37話
「英さん、ちょっとお願いしたいことがあるんですけど……」
「あ、買い出し?勿論いいよ!」
黒金が帰った後俺も同じようにハニートーストを食べ、食休みに浸った後仕事をしていると彼女が話しかけてきた。その手には買い物袋が握られており、そのお願いとは買い出しであることが伺える。
最初は彼女同伴で買い出しに行っていたが、最近は俺1人で言ってることが多かった。それ程俺もこの店に馴染めたということだ。
「それもあるんですけど、晩御飯の分もお願いできますか?」
「あー大丈夫!行ってくるね」
そう言って俺は彼女から荷物を受け取りそのまま店を出る。伊音ちゃんを1人だけ残すのも少し不安なので早めに終わらせよう、そう思って少し足のペースを上げた。
晩御飯と言えば、俺と師匠が甲虫武者にとって糖分補給は必要不可欠であると言い朝昼晩、全ての食事を甘味類にしてた時期があったのを思い出す。勿論それは体の強化として正しいかもしれないが人間の食生活としては落第点なもので、伊音ちゃんに叱られてから夕食だけは普通のものを頂いている。
もう成人した男が女子高生に怒られるというのは中々効き、それ以来食生活にも気を使っている。しかしそれは彼女の前ではの話、家ではたまにコンビニのケーキとかで夕食を済ます日も度々あった。
渡されたメモを見る限りじゃ今日も普通のメニューだ、しかし俺の目に留まったのは野菜の部分。恐らくこれはいつものスーパーで買うことを前提にしているはずだがもっと安く買える場所を俺は知っていた。
どうせならなるべく失費は抑えた方が良いだろうと俺は道を変える。目指すのは以前から世話になっていたとある八百屋であった。
そこの店主は大雑把な性格でありながらも大変優しく、売っている野菜もそこらのものより安く取り寄せたまに値引きしてくれる日も多かった。貧乏暮らしの際に何度もその優しさに救われ、すっかり顔馴染みになっていたが甲虫武者になってからはそこに行く頻度も少なくなっていた。久しぶりに顔を合わせるのもついでにいだろう。
「おやっさん、元気にしてるといいんだが……」
俺は店主のことをおやっさんと呼んで慕っており、向こうも俺の事を坊主と呼んでいた。優しい性格といってもその日に決めた値段以下にはどんな事態であろうともそれ以上は安くさせず、かつて俺ももう少しまけてくれと頼んでみたが簡単に断られてしまった。よく分からないところで強情なのだ。
カフェから数分歩いたところで見慣れた商店街へ辿り着く。様々な種類の店に左右から挟まれた道では多くの人が賑わっており、俺はその間を通り抜けていく。
久しぶりにおやっさんに会ったらなんて言われるだろうか?またバイトクビになったのかと揶揄われるかもしれない。それに対し俺は色んな意味で病められない仕事になったと答えてやろう。
「あ!おやっさん、お久しぶりで――」
「だから、これ以上は絶対にまけないからな!」
目的の八百屋に到着し声をかけようとすると、その前に怒号に近い声が当たりに響き渡った。普段聞きなれていない大声に思わず体を震わせ、何事かと八百屋の方を見る。
そこにはスキンヘッドで大柄の男、アロハシャツを着ているこの人がおやっさんだ。その前には対照的な若い男性が対面している。
身長は俺より少し高め、オレンジ色の頭髪が輝いており何とも爽やかな雰囲気を醸し出していた。しかしその服装はどこにでもありそうな黒色のシャツで大分傷んでおり、そのせいで外装の清々しいイメージと相殺してしまっている。
その証拠に中に着ているTシャツもヨレヨレ、俺も人の事は言えないが兎に角勿体ないとしか言いようがなかった。
どうやらおやっさんは、その人と言い争っているみたいだ。内容からして値切りのことについてだろう、多分無理だと思うが。
「何でだよ!もうそこまで安くしてるんならいいじゃん別に!」
「俺は絶ッ対その場で値段は買えないようにしてるんだ、分かったならいい加減諦めてこの値段で買え!もう1時間経ってるぞ!」
(1時間!?)
