう。
「……何だ、その反応は。身体強化の一環というだけだ。単純に体を強化するのではなく、自然治癒力のような、体の内から動く作用を強化しているのだろう。それによって、傷が酷くなるのを何とか一時的に防いでいる状態だし、苦痛も緩和されているにすぎん。本来なら貴様は激痛で今のような強がりはおろか、まともに話せなくなっているはずだ。」
まさしく衝撃の真実。
病院で聞いたことのない病気だと医者に聞くときのような気持ちだ。
そういう経験はないけれど、例えるならそういう感じである。
俺の脇腹の方を注意深く観察しながら語るピエルは冗談を言う様子には見えない。
どうやら今の傷は本当に深刻らしい。
「……俺、まだ身体強化とかできないけど?」
傷のことも気になるが、それを俺が魔力でなんとかしていると言うのが信じがたい。
この世界に転生してから約一ヶ月。
普通ならば子供の頃にもう魔力を使う感覚を自然に覚えるらしいのだが。
俺は魔力を使う事はおろか、それを感じたことすらない。
そんな俺が身体強化みたいに魔力を使って、傷が酷くなるのを防いでいたと言われてもちょっと信じられないのだ。
しかし、そんな俺の疑問をピエルは当たり前な事をいうように一蹴してみせる。
「それならば無意識に使っているだけだろう。人ならば当然だ。緊張すると体が固まったり、熱い物に触れるとすぐ離れるなど、反射的にやる事と何も変わらん。」
「な、なるほどね~。」
……そうなのか。
じゃあ、一応俺も魔力をちゃんと持っていたという事だな。
それは素直に嬉しい。
せっかく魔法が実際する世界に転生したのだ。
今まで何とか魔力というのを使ってみたいので頑張ってみたけど、何故か全然駄目だったからな。
俺はこことは違う世界から来たのだし、もしかしたら魔力がないのか心配になったけど、その懸念はもうしなくても済みそうだ。
ならば隙を見て、また特訓してみよう。
流石にシグマ程までとは言わないけど、俺も身体強化ぐらいはできないとこれから先、やっていけるはずがないのだから。
「うん、よかった、よかった。」
「……何もよくないぞ。頭の中が花畑なのか、貴様は。」
俺がつい安心していると、ピエルが心底呆れたように突っ込む。
……まさか、今までずっと花畑な世界だと思っていた乙女ゲームの住民に頭が花畑かと言われるとは。
今までの中で一番ショックなんですけど、これ。
「いいか?貴様はあくまで一時的に麻痺しているような状態なのだ。実際には全然傷は治っていないし、これ程の傷ならばそのポ─ションとやらを使ったとしても完璧には治らん。オレの装備を使って応急処置をするとしても早ければ三週……一ヶ月はかかるだろう。後で魔力を全部使い、痛覚の麻痺が解けると自ずとわかる。並の苦痛でないはずだ。」
「……なるほど。」
ピエルは本物の医者に比べると浅はかな知識だと自分を卑下していたが、こうやって真剣に話すのをみると俺にはとてもそうとは思えない。
この子の知識は本物だ。
傷の状態を見てその深刻さを見抜き、完治までどのくらいかかるかをすぐ見極めるのなら、それはもはや本物の医者といえるではないだろうか。
となると、やっぱりこいつは普通の子供ではない。
あの地下通路を歩きながらずっと立てていた仮説、それが当たりという確率がグンと上がるのだ。
しかも、完治まで三週から一ヶ月までかかるという正確な情報をわかったのも大きい。
それならば、これからどうするべきかを考えるにあたって、体の状態を計算に入れながら考慮できる。
……となると、やっぱりあの方法しかないだろうな。
これから生き延びるためには。
「……とにかく、貴様との話は後回しだ、ちょっと待っていろ。あの隠れ家にオレが個人的に持つ医療器具がある。それで可能なかぎりの処置を……」
「いや、それは後でいいぞ。今は話が先だ。」
急いであの秘密の穴場に帰ろうとする少年を言い止める。
俺の言葉を聞いたピエルは立ち上がろうとしたまま、固まってしまった。
オマケに、心底頭がおかしい人を見るような、または俺を咎めるような視線を投げる。
「……オレの説明を聞いていなかったか。今の貴様の状態は深刻だ。後などない。」
「ううん、それはどうかな。俺はちょっと違うと思うぞ?今治療をしないと後がなくなるのではない、むしろその逆だ。治療とやらをする為にここで時間を浪費すればするほと、本当の意味で後がなくなってしまうのでは?」
何とか脇腹の傷を見ないようにしながら語る。
先ほどから俺は痛みを感じているだけで、脇腹が実際にどんな状態なのかは見ていない。
ピエルが言うにはかなり深刻らしいので、きっとえぐい状態なんだろうなと思うだけだ。
だから、絶対に見ない。
ここで傷を見てしまうと決心が緩む可能性がある。
本当に放って置いても大丈夫かと不安になり、迷ってしまうかもしれないのだ。
故に、現在の俺の状態など気にしないようにする。
'今'だけではない。
'これから'を考えると、ここでは治療ではなく話を優先するべきだ。
「正直に答えてくれ、ピエル。この傷を手当てするとして、どれくらい時間がかかる?それをした後、ちゃんと帰れるのか?空を見ろ、もうすぐ夜明けなんだぞ。ここがどこかはわからないが急がないと大変だと思うけどな、俺は。」
「…………貴様。」
「俺はな、そこまで馬鹿ではない。今までお前が'カイル'という人間をどう見てきたかは知らないけど。流石にこんな簡単な事を見間違えたりはしないんだよ。お前が何か企みを持っている事ぐらいはわかるのさ。」
「……。」
