179話
終張国で繰り広げられる二つの激闘、その内の一つである嵬姿対段蔵は今も激しさを増していた。
上杉御庭番衆の洞窟にて大暴れする嵬姿、彼の放つ斬撃が岩肌と蜘蛛の糸を次々と斬り裂いていきその活動領域を減らしていく。嵬姿自身は一番下まで落とされた場所から動かず、ひたすら上に向けて斬撃を飛ばしていた。
無論段蔵本体も斬撃で狙っているが、素早い動きで躱されている。斬り落とされた糸の足場もすぐに新しいのが貼られ、遠距離から足場を減らすだけでは段蔵の動きを止めることはできなかった。
(あの威力には驚かされたがそこまで速いわけではない、この程度躱すことなど訳無い!)
段蔵は複腕から粘り強い糸を放出し、別の糸に付けて振り子のように宙を横断する。その間にも四方八方へ糸を発射し足場を増やしていく。元々素早い段蔵が糸による立体的な動きでより予測しにくいものとなっていた。
段蔵からすれば嵬姿の動きや技の速度は止まって見える程に鈍かった。油断さえしていなければ躱すことなど容易だ。
「これ以上貴様の好きにはさせん! 一気に寝首を掻くッ!!」
すると段蔵は高速に糸を発射し最下層の嵬姿までの足場を展開する。
このままこちらへ降りてくるつもりだろう、そう予測した嵬姿は再び斬り落とそうと大剣を振りかざすも、それより先に段蔵が印を結んだ。
(八肢術——水遁・流龍!!)
その瞬間淡い水色に発光すると思いきや、段蔵の体は瞬く間に溶けていき、普通の水と変わりない流動体へと変化を遂げる。
「ハ、ハァ!?」
流石の嵬姿もこれには驚かずにはいられず、間抜けな声が洞窟内に反響する。
そして液体となった段蔵は、先程よりも何倍ものスピードになって駆け下りていく。その姿はまるで小さな滝——いや、滝よりも速く凄まじい水圧で嵬姿に降り注いだ。
あっという間に目前まで迫った段蔵、驚きこそしたが嵬姿は大剣で振り払ってそれを迎え撃つ。しかし自慢の一太刀も液体状の体を透き通り直接的なダメージを与えられていない。
段蔵はそのまま水圧カッターのように全身の流れをコントロールして、通り過ぎるだけで標的を切り裂く凶器となる。虫の知らせも追い付かないほどの速度、攻撃が擦り抜ける実態、為す術なく嵬姿は全身を斬られていくしかない。
「うぐぉおあ——!?」
「更に——火遁・火狒猿ッ!!!」
そして段蔵は水遁を使いながら火遁を使用、段蔵自身が燃え上がることで熱湯状態になり高温の流動体で更に嵬姿を責めていく。
段蔵自身が水になっているせいかどこまで水温が上がっても沸点には到達せず、沸騰しない熱湯として嵬姿の肌を焼いた。
「あっつ――!?」
(このまま口から体内へと侵入し、内側から焼いてくれる!)
その矛先は体表だけにはとどまらず、体内へ入り込もうと口目掛けて迫る。もしこの炎のように熱い液体状の段蔵が体の中に入り、一寸法師の如く猛威を振るえばただではすまないだろう。
嵬姿の目前まで迫る段蔵、いざその太い喉を通らんと口内へ侵入しようしたその時、寧ろそれを受け入れるような吸引力が出迎える。
(なっ――自分から吸い込んできただと!?)
信じられないことに、超高温の熱湯である段蔵を嵬姿は自ら口に含んできた。想像だにしなかった行動に段蔵の思考は停止し、僅かな隙を見せてしまう。
――熱々の飲み物を無理やり飲むのとはわけが違う。頬が口内から焼け歯すらも溶けてしまいそうな温度を、口一杯で抑え込んでいた。
しかし段蔵がやることには変わりない、このまま喉を通り体内の奥まで侵入しようとするも、逆に今度は口全体の筋肉がそれを邪魔する。
「カァ――ペッ!!」
まるで痰を吐くように、嵬姿は口に含んだ段蔵を吐き捨てる。その先は足場ではなく少し上の糸、段蔵が触れた瞬間糸は燃え上がった。
そのまま岩壁に叩きつけられた段蔵は、水遁を解き元の状態に戻る。背中から伸びる蜘蛛の足で壁にぶら下がりながら嵬姿を睨みつける。
(この男……やはり狂っているのかただの阿呆か、何を考えている!?)