俺はおやっさんの口から出た時間に驚愕してしまう。確かに値切りを求めて時間をかけ交渉するというのは漫画とかよく見る場面だ、だけどそれを1時間という長い時をかけてやる人を初めて見た。
こう言っては失礼だがこの八百屋の野菜は値段が安いだけで美味しいとか他に目立ったところがあるわけでもない、そもそもたかが野菜に1時間かけるのも割に合わない。何の情熱が合ってあの人はそこまでしているのか、それが気になった。
「嫌だね!アンタがもっと安くしてくれるまで俺は絶対にここを離れない、この八百屋が一番安いと聞いて来たんだから!」
「いい加減にしないと……営業妨害で警察呼ぶぞ!」
男が電卓を突きつけるのに対し、おやっさんは警察を呼ぶと脅してカウンターを入れた。多分あの優しい人の事だ、本当は呼ばないつもりだろう。
しかしそれでも男は引き下がらない、寧ろ更に勢い付いて勝負を仕掛けた。
「警察でもなんでも呼べばいい!例え手錠をかけられようがパトカーに轢かれようが、値引きするまで絶対にここを離れない!」
そして凄い剣幕でおやっさんに顔を近づける男、俺は初めてこの人を見たがその発言から嘘や出まかせなどといったものは感じられず、本気で安くなるまでここから離れないつもりなのが分かった。
一体何が彼をそこまでさせるのか、値引きぐらいで本気になる男のオーラに圧倒されたのか、おやっさんはどんどん小さくなっていた。
「……だぁーもう!分かった安くしてやるよ、これくらいでいいだろ!」
その様子を見てまたもや俺は驚愕してしまう。あのおやっさんがこんなにも簡単に言いくるめられてしまうなんて、普段の様子からは考えられない光景だ。
周りで傍観している野次馬たちも、この店の店主の評判は知っているのか俺と同じように口を開いて驚いている。中には天晴れと言わんばかりに拍手をしている輩までいた。
そうしておやっさんは奪い取るようにその電卓を受け取り、値引きされた値段を打ち込んで男に返す。しかし彼はその値段について検討する様子もなく数字を打ち直した。
「もっとだ、これくらいにしろ」
「ハァ!?本気で言ってるのか!?もうこれ値引きとかいう話じゃねぇぞ!」
「アンタが安くするって言ったんだろ!なんならもっと沢山安くしてやるからその値段――いや、それよりも安くしろ!」
「わ、分かった分かった!」
そして自分が提示した値段、それよりも安くすることを要求する始末。もう面倒くさくなったのか、それとも男の猛威にウンザリしたのかおやっさんはグッタリとし甘んじてそれを受け入れる。
もうここまで来れば見世物か何かだ、傍聴人の割合はドン引きする人が大半で残りはこれでもかと拍手喝采を起こす人たちであった。
「あのぉ……おやっさん、どれくらい安くしたんですか?」
「おお坊主か……これくらい」
「嘘ォ!?」
おやっさんの下まで歩み寄りどれくらい値引きしたのか聞くと、人差し指でその値段を教えてくれる。そのあまりの安さに俺は声を上げてしまい腰が砕けそうになった。
あの強情なおやっさんをここまで打ち負かすなんて……呆れを通り越して興味と尊敬が湧いてきた。是非ともあの交渉術について話をしたい!
「あ、あのお前さ……!」
「ん?誰だアンタ」
そのまま大量に野菜が入った袋を持ち、目立たぬようコッソリ去ろうとする男を俺は呼び止めた。近づいたところでその様子が鮮明に分かった。
キリッとした顔立ちに大きな目、さっきの姿が嘘のようにそこからは皺が消え平凡な雰囲気となっている。その綺麗な髪だけじゃなく、顔の印象からもこちらに爽やかさを与えていた。
「俺は雄白英、お前は?」
取り敢えず近くのベンチに座り名乗った。あれから会話してみれば少なくとも黒金よりかは話ができる男で、どうしてここまで気が合うのか、不思議でしょうがなかった。
「面義――『橙陽面義』だ。それで?俺に何の用があるのかな」
すると向こうも俺に名前を教えてくれた。面義という名で完全に俺たちは仲良くなっていた。こういった新しい出会いは黒金以来だ、あいつは少々正確に問題があるため、こんなに分かり合える会話は新鮮である。
「さっきの値引き術を見てさ、それで気になって話しかけたんだ」
「……それだけで?」
面義はそれだけで、という簡単な言葉で済ましていたがあの交渉術は見事なものだ。強引にも見えるがただの野菜に1時間という長い時間をかける人はそういないだろう、悪く言えば諦めが悪いというか強引さが無ければできない芸当だった。
「ほらよく言うじゃん、いち……いち……苺一個って!」
「……それ言うなら一期一会じゃないかな?」
しかしどんなに気が合おうとも急に話しかけるのは警戒されてしまう、なので四字熟語を使って何とか説得しようとするも間違えてしまったようだ。やっぱり慣れない言葉は使うべきじゃない。
だけど、最初の挨拶としては面義のことを掴めたようだ。
「ハハッ!面白い人だなアンタ、英……でいいかな?俺21歳だけど……」
「同い年!じゃあ俺も面義って呼んでもいいよな!」
「俺さぁ貧乏で、少しでも食費とか節約しないといけないんだよね」
「俺も俺も!いやぁ~なんか面義とは親近感しか湧かないなぁ!」
同い年、しかも金を無駄遣いできないという境遇までそっくりという、何かの運命なのかと疑いたくなるくらいのマッチに興奮せずにはいられない。俺も面義も手を取り合い喜び合う。
そこから買い出しのことを忘れ、嬉々として話し始める俺と面義。黒金のせいでストレスが溜まっていたのか、面義との談話は心を浄化してくれる。ここでま分かり合える男は学生時代の友達にもそういない。
それにしても、例え貧乏だからとはいえ警察沙汰になりかけてでも野菜をまけてもらおうとするその姿勢は立派というか、俺とは節約しようとする心掛けが全く違うことに感服する。連絡手段の為とはいえスマホを買った上で貧乏を名乗る自分が恥ずかしいくらいだ。
「で?雄白は今何してんの?」
「俺は今バイト先の買い出し――ッ!!」
この楽しい時間をもっと過ごそう、そう思った矢先手袋で隠していたカブトムシの痣に痛みが走る。咄嗟の反応に思わず顔にでそうになったが面義の目の前であまり変なことはできない、右手を抑えて堪えた。
鎧蟲が現れたのだ、タイミングが悪い奴らだ!
「悪いな!買い出し急がないといけないし、これで!」
「おう」
そう言って俺は何とか面義を誤魔化しその場を立ち去る。もう頭の中は鎧蟲を倒すことで一杯になり、急いで虫の知らせが示す場所へと走り出す。
誰かが襲われる前に駆けつけないと、もしかしたら勝家が再び現れたという可能性も捨てきれない。兎にも角にも急がなければ。
「何だ、やけに人柄がよく合うなと思ったら……こっちもか」
後ろで面義がそんなことを呟いていることも知らず俺は走る。そして面義は右手に描かれているクワガタの痣をソッと撫でた。