そう、これは至極簡単で、迷う必要もない明確な話である。
今までこのピエルという少年が取っていた行動、知識、言葉を思い返すと一つハッキリわかってしまうのだ。
即ち、この少年がいかなる目的を持っているかだ。
真っ先に思い浮かぶのは'逃走'の可能性だろう。
俺と同様、あの死亡フラグ集団から逃げる為にあの地下通路を使い逃げていたと。
だが、それはあり得ない。
それにしてはこの子はあの地下通路の道を余りにも詳しく知っていた。
あの黒頭巾の奴らを簡単にはぐらかせる程に。
ならば当然、次の疑問が浮かぶ。
何故そこまであの道を詳しく知っていながら今まで逃げなかったのか。
シグマはこの島の住民ではない。
島全体に通じる程の、迷宮のような地下通路など道を知るはずもない。
逃げようとしたらいつでも逃げられたはずなのだ。
そして、もう一つ。
あの隠し場所だ。
地下通路と繋いでいて、つい先までいたあの小さな秘密基地みたいな場所。
あそこは多くの本や、食糧、俺はよく知らない器具など様々な物が置いてあった。
しかもどれも埃などなく、長く放置された様子もない。
あそこを'隠し家にしていた'とこの少年が言った以上、恐らくほぼ毎日コッソリあの要塞とここを行来していたと見るべきだろう。
ここまで来ればこの子が単純に'逃走'を計らっていたとは思えない。
いつでも逃げられたし、しかも逃げた後、長く隠れられる場所や食糧などの備えがちゃんとあったのだ。
その状態で敢えて一ヶ月もわざとあの要塞に残っていたのなら、何か別の思惑があると見るべきだろう。
「念の為に聞くけどな。ピエル、お前、もしかしてわざとシグマに捕まったのか?」
「…………。」
少年は答えない。
だが、明らかに顔が強張っている。
今までとは比べないほどに緊張しているのがわかる。
やっぱり、大人っぽい子でも結局子供という事だろうか。
自分の感情を隠す事に慣れていないようだ。
「うん、だったら先ほど俺やシルフィと出会った場所にいたのも偶然ではないわけだ。お前は何かの目的を持ってそこに来ていたし、俺達と出会したはず。違うかな?何の理由かまでは流石にまだわからないけどね。」
その目的まではわからずとも、とにかくこの子が普通の子供ではないことだけは確だ。
その知識も、行動も、どれも簡単に見れるものではない。
何しろわざとあのシグマに捕まってコソコソと何かを企んでいたのだ。
この一ヶ月の間、逃げる時に備え演技をしてきた俺も俺だが、こいつもこいつだ。
一体何を企んでいるのかは知れないけど、ここまでの状況をみてこの少年をただの子供として見るのはできない。
もしかしたら、俺が知らなかっただけで、'ピエル'という子供はただのモブキャラではなく。
シグマと同様、この乙女ゲームで重要な役割を持つ人物かも知れない。
そうでないとしても、子供でありながら【黒きサソリ】に自ら捕虜として潜入しているのだ。
どの道、只者でないのは確だろう。
「……勝手に話を進めるな。何を言い出すのかと思えば。傷が酷くなりおかしくなったか。今は貴様の戯言を聞いてやる暇などない。それよりもその傷は……」
「いや、だからそれは違うと言っただろう。今更、隠し事は無理だぞ。俺達をここに連れてきた時点でお前は致命的なミスを犯したのだよ。それを知らないとは思えないけどな。」
「……。」
そう。
この子がどういう目的を持っているかまではわからない。
だが、その過程であの傭兵達の所に潜入する必要があることだけは確だ。
ならば今の状態はこの子にとってかなり危険な状況と言える。
「朝になるまでお前は何としてもあの要塞に帰らないといけない。だが、もし俺の治療が長くなる場合、どうしてもそれが間に合わない可能性が浮かんでしまう。だったら、間違いなくお前の潜入は失敗するだろうよ。組織の下っ端の小僧に、捕虜まで消えたんだ。いくら二日酔いでボッとしようが、あの連中はすぐに状況を理解するに違いない。」
「…………。」
「わかるな?これは優先度の話だよ、ピエル。お前が今すべきなのは俺の治療なんかじゃない。迅速に自分の持ち場に戻ること。そして、その前に俺と契約を済ませること。それこそ今のお前が真にやるべき事なんだ。そうしないと本当に後がなくなるだろうからね。」
「……どういう事だ、契約だと?」
ようやくこっちの話を聞く気になったらしい。
隠し家に戻ることを諦めて、彼は俺の真っ正面で座り俺をジッと見つめてくる。
「簡単な事だよ。先も言っただろう?俺達をここに連れてきた時点でお前は致命的なミスを犯したとさ。何しろ、【黒きサソリ】の見習いであるカイルという少年にこの場所を知られてしまったからね。お前の計画と企みがシグマに告げ口される可能性が生まれたという事さ。」
「ふん。何を言うのかと思えば。下らない脅しはやめてもらおうか。貴様があの集団から逃げ出した事は知っている。貴様があのリュックを渡そうとした時、その中にある品を'逃走用'と口にした。そして実際にリュックの中には地図や羅針盤など逃走で使うものと見るべき物が多かった。貴様があそこに帰る気がないのはお見通しという事だ。」
「……え?俺のリュックを漁ったの?いつ?」
「地下で貴様のリュックを持って先行した時があっただろう。ちょうどよかったのでな。貴様の真意を確かめつつ、弱みを握れるものはないかと少し拝借した。」
はあああ!!?
シルフィが泣き出した時、あの時にか!?
そういえば、こいつ、あの時、俺のリュックを持って先に行ってるといいながら逃げたはず!!