恐らく口の中はズタボロになっているだろう、それも甲虫武者の再生力ですぐに治るだろうが、だからといって普通熱湯と化した敵を自ら口の中に入れるだろうか? 嵬姿の勝機ではない行動に段蔵は困惑と畏怖の感情しか抱かない。
「ガホゲホッ……あー、熱かったぜ」
一方嵬姿はそれに対しまるで風呂上りのような軽い感想を述べる。一応痛みや熱さを感じてはいるが、それでも平然と喋っている時点で普通ではなかった。
馬鹿みたいに口から湯煙を噴き出し、深呼吸に伴い口内の火傷が癒えていく。数秒もすれば嵬姿の口は全快していた。
「――それで? 次は何を見せてくれるんだ?」
「――ッ!!」
そして治った口が見せるのは先ほどから一切崩れない笑み、子供のような無邪気な笑みでありながら、邪悪な何かも垣間見える不気味さもある。
それを見た瞬間、言葉にならない程の不快感が段蔵に走る。鳥肌が立ち恐れずにはいられなかった。
――この男が気持ち悪い。その得体のしれなさが嫌悪感となって全身にへばり付く。
(ええい気味が悪い! それにこの段蔵がこうも動揺するとは……これ以上此奴の顔は見たくない、すぐに決着を付ける!)
――闇に隠れ、心乱すことなく謙信の為任務を遂行する。それが段蔵のやり方だった。しかし嵬姿の狂人ぶりにその冷静さは揺さぶられ、動揺せざるを得ない。これ以上この男と対面すると自分が壊れてしまいそうで、焦りすらも生んでしまう。
段蔵はそのまま岩壁から糸の足場へと飛び移り、再び嵬姿を見下ろす形となる。己の八肢術を以てしても膝を付かせることすらできないことに苛立つ段蔵に、嵬姿が仕掛ける。
「来ねぇなら……こっちから行くぜ!!」
床を蹴り上げ跳躍、それと同時にコーカサスの翅が開き嵬姿の体を浮かす。目指すは自分を見下ろしている段蔵の元、行く手を阻む蜘蛛の巣を斬りながら真っ直ぐと加速する。
黒色の巨体が迫る中、段蔵は三本の右腕で手裏剣を形成しそれを投擲。そして左手で糸を放出し攻撃と妨害を同時に行う。蜘蛛の足の多さは戦闘面で大きく使われていた。
嵬姿は手裏剣の豪雨の中を突き進み、四方から跳びかかる糸の攻撃を躱していく。それでも全てを躱せるというわけでもなく、幾つもの手裏剣が顔、腕、胸、その全身に突き刺さっていく。
しかし糸だけは必ず躱し、その勢いは止まることを知らない。小さいとはいえ全身に刃が刺さっているというのに、痛がる素振りも見せずに迫ってきた。
「ッ――ハァ!! まだまだ足りねぇぞぉ!?」
その顔は変わらぬ――笑み、子供のように無邪気に笑い血眼で段蔵を捉えている。その形相がどんどん近づいてくることで、段蔵の心は急かされる。
やがて段蔵は手裏剣を投げるのを止め、今度は六本の腕全てで糸を放出する。糸の束は軌道を曲げながら嵬姿の周囲を取り囲み、段蔵が腕を引くに伴いその体を締め付ける。
「――今度は加減無しだ! 炭寸前にまで、燃やし尽くしてやろう!!」
そして糸に染み渡った油を伝い、火遁の炎が再び嵬姿の全身を燃やし始める。先ほどの「火羅繰糸」と比べ熱量が増大し、最大火力で焼いていた。
すぐさま炎に包まれ火だるまとなる嵬姿、翅も焼け落ちそのまま落ちていくだろうと段蔵は安堵する。
「うぐぉあ――ぬおらあああああああぁ!!!!」
しかし嵬姿は自分を縛っていた糸に掴まり、それが焼け落ちる前にその上を渡っていく。燃える人影が素早い動きで糸に飛び移り、燃えながら自分の元へ駆ける姿に段蔵は息を呑んだ。
「なッ……!?」
