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転生した俺は乙女ゲーの隠しボスだった女の子を預かる。  作者: イオナ
一章. 10才、セピア島編
3/35

3. 俺は出会ってしまう。

こんばんは。

カイルこと石田 栄一郎です。


逃走をしてから約2時間が経過。

空は真っ黒で、夜風は夏にしてはかなり涼しく、まさに絶好の散歩日和と言えるでしょう。

月の光がないと前がよく見えない程なので、もし追手がいるとしても簡単に追い付かれる心配もなく、逃げるにはちょうど良い日だと言えます。


そう。

俺は今逃走の真っ最中である。

【黒きサソリ】が拠点としている要塞の姿もとっくに見えなくなっている。


もしかしたら追手が来るのではないかという懸念はまだあるが、流石にこの夜だ。

何の使い道もない子供一人を追うため、この暗い夜にわざわざ追ってくるとは思えない。

シグマもそこまで愚かではない筈だ。


傭兵団が泊まっているバルティア要塞は'ラルヘンシブ山脈'の中でもかなりの高度に位置している。

岩盤と絶壁が多く、鬱蒼とした密林が大半を覆っているのがこの'ラルヘンシブ山脈'だ。


背が高い樹木が多いせいで空がよく見えず、当然ながら夜になると月の明かりが遮られ視野がかなり悪くなってしまう。

それにこの山脈には元から凶暴なモンスター達が多く棲息している。


普通ならいつモンスターと出会してもおかしくない危険なエリアだ。

ゲームでのダンジョンと大した差がない。


昼でも危険な場所なのに見通しまで悪くなる夜に部下達を向かわせるのは考え難い。

しかもその理由が子供一人だけを追う為なら尚更だ。

そんなことを強行するのなら、損得の計算すら出来ないとしか言えないだろ。


……まあ、そんなに危険な所をたった一人でウロチョロしている俺も大概だけとね。

冷静に見てこんな夜に山の中を子供一人が出歩いているとか、もはや正気の沙汰とは言えないだろ。


だが、俺も必死だ。

このチャンスを逃したら、いつあの死亡フラグ集団がら逃げられるかわかったものじゃない。

原作開始までどれくらい時間が残っているかをわからない以上、出来る限り早くあそこから離れる必要があるのだ。


それにな。

俺もそこまで考えなしではないよ。

モンスターの対策はちゃんとしてあるのだ。


「うん、さすがモンスター除けのアイテム。金を払うだけあるなー。」


『幸運の香水』。


原作ではダンジョンで弱いモンスターとエンカウントしないようにしてくれるアイテムだった。


うん、どのゲームでもよく見るあれだ。

一度使うと一定の時間だったり、または一定の距離だったり制限は様々だけど、その間には自分よりレベルが低いのとは遭遇しないようにしてくれるあれ。


RPGではよく見る便利アイテムがこの乙女ゲームにもあったのだ。


驚く事にこの『幸運の香水』は自分より弱いか強いかなどは関係なく、効果が切れるまで全てのモンスターと行き当たらないようにしてくれる超便利アイテムである。


何故香水がゲームでそのような役割を持っていたかはわからない。

乙女ゲームだからかな?

実に謎である。


近くの村でこれを見つけた時は目を疑った。

力が全くない状態で逃走を企んでいる俺としては、まさに必須と言えるアイテムだからな。

その場で貯めていた金を殆んど使い20個も買ってしまった。

店番のおばさんに変な目で見られたのは心に刺さったけど。


何故か、ここの人たちはこの香水がモンスター除けの効果があるのを知らないらしい。


まあ、原作でも効果が書かれた説明文の下に、〈世間では主に若い女性達に人気な商品!〉と設定が書いていた気がするし。


もしかして、ゲームでこれをモンスター除けに使ったのは単なる仕様の都合だったのかな?

設定としてはその効果が知らされていないとか?


「……だったらこれ、後で絶対売れるな。」


うん、無事に逃げ出したらこの知識を利用して金を儲ける気がする。

後で俺が覚えているアイテムの情報を全部纏めてみよう。

金になりそうなものがあるかも知れない。


とにかく、この香水のおかげで普段は滅茶苦茶危ない山脈でも今はモンスターと遭遇する心配はない。

本当に買ってよかったと心から安堵している。


だが、道のりが険しいのは変わりなく、子供の体では前へ進むだけでもかなり注意を払わないといけない。


下り坂で足を滑ってそのまま転んでみたら、樹と茂みでよく見えなかった崖っ端が現れそのまま落ちてしまう。

そのような出来事もこの険しい山脈では普通に起こりうる事なのだ。


……せめて体が元の体と似た体格ならよかったのに。


息はすぐに上がるし、体力や力も本来の体と比べると余りにも少ない。

今の状態で転生してしまったのが苦しい限りだ。


香水のお陰で危険な怪物と遭遇する心配はないが、進行速度が予想していたよりも遅い。

このままだと次のチェックポイントに着く頃には夜が明けてしまうかも。


「ふう……参ったな、これ。」


ちょっと休憩がてら大きな大樹に背を向けて座り込む。


背負っていたリュックから地図と羅針盤を取り出し、今の俺の居場所を確認する事にした。

密林のせいで月の明かりが遮られ弱いが、見えない程でもない。


……やっぱり。


事前に目的地までの見印として必ず通過する場所や構造物をチェックポイントとして表示していたが、その七つの内、三番目まではかなり距離がある。


予想していたよりも遥かに遅いペースだ。

うっかり元の俺の体を前提として計画を立ててしまったか?