「ま、まさか!?お前!?リュックを預かると言い出したのはそのためだったのか!?」
「ああ。当然だろう。逃走とか何とか言ったが怪しいのは確だ。確認する必要がある。まあ、あのシルフィという子はオレを疑って渡そうとしなかったが。少しはあの子を見習ったらどうだ、貴様は。」
……馬鹿な。
俺はこいつを信じていたのに、まさかその信頼を裏切るような真似をしていたとは。
やっばり何事も疑いかかるべしと思っていたのは間違いではなかった。
純粋なる俺の気持ちをこうも簡単にずたずたにするとは……!
「酷いぞ!?俺は純粋な親切だと思って感激したのに!」
「そうか。それはお目出度いな。」
「それにな!シルフィがお前を疑ったのは、俺が何事も疑うべきと教育したおかげだからな!そこんとこ、間違わないでね!」
「だが、それを教えた貴様はすっかり騙され、あの子はちゃんとやり遂げたのだ。なら、既にあの子が貴様よりちゃんとしていると思うが。」
「ぐえ……!」
何という正論。
反論のしようがない。
いきなり脇腹の痛みが増しているかのような錯覚がする。
「まあ、オレの思惑を気付かないまま、あの子に'誰を信じるべきか段々と見極められる!'と偉そうに喋る姿は結構面白かったがな。」
「こふっ……!」
あ、どうしよう。
間違いなく傷が酷くなっている。
胸のあたりが焼かれるようで、顔が熱いのだ。
きっと死の瞬間が近くなったに違いない。
後、今、俺の前で揶揄っているように笑うこの美少年は絶対に許せない。
これから俺は誰かをちゃんと信じられるか怪しくなったんだぞ、どうしてくれるのかな?
「……まあ、戯れはここまでにしよう。以上の理由でオレは貴様があそこに戻る気がないとわかってる。そんな状態でオレが何かを企む事をシグマに報告することができると?」
俺の心がもっと深く閉じられてしまっている間、ピエルは再び目と顔をきつくし、俺を直視する。
まるで俺の考えを、そして俺という人間の本質を見抜いて見せるといいたいかのような、真っ直ぐで力ある視線だ。
「悪いけど予定が変わったのさ。お前と同じく俺もあそこに、【黒きサソリ】に再び戻るつもりでね。」
「何……?」
流石にこれは予想できなかったらしく、ピエルの口元と瞼がピクッとする。
「貴様、逃げるのではなかったのか。」
「ああ。そのつもりだったのだけど。どうやらまた暫くはシグマの懐で世話にならなければならないらしい。俺も心底、気にくわないけどな。」
「……。」
わざと時間を置いて何も言わず目の前の少年を観察する。
この子がどういう考えをして、どのように俺を見るかは知らない。
どうせ、ろくでなしとか、頼りない奴だと思っているだろう。
何しろこの子は傭兵を嫌っていたし、それの延長として'カイル'という人間をよく思っていなかったのだ。
この子があの場で俺やシルフィを助けたのは、そして今俺の傷を手当てしようとするのはあくまで純粋なる善意によるもの。
配慮と慈悲による行動だったのだろう。
言葉使いや言動は礼儀などまったくないし、無愛想で厳しい感じの子だが、決して根本が悪い子ではない。
それぐらいは流石にわかる。
だからこそ、俺やシルフィをあの危機の中で見過ごせなかった。
俺が逃走しているのが事実だと見込み、ならば自分の計画に邪魔はならないだろうと考え、傷を治そうとした。
それは純粋に感謝している。
これは本当だ。
俺は受けた借りを決して忘れないし、いつか必ずこの子にその恩返しをするつもりでもある。
だが、今はその時ではない。
俺はどうしても再びあのゴロツキ共の元へ、そしてシグマの元へ行かなければならなくなった。
その必要が生まれてしまったのだ。
ならば、当然それによるリスクを考えなければならない。
起こりえる可能性を、未来の危機をすべて予想し対策を練らなければならない。
先ほどのようなミスは絶対に犯さないと決めたのだ。
ならばこれから言おうとしている事がどれほど卑怯なもので、この子の善意を汚すような事になっても迷わない。
「さて、どうする?あの要塞に帰る事を考えると時間はなく、そして俺が逃走をやめて戻ると言った以上、お前はもしもあり得る告げ口を考えねばならない。あ、ついでに言うけど俺を殺して口を封じようとするなら、それは止めた方がいいぞ?何故なら……」
「くどい。そんな事はしないからさっさと条件と内容を説明しろ。先ほど契約と言ったのはそういう事なのだろう。聞いてやる。無駄な時間は使わん。」
どうやら、現状を完全に理解したらしい。
ピエルは心底嫌だという表情で俺を見ている。
そりゃそうだろう。
せっかく助けてやったのにこんな仕打を返してきたのだ。
きっと俺を心の中で恨み、悪く思うに違いない。
それを申し訳なく思い、そしてちょっと悲しいと思いつつも俺は語り出した。
今の俺が出せる最善策。
これからの歩石の為に必ず結ばないといけない契約を。
***
『よいか、ロネス。強く在れ。そして同時に他人を思い遣れる人になれ。その在り方を忘れずにいれば、君が目指す道を共に歩む者も現われよ。』
それを聞いた瞬間を今でもハッキリと思い出せる。
あの時に感じた感情を、その時に見た墓場の景色を、そして目の前に立っているお祖父様の姿もまた。
……それは父と母が卑怯な罠に陥り死んでしまってから一ヶ月が経った時だった。
