6. 白き少女は意味を与えられる。
あらゆる物が暗闇に沈む真夜中。
この時のラルヘンシブ山脈は静穏であり、静けさに溢れている場合が多い。
険しい山脈を我がものと堂々と闊歩する大型モンスター達は眠りにつき、夜行性の怪物達は奇襲や罠を使う狩りを主にするため、慌ただしい音を出さないのだ。
この山脈の所々に存在する街も例外ではなく、鉱業や材木業といった力仕事が多い分、明日に続く仕事のために眠りに就く時間が早い。
人や怪物の区別なく、すべての動物と植物が決して音を出せない静かな夜こそがラルヘンシブ山脈の本来の在り方と言える。
だからこそ、今の状態は極めて例外な夜だと言えるだろう。
寂寞な深夜、夜空に響くほどの大声と怒鳴り声が交わせれる。
魔法擬きの呪術とやらが使われる音と光で周りが照らされ、騒ぐ。
もはや静かな夜とは何だったのか忘れてしまいそうなほど、荒事が起きているのが現状なのだ。
「避けろ!」
「えっ!?」
後ろから不吉な音と共に熱気が感じられた瞬間。
咄嗟に隣に走っている少女を突き飛ばす。
その直後。
左の脇腹から皮膚が焼かれる熱と共に、鋭い何かに貫通される痛みが走った。
「ッッ……!!」
反射的に悲鳴が出ようとするのを唇を強く噛みながら必死に堪える。
こんなところで痛いと嘆いてる場合ではないのだ。
(あのクソ共、この子に向けて一切迷い無く打ち込んで来やがった……!)
この子を動かなくするためには、多少の傷などお構い無しということだろうか。
まだ十歳になったかどうかもわからない子供にブッ放していい物ではない。
一歩間違ったら死ぬかも知れないし、当たる場所が悪いと耳のようにまた体のどこかを使えなくなるかもしれないのに。
腹の内から痛みとは別にやるせない気持ちがこみ上げてくる。
だが、それも後回しだ。
今はこの状況から逃れることが最優先なのだ。
「ぼさっとするな!このままあの連中に捕まったら元も子もないんだぞ!止まっている暇があったら足を動かせ!」
突き飛ばしたはずの少女が俺を心配し、近くに来ようとするのを一喝して止める。
それはこの白き子に言うことでもあり、俺自身に聞かせる言葉でもあった。
「気にせず走れ!腕が無くなろうが、足が無くなろうが!無事に逃げて生き残ればこっちの勝ちだ!このままあそこに戻りたいのか!?」
そうだ、こんな所で止まってたまるか。
あの屑共にやられたりしてみろ。
余りの悔しさに俺は死んでも死にきれなくなる。
あんな三下にやられるぐらいなら、いっそ最後までシグマと一緒に行動し、主人公達にやられる方が百倍はマシだ。
左手では激痛が走る脇腹を押さえ、右手で少女の手を掴み走り出す。
この子が今どんな顔をするのか。
もしも怖い思いしているのではないかと、不安が過るがそれどころではない。
今は考えるよりも、足を動く時なのだ。
「あっちだ!!いたぞ!奪われた巫女とドンムレ村のセリックだ!!」
「ドンムレ村のセリックを絶対に逃すな!捕まえて生け贄にしろというバジル殿の命令だ!」
「見ろ!炎の槍に当たったぞ!遠くには行けない筈だ!」
(クソ……!!次から次へと湧いて来やがって!ゴキブリかよ、こいつら……!)
後ろから聞きたくもない声と足音が大勢に聞こえる。
後ろを振り向くまでもない。
あの黒頭巾達が森の中を切り抜けながらこっちに迫っているのだろう。
「畜生が……!」
甘かった。
俺の認識が甘かったと認めざるを得ない。
生き残る為には非情ににならなければならないと。
あらゆる可能性を考え、それらの対策を立てないと生き残れないと、それほど自分に言い聞かせておきながら。
何たる不始末。
何たる無様なのだ。
あの秘密基地がある絶壁を下りて、密林の中に逃げ込んでから約30分。
その間に俺は急ぐつもりでいながらも、どこか油断していたに違いない。
何しろこの少女は長い間、あの頭がイカれた一族の中で苦しみ続けたのだ。
体は傷だらけだし、ちゃんと食べていないのか体力も少ない状態だった。
だから、この子の状態を気にしつつ、わざとペースを緩くしてしまったが……
その隙にあの連中が体制を立て直し、すぐに追ってきたのである。
いくら何でも早い。
俺が予想してよりも二倍以上早く追い付かれてしまった。
……いや、違う。
……それは違うだろう。
今になって、何故俺はまだ自己欺瞞を話しているのだ。
予想よりも早かったのではない。
予想は既にしていた。
こうなるかも知れないと。
あのバジルとやらの麻痺が解かれるのが時間の問題である以上、この状況は充分にあり得ると踏んでいた。
頭ではもしかしたらと思っていたのだ。
……だが、それでも何とかなるだろうと、俺は楽観的に事を考えてしまった。
連中が追い付いたとしても俺ならば活路を開けるはずだと、そう考え、思考するのを諦め、足の速度を緩めてしまった。
(何が俺ならば大丈夫だってんだ……!一度、まぐれに上手くいったからといってすぐ調子に乗りやがって……!)
先ほどの俺自身を強く殴りたい。
あの秘密基地を脱出する時、俺の思惑があまりにも上手く働いたことで油断してしまったに違いない。
もしかしたら、チートがなくても生きていけるんじゃないかと盛り上がったに違いないのだ。
決して自惚れてはならないと、これはあくまで俺が能力があるからではなく、運ということも絡んできたからの結果だと、そう自分に言い聞かせておきながら。
その実。
心のどこかには既に慢心と油断が生まれていた。
こうなる可能性を予想してなお、それに対する対策を練る事を疎かにしてしまう程まで。
「クソ……!」
今になって思えば何処も彼処も全部穴だらけだ。
何故あの場でバジルを生かした?
奴を殺していたら、あの連中は頭を失い、体制を整えるのにも莫大な時間がかかったはずだ。
……いや、あの中で注意すべきだったのはバジルだけだった以上、俺達を追撃しようとしても、どこに行けばいいかもわからず、追って来れなかったかも知れない。
それに逃げる時のペースを緩めたのもそうだ。
この子の状態を気にする余裕が今の俺にあったか?