……まあ、泣き言ばっかり言ってもしょうがない。

怪物に襲われる心配もなし、今はこのペースで行くしかないだろう。


夜に一人で山の中にいるのは心細いがこの香水がいるからな。

アイテム様に感謝ってことだ。


リュックから干し肉と水を入れた水筒を取り出し、小まめにカロリを摂取しながら改めて地図を見る。


何回見ても厳しく険しい山脈だ。

何しろこのセピア島の大半とも言える程に広範囲で大きな山脈だからな。


ここ、セピア島はとても小さい島である。


島の面積も狭いが、その面積さえも海辺を除くと残りの七割以上が全て山脈になっている火山島だ。


今こうして直接体験しているように、険しい山が連続で聳えているし、空がよく見えない程に高い樹達が密集して密林が成り立っている。

この山脈に生息しているモンスターも王国本土より手ごわい連中が多いらしい。


たが、それだけ樹の質が高く、希有な鉱石が多く埋められていて鉱産業が発達している。

それ故に王宮でも結構大切に扱われているとか何とか。


周りの村に行く度に今いるこの島を情報を集めると、このような話を聞くことが出来た。

小さいけど資源が豊かな場所で、'精霊神獣'の伝承も残っている由緒ある島だと住民達が誇らしく話していたな。


でも、果たしてこの話をどこまで信じていいのかはよくわからない。


自分の故郷の事は何となく良く言おうとするし、悪口はあんまりしなくなるからな。

王宮の王族と有力貴族が気にしている島だとか、何となく嘘っぽい。


だって、セピア島は俺がこの乙女ゲームをプレイした時にはなかった筈なのだ。

隠されたダンジョンやアイテムなどを探して全てのマップを回ったが、王国の南の方面にこんな島があった覚えはない。


それにこの'精霊神獣'とかの伝説もそうだ。


このセピア島には精霊神獣という、とんでもない程に強い精霊が眠りに就いた場所だと伝承が残っているらしい。


今【黒きサソリ】が拠点にしているあの要塞は、遥か昔、精霊神獣が人間に怒りを覚え裁きを与えようとした時、神獣の怒りが静まるのを待ちながら逃げ込む為に作った場所だという。