商会を継ぐ為に、そして家門の次期当住としての役割を果たすためにオレは必死に足掻いていた。
オレが生まれたモンモランシー家はハルパス王国でも特殊な立場であった。
その事実をもっと幼い時からオレは理解していた。
そうしないと生き残れないとお祖父様は語り、それをわからせるためにと父上が鍛え、これがこの国の現状であると母上に見せ付けられた。
この国は腐っている。
根本からしてその根が腐り果てている。
そして根がやられているのならば、その影響はやがて樹全体にも及ぶ。
その事実を叩き込まれ、実感し、理解してしまった。
誰かがオレを見て笑う。
貴族ではない奴が魔法を学ぼうと必死になっていると。
誰かがオレを見て軽蔑する。
たかか商人風情が貴族である自分達に向けて付け上がってくると。
聞かれるのは罵倒。
見られるのは軽蔑。
オレが生まれた家門はまさしくそういう扱いだった。
だが、それは当然だ。
オレは気にしない。
オレはあのモンモランシー家の人間。
遠い昔、ハルパスという国が建国する時。
その原初の十一人と呼ばれた魔法使いの子孫。
他の十人は王族と貴族になる事を決めている中、唯一、彼らと共に歩んできて精霊神王にも未来を約束されてなお、それを拒否した偉大なる先祖の末裔。
自ら権力から遠ざかり、我が国に外敵が現われた時。
もしくは、誰かの子孫が堕落し国を危機に晒す時に、それらを排除する抑止力になることを決めた家門。
故に、モンモランシー家の人間は貴族ではないにも関わらず魔法を自由に使えた。
むしろ他の貴族達よりも遥かに優れた力と才能を持っている。
そういう決断をした我らの先祖を精霊神王が高潔だと称え、王族には劣るものの、二番目に強い祝福を約束したのだ。
抑止のモンモランシー。
それがオレが生まれた家であり、オレがずっと聞いてきたあだ名。
貴族ではなく自ら平民になった変わり者の子孫であり、そのくせ、王に進言をしたり、圧政と判断したら力ずくでも貴族と王族を止める事を精霊神王に認められた身の程知らずな家門。
父上は警告した。
恐らく、オレが成人になる時こそ、モンモランシー家の人間として役割を完遂しなければならないだろうと。
母上は嘆いた。
何故、よりにもよって自身の息子の代でこの国はこんなにも乱れているのかと。
オレもわかっている。
もっと小さい頃から、モンモランシー家の人間として学び、鍛え、その責任を全うすると誓ったのだ。
迷いなどない。
嘆く時もない。
悔いる時間も、悲しむ羅刹もオレには全く必要ないものなのだ。
何しろ、この国は腐っている。
どうしようもない程までに。
早く手を打たなければ取り返しがつかなくなるという焦りがある。
それはモンモランシー家に生まれた人間だからこそ、精霊を通じて感じられる兆しか。
それとも、父と母が商人としてあらゆる場所へと連れていき、圧政と暴政によって苦しみ続ける民を見せてくれたからか。
だから、走ってきた。
振り向きもせず、止まったりもせず。
間違った物を正し、堕落した者を更正し、狂い始めている国を救うがために。
父と母の葬式には参加しなかった。
オレにはまだ足りないものが多くあって、それらを我が物とするだけでも精一杯だった。
わざわざ葬式に足を運ぶ時間はなく、きっとその場に何も知らないという顔で参加し、悲しむ振りをする堕ちた貴族共の顔など見たくもなかった。
事故だったと言う。
雨が激しく降り続け、道が滑りやすい中。
深い山の道を走る途中で馬車が転覆し事故になってしまったと。
……ふざけている。
その嘘を平然と語り、心の中では笑っている豚共の顔を思い出すと死んでも死にきれない怒りが込み上がる。
あれは正真正銘の暗殺だった。
今も覚えている。
'自分達は今日、家に帰って来れない'と言う父と母の顔を。
親として最後までオレと共にいられないという悲しみと絶望。
モンモランシー家の人間としてこれからを任せるという強い意志が混ざり在った目。
二人は殺されたのだ。
しかもこの国の貴族、遠い先祖が仲間だと思っていた人達の子孫によって。
堕落した今の貴族達にとって、モンモランシー家は邪魔でしかなく、王族もその露骨的な妨害と暗殺を黙認した。
人々はオレを見て後ろ指を指す。
'親が死んでも涙一つも流さない畜生'。
'人としての道理などを知らぬうつけ者'。
陰口を叩かれ、指さされながらもそれらを無視した。
何を言われようと、たとえ葬式に顔を出さないだろうと、オレの意志と決意は天国にいる父と母はわかってくれると信じていた。
それからはもはや時間の流れなと感じていない。
少しでも油断すると、オレも暗殺されるのはわかっている。
故に、言葉を荒くし他人を寄せ付けないようにする。
人々を信じたりはせず、あくまで己が力のみに頼ろうとする。
父と母は暗殺された時、意志を共にする同士だと思った人に裏切られたらしい。
彼が傭兵と結託して山の中で殺したと。
オレはそのような愚は犯さない。
モンモランシー家の人間として、必ずやオレの役割を果たして見せる。
もうじき来るであろうその時まで力を蓄え続ける。
その為に必死に体を鍛え、魔法を磨きあげ、王宮でもそう簡単には殺されないように味方と言える後見人も見つけた。
……そんな時だった。
誰も知らない真夜中。
雨が降り続ける墓場に、オレは足を運んだ時がある。
それは誓いを新たにする為、そして自分より先に眠ってしまった親に近況を報告するがためだった。