やがて嵬姿は段蔵のすぐ近くにまで到達する。慌てて退避しようとする段蔵だが、それより先に嵬姿の剛腕が伸びその首を掴んで離さない。今も燃え続ける左手にガッシリと掴まれたことで、その熱さと苦しみを段蔵も味わう。
「うがぁあ! 貴……さ、ま……!」
「捕えたぜぇ蜘蛛野郎! テメェの炎で焼かれる気分はどうだぁ!?」
嵬姿の体を燃やす炎は段蔵にも伝わり、両者とも火遁の熱にその身を蝕まれていく。しかし同じ条件下だというのに大きく差が出ている。段蔵の方が苦しみ、嵬姿の方はピンピンしていた。
甲虫武者の再生力が焼ける肌を治し続けているのだ。それでも動くどころか段蔵を捕えることができるのは、その異常なまでの精神力のおかげだろう。
嵬姿を恐れるあまり強くした火力が仇となり、己の火遁に苦しめられる段蔵。嵬姿はそこへ大剣を突きつける。
「――このまま首をへし折るか、それとも真っ二つに斬り裂くか、どっちがいいかなぁ!?」
「水遁――!」
そこで嵬姿の手が完全に首を絞める前に、段蔵は水遁を使い液状への変化を始める。全身がドロドロに溶けて徐々に実体を失っていき、嵬姿の手から逃れようとする。
――しかし、完全に液体化するより先にその胴体をコーカサスの大剣が貫く。
「うぐぉ――!?」
「それはもう見たぜ、もうネタ切れかよ!」
水遁のおかげで消火には成功したが、嵬姿からは逃れられない。それどころか巨大な大剣が腹部を貫通し夥しい量の血が流れた。
やがて嵬姿の炎もその身を焼き尽くすことを諦め、両者とも鎮火する。しかし状況は大きく傾いたままだった。
嵬姿はネタ切れだと言った。だが段蔵はまだ手を残していた。
(風、遁……!)
体を燃やされながらも片手間に風遁を遠隔で使い、自分たちの真下に強い風を起こしていた。そこには先ほど段蔵が投げた数十の手裏剣が風に乗っていた。外れた手裏剣を風遁の風で受け止め、それを吹き飛ばす準備をしていたのだ。
そして待機していた風は段蔵の操作によって上昇気流となり、上にいる嵬姿目掛けて手裏剣が再び放たれる。
やがてその無防備な背中に突き刺さる……かに思われたが、命中する直前で嵬姿が体の向きを変えた。
「ッがぁ……!?」
「おっと危ねぇ、今更そんな不意打ちが効くかと思ったか?」
丁度両者の位置が入れ替わるように、つまり手裏剣が段蔵に突き刺さった。またもや自分の攻撃で傷を負う段蔵、自分の手裏剣が背中に食い込む。
腹部は大剣が貫通し、背中は手裏剣だらけ。今の段蔵は文字通り虫の息であった。
「お、のれ……猿もどきが……!」
「……どうした、本当にもう終わりか?」
わざとらしく首を傾げ、刃で腹部を抉り反応を伺う嵬姿。最後の一手も利用され最早段蔵は憎しみの籠った視線でしか嵬姿を攻撃できなかった。
それに気付いた嵬姿は、残念そうに溜息を吐き捨て何気なく次の一言を呟く。
「……ならいい、てめぇはもう飽きた」
「ッ――!!」
嵬姿にとっては本当にただの一言だろうが、段蔵にとってそれは屈辱的な言葉でしかない。撤回させようにもそれもできないことに段蔵は歯を食いしばらせる。
やがて段蔵は大剣を抜き、首を掴んでいた手も離す。段蔵の体が血を巻き散らしながら下へと落ちていく。
「……やっぱり、俺を満足させられるのは白野郎とドクターだけか」
散々振り回し、こちらを翻弄させた癖に、いざ自分が勝ったら「飽きた」の一言で済ます。そんな嵬姿が憎たらしくて堪らない。そして落下中の段蔵は、既に嵬姿の眼中には自分が映っていないことにも気づく。
――このままでは引き下がれない、一矢ぐらい報いなければ謙信様に顔向けできないと。
(重技……絡鳶扇術!)