迎え撃つのではなく逃げ場として要塞を作ったとか、どうやらその精霊神獣とやらは相当強いのだろう。


しかし俺が問題視してるのは別の部分だ。


この伝承を聞いて個人的に驚いた事はこの島に眠る'精霊神獣'が、あの'精霊神王'と並べられる高い格を誇るという事だった。


「うむむ……。」


'精霊神王'はこの乙女ゲームをやったのならば忘れる筈もない。


何を隠そう、こいつこそがこのゲームの'ラスボス'だったのだ。


ハルパス王国は魔法が非常に発達した魔法強国という設定を持つ。


そのような発展の背景と理由がこの'精霊神王'のお陰だ。


王城の地下には全ての精霊達の導き手で、王でもある'精霊神王 エウペイア'が眠っている。

この精霊達の王は古き盟約に従い、王国の王族や貴族達に数々な祝福を与えるのだ。

強い精霊と契約できるようになるとか、高く質がいい魔力を持ちながら生まれるとかがそうだ。


精霊王の献身があってこそ、王国は精霊を使って成り立つ魔法が飛躍的に発展し、他の国とは比べない程の水準を誇るようになった。


それでだが。


何故こんなに重要な'精霊神王'がゲームのラスボスなのかと言うと、あれだ。

物を長く使うと必ず壊れるし、人も休まず働くと病気になるのと同じ事だ。


封印という名の眠りに就きながらも精霊王は力を使い続け王国の人々を祝福した。

だが、盟約で繋がっている王族が徐々に堕落していき、契約というパスを通じてその邪悪が精霊王の中にも溜まっていたのだ。


そのせいで本来の力が徐々に歪んでしまい、国のあらゆる所からその余波が現れ始める。

つまり、暴走寸前である。


その歪みと邪悪の蓄積が限界まで至るのがまさしくこの原作開始の時だった。


この乙女ゲームのメインストーリーは主に'精霊神王 エウペイア'が暴走するのを止めるのが肝要だった。

精霊王が弱まっているのを狙い、黒幕として登場する魔女が精霊王を'魔神'に変質させようとするのだ。


その計画は成功する直前までいって、最後には暴走した精霊王がラスボスになりそのまま戦うことになってしまう。


まあ、うん、それも結局主人公が攻略対象のイケ面と育てた愛によって浄化されて御仕舞いだけど。


表側はお姫様として、しかしその実は精霊神王への生け贄として王宮に迎えられる元平民の主人公。


彼女は驚く事にイケ面と育てた愛の力によって暴走する精霊神王を元に戻すのである。


魔神を誕生させよとする魔女の試みは見事に失敗し、主人公は正式に王国の王妃となってめでたしめでたしの結末が王子ルートの全貌だった。

攻略対象によってストーリーが大きく変わるのだが、精霊神王がラスボスなのだけは変わらない。


……うん、今思い出しても実に頭が花畑な解決方法だ。

まさか、こんな危機を恋愛で全部解決するとは。

怖いな、愛。


さてと。

ちょっと話が脱線してしまったが、本題に戻ろう。


問題なのはかのラスボス、'精霊神王 エウペイア'と並ぶ程このセピア島に眠ったという'精霊神獣'という奴は強いという話だ。


これがどう考えても引っ掛かる。

理解出来ないと言っていい。


単に精霊神獣がそんなに強いという事が引っ掛かるのではない。


その事実を俺がここに来て始めて知ったという事だ。


俺はこのゲームを完全にクリアしている。

罰ゲームとしてやったとはいえ、一度やることになった以上とことんやり込む性格だからだ。


……まあ、さすがに男を攻略して喜ぶ趣味はないのでストーリーはよく見なかったがのだが。


でもアイテムや装備は100%コンプしたし、ダンジョン攻略度もばっちりですべてのボスも倒した。

解禁するのが難しく、倒すのはもっと厳しいあの'隠しボス'までやり遂げたのだ。


そんな俺だから断言できる。

この'精霊神獣'という奴は、俺がこのゲームをやった時には全く出てこなかったと。


ラスボスである精霊王と並ぶ程の奴なら、どこかのダンジョンでボスとして君臨いてもおかしくない筈なのに、そんなダンジョンはなかったし心当たりのボスもない。


そもそも先も話したとおり、今俺がいるこのセピア島自体が原作のマップにはなかったのだ。


ハルパス王国の南には島などなく、レベルが低いダンジョンが二つだけだった筈なのに。


原作ではなかった場所。


同じく聞いた事がない設定。


これは……


「……まさか、ゲームと完全に同じではないと?」


……どうしても厄介な結論が出てしまう。


元々危険が多いのがこの世界だ。


普通にモンスターがいるし、原作通りに話が進むのならもうじき王族と貴族達の圧政に反発して革命軍が出来上がるはずだ。

裏では黒幕の魔女が暗躍して精霊王を魔神に変質させようとするし。

どのルートに入るかによって帝国か、共和国との戦争が起きてしまう。


やられ団である【黒きサソリ】から逃げても、ストーリーが進む度にこの身の危険は消えないのが現状なのだ。


その状態で、もしこの世界が俺が知るストーリーと完全に同じでないなら頭が痛くなる。


大体の展開を知っている俺としえは可能な限り原作通りに事が進んで欲しい。

事の成り行きを推測しやすくなるし、その対策も練りやすくなる。


だが、ここで本来なかった筈の話が紛れ込むと計算が狂ってしまうのだ。


どのルートに入ったのかを判断するのが難しくなるのは基本で。


もしかしたら俺が知っているどのルートとも違ってしまう可能性すら出てくる。


だからこそ、主人公との接触を試すか悪役を脱し彼女の味方になるなど、そんな目立つ行動はしないつもりだったのだが。


「……いや、そんなに悲願する必要はないか?」


……そうだ。

よく考えたらそう決めつけるのはまだ早いかも知れないな。


俺が見逃していただけで、シナリオでちゃんとこの島と神獣の説明があった可能性もあるにはある。


何しろボス戦の直前か、倒した直後ぐらいではないとストーリーを殆んどスキップしていたからな。

大体の展開と事の成り行きを知っているとはいえ、細かい所まで全部把握しているとは言えないし。


……うぬぬ、こうなると知っていたら、もっと丁寧にストーリーを精読していたのにな。

まさか、戦闘だけに没頭していたのがこうして仇になるとは。

何という不覚。

時間を巻き戻せるなら今度はすべてのストーリーをちゃんと見て……


「あ、いや、流石にそれはないな。」


あ、うん、よく考えたらやっぱ無理だ。


男がデレるのを食い入るように見るのがあれだと言うか……

……それに感銘とか感動を受けてしまうと俺が俺じゃなくなりそうで怖い。


俺は純粋に女と結ばれたい健全な日本の男子なのだ。

そんな趣味は全くないです、はい。


「まあ、色々考えてしまったが、要は逃げればいいんだな。」


このセピア島と精霊神獣が本来なかった設定にしろ、それとも元々あっても俺が知らなかった設定にしろ、この大陸から逃げれば全部解決する。


ハルパス王国の本土に向かうのはアウトだ。

戦争に、革命軍、暴走寸前のラスボスまで、どう考えても地雷と死亡フラグだらけの危険地域である。


だからといって、近くの共和国や神聖連合国家に行くことも気が引ける。


可能性は限りなく低く、さすかにそれはないと信じたいが、もしもあの'隠しボス'が覚醒する方向に事が進むと本当にヤバイのだ。

冗談抜きでこの大陸全体が滅亡する危機である。


そうなったらこのハルパス王国だけではない。

同じ大陸にいる共和国や、神聖連合国家も仲よく一緒にさよならだ。


さすがにその確率は低いと思うけど、万が一もあるからな。

隠しボスの覚醒まで気を配るならこの大陸自体から逃げた方がいい。


となると……。


「うん、やっぱり選択肢は帝国しかないな。」


グランツ帝国。


西の彼方、この大陸とは違う、向こう側の大陸で覇権を握っている強大な国家だ。

確か長い金髪で理知的、尚且つ優しいお兄さん的な攻略対象がそこの皇太子だったはず。


ここに逃げ込むのが一番妥当な選択だろう。

違う大陸だから隠しボスが降臨しても巻込まれる心配もないし。


主人公が皇太子とのルートに入ると帝国と戦争になってしまうが、それ以外は基本メインストーリーからかなり離れている場所だ。


つまり、死亡フラグが溢れるこの危険な世界で唯一、安全な所と言える。


「よっし!」


お母さん、お父さん、俺は家に還る方法を探し出すまで暫し帝国民になります。

そして待たれよ、帝国よ。

俺はお前を俺の第二の故郷にするぞ!


改めてやる気を充填し起き上がる。


このセピア島でちゃんとした港町は北に三つ、南に二つある。


その中でも俺は最南端のサンティノ港を目指すつもりだ。


【黒きサソリ】がいるバルティア要塞はこの島でも北の方に位置している。

もしも俺を追うとしたら、シグマ達はまず北にいる港町を漁る筈。


まさか子供がたった一人で夜中にこの険しい山脈を越え、一番遠い港に行くとは考えないだろ。


その考えを逆手に取り時間を稼ぐ。


港に到着したらまずハルパス王国に行く船に乗って、その後に帝国行きに乗り換える。

それで俺はこのうんざりな死亡フラグから完全におさらばするのだ!


「完璧だな!」


うん、その為にも今は急ごう。


今の内にもしも来るかも知れない追手と差を付けなければならない。


羅針盤のお陰で方向を間違える心配もなし。

香水のお陰でモンスターと遭遇する心配もなし。

食糧も水も数日は大丈夫だ。


もう誰も俺の快進撃を止めることは出来ない。


そう、例え俺をこんな目に陥れた神だとしてもね!



***



はい、道に迷いました。


……いや、どうしてこういう事になったのか全くわからないです。


体感上、休息を取ってからさらに二時間が経過した時だった。


峡谷を越え次のチェックポイントまで向かっている所、急に羅針盤の針が回転し始めたのだ。


ラルヘンシブ山脈のほぼ中央、即ちこのセピア島の真ん中に近付いた時の出来事だった。


本来は北の方向だけを示しながら動かない筈の針が方向を失い勝手に回転する。


一時的なものかと思って少し待ってみたが、回転が止む気配がない。

本格的な故障か何かだろうか。


「……何故か霧までかかり始めたし。」


いつの間にか周辺には濃い霧がかかっている。


元々から密集している樹達のせいで夜空がよく見えなかったが、霧まで加わると今では完全に空が遮断され明かりまで消えてしまっている。


まさしく、つい目の前すら見えない状態だ。


湿っぽい霧の臭いと周辺に充満な草むらの臭いの中、思わず固唾を飲んでしまう。


急に故障した羅針盤と、露骨なまで急変にかかり始めた不吉な霧まで。

これはもう完全に肝試しか何かでは?