今の状況は体に気を配る気遣いが出来るほど、時間と余裕溢れるバカンスだったか?
……違うだろう。
そんな余裕は全くなかっただろうが。
バジルが生きている以上、すぐに追手が来るのはわかっていた筈なのに。
この状況を俺は真っ先に考え浮かんでいたはずなのに。
何故、油断などした。
何故、自惚れてしまった。
よりにもよって、俺だけではなく、もう一人守るべき命が増えている状況で……!
(この、どうしようもない屑が……!!これじゃ本当にシグマに言われたとおりじゃないか!)
非情にならなければ生き残れない。
あの胡散臭い男が稽古で言っていた言葉をこの数時間の間、一体どれくらい実感しているのだろうか。
悔しくて涙が出る。
これは本来避けられたはずの、またはもっと遅らせた筈の出来事だ。
それを一時の油断と慢心で招いてしまったのだ。
この状況も、脇腹の痛みも、少女が怖がっている姿も、本来ならば俺が充分に対処できたものなのに……!
「もう少しだ!!撃て!呪石を使うんだ!!」
「……ッ!」
……次はない。
次は絶対にこんなミスなど犯さない。
奥歯を食いしばり目から血が出るほど集中する。
脇腹からの痛みなど、この屈辱と悔しさに比べれば痛みのいの字すら感じられない。
もし苦痛があったとしても、この状況を脱するまで無視するのみだ。
これは紛れもなく俺が犯したミスだ。
油断さえしなければ。
慎重にやっていれば防がれた事態なのだ。
ならば、何がなんでもこの子を守り通す。
このままこの子を奪われたら。
俺のミスでこの子をまたあんな地獄に送るはめになったら、俺は自分の馬鹿馬鹿しさを絶対に許せなくなる。
「うわああああ!あいつ、岩を蹴り落として……!」
「慌てるな!それほど追い詰めたって事だ!もうすぐ捕らえられる!」
上り坂で少女を先行させ、地盤が不安定な岩石に体当たりをし、下へと落とす。
追手達の内、先行していた三人が突然降ってくる岩に当たり倒れる。
だが、足りない。
まだ、十人以上残っている。
「追え、追うんだ!!」
「ッ。」
無意識的に舌打をしながら、急いで上へと上がる。
先行している少女は俺の一喝を聞きちゃんと従っているのか、下にいる俺も見ようとせず、ひたすら坂道を上っている。
それでいい。
もし、また俺を気遣って俺の方を振り向いたりしたら本当に怒るどころだった。
……だが、どうする。
この傾斜は樹と岩石が多く、激しくも険しい上り坂ではあるが、それだけだ。
成人といえど上るのにはかなり厳しい道ではあっても、それでは少し時間を稼ぐだけなのだ。
アイテムも何もない今の状態ではどうする事もできない。
あの基地の倉庫で唯一、身体強化と関わるものとして、一定時間スピードを大きくアップさせるアイテムを作りはしたが、それもバジルとの戦闘で使ってしまった。
このまま時間が長引いたら、やられるのは必然だ。
少女の体力はもちろん、子供の状態である俺もいずれ走れなくなり、完全に追い付かれてしまう。
今までは何とか周りの地形や遮蔽物を上手く使いここまで逃げ切ったが、いい加減それも限界に近い。
「ゼリッツ!!」
下から来る追手との距離を気にする時だった。
先に上がっていた少女が大きな声で叫ぶのが聞こえる。
あの子があんなに声を大きくするのを始めて聞く事に驚き。
この場で聞いた事もない人の名前を聞いたので二度驚く。
「ゼリッツじゃなく、セリックだぞ!どうした?!何かあったか?!」
あの子があんなに大きな声を出すのは尋常ではない。
きっと俺に何か知らせるべき事があるはず。
まさか、この傾斜を上った先は行き止まりの絶壁とかじゃないだろうな?!
流石にそれだと、もう俺、周りとか気にせず大声で神を恨むぞ!?
「あぬ!あおご!あう!」
少し上にいる少女が何処かを指さししながら叫ぶ。
発音が正確ではないが、あの必死さは何かを必ず伝えたいみたいだ。
「あれは……!」
夜空を覆っていた暗雲が風によって徐々に流れると、ずっと隠れていた満月が再び姿を現す。
それにより注がれる月光を受け、それが見えた。
俺達が今登っている傾斜の上、その先には高い樹達で隠れていた大きな絶壁と洞窟があるのだった。
少女は近くに行く事でそれに気付き、俺に知らせようとしたのだろう。
今追ってくる奴らがいたあの洞窟を思い出す矢先、頭に一つの計画が浮かぶ。
どれほど深いかも知らず、一本道かどうかもわからない。
もしかしたら百メータもならない、洞窟とも呼べないほどの穴にすぎないかも知らない。
もしそうならば、自ら行き止まりに行った事になり、簡単に捕らわれるだけだろう。
それを知っているからこそ、上にいる少女は洞窟を指さしながら慌てているのだ。
'どうしよう?'と目で俺に聞いてくる。
「そこを目指せ!!大丈夫だ!俺を信じろ!」
「……!うん!」
俺が指示を下した刹那、少女はすぐにでも傾斜を上り洞窟の方へと走る。
それで問題ない。
確に、あれが行き止まりの可能性も充分にあるのだが、そんなのは関係ないのだ。
(一か八かだが、やるしかない。せめてあの子だけは無事に逃す。暫く離れる事になっても……)
下にいる追手とどれほど離れているかを確認しながら、頭の中でつい先に浮かんだ作戦を検討する。
……どう考えても非常に危険な賭けだ。
率直に言って、上手くいったとしてもまず俺が無事では済まない。
あの子はほぼ間違いなく守れるが、俺の身の安全はわからないのだ。
だが。
(それがどうした?)
