70話
あれからどれぐらいの日数が経ったのだろう、俺はもうカレンダーと時計を見る気すら起こらずぼんやりとしていた。
今はバイト中、ならば働けと言うが実のところ店は連日閉店続きで仕事が無かった。じゃあカフェで何をしているのか?それは後で説明しよう。
外は久しぶりの雨によって盛大に洗われ、その音がバックミュージックのように耳の中へと入っていく。まさしく今の心情に合っている天候と状況だった。
俺の他にも伊音ちゃんが店にいて、彼女もまた俺と同じように消沈している。こんなつまらない日が何日も続いていた。
それほどまでに、橙陽面義の死というのはいつまでも心に残るものだった。
あの誘拐騒動の後、俺は師匠に気絶させられ起きた時には既にカフェ・センゴクにいた。面義が伊音ちゃんを誘拐する際に散らかしたままの状態で、黒金が伊音ちゃんを守りながら俺たちを待っていた。
寝ぼけたままで辺りを見渡せば、深刻そうな顔つきの黒金と師匠、そしてその側で崩れて泣いている伊音ちゃんの姿。それによって俺は事の顛末を思い出す。
そして俺も慟哭を上げ、その場で叫び始める。その刹那廃工場での記憶が映像のように再生され、それと同時にあの生暖かい感触も呼び起こした。
体から流れる大量の血、それに伴いどんどん下がっていく体温、掠れる声、虚ろになった目の色、全てがトラウマとして俺を責め立てる。
また仲間になれたのに、折角説得できたのに、俺は面義を守れなかった!逆に俺を守って命を落としてしまった!
その時は咽び泣くことしかできなかった。確かに面義は一度俺たちを裏切ったがそれでも改心して俺たちと共に戦ってくれた、伊音ちゃんと黒金を奴らから逃がしてくれた。あいつのおかげで救われた場面がいくつもあった。
そこで失った仲間の暖かみを補うように、もし面義が生きていたらという妄想が頭の中で繰り返される。
無事に返ってこれたとしても彼女を誘拐したことには変わりないのでそれからの仲は亀裂が生まれるだろう、それでもすぐに修復されると思う。
手術代だって、もしかしたら黒金が貸してくれて病気も治せたかもしれない。もしそうなったら面義は晴れて金と病の呪縛から解放され自由に生きれるようになる。その未来はすぐそこに迫っていたのに……
何も殺されることは無い、これが面義の言う通り自業自得や神の天罰だったとしても些かやりすぎだ。あいつにはまだ未来があった、希望があった、これから待ち受ける幸福も沢山あったはずだ。
しかしそれは、とある甲虫武者の一太刀によって全て奪われる。
その名とあの憎たらしい顔を思い出すだけでも憤怒が湧き上がった。コーカサスオオカブトの甲虫武者で巨大な剣を自由に振り回す怪力の持ち主、その斬撃は大きな廃工場を切り裂く威力を持つ。
技、力、全てにおいて危険な男だが一番危ないのはその獣のような性格だろう。戦いと殺しを望む戦闘狂、一番武者の力が覚醒してはならなかった男だ。
そいつが面義を殺した、コーカサスの野郎が憎くてたまらない。家族を武将に殺されその仇討ちを誓っている黒金の気持ちが今理解できたような気がする。
あんな奴を野放しにしていたら死んだ面義も浮かばれない、俺が止めないと。その仲間であるギラファも勿論、その「組織」は絶対に——
その為にも、今は情報が必要だった。
「あーすいません、今日は閉店……って黒金!」
「黒金さん、それにお父さんも!」
すると雨の中を傘で突破してきた黒金と師匠が店に入ってくる。この2人はあれからというもの調べもので外に出る機会が多くなっていた。俺は師匠の代わりに伊音ちゃんを守る役目としてこのカフェにいるのであった。
とどのつまり、その情報がやって来たというわけだ。
「……どうだった?」
「まずは、あの誘拐事件がどう解決されたかだな」
ちなみに今回の騒動は警察沙汰にはなっておらず、その真実は隠されたままだ。今巷で騒ぎになっているのは「まるで斬られたような廃工場」という不可思議事件だけで、まさかそれに甲虫武者が関わっているとは思いもよらないだろう。
「あれからコーカサス、ギラファは全く姿を見せていない。あの場にもその証拠になりそうなものは残っていないと聞く」
「面義の遺体も見つからず残っていたのは血痕のみ。恐らく奴らが証拠隠滅の為に持ち去ったのだろう」
しかし師匠たちも情報を得られず、結局のところ振り出しに戻ってしまった。新たに現れた2人の甲虫武者、そして奴らは何故伊音ちゃんを狙うのか?買い取っている鎧蟲の死骸と何か関係あるのか?知りたいことは沢山あるがどれも全く分からない。
唯一の情報と言えば、敵はとんでもなく手練れであるということ。俺と黒金はあのコーカサスの武者に手足も出せず負けてしまった。師匠とも互角に渡り合える実力の持ち主、たった一度の戦いで自分たちとは立つステージが違う事実を突きつけられた。
「師匠……一体あいつらは何者なんですか?何か知っていそうに見えたんですけど……」
そして更に情報を得る手掛かり、それは恐らく師匠にあると俺は思う。黒金に伊音ちゃんを誘拐されたことを聞かれた時、まるで心当たりがあるような素振りだったことを思い出す。
すると師匠は一度娘の顔色を伺った後、言いづらそうに言葉を詰まらせるも自分の知っていることを話してくれた。