「……しょうがないな。」


モンスター除けの香水を付け直し耳を澄ませる。


ここで羅針盤が壊れたといって挫折しては生き残れない。

元からこういう出来事も起きるかもしれないと考えてはいた。


まさか新品の羅針盤が壊れるのは読めなかったが、この険しい山の中だ。

何かのトラブルで羅針盤をなくしたり、失ってしまう可能性も頭に入れてはいたのだ。


こうなったら今までのルートは捨てるしかない。

路線を変更して二つ目のルートで行こう。


今まではもしもシグマが俺を捕まえるくる事を想定し、追跡を困難にさせようと山脈を踏破する道を選んだのだが状況が変わってしまった。


羅針盤が壊れた以上、このまま山脈に残り続けるのは愚策でしかない。

すぐにでも遭難してしまうだろうし、そうなったら今持っている食糧と水では心もとなくなってしまう。


こうなった以上、この山を抜けるのを最優先にするべきだ。

海岸まで出ることが出来れば、後は海岸線に沿って進み一番近い港町に向かうのも出来る。


となると……


「……あっちか。」


息を静め、耳を澄ませると微かに川の音が聞こえる。


霧のせいで視野が非常に悪くなったとはいえど、音まで聞こえなくなるわけではない。

せめて川の近くで羅針盤が壊れたのが不幸中の幸いと言うべきかな。


急いで音の方向に足を向かわせる。

このルートを最初から選ばなかった理由は痕跡が残りやすく、追い付かれた時に対処しにくくなるからだ。


シグマがわざわざ俺みたいな子供を追ってくる理由はないと思うしそう信じたいが、もしもの事もある。


隠れる場所が多い密林の中で追い付かれた時と、川を通じて海岸まで降りる最中、遮蔽物が全くない川辺で追い付かれた時。

とっちが先に追手を感知出来て、対処しやすいかは言うまでもない。


だからこそ、無理やりでもペースを上げる。


このルートで行く以上、今までのように小まめに休息をどることは出来ない。

強行軍で一気に踏破せねば。


「よし。思ったとおりだな。」


考えていたよりも近くに川があった。


やっぱりと言うか、遮蔽物が全くなく白に岩石と砂利が多い川辺だ。


川は予想より大きく、向こう側には途轍もなく高く険しい断崖絶壁が存在している。

霧もかかっているせいで絶壁の天辺が見えない。

かなりの高さだな、あれは。


川は右の方へ、つまり元々俺が向かっていた方向へと流れている。

この川は俺が元から向かっていたルートと同じ方向に流れているのだろうか。

だったら願ったり叶ったりだけど。


念のため、もう一度羅針盤をみてみる。


無駄だとはわかっているがもしかしたらと期待を抱くと、やっぱり羅針盤の針は無駄に回転しているだけーー


「ッッー!?」


突然、光が走った。


遥かなる天空に向けて光が噴き上がる。


急なる異変に顔を持ち上げると、向こう側に聳え立っている断崖絶壁、その頂きから光の柱が沸き出るのが見える。


霧に包まれた絶海を照し出す一つの灯台のように。


夜空を射抜く為に放たれた巨大な矢のように。


大地から唸り声を上げながら吹き上がる光の柱は夜空を撃ち落すかのような勢いで噴き続ける。




奇妙な光だった。


明確な理由などない。

理知的に説明できる根拠もない。


けれどあれは違うと確信してしまう、俺が知るどの光とも違う物だと。


電気による閃光ではない。

そのような物では説明できない脈動がある。


様々な偶然によって編み出された自然現象でもない。

そのような事では理解できない威圧感がある。


……あれは何だ。


あの光は、あの巨大な存在感は。


あれ程までに溢れる生命感を纏い、脈動している'あれ'は。




わからない。


今、あの頂きで何が起こっているのかまるで理解できない。


だけと一つだけわかる事がある。


本能的に察する事が出来る。


あの巨大な光の柱は只の光ではなく、何かの現象でもない。


雷のように一瞬起きて消える一時的な出来事ではなく――、


――――あれは俺と同じ、'生き物'なのだ。



『■■■■■■■■■■――――――――――』



咆哮が聞こえた。


強大な、体を踏み躙る重力のような咆哮が。


天空が悲鳴を上げながら歪む。


地面が恐怖で震いながら割れる。


森が揺らぎ、霧が消えた。

まるで霧など最初からなかったと言うかのように。


空気が固まり、川の流れが止まった。

まるで川など最初から止まっているのが道理だと言うかのように。


時間が止まったと錯覚する瞬間、羅針盤の針が回転を止める。


本来なら水平になるはずだった針は北も南も示すことはなく。


その体を持ち上げ、上を示し出す。


あの光が噴き上がる場所。


異界の生き物が叫んでいる死地を。


「………………」


言葉が出ない。

体が動かない。


確に俺は生きている。

心臓は動いているし、俺の目はあの光をちゃんと捉えている。


だが、それだけだ。


意識が健在でも体が言うことを聞かない。

蛇に睨まれたカエルが固まる事と何ら変わりない。

金縛りでも経験しているかのようだ。


川も止まり時間さえ停止した中、自由に動くものがいる。


この異常の中でも脈動しながら蠢く'生き物'がいる。


光の柱が大きく揺れた。

黄金の光がオーロラのような虹色のベールで囲まれ、形がはっきりする。


数多の虹の光を毛のように纏いながら、周りの雲を乱し散らすあれは……



……あれは'尻尾'だ。


どんな生き物かもわからないし、あそこまで巨大なものが只の尻尾だなんて信じれないが、それでもわかる。

わかってしまう。


今も見えるあの巨大な光の柱は間違いなく'尻尾'。

しかも、'無数にある尻尾の一つ'でしかないと。


そう認識した時、ようやく夜空に月とは違う何かがある事に気付く。


もう一つの月と勘違ってしまいそうな虹色の何か。


その丸い惑星のような物がこっちを、この地面を覗いている。


そう、'覗いている'のだ。


あの丸く、大きな星の様な物は間違いなく――――



「はっ……!!」


突然、光が消え周りが暗闇に沈み、口からはずっと止まっていた息が一気に吐き出された。


それと同時に今まで動かなかった体の麻痺が溶ける。


反射的に視線を上げ、断崖絶壁の天辺を見る。


だが、そこに先ほどまでの光はない。


黄金と虹色が混ざった巨大な尻尾も、まるで罅割れた空間からこちらを睨んでいたような歪な片目も、何もない。


あるのはただ高い断崖絶壁と静かに流れる川、そして明るく光る月と何事もない夜空のみ。


静穏で余りにも平穏すぎる風景だ。


まるで今まで見たのが全部夢だったような。


だけど……


「………………」


夢ではない。


絶対にそれはない。


霧が完全に消えている。

つい先まであんなにも濃い霧が微塵も残っていない。


それに何よりもこの羅針盤だ。


俺の右手にある羅針盤が完全に止まっている。

硝子が割れて、その中にある針は水平ではなく垂直になって、上を向きながら止まっているのだ。


そう、あの異常があった断崖絶壁の頂きを示しながら。


「……あそこに何があると?」


……冗談じゃない。


あそこに行ってみろと言うのか?


あのとんでもない怪物が一瞬見えた場所へ?