頭の中から'正気か'と、'それは自殺行為だ'と慌てて止める声を無理やり黙らせる。
このまま行けば少女と俺、二人とも全部やられる。
だがこれを実行すれば、まず間違いなく少女は生き残る。
ならば、迷う必要もない。
二人ともやられて全てを失うか。
まず一人は確実に逃げられ、且つ、残る一人も5パーセントの確率で生き残れるか。
選択肢としてとちらを選べと強制するのなら、俺は断然、後者を選ぶ。
可能性が少しでもあるのなら、必死になってそこにしがみついてやる。
元々、現実をただ受け入れて何もかも諦められる性格だったら、死亡フラグを回避しようと今こうして逃げ出したりもしなかったし、そもそもそんな発想もしていないのだ。
「着いたか!?なら、お前は先にその中へ入っていろ!俺がいいと言うまで絶対その中から出てくるな……あ?」
自ずと言葉が途切れる。
傾斜を何とか全部登ると、洞窟の前で止まっている少女が見えたのだ。
どうしたかと叫ぼうとするが、その直前に気付いてしまう。
少女が慌てる様子で洞窟の中を見ているということを。
そして、月の明かりが洞窟の周辺を微かに照らし、洞窟の入り口の方から小さな'陰'が伸びている事を。
それが何を意味するか、瞬時に理解する。
洞窟の前へ止まり、その中を睨む少女。
そして洞窟の入り口の方から小さく伸びている陰。
それはつまり。
誰かが洞窟の入り口の前に立っている事ではないか。
「ッッ!!駄目だ!!こっちに来い!!」
どうするべきかと考えるより先に、口が動いた。
少女に向けて叫びながら、腰につないでいたナイフを手に取る。
「!」
息を飲む声が聞こえた気がした。
洞窟の前に立っている者が驚く気配のようだ。
追手の仲間か?
待ち伏せ?
それともモンスターか何かか?
一秒も満たない間、頭の中で数多くの可能性が浮かぶ。
そうする間、白き少女が俺の方へと走しってきて、強く抱きついてくる。
「うっ……!?」
きっと怖かったのだろう。
今までずっと逃げる為に走り、追われた挙げ句、あの洞窟の前で謎の誰かと対峙したのだ。
俺に向けてすぐに走ってきたり、こうやって強く抱きしめてくるあたり。
俺を信頼してくれているようで誠に嬉しいのですが。
いい加減、脇腹の傷が痛みます。
一瞬、あまりの激痛で気絶しそうだったのですが。
いや、マジで。
「……大丈夫だから、お前は下がっていろ。」
涙が出そうなのを堪え、震えている少女の頭を撫でながら呟く。
少女が頷くのを感じながら、俺は手に取ったナイフを強く握り、洞窟へ向かった。
月の明かりはあるものの、まだ相手がよく見えない。
洞窟の入り口の横に高い樹が立っているせいで、月光が絶妙に遮られているのだ。
そのため、顔がよく見えない。
「誰だ!こっちは忙しいんだぞ!お化けならさっさと消えるが良し!ただの通り人なら……あれ?」
……おかしい。
何がおかしいかと言うと、相手の背がおかしい。
顔はまだ見えないが、下半身がいくら何でも短い。
成人の腰にも満たないほどの長さだ。
あれではとても成人とは言えず、俺や俺の後ろにくっついている少女と変わらない程の子供としか……。
「……って、ああああああ!?お、お前……!?ちょっ!?何でお前がここにいるんだよ?!」
「……それはこっちが聞きたい事なのだが。貴様こそ、なぜここにいる。」
段々洞窟に近付くにつれ、ようやく相手の顔が完全に見えた瞬間、思わず俺は叫んでしまった。
だって仕方かないだろう。
この洞窟の前に待ち構えた人物は俺が知っていて、尚且つ、こんな所にいるとは思えない人物なのだ。
「聞いたのはこっちが先だか……くっ!?」
続いて言おうとした時、脇腹から厳しい苦痛が心臓と喉を刺すかのように走る。
いくら何でも興奮しすぎで大声を出しすぎたか。
傷が響いてしまった。
俺が思わず言葉を飲み込み、苦しみに悶えていると、後ろにいる少女がどうしたかと言う目で俺を見てくる。
……そうだ。
俺は何を悠長に話をしているんだ。
今はそれどころではないだろうが。
「どうした。いきなり黙り込んで。それにその後ろの子はなんだ。貴様、もしかして……」
「うるさい!今はそんなことを言っている場合ではないんだよ!」
俺が叫ぶと後ろの少女がピクッと震えるのが感じられる。
同時に、俺を見る灰色の髪をしている小さき少年の目も鋭くなる。
子供でもつい二度見してしまう程に眉目秀麗な、美少年と言うべき顔立ち。
それでいて冷たく、冷静に見える目付きと。
一目で普通の性格ではないとわかる、良く言えばプライドが高く、ぶっちゃけ生意気に見える表情。
灰色の髪とエメラルドの如く緑の瞳孔が特徴的な美少年。
この顔を俺が見間違う筈がない。
何しろ、この男の子はつい数時間前にも顔を見たことがあるのだ。
「ピエル!お前がどうしてここにいるかはわからないが、ちょうどいい!この子と一緒に洞窟の中に入っていろ!」
ピエル。
【黒きサソリ】という死亡フラグ集団がこの島に滞在する間に捕まった捕虜の少年。
どうしてこの子が今ここにいるかはわからない。
奴らが泊まっているバルティア要塞にいる筈なのに、どうしてこのどこかもわからない場所にいるのか。
俺と同様、逃げ出したのか。
逃げたのならどうやってここまで来たのか。
頭に浮かぶ全ての疑問を後回しにする。
今やるべき事をするためにも。
脅威はすぐそこに来ているのだから。
「お前もこのビエルと一緒にこの中へ入っていろ。いいな?俺がサインを送るまでは絶対に外へ出るな。後、もしも大きな爆発の音が出たらもう後先構わず逃げろ。俺を待つとかは考えず、全力で。お前だけでも生き残るという気持ちで走るんだ。」
後ろで俺の服を掴んでいる少女が慌てる様子を見せる。
だが、詳しく説明する時間がない。
俺が少女を無理やりピエルの元へと押し付けると、珍しく少女は'いやだ'と頑固に首を横に振るう。
「……おい、それはどういう……」
「あそこの上に何がいるぞ!あっちに逃げたに違いない!」
「もう少しだ!巫女を攫った不届き者を捕らえろ!!」
ッ……!