『ロネス。』
お祖父様はそこでオレを待っていた。
人々はオレを恩知らずの獣だと、貴族と王族に尻尾を振るう狂犬だと罵りるが。
お祖父様だけはオレが必ずここに来ると信じて待っていたのだ。
『よいか、ロネス。強く在れ。そして同時に他人を思い遣れる人になれ。その在り方を忘れずにいれば、君が目指す道を共に歩む者も現われよ。』
その言葉を伝える為だけにずっと待っていたという。
オレが力をつけるのに専念する中、商会を代わりに仕切り、裏でオレを援助してくださったお祖父様がそういうことを仰有る。
きっと、それは昔の父にも言った教えだろう。
モンモランシー家の人間として生きていくための教え。
しかし、オレは首を横に振るいそれを否定した。
既に、オレは一人でも生きていくと決め、他人を信じる間違いは犯すまいと決めていたのだ。
そしてその考えは実際に王宮で働く内に強くなっている。
少数の人間と多くの獣達が住まうあの魔境を見て確信に変わったのだ。
『いいえ。それは私に……'オレ'に必要ありません。既に他人は信じられず、自分の力のみで正すべきものを更正すると決めましたから。』
『それは違う。この世は確に間違いが多かろう。しかし、それが全てではないのだ。悪しき者が善行を施す時もあり、善なる者がどうしようもない悪行に手を染める事もある。誰もが憧れる天上に醜くも醜悪な者がいれば、溝底に沈め堕落した中でも光輝ける者も在る。
ロネスよ、君が親を失い、傷付けているのはわかる。だが、決してそれらから逃げ、自分を間違った道に追い込まれてはならぬ。ましでや他人の手を拒否するなどは、決して。』
理解出来なかった。
その言葉は親が死んでからずっと走ってきたオレを否定するかのようだった。
邪悪な人は悪だ。
善良なる人は善だ。
オレの親を殺したあの貴族とその手下であった傭兵共は必ず駆逐すべき悪。
そこに善意があるかも知れないなどと、オレにとっては戯言以上の侮辱でしかない。
認められるものか。
そんなのはあり得ない。
もしそうならば、どうしてあの傭兵共は山の中で父と母を殺した。
あの貴族共はどうして自分の利益を守るためオレの親を暗殺し、オレをも密かに殺そうと躍起になっている。
本当に善意があるのならば、そんな事はしないだろう。
彼らの心に良心が、信仰があるならば情けを与えるべきだろう。
悪は悪。
善は善。
世の中はこうもハッキリ分かれ、それが交わったり交差すつ事など決してない。
ましでや、友人に裏切られて売られた親を見たオレに、誰かから助けを求めるべきなどと。
『いくらお祖父様の言葉でもそれは了承しかねます。オレは既にわかっている。もはや他人には期待しません。』
『……いずれわかる時がくる。どうか、その時が来た時、信頼する人を見間違えない事だ、我が孫よ。』
オレの返答を聞き、お祖父様は悲しい瞳で小さく呟いた。
それは純粋にオレの身を案じての忠告だったであろう。
それは素直に嬉しく思うが、その内容は認めない。
……そう、その筈だった。
だが、今はどうだ。
オレは静かに自分自身に言い聞かせる。
今はどうなのだ。
オレのやり方は、考えは変わっているだろうか。
オレはモンモランシーの人間。
悪に陥った人々が現われる事を懸念し、善き人々と共に歩く事を決めた先祖の末裔である。
その本質をオレは良しとする。
それは単にオレがそういう家門に生まれたからではない。
その思想は本当に尊いと、貫く価値があると自らそう思ったからだ。
その点から言えば、今回の任務で付き合っている【黒きサソリ】は間違いなく'悪'だと言えるだろう。
オレが未来で成人になり、正式にモンモランシー家の当主になれば積極的に正すべき対象だ。
善良なる人々が貯めた食糧を奪い、女は犯し、村を滅ぼす。
あの傭兵というやからは今の貴族と種類が違うだけで、同じく国を荒らす害虫に違いない。
故に今まで頑張ってきた。
任務のためにわざと捕まり、情報を流していた。
あと一ヶ月後にはオレの任務も全て終わる。
王宮でこの任務をオレに押し付けた連中はオレが途中で'傭兵王'に殺される事を期待したのだろうが、今のところその心配もない。
シグマは噂程ではないというのが、素直な感想だった。
もう一つの任務はまた解決の兆しが見えないが、シグマを監視しその行動を報告するのが最優先のため、大丈夫なはず。
そう、なんの問題もない。
ただ、一つだけ、どうしてもオレを混乱させ、こうも心の中をざわつかせる者を除けば。
「…………。」
それは一人の少年だった。
オレと歳が離れていない黒髪のごく普通な、いや、むしろオレにとっては最も軽蔑すべき部類の子供である。
名をカイル。
あの【黒きサソリ】という傭兵団の見習いをしている子供だった。
……嘘偽りなく言って、潜入していたこの一ヶ月を過ごしながら考えた印象は、話にならないという事だ。
人を平然と殺すあのイカれた者共に媚び、彼らを尊敬するような素振りを見せる。
ましでや、街に行く度に人々を脅迫するとか、暴力を振る舞うとかの話も聞いている。
オレから言わせれば間違いなく'悪'だ。
【黒きサソリ】に所属しているでけでもオレの中では悪と判別されるのに、同じ空間で過ごしながら見た感想はその判断をより強くするものばかりだった。
だが、今はどうなのか。
'存在を隠す?'