……寝言は寝ながら言って欲しい。


今でもあの尻尾と片目を思い出すと全身から鳥肌が立って震えが止まらないのに、あそこに行くわけないだろ。


あれは違う。


モンスターではない。


今まで見てきたどの怪物どもと訳が違う。


先のあれに比べると獅子と熊が混じったキメラなんか、ただの虫けらではないか。


「ないない。絶対にない……。」


あの時、間違いなく夜空の一部には亀裂があった。


その裂け目の中に確かに在ったのだ。


こちらの地面を鑑定するかの様に睨む巨大な片目が。


……吐気がする。


今は夏なのに妙に体が寒い、早く暖かい場所に行きたい。


羅針盤はあの天辺を示しているがそんなの無視だ。


好奇心は猫を殺すとそういうことわざもあるだろ。

ようやく死亡フラグ集団から逃げ出したのに、あんな露骨な地雷案件に自ら首を突っ込むとかマジで頭どうかしてるぞ。


……よし、逃げよう。

早く逃げよう、迅速に逃げよう。


こんな不気味な場所、もう一分一秒もいたくない。

ちょうど霧も消えたし、ここは素早く川に沿って海辺へ出るのが吉と見た。


「そうと決まったらさっさと――――」


「グルルルルルウ……」


「……」


あの?

何か、今の状況で絶対聞きたくない音が聞こたのですが。

ただの空耳でしょうか?


「ゴオオオオ……、ゴウ……」


親切にも「違うよ!」と教えてくれるように唸り声がはっきり聞こえる。

その心使いはありがたいが、出来れば聞きたくなかった。


……間違いない。

この世界に転生してから今までシグマに付き添いながら、様々なモンスターの死体を解体して来たんだ。

あの唸り声を聞き間違える筈がない。

間違いなくモンスターだ。


音が聞こえて来たのは俺のすぐ後ろ、つまり今まで俺が歩いてきた森の方だ。


素早く地面に伏せ耳を傾けると微かに足音が聞こえる。


伊達にあの傭兵という名のゴロツキ共に扱き使われた訳ではない。

この方法である程度は足音を聞き分けられるように鍛えられたのだ。


人間とは思えない粗大さで重みがある足音。

一匹ではない、これは最低でも四体以上の複数だ。


「嘘だろ……。」


何故だ?

何故、香水の効果があるのに真っ直ぐここに来る?


香水の効果が切れた?

いや、それはありえない。

付け直してからまだ30分も経っていないのだ。

だったら……。


(まさか。)


一瞬、脳内に先ほどに見たあの奇妙な光の柱、生き物の一部を思い出す。


……。

…………いや、何を悠揚に構えているんだ、俺は。

理由も気にはなるが、今は対策を練るのが先だろう。


今いる場所は隠れ所が多い森の中ではなく、視野が完全にクリアしている川辺。


このままモンスター達があの森を抜けこっちに着くと、まず間違いなく真っ先に俺を発見するだろう。


そうなれば全部お仕舞いだ。


この平地で怪物達と人間の子供一人、どっちが早いかは言う必要もない。


ならば今の俺が取るべき選択は。


「……何かの悪意しか感じないんだが。」


向こう側の断崖絶壁。


あそこしかない。


出来る限りモンスターの手が届かない高い場所で籠城し、相手を諦めさせるしかないのだ。


逃走のために用意した装備にはロープもある。

どこか、あの絶壁の壁面で俺の体を縛れる所を見つけるのが出来れば、もしくは向こうに別の道があるとあるいは……。


果たしてあそこに行っても逃げられるのか。

そもそもモンスター達がこっちへ着く前に、そんな高い所まで登りきる事が出来るのか。


不安が多いが、どうせここにいても死ぬのは同じだ。

やってやる!


リュックが万が一にも流れないように応急用に準備した布を使い、上着と繋いでガッチリ縛り固定する。


川の幅は結構広いが、水の流れはそこまで強くない。

俺ならば出来ると確信しすぐに飛込む。


結果は思った通りだ。


本来の体ではないせいで多少は苦労したが、溺れる事なく無事に向こう側へ着いた。


服が水を吸い込み重くなったが、それに構う暇はない。


川辺を走り、絶壁に向かう。


流石に子供の体で絶壁を完全に登りきるのは無理だ。


出来うる限り登りやすそうな所とか、向こう側では見えなかっただけでどこかに洞窟みたいな抜け穴がないか期待すると。


「……はあ?」


あった。


驚く事に向こう側では見えなかった物が確にあった。


階段だ。


階段がある。


しかもこの絶壁の壁面を一部削ったように作られ、頂きまで続いてる。


手すりが全くないので、少しでも均衡を失うとそのまま落下してしまう危なさ100%の欠陥品だが。

これはどう見ても階段だ。


'人工的に作られた道'がこの絶壁の壁面に存在している。


「…………」


一体何だろうか。


人が作ったに違いない階段がある絶壁。


その頂きで噴き上がった、光のような'何かの尻尾'.


時間が止まったかのような現象の中、違う空間から覗いていた片目まで。


……これはヤバイ。


間違いなくこれは地雷だと。

関わるとろくな目に遭わないと俺の生存本能が激しく主張する。


だが、俺のすぐ後ろにはモンスター達が来ている。

香水は何故か効果をなさない。


……よりにもよってやられ団に転生するのといい、この危機といい。

俺、日本にいた時に何か悪さでもしたのかな?


「あ、吐きそう。」


緊張するとまた吐気がする。

が、そんなことを言っている場合ではない。


泣きたい思いを堪え、階段を登り始める。

俺の読みが間違ってないのなら、今来ているモンスターの中にはかなりの跳躍が出来る奴もいるはず。

完全に届かない高さまで登らないといけない。


……なのだが。

正直に言うと怖い。


何を隠そう。


俺は重症の高所恐怖症なのだ。


高い所にいくと下は絶対に見ないし、手すりがあるとしてもわざとそこから離れてかなり後ろに下がる程である。


観覧車?

絶対、乗らないです。

ローラーコースターとかは乗ったら即死亡ですね、心臓麻痺で。


そんな俺が観覧車など可愛く見えるほどに高い絶壁を登っている。


手すりなどなく、左の壁面に体を密着させながら上がってはいるが、一歩だけ横に行こうとしたらそのまま落下し、即あの世行きだ。


高い所から吹いてくる強風が冷たい。

川のせいで濡れた体と服にはクリティカルである。


ていうか、風など吹かないで欲しい。

均衡を失って落ちるとどうしてくれるの?