「……昔、俺が甲虫武者に覚醒してすぐのことだ。伊音も幼かった頃で、今回のように攫われたことがあった」
「え……!?」
その驚愕の事実に店内の空気は一気に色を変える。そのことに俺も黒金も目を大きく見開き、そして当の本人である伊音ちゃんも驚いたように口を開けて戸惑っている。
「伊音はその時のショックで忘れてるだけだ、あの時は誰かに依頼された犯罪グループが主犯だったが……まぁ俺が救い出して大ごとにはならなかったがな」
「そんな……子供の頃の私にそんなことが……」
「その依頼した人物、そいつが『組織』の一員である可能性は高いですね」
そして黒金は昔と今の誘拐事件の主犯を同一人物として考えているらしく、顎に手をあてて難しそうな顔をしている。まさかそんな前から事が始まっているとは思わず、何故そうまでして伊音ちゃんを攫おうとするのか不思議で仕方なかった。
「鴻大さん、その人物に心当たりは?」
「……1人いる、俺と同い年の甲虫武者だった。だがあいつは鎧蟲との戦いで命を落とした。あいつは何故か伊音のことを気にしていたな……」
どうやら思い当たる節はあるようだがその人ももうこの世にいないという。それにしても鴻大さんと同い年の甲虫武者か、一体どんな人か気になるが話を聞くに良い人ではないらしい。
結局のところ何も分からず終い、敵の正体が全く分からない現状に対し途方に暮れる俺たち。今はただ仲間を失った喪失感に気を落とすばかりであった。
あいつと会ってそこまでの年月が経っているわけではない、金を少しでも節約するため店に客として来る回数も少なかった。会うのは精々鎧蟲が現れた時くらい、それでも獲物を取り合って小突き合いを始めるのが定番になっていた。
それでも橙陽面義という存在はこのカフェ内で大きなものとなっており、心なしか俺たちはあの爽やかでたまに毒舌になりながらも憎めない性格を求めていたのだ。
(借り……か)
面義が最後に言い残してくれた言葉、それは俺の命を救ってくれた分の借りを返せというものだった。
死人に口なし、もう居ない者にどうやって返せと言うのか?また会うために自殺するというのは笑えない冗談だしあいつ自身もそんなことは望んでいないだろう。
じゃあどうすればいいのか?そんなことは簡単だ、馬鹿は難しいことを考えるより自分の思ったことを信じて走り出せばいい。
即ち、コーカサスたちを倒しこれ以上の悪事は何もさせないこと。それが俺がするべき「借りの返し方」だ。
(……待ってろよ、絶対にぶっ倒してやるからな!)
鎧蟲から人を守るという大義に別の理由が追加される。その新たな決意に俺は拳を強く握りしめて奮起の意志を示した。
「じゃあ院長、私たちはこれで」
「はい、お疲れ様です」
面義が通院していた新界総合病院にて。とっくに着替えを済ませたナースたちが帰ろうとしている。そしてその部屋にはここの院長である金涙笑斗だけが残った。
机に置かれたスタンドライト、それがこの空間を照らす唯一の光源で書類に向き合う金涙の手元以外は全て闇に呑まれている。
そんな暗闇の中から1人の人影が忍者のように現れる。それは鴻大達と激戦を繰り広げたギラファであった。
「……人目に付くから病院には来ないでと言ったはずですが」
「早めにご報告した方が良いと思いまして、ドクター」
ドクターと呼ばれた金涙は仕事を続けたままギラファの存在に気づき、何事もないかのように話を続ける。突然現れた彼女の存在には驚いたりもしない、まるで最初からいるのが分かっていたようだった。
そして始まるギラファの「報告」、その最中でも金涙は背を向けたまま受け答えをする。
「そうですか、面義君は裏切り鴻大伊音の誘拐にも失敗したと……」
「はい……申し訳ございません」
するとようやく金涙のペンを握る手が止まり、やや猫背になっていた背筋を伸ばす。そして天を仰ぐように上を向き、何も言わず薄暗い天井を見つめた。
そこから重力に沿って頬を伝う一筋の涙、その出どころは金色の前髪によって隠れている。
「嗚呼面義君……恵まれない環境にいたせいで、感情に流され道を誤ってしまったんだね」
「……そんなに、彼の事を気に掛けていたのですか?」
面義の裏切りと死にまるで被害者のように涙を流す金涙に、ギラファはそんな質問を問いかける。すると金涙はすぐにそれを拭い、美形の顔を彼女に向けた。その姿はまるで泣いているところを見られたくない子供のようで、普通の女性が見れば母性本能を擽られる表情だった。
「勿論、彼は君たちを含め人類の為に必要な存在でしたよ。金の為に動いていたとはいえ、彼も選ばれし者の1人ですから」
「……ドクター、私たちは一体どうなるのでしょうか?」
すると今度はギラファの様子が一変、冷静沈着で大人びた雰囲気を出していた彼女だったが、泣き崩れるように姿勢を低くし座っている金涙の膝元に縋り付く。整った黒髪は輝きを失わないまま乱れ、その甘美な唇をその膝の中に埋める。
金涙は、ソッとその頭を撫でた。
「――心配することはありませんよアミメ。私たちは間違いなく進んでいる、いつか到達すべき未来へ……」
子供のような表情を見せた途端、次は子供を愛でるような顔つきになる金涙。ギラファをアミメと呼びその綺麗な髪を優しく撫でる。その手には、クワガタの痣が描かれていた。




