160話
「光秀が帰還しただと? ようやくか」
足軽の蟻から光秀の帰還を知り、待ちぼうけた信長が溜息を吐く。終張国の天守閣の内部、長い廊下を渡り光秀のいる部屋へと向かいその報告を聞きに行く。普段なら部下に来させる信長だったが、自ら出向いている姿を見る限り数日後の大規模遠征に余程やる気なのが分かる。
それにしてもただの偵察に随分と時間がかかっている、先日成利を通しての報告でも十分だと思う。本人の意志でその後も人間世界に残った光秀に対し信長は信玄に言われた一言を思い出す。
『……その報告、信用してもいいものかな?』
(癪だが、奴の言葉通りかもしれんな)
信玄も信用できないが光秀もまた疑いの対象である。偵察だけに時間を掛け過ぎた光秀に、疑惑の念が浮かび上がる。
その理由も本人に聞きださなければならない、信長は光秀のいる部屋へ入り顔を合わせた。
「信長様……!」
「遅いぞ光秀、たかが偵察で俺をいつまで待たせるつもりだ? 貴様の帰還で我が軍はいつでも向こうの世界へ行ける」
大規模遠征に向けて信長の戦力は殆ど準備を終えていた。つまり光秀の発言によって作戦はすぐにでも始められるというわけだ。
一体何故ここまで遅くなったのか? それは甲虫武者たちと謀反の計画を企てていたから、そんなこと正直に言えるはずもない。しかし計画どころか彼らとの信頼関係も築けていない、だからこそまだ作戦を決行させるわけにはいかない。
「恐れながら信長様、少しばかり慎重になった方がよろしいかと」
「……この俺に落ち着けというのか、随分と偉くなったものだな光秀よ」
信長の言葉に警告を入れる光秀、その瞬間部屋の温度が一気に下がる。氷点下のような凍り付く空気、信長が発する威圧感がその場を地獄のように恐ろしい場所へと一変させた。
仕方がないとはいえ少々急ぎ過ぎたか、あまりのプレッシャーに光秀は息を呑む。主君の怒りを買ったと後悔したが、信長はとくに怒りもせず話を続けた。
「……申してみよ」
「は、はい……武者共とこちらには天と地ほどの戦力差がございますが、向こうの世界では奴らの方に地理的に有利でしょう。
武者共には我々だけを察知できる索敵能力がある、もし奴らにとって戦いやすい場を戦場に選んだら四万という数を率いての移動は困難です」
光秀自身、苦し紛れという自覚があった。
確かに決行日を遅らせるものとしては十分な内容だろう、しかし地形や時間など信長には関係無い。
――かの魔王の前では山など塵のように崩れ、昼も夜も関係無くその強さは絶対だ。銀武者の誕生を目にしその打倒を夢見た光秀だが、裏切りが成功するビジョンは殆ど見えない。
果たしてこの男が地理的に不利という理由で考えを改めてくれるのか、長年家臣として側にいる光秀だからこそその少ない可能性に祈る。
「――良いだろう、貴様の度胸に免じてもう少し待ってやる。
それで? ここまで言ったのだから貴様がどうにかするんだろう?」
――乗った。機嫌がいいのか珍しくこちらの話を聞いてくれた。不機嫌だった時に足軽が声をかけた時には問答無用で撃ち殺したというのに。兎にも角にもこの好機を逃してはならない。
「どうかもう少し時間を貰えないでしょうか? 私自身が向こうの世界で地形を調査し武者共を迎え撃つに相応しい場所を見つけて御覧に入れましょう。決行日には私がそこへ誘導します」
「また向こうに入り浸る気か、良い女でも見つけたか?」
冗談交じりの言葉に光秀は沈黙で答える。
――こうして裏切りの一歩を踏み始めたわけだが、それでも私は信長様を尊敬し忠誠を誓っている。しかしそんな主君だからこそ、真っ先に倒さなければならない。
「――濃姫様ほどではありませんが、毛無猿にしては極上のが」
「今日は本当に大きく出るな光秀。
――三日くれてやる、それで愛玩用の猿でも口説くといい」
そして光秀はその場から立ち去り、人間世界へと入る。それを見届けた信長は今のやり取りを振り返った。
決して戦いにも率先せず、影のように後ろから自分を支える男。そんな彼が正面から口を開き、何かしらの覚悟を決めていた。
(――見つけたのは女ではなく新しい主君か? 光秀)
やがて信長もその場を後にして、天守閣の更に上へと向かう。
蛾の雌鎧蟲たちの横を通り、一日に必ず一回は訪れている部屋へと入った。薄暗い一室、そこで蝶の姫が座り込んでいる。
しかしその綺麗な口から、緑色の血が咳と共に溢れ出た。
「……濃姫!」
「信、長様……!」
掠れた声で自分を呼ぶ濃姫に駆け寄る信長、その姿に先ほどまでの威厳溢れる魔王としての威厳は無い。その腕で軽い彼女の体を抱き寄せた。
その近くには齧った後のある肉団子が転がり、その形から先ほどそれを食べたばかりであることが分かる。
「お前……毛無猿の肉を食ったのか!? 無理はするなと言っただろうに!」
「も、申し訳ありま、せん……少しでも、食べていた方が良いと思って」