吹く度に体が揺れて本当に死にそうなんですけど??


そしてそれを言うのなら、この階段を作った人も人だ。

何故、階段に手すりがないのだ。

この世界に安全という概念はないのだろうか。


これ作った人は建築士の才能はないと思う。

誠に残念だが他の職を探すことを推薦したい。

いや、マジで。


…………。

……………………。

…………………………どれほど歩いたか、よくわからない。


下は絶対見ないようにし、足を滑らせないよう精神を集中しながらただ上だけを見て進む。


体感は20分も歩いたと思い、ちょうど半分を登った時だった。


「はあ……?!」


少し上の壁面に黒い扉があるのが見える。


鉄で作られているように頑丈な扉だ。


……この階段といい、あの扉といい、やはりこの絶壁は自然的な場所ではないらしい。

間違いなく人手が介入している。


しかし、おかしいぞ。

ここが人為的な場所なら地図に載っていなければならないのでは?


このような場所は地図になかったし、この周りには村もなかった筈だ。

なのにこれは一体どういう事だろうか。


「……いや、どうでもいいか!」


うん、今はどうでもいい!


このいつ足を踏み外すかもわからない危険な階段から離れられるのだ。

あそこに扉があるという事はその向こうに部屋か通路があるという事だろう。

ならば迷う理由がどこにあるのだ?


ペースを上げて一気に階段を登り、扉を開いて逃げるようにその中へ入る。


扉の向こうは一本道の通路だった。


狭く細い道は地下に建築された隠し通路を連想させる。


何かを運んだり、行きやすくなるために作られた道ではなく。

隠れる為か、逃げ出す為に作られた印象を受けるのだ。


天井には小さな蝋燭が並べてあり、その小さな光で通路を照らしている。


いかにも怪しげな雰囲気に今までとは違う意味で体が緊張し始める。


後ろには最早、帰ることも憚れる高度の絶壁に出来た階段。


前はどこに通じているかすらわからない、狭く、湿気の多い通路。


「……ふう。」


出来る限り注意しながら進む。


天井に蝋燭があって今だに完全に溶けていないとということは、この通路は放置されているのではなく、誰かによって管理されていることを意味する。


この先に何があるのかを想像しながら歩いていたら、急に道が上り坂になり、やがて階段が現れる。


成人の一人がやっとな程の狭い階段だ。


そのまま静かに階段を登ると、蝋燭ではなく別の光が上から階段を照らし始めた。


階段を登る度に高い天井に近くなり、やがて天井に辿り着いてしまう。


どうやら元から天井に行き当たる構造だったらしく、天井には四角形の小さな別の扉がある。


その隙間からは光が漏れ出しているのだった。


向こうは何か明るい場所なのだろうか。


……悩む事もない。


完全に階段を登りきり、天井の扉に着く。


どうやら、ここから扉を上へと押して開ける仕組みらしい。


「ふっ!」


力を入れ全身でその扉を押し開けると、眩しい光と共に新鮮な空気が肺を満たし始めた。


「何だ、ここは……。」


洞窟だ。


今までずっと上り坂だったからあの高い絶壁の頂きへ着くのかと思ったが、通路を抜けた先は広い洞窟だった。

しかも天井と壁の一面がエメラルドのように眩しい緑の光を放つ水晶洞窟である。

扉の隙間から漏れた光はこれだったのか。


燦爛に輝く緑色の洞窟に目を奪われる中、天井の鍾乳石から落ちる滴の音でハッとする。


素早く体を扉から抜けて地面に立つ。


今まで通ってきた通路は地下に出来た隠し通路という印象を受けたが、どうやらこの洞窟を基準にすると本当に地下だと言えそうだ。


まあ、絶壁の中に出来た通路を辿り、ここに出たのだから。

この洞窟もまだあの絶壁の中、地の中だと言えなくもないかな。


地面にマンホールのようにポカンと開いている隠し扉を閉じて、周りを観察する。


確にここは洞窟だが、自然に作られた天然の儘とは言えないようだ。


壁には地下通路と同じ形の蝋燭があるし、所々には絨毯や何かの壁画、飾りの様な物が見える。

間違いなく人が通いながら手を加えた痕跡だ。


(……さてと。)


ここまで来たのはいい物の、どこに行けば良いかがわからない。


まず間違いなく、俺は今あの光の柱が発生した場所へ近くなっている。

逃げる為だったとはいえ、これ以上あんな厄介事に近づく気はない。


今俺がいる所からは道が左と右に分かれている。


果たしてどっちがこの洞窟の出口と繋がっているのやら。


「あ。」


忘れていた事を思い出し、背中のリュックに入れておいた羅針盤を取り出す。


やっぱりだ。


案の定、壊れてしまいずっと上を示していた羅針盤の針がまた動いている。

垂直から元の水平に戻り、そのままこの洞窟の左の方向を示しているのだ。


下にいた時は光の柱があった上を示していたからな。

となると、左の方にあの光の原因があると言いたいのかな?


「うん、じゃあ右で行こう。」


なら左には絶対に行かない。

俺は敢えて右に行く。


今の俺は力も何もないただの子供なのだ。


以前の俺だったら様子を見に行くかどうか真剣に迷う筈だけど、今のように何の力もないなら選択の余地もない。


危ないフラグは必死に避けるべきだ。


「じゃあ、早速……」


「どういう事だ!?儀式が失敗したじゃと?!準備は万全だったと報告していた筈ではないか!」


「!?」


瞬間的に自分の口を手で塞ぎ、近くの岩の後ろに体を隠す。


いきなり聞こえて来たのはかなり歳を重ねたように思える男の怒鳴り声だった。


よりにもよって俺が向かおうとした右の方面から聞こえてくる。


(……やっぱり人がいたか。)


何も知らず道を迷い偶然迷い込んだ子供を演じてもいいのだが、どうも聞こえてくる声が尋常ではない。

もう少し様子を見た方がいい気がする。


「は、はいっ!勿論です!ですが、降臨の途中に強制的に接続が切れてしまい……!」


今度はか弱い声が聞こえる。


女性……、いや、それとはちょっと違うな。


これは今の俺とあんまり変わりない子供の声だろうか?


「馬鹿な……!?何故接続が切れる?!溜まっていた魔力は充分だったはずじゃが?!まさか、わしらが用意した巫女が気に入らず……。」


「い、いいえ。あの、恐れながらそれは違うのではないかと長老が仰有いました。お、恐らくは、神獣の方から召喚自体を拒んではいないか……。」


「ッ……!もっと悪いではないか!何故だ?!何故!!我々の神は我々の声に答えてくださらないのだ!?」


(……何言っているんだ、こいつら。)


儀式に、降臨、接続、神獣。


気になるワードが続いて出ている。


こいつら、魔法使いか何かか?