'ああ、俺はお前がここを隠し家にする事を隠す。その代わり、お前の隠し家とやらにシルフィが過ごすようにして、アイツの存在を決して他人に漏らさない。それが条件だ。'
……話にならないと思った。
そんなことを言い出してきた少年を見ながら呆れてしまった。
頭がおかしいのではないかと思うほどに。
カイルの顔は真っ白だった。
あれ程の傷なのだ。
魔力による一時的な強化で傷が悪化するのを止めていると言っても、血が出るのは止められない。
苦痛を緩和するとしても、傷自体は残っている。
一体何にやられたのかは見当もつかないが、鋭い何かに貫通された挙げ句、酷い火傷まで負っているのだ。
もし、魔力が切れて麻痺された痛覚が完全に戻ると悲鳴を上げて気絶するに違いない。
というか、迅速に応急処置をしないと命が危ないのだ。
しかし、そんな状態になっていながらもあの少年は。
今まで自分自身が傭兵の端くれだと罵り、無視し続けた者はあのシルフィという少女だけを気遣っていた。
契約といいながら、その実、自分には何の得もないはずなのに。
後で告げ口するかも知れないから金を渡せとか、自分の傷を治せと脅迫するのが普通のはずなのに。
自分の命や都合よりもあくまで他人の、しかも今日始めて出会い、名も知らなかった少女を守ろうとする。
「……本当に馬鹿な奴だ。」
あの洞窟に行ったのはあくまで任務のためだった。
普段は何故か霧がかかり調べることが出来なかった区域が、今日の夜だけは何故か全く霧がなかったのだ。
もしかしたら、宰相に頼まれた者共を見つけられるかも知れないと思い向かった先で出会ったのは、今まで自分が無視してきた少年、カイルと見ず知らずの少女であった。
'この子を頼む。リュックには俺が今まで貯めた逃走用の金や食糧、水が全部入っている。'
'これを全部やる。だから、その代わりに俺が先ほど言ったよう、俺がサインを送るか、大きな音が出るまでこいつと一緒に洞窟の中へ入り守っていてくれ。'
……それを聞いたときの驚きを一体どうやって表現するべきだろうか。
ずっとシグマに心酔し従うと思っていた少年が。
自分が'悪'だと断じてきた人が、その実、逃走を計らっていたこと。
そしてその全ての食糧と装備を渡してでも誰かを守ろうとする姿を見ることになるとは。
信じられなかった。
今までの自分の考えを全て否定するかのような事が目の前に起きているのだ。
言葉を失い、つい助けてしまうほどに。
しかも話を聞いてみるとその少女の名前すら知らず、今日逃げる途中で偶然出会い、助けたと言う。
耳も聞こえない、何の役にも立たない見ず知らずの他人のために今まで企んでいた全ての計画を投げ捨てるなと正気の沙汰ではない。
自分も首都で生き残る為に色々やってきたからわかる。
一体どれほどの時間を使い、そして耐えてきたのか想像するのは難しくもない。
「……本当、訳がわからん。」
つい、口元が歪んでしまう。
そうしないようとしても、自ずと笑みが浮かべてしまう。
ああ、これほど馬鹿で、救いようがないお人好しは見たことがない。
自分の逃走すら諦め、見ず知らずの他人を助ける。
死に繋がる程の深刻な傷を負ってもなお、それを決して話さず、むしろその少女を心配して気を遣う。
どう考えてもメリットがない。
あの少年にとってはマイナスしかいないし、実際にあの少女を助ける途中に受けた傷はオレが見ても致命傷だ。
だが、少年はそんな事よりもあの少女を配慮して背に負ったりし、今もあの少女のためだけに本来逃げようとした【黒きサソリ】に再び戻ろうとしている。
自分の傷の手当てよりも優先しながら。
「くくっ……。」
どうして戻るのかと聞いた時、オレを見ながら心底呆れたような目をするのはこれからも決して忘れないだろう。
自分と同年輩の子供たちの中でそのような子は見たことがない。
'あのさ、俺が戻るのは当たり前だろう?こんな傷ではもう港町まで行くのは無理だし、シルフィも守れないだろうが。それにシグマはああ見えてもマジで強いからな。その懐の中にいると先の奴らも簡単に手をだせないだろうよ。業腹だが仕方かないのさ。'
'……だが、わかっているのか。その傷は……。'
'魔力を全部使うまでは何とか大丈夫なんだろう?なら、何としても要塞に戻るまでは持ち堪えて見せるさ。その後、隙を見てお前から処置を受けるといい。後、シルフィには傷の事を絶対言うなよ。それも契約違反だからな。子供は無駄な心配などしないほうがいいんだよ。'
「ああ……まったく。どうしようもない奴がいるものだ。」
一人の少年がいた。
自分がただの悪だと断じて、決して触れ合おうとしなかった少年が。
その者はいつも悪しき者共に尻尾を振り、彼らに従順するかに見えた。
街の人々から物をかっ攫い、あの人殺し達を倣い脅迫や恐喝をも躊躇いなくやる賎しくも狡猾な少年。
だが、それはあくまで表に見せる顔であって。
誰よりも【黒きサソリ】を嫌い、そこから離れようとしたのがあの少年の素だった。
それどころか見ず知らずの他人を戸惑いなく救う程のお人好しである。
それだけではない。
あの少年と会話している内にどうしても気付く事がある。
それはこのように誰かを助けるのが始めてではないという事。
名前をつけるのが今回だけではないという事、そして今まででと比べてあの少女を助けるのは並の危険ではなかったという発言まで。
あの少年がこのような事に慣れているのは明白だった。
だからこそ、先ほど'虐待される誰かを助ける'のに慣れているのは経験があるからなのかと聞くと、案の定、彼は迷い無く頷いた。
こういう仕事には何度もやった事があると。
'周りを完全に無視すると後で痛い目にあうからね、そこんとこ気をつげるのがよくない?自分の感情を隠す事も出来るようにならないとさ。'
地下通路を歩く時、彼に聞いた言葉が自然に浮かぶ。
……ああ、本当にそうだ。
反論のしようがないと思った。