近い。あと一分も掛らず完全に登ってくるに違いない。
これなら計画を準備する時間もなくなる。
俺は背負っているリュックを少女に無理やり渡し、ピエルの方を見る。
こいつがどうしてここにいるかはわからないが、今はそれだけが唯一の救いだ。
あの要塞からここまで逃げて来たのなら、モンスターと遭遇せずこの夜中を安全に切り抜ける方法があるということなのだから。
「この子を頼む。リュックには俺が今まで貯めた逃走用の金や食糧、水が全部入っている。この子だけでなく、お前を含めても数日は食べる心配をしなくてもいい程だ。」
「……。」
「これを全部やる。だから、その代わりに俺が先ほど言ったよう、俺がサインを送るか、大きな音が出るまでこいつと一緒に洞窟の中へ入り守っていてくれ。」
どうしても俺の元へ来ようとする少女を何とかピエルの方に力で押し付けながら語る。
いい加減に脇腹からの痛みが酷い。
これ以上無駄な力も、時間も、使う余裕はないのだ。
俺が真剣にピエルを睨らむと、灰色の少年はそんな俺と少女を見比べ、小さくため息を吐いた。
その間にも下からは段々激しい息の音と、足音、男達の怒鳴り声が聞こえている。
「頼む。時間がないんだ。」
「……勝手に話を進めるな。少しはその話を聞くオレの立場でもなってみろ。」
「それは申し訳ないと思うけど、今は……!」
「わかっている。とにかく付いて来い。何か企んでいるようだが、必要ない。抜け道がある。」
それだけを口にしてピエルは直ぐ洞窟の中に入ってしまった。
要点のみを語る、簡潔で無機質な喋り方。
いきなりの話に付いていけず俺はついポカンとしてしまう。
傭兵たちにも怯えない度胸といい、子供らしくない鋭い目付きといい、以前から肝が据わっている子供とは思っていたが。
この急なる事態にも全然動じていないな。
……後で大きくなったら、一体どんな奴になるのやら。
「……?」
「ああ、うん。そんな目で見なくてもいい。今は付いて行くしかないだろう。」
リュックを大切に抱きしめながら、少女が俺を見上げてくる。
'どうするのか'といいたいのだろう。
ピエルは抜け道があると言ったのだ。
あのゴロツキ共の要塞を抜けてここにいる以上、信じてみる価値はあるはず。
時間はない。
俺は少女の手を掴み先行しているピエルを追って洞窟の中へと入った。
***
結論から言うと、俺と少女が洞窟と思っていたのは只の洞窟ではなかった。
……いや、この説明は少し誤解の余地がある。
あのカルト宗教みたいな奴らがアジトにしていた人為的な洞窟みたいという意味ではない。
あくまで'隠された道'と通じるという意味で普通の洞窟ではなかったのだ。
最悪な予想通り、この洞窟は短くも行き止まりな場所だったか、ピエルが地面にある小さな岩を持ち上げると隠し扉みたいな物があったのだ。
あの頭いかれた一族の基地に侵入した時、俺が通った通路みたいな場所が。
地面にできている扉を開けると、梯子があり、その下の地下には途轍もなく大きな通路があった。
人がいない地下鉄やトンネルといったイメージに近い。
天井は五メータ程の高さで、広さもまた電車が八つは並べるほど広いと来た。
それに、どう見ても古い昔からあったと思わせる雰囲気がある。
色があせった煉瓦によって出来てる地下通路は、どこか古い遺跡のようにも見える。
「……ここは?」
「このセピア島に建設された退避用の通路だ。はるか昔、精霊神獣が怒り出した時にその憤怒から逃れるために作られたと言うが、真実は知らん。一つ言えるのは、構造上、この通路はセピア島全体に繋がっているという事だ。」
「なるほど。ならば、当然バルティア要塞とも繋がっていると。お前はこの道を知っていたからこそ、【黒きサソリ】の目を盗んでここにいるという事だな?」
俺がそれとなく探りをいれると、ピエルは不機嫌な気持ちを隠そうともせず、'ふん'と鼻で笑う。
バルティア要塞はたしか、精霊新獣から身を守る為に造られたと言われた施設だった。
この通路も同じ目的で造られたのなら、通じていてもおかしくないと思い、それとなく聞いて見たのだが、当たりだったらしい。
「……でも、どうしてこの道の存在を?この島の人は全部知っているのか?なら、追手達も……」
「いや、それはない。言ったはずだ。島全体に通じていると。古いせいで道が塞がっている場合もあるにはあるが、基本、この通路を通ればどこにでも行ける。だからこそ……」
「途轍もなく複雑な迷路のようだと。追手がここに入っても俺達を捕らえるのは難しいという事か?」
「……ああ。」
俺が話しに割り込んだのが意外だったのか、ピエルの眉が微妙にピクッとする。
さすがは美少年、そういう何気ない仕草も結構絵になるな。
隣にいるこの隠しボスの少女も凄く可愛いし、この子達に比べると、今更だが'カイル'という子は本当にモブキャラだなと実感する。
同じモブキャラの筈なのに、ピエル君がこんなにかっこいい美少年だと何か悲しくなるのですが。
「しかし、それなら理解できない事があるね。その言い方だと君はこの道をよく知っているみたいだけど?」
「それが何だ。」
「いや、不思議だろう?あの大人達さえも迷うほどの道をどうして君は全部知っているのかな、とさ。それに……」
「黙れ。これ以上、余計な口を挟むなら置いて行く。貴様がそれでいいのならオレも止めはしないがな。」
「了解、了解。大人しく黙っていますよ。じゃあ、ピエル君。後はよろしく。今、俺とこの子の頼みは君しかいないからね。」
流石にこの状況でこの子の気分を害したくはない。
唯一とも言える命の綱なのだ。
ここは出来る限りこの子をちやほやしながら進むべきだろう。
……それにここが安全だと聞いて少し安心したのか、脇腹の痛みが酷くなり始めている。
さすがにペラペラと長くは話せない。
傷がかなり痛むのだ。
俺が降参するという意味で両手を上げると、ピエルが静かに呟いた。
「貴様、何か雰囲気が違うな。今までは……」
「うん?なんだって?」
「……何でもない。付いてこい。」
どうしたんだろう、アイツ。
俺が自ずと俺の隣にくっついている少女を見ると、視線が合った少女がブンブンと首を横に振るう。
'知らないよ?'というのだろうか。
耳が聞こえずとも俺の言葉を全部理解するから、もしかしたらと思ったが、流石に小さな声は聞けないらしい。
それからは黙って先行するピエルを付いていくのみだった。
一番前が道を知っているピエル。
その後ろを白き少女が追うようにして、俺が一番後ろ、殿をつとめる。
追手が来ることを警戒する為だった。
もしもの時には、俺が残り連中を足止めしようと。
だが、その必要はなかったらしい。
ピエルが言っていた通り、この褐色の煉瓦で出来ている地下通路は本当に道が複雑で難解だったのだ。
分かれ道などは50メータごとに現われるし、同時に四つの道が現われることもある。
まさしく迷宮、またはダンジョンと言えるだろう。
もしこのセピア島が原作でも登場していたら、間違いなくこの地下迷宮がメインダンジョンになっていたに違いない。
そんな場所をピエルは地図も持っていないのに何の迷いなく道を選び、進む。
その姿は頼もしくあり、あまりにも不可解だった。
これほどの場所を熟知しているのならば、どうして今まであの要塞から逃げなかったのか。
シグマといえど、ここまでの地下迷宮を踏破して追い付くことは出来ないと思うが。
……まあ、とにかく。
どうもこれ以上、追手の心配をしなくても済みそうなので、耳を澄ませて緊張するのはやめることにした。
その代わりに少女の状態を見たり、話しかけたりなどしながらピエルを追う。
この子ももう大丈夫だと思ったのか、安心したような表情を浮かぶが、いい加減疲れた様子だ。
出来れば早く安全などころで休ませたいが……。
「なあ、ピエル。どこか休めるところとかないかな?この子をちょっと休憩させたいんだけど。」
「……馴れ馴れしくオレの名前を呼ぶな、気色悪い。……後、もうすぐ着くから我慢しろ。こんな不潔な場所に留まっては休息にもならん。むしろ悪化するだけだ。」
言葉は棘々しいし無愛想。
それに俺を見る目は傭兵への嫌悪を隠そうともせず、冷たいと来た。
そのくせに、白き少女の様子を見てしっかりと答えている。
……こいつ、もしかしてあれか?