……いや、しかし、魔法を使うことが出来るのは貴族や王族のように血によって素質が継承されるか、希有な才能の持ち主のみの筈だ。


だったらこいつらは一体何者だ?


それに、神獣というのはこの島に眠ったというあの'精霊神獣'の事だろうか?


(原作でこんな奴らは見なかった筈だが……)


「……長老は何と仰有る?儀式に参加した神官達はどうなるのだ?」


「その……」


「早く言わぬか!!」


「す、救うことは出来ないと仰有いました!神獣の怒りによって魂ごと全部食われたに違いないと!今は残る神官達と対策を練るので、我々は続いて神殿を警備しろとの事です!」


「ぐう、ぐぬぬぬ……!」


老いた男の声が沸き上がる感情を堪えるように呻き声を漏らす。


どうやら何かの儀式とやらが上手くいかなかったらしい。


もしや、先ほどに見たあの巨大で不気味な光の生き物の事だろうか。


「バジル殿!大変です!」


「何事だ、速やかに報告しろ!」


急ぐ足音と共に第三の声が聞こえる。


今度は若い青年のような声だ。


「この周辺に張られていた結界が全部打ち消されていました!もしや、儀式の失敗と何かの関係があるのではないかと思い報告を……」


「ッ!?馬鹿か、貴様!そんなことを言いに来る時間があれば急ぎ結界を張り直せ!あの傭兵共に感付かれたらどうするつもりだ!!」


「は、はっ!!」


「そして結界と共に全ての通路の状態も再確認しろ!結界が強制に解かれたのだ、通路のロックも解除されてる可能性もありうる。もし本当に解除されていたら、そこを通じて何者かが侵入するやも知れん。急ぐのだ!」


「了解しました!」


張り切る答えと共に青年の足音が遠ざかる。


一体何事かは知らないが、とにかくこのまま出て「すみません~!道を迷ってしまったのですが!」と話しかけていい相手ではないことはわかった。


会話から推測するにこの人達はどうやら侵入者をかなり警戒しているようだ。


俺がここにいる事がばれたらどうなるか不安になってしまう。


「バジル殿……、あ、あの、私は何を……」


「お前は待機場に行ってジャキルを呼んでこい。そこにいる同胞達には全員で急ぎ結界修復に掛かるよう伝えろ。皆が掛かっても張り直すのに40分は掛かるのだ、急げ!」


「で、でも、巫女は?神殿にいる巫女は放っておいてもよろしいのですか?」


「構わん。そやつはもはや何の意思もない抜け殻じゃ。逃げる魂胆など持ってはおらんのだ。あやつは自分自身が只の器だという事を骨の済まで理解しておる。そのように長老達が教育したからな。そんなガラクタは後でいつでも連れて来れるわ、今はそれよりも結界の方が大事なのだ。」


「は、はあ……。」


「……貴様、事態の緊迫さがわかっておらんな。わしらは今も追われているのだ!あの野蛮な傭兵共、特に'傭兵王'のシグマは人の皮を被った悪魔だ!そいつにかかれば命がいくらあっても足りん!結界が消えた隙に奴がここの位置を気付くとどうするつもりだ!!早く行け!!」


「りょ、了解ですっ!!」


慌ただしい足音が段々遠くなる。


叱られた子供が言い付けられた通りにしようと行ったのだろう。


老人の方もまた何かをブツブツ呟きながら遠く離れていった。


(……これ、やばくないか?)


厄介事になるとは思っていたが、どうやら俺はとんでもない所に迷い込んでしまったらしい。


素早く元々来た道で帰ろうとしたがそれも無駄だった。

地面に埋められているマンホールのような扉は先とは違い全く開けないのだ。


……先ほどの会話の中で、全ての通路のロックをどうしろとか話していたな。

まさかそのせいなのか?


「チッ。」


あの人たちは何かの儀式をして神獣を呼び出そうとしていたようだった。

それがあの光の柱だったのだろう。


そして結界とやらでここを守っていたらしい。

あの老人はよりにもよってシグマを言及していたのだが、あれは一体どういう事だ?


シグマに追われている?

シグマはこいつらを探していたのか?


そういえば、あいつは部下を使ってほぼ毎日この山脈を隅々まで捜索していた。


それはこれが理由だったのか?

このセピア島に滞在しているのもそのためだと?


……わからない、何もはっきりしない。


本来、並の人間では使えない魔法を何故あの人たちは使えるように言っているのか。


何故シグマはこいつらを追っていたのか。


そもそもこの人達は何者で、ここはどこなのか。


「……いや、落ち着けよ。石田 栄一郎。今重要なのはそんな物ではないだろう。」


静かに呟き、自分に言い聞かせる。


出来る限り冷静になろうとしても、やっばり焦りが出ているのだろう。

どうしても考えが要点から離れてしまう。


心臓が酷く脈動するのを感じながら深呼吸、考えを改めて纏める。


今重要なのは'何故'ではなく、'とうやって'だ。


理由など後で考えればいい、今はこの現状をどうやって打破するかを考えるべき。


即ち、ここからどうやって逃げるかである。


奴らは結界を再構築すると言い、その他の通路を封鎖した。

実際に俺がここに入ってきた通路はもう使えない。


おそらく、その結界というのが再び張られるとここから逃げるのはさらに困難になるはず。

何としてもその前に脱出する必要がある。


地下の通路は封鎖。


右には先の人たち。


ならば、今俺が行ける場所は……


「……やっばり、何かの悪意を感じるな。」


羅針盤の針が示している左の方。


あそこしかない。


……色々と理不尽さを感じる。

俺はあそこにだけは行きたくないのに、選択肢が次々と消され強制的にあちらに行けと言っているかのようだ。


だが、今ではあそこ以外に行ける場所がないのも事実である。


(いいぞ、毒を食らわば皿までだ。行ってやる。)


