2話
目の前に現れたのは巨大な蟻、大きな顔をこちらに向け二足歩行で歩いている。蟻が人間と同じように動いている姿は確かに奇怪だが、それよりもおかしく見えたのはその恰好であった。
頭に笠を被りその体は胴の鎧で守り、その手には長い槍が握られている。その姿は戦国時代の足軽のようであった。大きさは俺の身長と同じくらい、その黒の目と視線が合い、思わず悲鳴を零してしまう。
キキッ――!!
しかしそんな小さな声も、蟻が放つ甲高い鳴き声によって掻き消されてしまう。そして虫独特の鋏のような口を開き、目の色を変えてこちらへ襲ってきた。
蟻はこんな声で鳴くのか、と関心を示している場合じゃない。どう見ても友好的な感じではない、急いで逃げないと。
「くっそまたかよッ!」
――また?蟻の怪物から逃げる今の状況に既視感を抱き、ついそんな怒号を上げてしまうが前にこんなことがあっただろうか?
兎に角今は逃げないと、巨大蟻は諦めずに追ってきた。暗くなりもう人気も殆ど無い町を走りかける。鋭い刃を持つ槍をこちらに向けながら血眼になって追ってくる蟻、その姿は一種のホラーであった。虫が苦手な人が見れば卒倒しそうである。
(……どこに逃げれば良いんだ)
この場合交番に行き警官に助けを求めるのが普通だらう、だがこいつに拳銃や武器などが通じるかが分からない。
この蟻が人を食うのかただ殺すのか、どっちにしろ害を与えるのは明白。なので俺は他人に被害を出さないよう人がまったくいない場所へと目指していた。
(俺がこいつの囮にならないと!)
そのまま恐怖心を押し殺し足を動かす。ここらで人がいない場所と言えば町のど真ん中にある公園の森だ。あそこなら誰もいないだろうし誘導した後でこいつを撒けるだろう。そう判断した俺は頭の中で必死に地図を思い浮かべてそれを頼りにする。
「……何か俺早くね?」
蟻から逃げ続けて数分、最初から全速力で走っているのに全く息切れしていないことに気づく。いつもならすぐに疲れるはずなのにまるで疲労と体力を感じないような感覚で走っていた。
それだけではない、例え体力万全の状態で走っていようとここまで速く駆けることはできないはず。しかし今は自分が風になっているようで素早く動けていた。
体も軽いし一体どうしたというのだろう?俺の体じゃないようであった。
「あぁもう!考えると頭痛くなってくる!今はこいつを何とかしないと!」
しかし今そんなこと考えればせっかく頭で思い浮かんだ地図がぐちゃぐちゃになってしまう。その証拠に5回ぐらい道を間違えてしまった。ただでさえうろ覚えだったのにどうしてくれる!
しかし三度目の正直……いやこの場合六度目というのか?まずそんな言葉あったっけ?まぁとにかく目的の場所に到着し、乱立している木の陰に隠れて蟻から逃れようとした。こんなに暗い中障害物も沢山あるのでこのまま逃げ切れるだろう、しかしそれは甘い考えであった。
「のひゃあ!危ねッ!」
後ろから槍が迫ってきていたのを察し、屈んでそれを避けると槍が頭上を通過し目の前の木に突き刺さる。もう少し遅ければ頭を串刺しにされていただろう、こんな時だけ直観が優れていた。
いやそれよりも森林の中を駆け巡っているというのに蟻はまだ俺のことを追っていることに驚きだ、どれ程俺のことに執着して狙っているのだろうか。追ってくるどころか槍でこちらを攻撃してきた。
「うははッ!俺スゲェ!」
しかしその槍の猛攻に対し何故かそれを直前に察知し、自分でもビックリする程躱せていた。こういう危ない状況でのパワーアップを火事場の……何だっけ?兎に角危機迫る状況で動けるようになっていた!
その回避率に思わず笑いを零してしまうが、状況はそこまで都合よく運ばずその避けにも限界が訪れた。
「ははッ……のわッ!?」
森林の中を走り回って蟻から逃げ回っていたが、調子に乗って根っこに足を引っかけてしまい転倒してしまう。するとその隙に怪物蟻がすぐそこまで迫り歩み寄ってきた。
慌てて避難しようとするもやがて背中が樹木に付くまで追い詰められてしまう。ジリジリと蟻が接近しその目を光らせ槍を構えてくる、さっさと逃げればよかったのに俺って本当バカ!
昔から自覚している程調子に乗りやすい性格で、そのせいで何度も失敗と馬鹿を繰り返していた。周りにもバカバカと言われ続けもう慣れてしまっており、自分でも頭が足りないことは分かっていた。だが自分の馬鹿加減をこれ程憎んだ日は他に無いだろう。
っと、そんなことを思い返している場合じゃない。何とかこいつから逃げないと殺されてしまう。
(よし、隙を突いて逃げ出してやる!よく分かんないけど今の俺ならできるはずだ!)
勿論ここで死ぬつもりはない、さっきのような直観力を使えば何とか逃げ出せると思う。奴の槍を凝視し次の動きを予測しようとする。切羽詰まった状態であるせいか数分走っても普通であった心臓の動悸が激しく、ドクドクという音が内側から感じた。
よし今だ――槍が少し動いたことを感じ取り咄嗟に右へ転がろうとした。しかしそれより先に左肩に激痛が走り、俺の体が後ろに木に固定された。
「あっ――がぁああ!?」
見れば蟻が俺を逃がさないよう槍で肩を貫き木にも刺していた。今までに感じたこともない激痛が左肩から伝わってくる。槍で刺されるなんて初めての経験で、よく漫画やアニメで見ていたがここまで痛いとは想像以上だ。
動悸が更に速くなり、当然血がそこから流れる。そのため無理やり逃げようにも意識が薄っすらとしてきて上手く動けなかった。しかしそんな夢現の状態に、映画が流れるように頭の中で見たことが無い光景が見えた。無論見たことがないということは走馬灯というわけでもない。
(んだ……これ……)
大量の情報と映像がダイジェストのように同時に頭の中に入っていく。これは……白い鎧?次に輝く刀、大量の虫の化け物や右手の痣と色んなことが一斉に押し寄せてきた。
そして最後に映ったのは、自分に迫りくる謎の影。記憶には無いはずないなのに、何故かその姿には見覚えがあった。
肩の穴から血が流れ出る度に、その失った分を埋めるように情報が入ってくる。馬鹿だからこんなに一度色んなことを知ったら頭がパンクしてしまう、なんていういつもの言い訳は今だけ言わず、甘んじてそれを受け止めていく。
そして閉じかかった目で最後に見たのは、右手についたカブトムシの痣であった。
(右手を翳して……蛹を……)
その瞬間、蟻の頭部が切断された。切断面から緑色の血が噴水のように噴き出し、頭を失った残りの体は力を無くしてその場で倒れた。しかしその体は絶命していようとまだ震えている。
そんな衝撃的な光景をよそに、俺が気を失ってしまった。大量出血によるものか痛みのものかは分からない。しかしそのせいで、俺の前に濃い黄色の武者が立っていることに気づけなかった――