いわゆるツンデレって奴なのか?
そういえば毎度'ふん'と、鼻で傲慢に笑うあたり、ピッタリといったらピッタリなんだが。
男のツンデレを見て喜ぶ性格ではないぞ、俺は。
「そうかー、じゃあしょうがないなー。」
だが、俺は敢えて何も言わず頷く。
まあ、ツンデレっていうのは要はデレ隠しだからね。
子供ならではの行動だろう。
好きな子に向けて、どうしても素直になれないとか、大人っぽく見せようとわざと好きなものを嫌いと言うとか、小さい男の子にはよくある話ではないか。
ここは優しく見守るのが大人としての反応だ。
それはともかく。
どうもピエルはここで止まるつもりはないらしい。
なので、俺は少女に近付き、強制的に背負う事にした。
「え、え……!?」
「……貴様、何をしている。」
「えっ?見てわからない?おんぶだけど。」
もしかしたらおんぶを見たことがないのだろうか。
バタバタして反抗する少女をおんぶしようと頑張っていると、ピエルがおかしなものをみる目で俺をみる。
……あ、もしかして。
「もしや今までおんぶされた経験がいらっしゃらない?」
なるほど。
どうも子供らしくない冷たい印象というか。
無愛想な子だと思ったけど、どうやら親に甘やかされた事がないらしい。
世の中、厳しく子を育てる親もいるからな。
俺はどっちかて言うと、甘やかすほうなのでちょっと同情する。
……可愛そうに、後でこの子もおんぶしてやるべきだろうか。
「……おい、その目はやめろ。何故かわからないが無性に腹立つ。貴様、今オレに向かって失礼な事を考えていないだろうな。」
「イイエ、ゼンゼン。」
「うっ!ううっ!」
俺がピエルと話す間に、少女がずっとバタバタして俺の背に乗る事を拒否する。
恥ずかしがっているのか、それとも突然の出来事で驚いているのか。
どっちも気持ちはわかるが、暴れないで欲しい。
これも全部こいつを考えてやってるのに。
「嫌がるだろう。やめろ。」
「馬鹿いうなよ。こいつ、先からフラフラしてもう限界に近いのが目に見えるんだぞ?足も痛いだろうし、もうすぐ着くなら大丈夫だろうと思って……って。お前もいい加減にして暴れるなよ。疲れているのが見え見えだから。」
どうも嫌がる様子の少女を無理やりおんぶすると、ピエルがそんな俺達を見ながら呆れた視線を送る。
少女は続いて自分は大丈夫だと言うかのように'ううん!'という言葉を続けるがそんなのは無視だ。
俺も傷付いてはいるが、この子は元からあの黒頭巾共に拷問を受け続け、体力がなかったのだ。
俺が一番後ろで歩いていたから、嫌でもこの子が限界だとわかってしまう。
足が今でも倒れそうにフラフラしてるのを見ると流石に放って置けない。
不安になるじゃないか。
「大丈夫だから安心しろ!この程度で泣き言をいうほど老いてはいないぞ?まだまだ若いからな、俺は。」
「……オレとおない年だろう、貴様は。」
「あ、うん。まあ、そうだけどな。気分的にだよ、気分的。ノリが悪いな、ピエル君は。」
うっかり元の俺らしく語ってしまったのだが、流石にそれを気付くことは出来ないだろう。
恥ずかしいのか、耳のあたりから'うう……'という少女の呻き声を鑑賞していると、ピエルは何故か大きくため息をついた。
「訳がわからん……。」
「うん?何がだ?」
「何でもない。その子を随分と可愛がると思うだけだ。家族か?」
「俺にそんな者はいないぞ。知らなかったか?」
「いや、知っている。だからこそ…………まあ、いい。その荷物をオレに渡せ。重いだろう、そのままだと。」
どこか不自然に思われる動きでピエルが近付く。
どうも、少女が抱きついてるリュックを預かろうとするらしい。
その配慮は率直にいって、助かる。
脇腹の痛みが段々酷くなっているのだ。
この子を不安にさせたくないから敢えてそのような素振りは見せていないが、流石にキツイ。
ほんのちょっとだけど、うん、本当にほんのちょっとだけど。
「……おい、手を離せ。そうしないと荷物を預かれないだろうが。……待て、何だ、その目は。不審者を見る目でオレを見るのはやめろ。おい、ちょっ、待て!!噛み付こうとするな!!」
俺が必死に痛みを忘れようとしていると、何故か俺の背のあたりから楽しげな音が聞こえる。
後、少女が俺の背から動く度に体が揺らいで痛い。
いや、この程度は大人の俺は我慢出来るけど?
痛いのは痛いし?