オレはずっとそうやって生きてきた。
強く在らねばならないと、誰かに裏切られるとしても何の痛みも感じない程にならなければならないと思った。
そもそも誰かの手を借りねばならない弱さなど切り捨てると。
オレが目指す道は険しく、その目標は余りにも遠い。
だから自分を鍛え、何としてもこの決意を貫こうとしたのだけど。
それは、あの少年にとってどんな風に見えていただろうか。
誰一人にも理解されず。
誰一人にも真の自分を見つけられず。
それでも誰かのために手を伸ばし、それを助けるのを止めないあの少年にとっては。
「ああ。」
自分と彼は同じところがあると思っていた。
あの地下で話をしてる内に、彼が誰知らず人を助けていたことを気付いた時。
オレは烏滸がましくも彼と自分は似た者同士だと思っていた。
ずっと後ろ指を指されながら味方などなかった自分と。
誰一人の理解者はなく、演技をし続けた彼は似ているのではないかと。
だが、それは違う。
つい先に出会った少女のために何の迷いなく今までの全てを放棄する事が出来る彼と、自分が同じ筈がない。
……オレには出来ないとわかってしまったのだ。
オレはきっと彼のようには出来ない。
一瞬の迷い無く、たとえ自分の身を捨てることになっても己が信じる事を貫けない。
それは何故かと自分に問いただすと、その理由を今になって気付いてしまう。
オレにはまだ残っていたのだ。
父も母も亡くしたけれど、オレにはまだオレの後ろを見てくれるお祖父様がいる。
故に一瞬だけ、迷ってしまう。
彼のようにすぐ何もかも捨てる事は出来ない。
ここまで気付くとどうしてもわかってしまうのが自然な流れだろう。
自分と彼は決して似た者同士ではないのだ。
自分はただ親を亡くした現実に目を逸し、まだ残っている大切な者にも気付かず、オレにはもうこの目標しか残っていないと自分を追い詰めた半端者。
彼は真の意味で理解者などなく、それでも自分が信じる善を誰知らず貫き通せてきた人。
誰にも理解されない似た者同士など甚だしい。
意地っ張りで自分を誤魔化そうとした子供と、真の意味で自分を貫きながら周りを見ることが出来た少年が同じ筈がなかろうに。
'いつか、きっと君にもわかる日が来る。'
ああ、その通りだった。
実にお祖父様の仰有る通りだ。
あの時、お祖父様が言っていた事をようやく理解できる。
自分は泣きたかった。
葬式に行くと親が無惨に殺された事実を直視することになり、それが怖かった。
故に、何もかもを見ようとせず、オレにはこの道しか残っていないと思い込んだ。
それは強くも何もない、ただの欺瞞、弱さにすぎないだろうに。
「お祖父様、私はもしかしたら貴方が仰有っていた人を見つけたかも知れません。」
夜が明けてくる。
自分はまだ子供だ。
周りを見ようともせず、ただ走ってきた愚か者だ。
オレにはそういうのは必要ないと信じ、心のどこかにはオレと対等に向き合える子供などいないと思っていた。
首都で自分以外にも天才と言われる子供は何人かいたけれど、彼らはオレの親を殺した憎い貴族共だったが故に、見ようともしなかった。
だが、ここに来て始めて自分の考えは間違ったと気付く。
誰もが悪だと罵る溝底の中でも善で在り続ける人がいる。
貴族も何者もない普通の人だけれど、自分と同じ歳で既に険しい道を歩んでいる少年がいる。
ならば、きっと今こそがお祖父様が言っていたその時なのだろう。
自分と同じ道を歩み、信じ合える人。
オレにとって始めて'友人'となり得る人を見つけた時だと。
「今はまだ本当の名前も明せないが……。」
この任務が終わる時には全てを明かそう。
そして今度こそ、正式に頼んでみると決める。
オレの道行きを共に歩んでくれる友人になってはくれまいかと。
***
「へくしっ!」
出発するまでに荷物を整理していると突然くしゃみが出る。
無意識に魔力を使って体の状態を緩和していると聞いたけど、くしゃみとは別のベクトルなのだろうか。
「じゃあ、シルフィ。俺は行ってくるぞ。先ほど説明した通り、多分夜になるまでは帰って来れないと思うから、留守番ちゃっとしていろよ。」
「うん。」
ピエルとの話し合いでアイツが隠し家として使っていたこの小さな洞穴は、これからシルフィが使う事にした。
まあ、話し合いと言うか、殆んど脅迫だけど。
シグマの元に戻ると言った以上、アイツの秘密を知っている俺はピエルに取って脅威でしかない。
そこに付け入り、秘密を守る代わりにこの場所を共有する事と、シルフィに関して情報を漏らさないよう言質を取った。
……アイツは俺を恨んでいるだろうな。
素直に申し訳ないとは思う。
純粋なる善意によって助けてくれたのにこんな仕打とは、まさしく外道と言う他にない。
しかも、ここまでする理由は隠しボスの覚醒をなかったことにして俺自身の命を守る為だし。
「……はあ、性格に合わないな。」
「?」
生き残るために非情にならないといけないとはいえど、まさかあんな子供まで脅迫する羽目になるとは。
以前の俺では絶対想像もできなかった。
この島を脱出する時にはアイツに何らかのお詫びとして何かをくれてやろうか。
「といっても、あの年ごろの子は何を喜ぶんだろ。」
普通に思いつくのはオモチャだけど、あのピエルという子は大人っぽいからな。
わざとシグマに捕まって何かを企んでいるという事実だけで、絶対普通の子供ではない。
目的も素姓もわからない尋常ならぬ子供……か。
「やっぱりどの世界にも天才はいるんだな。主人公やあの攻略対象達でもないのに大した奴だよ。」
純粋に凄いと感嘆しながらうんうんと頷く。
そして同時にあれ程普通ではない子供がいるのにも関わらず、子供の時から天才と呼ばれた攻略対象のイケ面達が怖くなる。
ピエルという名は原作では聞いたことがないからな。
あんなに只ならぬ子供が全然話題に沸かないほど、あのイケ面達は凄い天才という事だろう。