最後の力を振り絞り、それを鉄扇に込めていく。眼中から外したことを後悔させてやろうと、扇が光り輝き始めた。
狙いは勿論嵬姿、段蔵はその鉄扇で扇ぐのではなく、力の限り投げ飛ばした。光り輝く鉄扇がまるで手裏剣の如く回転し、嵬姿の元へ飛ぶ。
(――『風華輪』ッ!!!)
先ほどの手裏剣とは桁違いの切れ味と速度、回避は間に合わないはず。このままいけば確実にあの巨体を切断できる。自分で放った技の光に照らされて、段蔵は拳を握りしめた。
――しかしその時すでに、嵬姿は大剣を振りかぶっていた。「風華輪」振り向くと同時に、一気にそれを斬り放つ。
「――『崩山』ッッ!!!!」
鉄扇の光など簡単に呑み込んでしまう程の、巨大な閃光。渾身の一撃はあっさりと打ち消され、視界を覆いつくす程の斬撃が段蔵を襲う。
悲鳴や断末魔など上げる暇も無く崩山が命中し、そのまま最下層まで到達する。山をも斬り裂く切れ味が洞窟を更に掘り壊して、崩壊寸前の所まで追い詰めた。
「……よし、とっとと上に戻るか」
トドメを刺したのを確認した嵬姿は、再生した翅で地上へと飛んでいく。自分が作った惨状に目もくれず、既に段蔵のことなど忘れ次戦う相手の事を考えていた。
こうして嵬姿と段蔵との戦いは終わった……が、段蔵の命はまだ潰えていなかった。「崩山」から何とか生き延び、地面の底で倒れている。
「……くっ、がは……ッ!」
しかしその姿は決して無事とは言えないだろう。嵬姿の斬撃によりその体は大きく斬り裂かれ、斬り落とされた下半身が近くに転がっている。物理的に立ち上がることもできず、ただ無様に地を這っていた。
最早嵬姿への恨み節を呟く余力も無い、それでも嵬姿の後を追おうと六本の腕で何とか動く。
「謙信、様……!」
我が主は無事だろうか? あのお方が負けるとは思えないが、あの狂人と鉢合わせにさせるわけにはいかない。
急いで主君の元へ向かおうとする段蔵、すると見慣れた鎧蟲の足が目に入る。
「……千代女、貴様……今まで何をしていた」
上杉御庭番衆の身でありながら、信玄に忠誠を誓うコノハムシの鎧蟲。くノ一の千代女が頭領である段蔵の元へ駆けつける。既に他の忍たちは命懸けで戦っているというのに、彼女は今姿を現したばかりだった。
「貴殿をこうも打ち負かすとは、私の予想以上でした」
しかし仲間の救援はありがたい。このまますぐに復帰し甲虫武者たちを食い止めるしかない。しかし彼女は、不可解な一言を言い放つ。
「それは、どういう意味――ぐあぁ!?」
その意味を問いただすより先に胸から走る激痛、見れば千代女がクナイを自分に突き刺していた。既に痛みと出血で死ぬ寸前だというのに、意外な相手から追い打ちを受けてしまう。
味方であるはずの千代女の攻撃を段蔵が予想しているはずもなく、できていたとしても今の状態で躱すことなどできないだろう。薄れる意識の中ただ彼女の行動に疑問を抱くしかなかった。
「千代、女……! まさか貴様……」
「今まで世話になりました段蔵殿。
貴殿は素晴らしい忍だ。だからこそ、ここで始末させてもらいます」
「お、のれ……やはり貴様は、甲賀武田の……」
最後まで言い切る前に、遂に段蔵は力尽きてしまう。見下していた武者に倒され、裏切り者にトドメを刺される。そんな死に方は無念しか残らないだろう。
一方千代女は平然とその骸からクナイを抜き、嵬姿が飛び去った頭上を見上げる。そしてそのままどこかへ立ち去り、段蔵の死骸だけが残る。
混蟲武人衆と終張国の戦い、その勢いは更に強まり多くの思想が絡み合う。