流石にちょっとはこっちを配慮して欲しいというか……。
いや、傷付いてるのを知らせたくないと言っておきながらこう言うのもなんだけどさ。
「くっ……!この、意地っ張りが……!荷物を預かるだけだ!何故それがわからん!?後、変態を見る目でオレを見るな……!」
「いやっ!」
「お前ら、いつの間にそんなに仲よくなったの?それに凄いな、ピエル。この子に明確に'嫌'と言わせたのお前が初めてだぞ。」
まあ、この子と会ってまだ一日も経っていないけどね。
……でもこの子がここまで明確に拒否するのは始めて見るな。
常に怖い顔をしているせいなのか、それともいつも不機嫌な表情をしているせいか。
まさか、まともに話せないこの子にここまで言わせるとは。
「ある意味では才能だな。俺は死んでもごめんな才能だけど。」
「言ってる場合か!ふざける暇があったら貴様も言え!この子と何か関係があるんだろう?!」
「そう言ってもなー、正直、俺はこの子とは家族でも友だちでもないから、関係があると言われると困るんだが。」
……あれ、本当に俺とこの子はどういう関係になるんだろう?
俺の認識としてはゲームプレイヤーと隠しボスという関係だが、流石にそれを他の人には言えないし。
冗談で言っていたお父さん気取りをここで言うべきか?
「貴様ら……、見ず知らずの他人なのか?」
「だから、そう言っているだろう。【黒きサソリ】の見習い小僧、カイルという奴は兄弟も親もない生まれながらの孤児だぞ。この一ヶ月間、ずっと一緒にいたのにそれも知らないとは。傭兵を嫌うのはわかるけどよ。周りを完全に無視すると後で痛い目にあうからね、そこんとこ気をつげるのがよくない?自分の感情を隠す事も出来るようにならないとさ。」
「それは……。」
何故か、俺の言葉を聞きピエルが固まってしまう。
何かを考え込むみたいだ。
……ううん、相手が子供だからつい指摘するように言ってしまったが、不味かったか?
…………そうだよな、今の俺は見た目が子供だし、それにたとえ相手が子供だろうと偉そうに言うのは間違いかも知れない。
何様のつもりだよと言われてもぐうの音も出ないし。
これからはもっと気をつけよう。
「さてと、なあ、君。どうしたの?せっかくおんぶまでしてやったのに、暴れると困るだろう。」
「うう……。」
首だけ動いて後ろを見ながら語ると、少女は見るからにショボンとしている。
落ち込みながら目で'でも'と言っている事が見える。
……もしや、こいつ。
「……あの基地で俺が何もかもまず疑いかかるべきと言ったことを守ったのか?」
「うん。」
少女が迷いなく頷く。
俺はあくまで軽い気持ちで言ったのだが、この子はそれをちゃんと覚え、実践したらしい。
ピエルにリュックを渡さなかったのはこれが大事とわかり、その好意を疑ったからか。
……こうなると率直にいって、怒りたくても怒れないな。
むしろ、ここまで俺の言葉を大事に思ってくれる事をわかると嬉しくなってしまう。
「そうか、そうかー。うん、よくやった!でも大丈夫だよ?ここのピエル君はあの連中から逃げる事を手伝ってくれたしね。まあ、顔は怖いけど、疑いすぎて全てを信じられなくなるのも困るぞ?何事も中庸というものが重要なんだ。誰を信じ、何を疑うべきかを見極めるのは……まあ、最初は難しいけど、段々わかっていくからね。」
「……おい、顔が怖いって何だ、失礼だろう、貴様。」
「いや、事実だし。」
「うん。」
「……。」
俺と少女が同時に頷くと、無愛想な少年が黙り込む。
見た目は普通にかっこいいけどね、こいつ。
将来に間違いなくイケ面になるとは思うけど、流石に顔が強張りすぎるし。
もっとニコニコしていないと相手にいい印象を与えないぞ?
俺もどっちかというと基本は無愛想な表情なので仕事をするときは先輩によく怒られたものだ。
'お前、ちょっとは笑えよ!何か不満でもあるのか!?'とか言われていたっけ。
……あれ、素の顔だったのにね。
むしろ、嬉しい方だったのに……。
思い出すとちょっと悲しくなってきた。
「……とにかく、別に俺達の荷物を奪う気はないはずだから大丈夫。預けて良いよ。」
そこまでいうと、少女は素直に頷き、ずっと抱いていたリュックをピエルに渡す。
いきなりの事で慌てたのか、少年はぎこちない仕草でそれを受け止めた。
「よし、後はごめんなさいと言いなさい。相手に迷惑をかけた時はちゃんと謝らないとね。」
「おえんあしゃい。」
「あ、ああ。それは構わないが……うん?」
少女の発音がおかしいのが気になっているのだろうか。
ピエルは戸惑いながら首を捻る。
まあ、俺が聞いても流石におかしい言葉だが、これでもこの子なりにちゃんと謝ろうとしたのだ。
こういう時はちゃんと褒めないといけない。
「偉い偉い、間違ったことをすぐに認めて謝れるのは偉い事だぞ。」
「うん。」
少女はまたも素直に頷く。
どうも俺の言葉はちゃんと覚えているようだし、心性も悪い子ではないからこのぐらいでいいだろう。
それに、そろそろ本当に傷が痛む。
この子の前で痛い素振りを見せたくないから我慢しているが、痛むのは仕方がないのだ。
「そろそろ行くぞ、もうすぐ着くんだろう?」
「あ、ああ。わかっている。……それで、その子は。」
「発音が気になるのはわかるけど、しようがないからね。この子、耳が聞こえないらしいんだ。」
俺が歩み出すにつれ、また先行し始めた少年が一瞬ピクッとする。
それから、すぐ俺と俺がおんぶしている少女の方へと振り返る。
流石になにを言いたいかわかるので、質問される前に答えた。
「耳が聞こえないけどどうも他の人が何を言ってるかはわかるらしいぞ。原理は俺も知らないけどさ。でも、耳が聞こえる訳ではないから発音はどうも駄目っぽい。」
「…………何かの事故か?それとも。」
「先ほど俺達が追われているのを見ただろう?そいつらの仕業だよ。」
「……少し、失礼する。」
「うん?」
灰色の少年が俺の元へ来るかと思うと、何故かまた少女に近付く。
背から直接、少女の体が緊張するのが伝えてくるが抵抗はしない。
先ほど俺が言ったことを実践するのだろう。
ピエルはその間に少女を観察した後、静かに呟いた。
「……成程。深刻だな、これは。本来なら治せる傷まで長く放置されている。そのせいで悪化されているものまであるとは……。」
「え?お前、そういうのもわかるの?」
「ああ、お祖父……知り合いが医療に詳しいのでな、ある程度はわかる。本物の医者には到底敵わない浅はかな知識だが。」
「いやいや、それでも凄いじゃないか。その歳でよくわかるんだな。偉いぞ。」
「……嫌みか、貴様。」
ピエルがプイッと顔を背く。
俺としては誠の本音だったのだが、どうも気に入らないらしい。
あの歳でそのあたりの知識があるとか、素直に感心しているのだがな。
(あ。)
……いや、違うな。
どうもそれではないっぽい。
耳が少し赤くなっているのを見ると、どうもこれはただのデレ隠しみたいだ。
……。
…………あれ?