改めて考えるとやっぱり俺とは住む世界が違うなと思う。
「うん、絶対会わないつもりだけど。」
ドンムレ村のセリック君に双拳銃を渡す時以外、俺はあんな化け物達には絶対に会わない。
俺は帝国に渡り、のんびりと暮しながら帰る方法を探すのだ。
余計に首を突っ込むと何かとストーリーがおかしくなって、死にかねないしね。
その為にも今はあのゴロツキ共に帰らないといけないだろう。
心底残念だし、悔しいが、今はそれが一番の策だ。
俺の傷はどうやらかなり深刻らしいし、この状態だと長く歩く事も儘ならない。
それにあのカルト宗教みたいな奴らはシルフィを探そうと目を光らせている筈だ。
流石にその追手共をこの状態で追い返したり、はぐらかすのはできないだろう。
アイツらは【黒きサソリ】を、特にシグマという男を恐れていた。
流石は傭兵王という設定を持つ中間ボスというべきか。
俺としても歩く死亡フラグみたいな奴で苦手だけど、あのカルト連中からはそれ以上のようだ。
なら今暫く、またアイツの懐にいるべきだろう。
カルト達は傭兵を避けているからシグマの隣にいる方がむしろ安全になる。
「……とはいえど、やっぱ気が滅入るな。」
つい数時間前まではようやくあそこから逃げ出せると喜んでいたのに、まさか再びあの場所へ帰らないといけなくなるとは。
休みを得て家に帰っていたら、会社の先輩に対処しなければならない急な案件ができてしまったと無理やり戻された気分だ。
……人生というのは本当に思うようにはならず、予想外な事が多いな。
それは異世界だろうと変わらないらしい。
「がえり?」
「うん?俺が帰る事、やっぱり気になる?」
シルフィが首を横に振るう。
どうやら違ったらしい。
ここに残るシルフィの為にリュックから食糧を取り出していると、そんな俺の隣に来てジッと見上げてくる。
「がえる。」
「……あ、そうか。違うぞ。俺は'カイル'だよ。今言っているのは'がえる'だからちょっと違う。惜しいな。」
もしかしてと思って言うとシルフィは真剣な表情で慎重にその小さい唇を動かす。
どうやら、俺の名前を正確に言いたいらしい。
「がいるう?」
「ううん、残念。もうちょっと短くしてみようね。」
「がえーる。」
「違う違う。伸ばしすぎだよ。もう少し発音を強くしてみたらどうだ?」
「カエル。」
「いや、それはやめて。」
いきなりカエル呼ばわりとは。
まあ、ただの偶然だろうけど、ちょっとドキッとしたな。
「カエル。」
「何でそれだけ二回言うんだよ!?」
こいつ、音が聞こえないとか嘘じゃないよね?!
どうして、よりにもよってカエルを二回言うの?!
俺が慌てて話すと、そんな俺を見上げながらシルフィは悪戯っ子のようにクスクスと笑う。
うむむ……、以外と素の性格は悪戯好きな子なのだろうか。
でも、大人をからかうのは良くないと思うぞ、俺は。
……まあ、今の俺の見た目は子供だけどね。
「カイル。」
「おっ。正解だ。ようやく、ちゃんと呼べたな。」
「うん。」
俺が正解だと言ったのが嬉しいのか、シルフィは小さく微笑みながら何度もその言葉を繰り返す。
俺の名前をまるで噛み締めているかのように繰り返すシルフィを見ていると、改めて今の状況を確りと認識してしまう。
そう。
もう俺は一人ではない。
俺だけ生き残ればいい時は過ぎで、これからはこの子を含めて生き延びないといけないのだ。
たとえ、その最初の動機は俺が無事に生き延びる事であったとしても。
俺が誰かの身の責任を担う事に変わりはない。
この一晩の間、実に多くのものが変わってしまった。
何故かここにいる、隠しボスことシルフィ。
そしてそんな彼女を今も追っている危険な組織と。
相も変わらず未来が不透明な死亡フラグ集団の【黒きサソリ】とシグマまで。
この世界に転生して約一ヶ月。
今までの日々が'俺'が生き延びる為の第一幕の物語だとしたら。
ここからは'俺とシルフィ'が生き延びる為の第二幕とも言える。
ただ俺だけがあの死亡フラグ集団から逃げればすむ時は終わったのだ。
「……計画を始めから立て直さないとな。」
「カイル……?」
「そんな目をするな。子供は余計な心配などせず、元気良く遊んでいればいいんだよ。こういう面倒事を何とかするのは大人の役目だもんな。」
ちょっと不安げに俺を見るシルフィの頭を撫でつつ、荷物の整理を完全に終え、出口の方を見る。
もう夜明けが近い。
空は真っ黒なドレスを脱ぎ捨て、代わりに微々に明るい空色が混じった服を着ろうとしている。
おそらく、あの要塞に着く頃には完全に朝になっているだろう。
……俺は再びあの死亡フラグ集団に戻る。
だが、それは諦めたから、何もかも投げ捨てたから行くのではない。
より完璧なタイミング。
非の打ち所がない計画を立てて。
今度こそ、この子と一緒にこの島から無傷に抜け出すためである。
恐らく、次に脱出を実行する時は俺の傷が完治する一ヶ月後。
それまで全ての準備を終えてみせる。
シグマにも。
あの頭おかしい黒頭巾達にも。
そして俺をこんな目にあわせた神にも遅れは取らない。
ここから先は新たな展開、今までとは違う生活が待っているだろう。
それで結構だ。
どんな生活だろうと必ず活路を開いて見せる。
……こうして、再び俺は後で来たピエルと一緒にバルティア要塞に向かって出発する。
つい数時間前に去ったはずだった場所へと戻る。
だが、これは決して敗北ではない。
後退でもない。
後で何の憂いなく前へと進む為に。
今度こそ、完膚なきまで完全なる勝利を得る為に。
俺は前へ向けて十歩を進めるため。
今は後ろの方へと、大切な一歩を歩み出すのだった。
この間、感想を頂いたのですが。
まさか誰かから感想をもらえるとは思えず感激しました。
楽しんで貰えれば幸いです。
後、そろそろもう一人、大事な人物が出る番なので結構楽しみです。
やっぱり綺麗な女の子はもっと出ないとね!