日に日に細くなっていく腕、衰弱する体力、その姿はとてもじゃないが出産する予定の雌には見えない。そしてその為に必要な栄養と取ろうするも、体が拒否反応を起こし碌に食べることもできない。
元々肉体との相性もあるのだろう、どちらにしろ彼女が人肉を食べることは不可能だった。
(……それどころか、出産の体力消耗か餓死で死ぬ可能性すらある。新たな子を産むことすらできない)
最早彼女に残された道は無い。一刻も早く多くの栄養を取り体づくりをさせなければ子を産む前に衰弱死してしまう。
つまり、彼女の命は次の作戦で左右されるというわけだ。改めてその重要さに信長は気を引き締めた。
「濃姫、俺が必ずお前の飯を狩ってくる。そして兵を沢山産んで新たな終張国を作るぞ」
「……はい。勿論です信長様」
信長の言葉に濃姫は苦しみながらもはにかんで、彼の語る夢を待ち望む。この後信長が甲虫武者たちの肉を手にいれ濃姫がそれを食べれば、実質この夫婦が終張国を支配することになる。互いを心から愛し合う二匹にとって、それはずっと前から願っていたことだった。
――大規模遠征まで残り三日、その短い時間の間で人も鎧蟲も褌を締め直していく。そして場面は、人間世界へと戻った光秀へと変わる。
信長と別れ、人間態に化けた光秀が現れた場所はビルとビルの間。昼間だというのに薄暗い路地裏に蜘蛛の巣が浮かび上がり、そこからのっそりと入ってくる。
そしてそこで待っていたのは、私服姿の黒金だった。
「――お待たせ致しました」
「時間通りに来たな、言っておくがこれだけで信用を得られたなんて思うなよ」
甲虫武者と武将、本来敵同士であるこの二人がこうして待ち合わせをするのは異例だ。特に鎧蟲に対して強い憎しみを抱いている黒金ならそれ以上に。
あの日カフェ・センゴクで話をして以来、光秀が終張国へ帰ったのはこれが最初であり最後である。そこへ時間制限も設けられていた。
全ては光秀が自身を二重スパイでないことを証明する為、一秒でも長く終張国に残っていた場合甲虫武者側を裏切ったと判断するようにしていた。
厳しい制約の下光秀と黒金は行動を開始する。そしてそこへ更にルールを追加した。
「決行日は三日後、場所は私が指定させてもらうようにしました」
「いいだろう、ならお前にはその日までこれを持っていてもらう」
そう言って黒金が光秀に投げ渡したのは、本来鎧蟲のような現代社会と隔離された存在が持っているはずもないスマホであった。スマホどころか機械すら見たこともない光秀は急に未知なる物を渡されて困惑する。
「これは……?」
「通信機……と言っても分からんか。遠くの場所でも会話ができる道具だ、まさか鎧蟲にスマホを買い与える日が来ようとは」
渡した黒金自身溜息を吐き、やりきれない顔をしている。一方光秀は画面に触れながら自由自在に動くそれを見て、驚きと溢れる興味を示していた。まさに初めてスマホを見た者の反応だろう。
「そいつには位置情報を俺のスマホに送るアプリ……機能が入っている。つまりそれを持っている限りお前はどこにいようが俺に筒抜けというわけだ」
「何と……全く毛無猿の道具には驚かされます」
スマホを通して少しでも人間様の威厳を見せつけようとしていたのか、驚きより興味の方が強い光秀を見て黒金は苛つく。子供の用にマジマジとスマホを見るその姿が癇に障った。
「……お前たちの終張国がこの世界のどこかに、もしくは異世界にあるのかどうかは知らん。だが後者の場合位置情報を受け取れなかったらこの世界にはいない証明になる。
今日から肌身離さず持っていてもらう。俺のスマホでお前の位置情報が途絶えた、もしくは短時間であり得ない場所に移動していた場合終張国へと帰った裏切り行為として捉える」
つまりスマホを使って間接的に光秀の動向を監視するということ、少しでも位置情報が怪しい動きをしたら光秀が無許可で終張国へと帰ったと判断される。実際終張国が地球上にあるかないかはまだ分かっていないが、それでも動向を探る物としては有効的だろう。
「ちなみに長時間動かなった時は放置されたかの確認で俺が連絡をする。信じてほしいならこれに従ってもらおうか」
「……よく分かりませんが、兎に角この箱を持っていればいいのですね?」
こうして厳しいルールの中、光秀は人間世界での行動を許される。例えスマホを壊し鎧蟲として人々に襲い掛かろうとも、虫の知らせでその察知はできた。もし光秀に英たちを裏切る気があったとしても、これでは思う通りに動けない。
「俺も休暇を取った。側でしっかりと監視させてもらう。
早速信長を迎え撃つ策を講じるぞ」
「……はい」
やがて一人と一匹は路地裏から出て、打倒信長と準備を始めていく。そこには様々な感情が入り乱れ、今にも衝突して爆発しそうな空気が流れている。主に黒金の抑えきれない憎しみのせいだが、光秀はそれに怯えもしない。
決戦まで三日、甲虫武者と鎧蟲の戦いにおける最大級の戦争の前にその代表たちの思惑が加速していった。