何だろう。
顔を赤くして、不器用な事を言いながらデレ隠しする美少年とか。
何か凄い既視感を覚えるんじゃが。
…………ここが乙女ゲームの世界だからかな?
「それよりも、貴様。その子供の事だが……いや、流石にこれでは不便か。その前に聞こう。その子の名はなんだ?」
「え?」
一瞬、頭が真っ白になる。
それと同時に俺の前で歩いていたピエルがピタッと止まる。
「……まさか、知らないというのか。」
その目が鋭くなり、同時に呆れたような視線になるのが見える。
わかる。
俺はわかるぞ。
あれは心底から駄目な奴を見る時、哀れみを抱く視線だ。
まさか異世界に転生してから、遥かに歳が離れた年下に哀れみの視線を受けるとは。
何という不覚。
「し、仕方かないだろう?!この子を見つけて逃げるだけでもいっぱいいっぱいだったし!それに、この子はまともに話せないから聞けなかったんだよ!」
「……そういえば、全く関係ない他人と言っていたか。名前も知らないほどの。」
「ああ、そして逃げる時はその余裕すらなかったから聞きそびれただけだ。言っておくけど大変だったぞ?あいつらからこの子を助けるのは。流石の俺もここまで厳しいのは始めてだったし。」
いや、本当に。
日本にいた頃、社会人になってからも色々困り事が多かったし、それらも勿論大変だったけどさ。
少なくともそれらは命の危機はなかったからな。
今回は一歩間違うと死ぬ危険が多かった分、精神の疲労も普通ではない。
この子の命も背負っていたから、尚更、責任感を感じざるを得なかったし。
今思えばよくあそこから逃げ出したな、俺。
(まあ、最後には油断して本当に危なかったが……、それは今後のために反省するとして。)
「…………そうか。」
「ああ、だから名前も聞き出す暇がなかったって事。」
だからその哀れみの目で俺を見るのはやめてくれって事です、はい。
「では、ここで問うべきだろう。いつまで'その子'呼ばわりも迷惑な話だ。」
「あ、うん、そうだね。」
腕を組み、大きくため息を吐きながら少年が冷静に語る。
あまりにも自然に話しを纏めるから自ずと頷いてしまった。
……何だろう。
このピエルという子、子供とは思えない程、大人っぽいんじゃが。
あんまり話していなかったけど、こういう子だったのか。
「えっと、君?今更だけど、名前はなんだい?」
うん、自分で言いながら本当に今更だわ。
いくら忙しかったとは言えど、今になって名前を聞くとか、ホント何していたの、俺。
馬鹿なのかな?
これはピエルに情けない奴と見られてもしょうがないと思う時だった。
ずっとこの会話を聞いていた少女は、静かに首を横に振るう。
その意外な返答に俺とピエルはついお互いに視線を交換してしまった。
その意味深な目でわかる。
今、俺達は完全に同じ考えを抱いている。
「名前がないのかな、これは。」
「もしくは、長い虐待で自分の名前も忘れたのだろう。あの傷から見るにその子がどういう扱いを受けたかは容易に想像できる。……あの傭兵擬き以外にも腐っている人々がいるとは、世も末な事だ。……救いようがない。」
「あ、うん。」
一瞬、ピエルの瞳が火がつけたかのように熱く燃える。
その瞳に宿るのは嫌悪だ。
あの要塞に捕虜として捕らえていながら、決して隠すことがなかったその目。
傭兵達を心底から軽蔑し、憎悪しているかのような、子供とは思えない視線。
……こいつ、本当に普通の子供なのだろうか。
もしや、俺と同じ転生者か何かではないかと思ってしまう。
'カイル'と同じモブキャラでありながらここまで強烈な印象とは。
これが未来のイケ面こと美少年が持つ力なのだろうか。
お前ももうちょっと頑張ってくれよ、カイル。
モブで雑魚キャラでも充分にかっこいいという例が目の前にいるからさ。
もっと、こう、お前も輝けるんじゃないか?
多分。
……まあ、もうカイルが俺なんじゃが。
「だが、困る。名前がないと何かと不便だ。」
「あ、じゃあさ。」
一瞬、頭に浮かんだ事があり、つい言葉を吐いてしまう。
でもそれは流石に短絡的ではないかと思い止めようとしてが、時すでに遅し。
ピエルは勿論のこと、俺の背におんぶしている少女からもはっきりと視線を感じられる。
「……意見があるのなら言え。いざという時に躊躇う奴は、人々の上に立つ資格がない。」
……いや、俺はそもそも上に立つ気もないんじゃが。
それとなく自然に何を言ってるの、この子?
本当に君は俺と同じモブキャラかよと言いたいのを飲み込む。
既に口に出してしまったのだ。
今更恥ずかしがる事もない。
「この子の本当の名前をわかるまででもいいからさ、'シルフィ'と呼んでもよくないかなと思ったんだよね。」
「シルフィ?変わった名前だな、何か意味があるのか?」
ずっと無愛想で大人っぽいピエルが始めて年相応の少年らしい顔をして、興味を示す。
同時に、俺の背から少女からもジーっと見つめるのが感じる。
どうやらかなり期待しているらしい。
……えっと、どうしよ。
意味を言うのが恥ずかしくなったんだが。
ほら、よくあるじゃん?
精霊だといったら、よく出てくる名前とかあるだろう。
ニンフとか、シルフとか、サラマンダーとか。
その中でもこの子はどこか自由奔放というか、時々心ここに有らずというか。
最初に出会った時に月明かりにあたっている姿がどこか、吹くと消えるみたいなイメージで、風みたいな子だと思い、風の精霊と言ったらすぐ浮かぶ'シルフ'が連想されたんだけど。
でもそのままだと女の子ぽっくないから。
ちょっと捻てみましたという感じで'シルフィ'なのです、はい。
……自分で考えても本当、何の特別な意味もない短絡的考えだ。
殴るとすぐ反応するというか、直感だけで話しているかのような。
うん、俺は脊椎反射だけで生きてるのかな?