覚悟を決め、迅速に進み出す。

やることが決まったなら速やかに終わらせるべきだ。


洞窟に俺の足音が響くが、どうせあの集団の足音に紛れるはずなので気にしない。

洞窟の壁面で光る宝石(?)の輝きで視野の心配もない。


所々壁には得体の知れない絵が飾っている。

主に黒頭巾の人たちと虹色の何かデッカイ怪物が描かれた絵が多い。


この乙女ゲームの設定と関わるものだろうか。

そこまで詳しく知っている訳ではない俺としては何なのかよくわからない、不気味な絵にしか見えない。


そうして進んでいるとどうやら出口に近くなったらしい。


向かう先から風が吹いてきながら、そこから強い光が溢れ出てるのが見える。


この先に何かあるかと警戒しながら光の彼方に向かうと。


俺は途轍もなく広い空間に出られた。


「なっ……!?」


声が自然に漏れてしまう。


洞窟の果てはまるで別の世界のような大空洞だった。


広さは東京ドームとほぼ同じ。


この大空洞に天井はない。


大きな穴が上にあって、そこを通じて夜空とその真ん中に光っている満月がはっきり見えている。


天井の穴とその中央に満月が光っている様は余りにも自然で、これを考えて空間を作ったのではないかとつい思ってしまう。

先ほどから吹いていた風はあの天井を通じて来ていたのか。


空洞の壁には来る途中に見てきたエメラルドのような緑の鉱石以外にも紫水晶や、ガーネットと似ている赤い宝石が埋まっており、上から降り注げている月光を受け輝く様は目がまばゆいほどに美しい。


「…………。」


この空洞に入って真っ先に目に入ったのは空間の広さと、鉱石達によって虹色に昇華され輝く絢爛なる月光。


そして、この大空洞の中央にある'湖'と、その湖の上に立っている'神殿'だった。


大空洞には池、または小さな湖と言うべき場所がある。


人工的なものか、それともあの開いた天井から降り注ぐ雨が長い年月を経って溜まり形成された自然の奇跡かはわからない。


だが、その水面は天井の夜空と満月を鏡のように映り出しており、まるでこの地面にもう一つの空があるような夢ある錯覚を感じさせる。


そしてその静穏なる湖の上には一つの建物が静かに自分をさらけ出していた。


ギリシャのパルテノン神殿を連想させる白い建物。


湖の上にある島のような小さな地面。

そこへ建築された神殿は天井からの月光と、周辺から反射される虹色を一身に受け神々しい姿態を見せている。


この大空洞と神殿。

どちらも細かく計算しながら作り出したような、それほどの絶景であった。


「…………。」


歩き出す。


あの神殿へ足を運ぶ。


俺が立っている大空洞の入り口からは、神殿に続く橋のような一本道がある。

その上を歩き、着々と神殿に近づく。


それは何故か。


あそこがどういう場所かを確認するためか。

それともここから抜け出す道があるかを確かめるためか。


その全部でもあり、そのどちらでもない。


確にそれらの理由もあるが、ただそれだけではなかった。

そんな理性的で、論理的な理由とは違う何かがある。


故に行く。


ここから逃げるチャンスを探すという名分と。

あそこに行かなければならないと中から囁やく激しい衝動によって。


そして、俺は目撃する。


今までよりも一番の衝撃が背筋から走り全身に至る。


「……あ。」


口から漏れるのは小さな嘆息。


入り口から麻痺したように止まってしまった体は、その光景をはっきりと目に焼き付けてしまう。


神殿の中は以外にも簡素だった。

大した飾りもなく、聖画や石像のような物もない。


この中にあるのは手術台のような真っ白い石の祭壇と、それを囲むように立っている四つの柱だけだ。


この神殿にも天井などない。

大空洞と同じく天井がおらず、故に夜空から降り注ぐ月光が神殿の中を照らしている。


祭壇の周辺には黒頭巾を被った人達が倒れている。

数は十人ぐらいか。


一目で死んでいると気付いた。

この一ヶ月、【黒きサソリ】で様々なモンスターと人々の死を見たからわかる。

あれは駄目だ。

もう手遅れである。


何故あの人たちは死んでいるのか。

彼らは何者なのか。

そんな疑問を衝撃が全て消してしまう。


そうだ。

俺が衝撃を受けているのはあの得体を知れない死体のせいでも、この神殿の神々しい雰囲気でもない。


「何故……。」


少女がいた。


'純白'と。


そのように表現するしかない白き少女が。


少女は石の祭壇の上で座り、天井から見える夜空と満月を静かに眺めている。


歳は'カイル'として生きてる今の俺と大差ない程の子供。


十歳になっているかどうかも確信出来ない程に小さく、か弱い体には服とは呼べない褐色の布だけを纏っている。


だがそんな簡素で慎ましい身なりでは決して隠せない神秘がある。

何とも言えない不思議さを感じさせる、玄奥なる美がある。


満月を眺めている、どこか遠くを見ているかのような青き瞳も。

白き星々の中に紛れ込んだ砂金と似ている白金髮も。

ボロボロな布の下に見える透明な皮膚までも。


何もかも脆く、薄く、それでいて美麗であり月光に当たる姿は、どこかの職人が一生を懸けて作り上げた傑作にすら見える。


多くの死体が倒れてる中。


石の祭壇の上にて、月の明かりを受けている白き少女は小さく息を吐き。


「……?」


やがて、俺と視線が合ってしまう。


入り口からの気配を感じた少女の青き瞳は、この神聖なる場所を荒しに来た招かざる客を見つめる。


驚く様子もなく。


恐れる気配もなく。


だからといって、何者かと動揺する素振りもなく。


ただ純粋に、あくまで自然なる物を見つめるかのように、純白の少女はその輝く瞳で静かに俺を眺める。


……ああ、やはりそうだ。


見間違う筈がない。


他の誰でもなくこの俺が、あの乙女ゲームを最後の最後まで全てやり遂げた俺だからこそ、決して見間違う筈かないのだ。


俺が知っている頃の姿とは背も、髪の色も、色々と違う所が多いけれど。


でもあの目を見間違ったりはしない。


原作の最後の瞬間、主人公と戦う寸前、魔神に飲み込まれる直前にだけ見ることが出来るあの目。


何もかもに興味を失ってしまったかのような、どこか危うく、か弱い目。


あの子は間違いなく……。



「……??」



……俺がこの神殿の中を見て驚いた理由は一つだけだ。


沢山の人達が死んでいるからではなく。


この神殿から感じられる神々しい神気のせいでもない。


心臓を握るかのようなこの緊張と混乱の原因は全てあの白き少女と出会ってしまったから。




そう。


今、俺を真っ直ぐ見つめている、あの幻想的な女の子こそ。


この【硝子の夜明け】というゲームで一番最後に登場する、最強で最凶の'隠しボス'という事実のせいだった。




逃げた先はボスルームでした。

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