「えっと……。その、俺の故郷ではな?幸運を示している言葉なんだよね。'シルフィ'というのは。これからの人生にはどうか幸せがありますようにと……、まあ、そんな感じ?その、以前にもこうしてこれからを考えて名をつけた事もあったからな。今回もそれとなく、浮かんだと言うか……。」
どうしよ。
自分でも言ってる事が滅茶苦茶なんだが。
でもなんかこのピエルという子には舐められたくないのだ。
一応精神は大人なのに、子供に情けないと思われるとか、悲しくない?
あ、うん、こんなに焦っている時点でもう手遅れかもしれないけど。
「……貴様という奴は。」
やっぱり、駄目なのだろうか。
俺を見るピエルの目が呆れているというか、引いているというか。
何とも複雑で、説明するのが難しい目をしている。
「……えっと。それで君はどうかな?やっぱり気に入らないなら……」
「ジルぴー。」
ちょっと不安になって、少女の様子を見ようとした時。
俺の耳元に小さな囁やきが聞こえる。
内心驚いて、首だけ動かし振り向くと。
背に乗っている少女が何故か俺を見ながら涙目をしていた。
……うむ。
この子は何故この状況で泣くのだろうか。
何か理由があるはずだし、漫画や小説なら何かと心の内の声とか、心情とかが語られてわかりやすいのだけど。
残念ながらそんな親切な説明はないし、俺は心の声を読むことも出来ない。
つまり、この状況で俺が何をすべきかというと。
「ピエル君、助けて。」
「……何故、そこでオレに話しかけるのだ。」
「だって、お前、何かと女の心とかをよくわかりそうだし。未来のイケ面だし。」
「どういう意味だ、まったく……。」
子供に頼るとか情けない?
何を言う。
個人には出来ないことが沢山あるのが常の世なのだ。
ならば、自分に出来ないことを出来る人と協力しながら事に当たらなければならない。
それが例え俺よりも遥かな歳下だとしても、俺は能力がある人を決して卑下したり、舐めたりしないのだ。
「だから、助けて!俺、なにか悪いことしたか?シルフィという名前はやっぱりださいから泣くのか?!」
「……少なくとも、オレにはそう見えないがな。その'シルフィ'とやらは耳が聞こえないらしいが、どうやら貴様は目が見えないらしい。」
「へ?」
どういう事かとピエルを見ると、'先に行っている'と意味をわからないことを言い、行ってしまう。
アイツ、逃げやがった!と叫びたいが、それも出来ない。
何しろ、俺の背中から音を殺し忍び泣きする音が聞こえるのだ。
この子は迷惑を掛けないように音を出さなくしようとするようだが、おんぶしているので無意味である。
俺の耳と鼓膜に音がダイレクトアタックしているのだから。
「そんなに気に入らないなら、その……別のを考えるぞ?今度はこう、もっとかっこいいのとか。」
俺が何とか慰めようとすると、少女が強く首を横に振るう。
あまりにも力が入り、首が怪我をしないか心配になる程だ。
涙で潤んでいる目で俺を見つめながら、少女は頑固に話す。
「ジルピー。」
「……いや、シルフィだけど。シルピーじゃなくて。」
「シヌビー。」
合ってない。
だが、そんなのは関係ないというように白き少女は潤んでいる目で俺を見つめる。
見たことがない目だった。
あの原作では決して見たことがない目。
隠しボスとしてこの子を画面で見たときには、何もかも死んでいるかのような暗い目だったのに。
「……それでいいのか?」
「うん。」
少女は頷きながら俺の首に腕を回し、包むかのように抱く。
そうしてぎゅっと力を入れる。
自分が今感じている感情を、感激を、激情をこうして少しでも伝えたいかのように。
……それで思い出してしまった。
いや、思い出したというよりは、'気付いた'というべきだろう。
何しろ、既に俺は隠しボス戦にあった会話や場面を全部思い出している。
重要なのはその中で俺が気付いていなかった事を、今になってわかったという事だ。
それはつまり、この子の名前。
'魔神 エウペイア'という、後になって魔女アウロラーから強制的に与えられた名前でもなく。
主人公達やイケ面達のようにストーリーで普通に出るはずだった、何気ない呼称。
誰もが持ちながら、それ故にその重要性を気付き難いもの。
その'名前'が、この子には全くなかったのを気付いたのだ。
魔神だと、エウペイアの紛い物だと。
主人公に、黒幕に、攻略対象にそう言われるだけであって、誰一人もこの子の名前を口にしていなかった。
周りの人物たちはただこの子を怪物呼ばわりするか、生け贄としてしか扱っていなかった。
あの胡散臭い一族の基地にいた時だってそうだ。
バジルも、ジャキルも、誰も彼もがこの子を巫女としか呼ばず、呪われた子だと言うだけで、たった一度も名前を口にしていない。
だから、気付く。
気付いてしまう。
今、この時こそが。
何もかもに見捨てられ、そして見捨てられる運命でもあったこの子にとって、どういう瞬間なのかを。
「……もしかして、名前を与えられるのは今回が初めて?」
俺の背に顔を埋めながら小さく頷く。
そして俺を抱きつく力がもっと強くなる。
……名前がないというのはどういう心境だろうか。
それは俺としてはよくわからない。
今でも'カイル'としての名前を持ち、'石田 栄一郎'という名前がちゃんとある俺としては。
きっと、この子の心境を、今の気持ちを完全には理解できないだろう。
この子が今まであそこでどういう生活を送り、どうやって生きてきたかをわからない以上、それらを勝手に推測するのは迷惑でしかないはずだ。
……それは原作ですら語られていなかった。
この子の名前も、素姓も、そのセリフさえも何もかも無視して。
まるで'魔神の器'以外に、お前には何も期待しないと、それ以外の役目はいないと言うかのように、何も語られず、無視されていた少女。
だからこそ、俺は黙ってこの子が、シルフィが泣き止めるまで何も話さずピエルを追う。
ただ、名前を与えられた。
それだけの事で、どんな時でも決して泣かなかった少女が泣き崩れるまでになる。
それが何を意味するかを、どれほどの奇跡なのかを噛み締めながら。