150話
20時過ぎ頃、場所は小峰忍の家。大黒柱がいないこの家で二人の男女が同じ部屋にいるが決して蜜月な関係などではない。
英たちに保護された伊音は忍の家にて保護されていた。カフェ・センゴクは彩辻の襲撃により風通しが良くなっているため、こうして彼の家まで来たのだ。
「……ごめんね忍君、こんな遅くにお邪魔しちゃって」
「大丈夫、うちの親旅行に行ってるんだ」
こんな時間帯に息子が異性を家に連れてきたら軽い騒ぎとなるが、彼の両親は家にはおらずタイミングが良かった。これで少なくとも今夜中は伊音をかくまうことができる。
突然訪問した申し訳なさを呟いた伊音だが、その心情は不安で一杯だった。父は無事だろうか、胸がはち切れそうになり思わず手を当ててしまう。テレビも点けず無音の中で響く時計の音がそれを煽った。
(伊音さん……不安そうだな。先生たちも無事だといいんだけど……)
それは忍も同じ、彼を助けに行った英たちの安否が気になっていた。彼らの事だから大丈夫だとは思っているが、それでも不安で堪らなかった。
それでもいつ敵がここを襲ってきてもいいように、すぐにでも変態できるよう覚悟は決まっている。ドンとこいというわけではないが、彼女だけは必ず守って見せるという強い意志がそこにはあった。
「――! 帰ってきた!」
すると虫の知らせが彼らの帰還を察知する。忍とそれを聞いた伊音は慌てて玄関へと向かい、その出迎えをする。
ヒヤリとする外の空気に鳥肌を立たせ、気配が近付いてくる方角を見る。そして忍の言う通り、三人の甲虫武者が帰ってきた。
「良かった無事だったんですね! お父さんは……」
一早く彼らの無事を喜ぶ伊音だったが、黒金に背負われているものを見て絶句する。英たち三人も傷だらけで至る所に出血の跡が見えるが、それ以上に瀕死の体となっているのは鴻大だった。
「お、お父、さん……?」
その表情は全身傷だらけだというのに安らかな表情で寝ている。例え直接触れてなくとも、英たちの暗い顔を見ればそれが死に顔であることは容易に悟ってしまう。
同時に小峰もまた虫の知らせでその体に最早「生」が無いことを理解し、顔を真っ青にする。そして黒金も俯き、豪牙は悔しそうに歯を噛み締めていた。
「――すまない! 師匠を……君のお父さんを、助けられなかった……」
やがて英が悲痛な声で謝罪しその場で土下座する。地面に擦りつけている顔からは涙がポロポロと落ち、体は嗚咽で震えていた。
その言葉を聞いた瞬間、伊音の頭は真っ白になった。その意味は理解したのに彼女自身がそれを認めたくないように、感情の嵐が脳内で吹き荒れる。
「そん、な……!」
そして耐えきれなくなったのか、安堵の笑みを浮かべていた彼女の表情はくしゃくしゃになっていき、英の何倍もの涙を零していく。遂には腰が砕けてしまった。
それでも黒金がそっと下ろした遺体に寄り添いその死に様を見る。ゆっくりと触れると既に体温が失われているのが分かり、彼の死をより確かなものにしていく。傷から流れた血も徐々に固まって死後硬直が始まっている。
「……お父、さん」
名前を呼んでも返事が来ない。いつもはにかみながら自分の側にいてくれた父が、自分の目の前で死んでいる。それが悲しくて、彼女をどんどん追い詰めていく。
最後に見た時の顔は、一向に逃げない自分を叱った時だった。鴻大は伊音のことをあまり叱ったことはない。あれは、せめて最後だけ父親らしい説教をしたかったからだろうか?
――母が亡くなってから、男手一人で自分を育ててくれた父。その愛情は、決して偽りなんかではなかったのは他ならぬ伊音が分かっている。
幼い時からその寵愛をずっと受け取ってきた。だからこそ、その思い出が次々と蘇ってきた。
父は自分を守るために死んだのだと、嫌でも分かった。
「目を開けてよ……私を、置いてかないで。お父さん!」
鴻大を抱きしめ、悲痛な慟哭を夜空に響かせる伊音。何度も父を呼び、少しでも体温を分けようとその肌を触れさせた。
鴻大は蘇ることなく、彼女の胸の中で眠り続けている。
まるで最期まで戦い抜き、娘を守ったことを誇るように、堂々と。
(師匠……俺は、馬鹿弟子です! 今までの恩も返せずに、貴方を死なせてしまった!)
英は怒った。彼を殺した金涙を、救えなかった自分を許せず何度も地面を叩きつける。これまでに何度も大切なことを教えてくれて、父親がいない自分にとってとても頼れて尊敬できる存在だった。そんな人を助けられなかった自分が、何よりも許せなかった。
(鴻大さん……貴方には本当にお世話になった。家族を殺されて自暴自棄になっていた俺を導いてくれたのは、他ならぬ貴方だ……!)
黒金もまた鴻大に救われた身、叡火の惨劇に家族を殺され復讐の念に囚われていた黒金を、ここまで心を許せるようになったのは彼のおかげでもある。甲虫武者としても、一人の人間としても、鴻大は黒金を道標となったのだ。
(俺がもうちょっと早く駆けつけていれば、この人に娘さんを残して向こうへ逝かせることはさせなかったのに……本当に申し訳ない!)
(伊音さんのお父さん……短い間でしたが、本当に尊敬できる人でした……!)
救えなかった悔しさ、もう話をすることもできない悲しさ、神童鴻大という存在はこの場にいる全員にとって大きなものであり、支えでもあって目標でもあった。
何故この人が死ななければならない? 彼ほど人ができ、善意に満ち溢れた人間はいないというのに。
「……悲しむ時間は無い、急いでここを離れよう。すぐに奴らが来るだろう」
だがこれ以上感傷に浸る余裕は無かった。空気を読めない敵の甲虫武者は、刻一刻とこちらへ迫ってきている。せめて彼らの追撃から逃れなければ、悲しむ時間など来やしない。
「父は……どんな最期でした?」
しかし伊音は聞かずにはいられなかった。すぐにも逃げなければいけないというのに、それを聞くまで足が動かない程。それはまるで、自分を奮い立たせるものを求めるようでもあった。
「……最期まで、伊音ちゃんのことを気にしていた。それで、その全部を俺たちに託してくれたよ」
それに答えたのは英で、そう言って差し出してきたのは文字通り鴻大が遺したヘラクレスオオカブトの太刀だった。
鴻大がその圧倒的な強さを奮うのに使っていた最強の太刀。鎧は消えたのに何故これはまだ残っているのか、鞘に収められた刀身は、使い手の意志を自分たちに伝えるかのように光り輝いていた。
それを見た伊音は、まだ涙を流しながらもその顔を締まらせる。さっきまでの泣き叫んでいた弱々しい姿は消え失せ、覇気の籠った目でその場の全員を見渡す。
「――私は、お父さんが育ててくれた、守ってくれたこの命を失いたくありません。なのでどうか……私を守ってくれませんか?」
覚悟を決めた表情で頼りにしたいと言う彼女の表情は、その優しい口調とは対照的で真っ直ぐ前を見据えたものだった。
以前の彼女はただ守られる自分を嫌って、英たちに迷惑をかけることを申し訳なく思っていた。面義に誘拐された時も、自分の命を投げ出して彼を救おうとしていた程に、自分の命に執着心が無かった。しかし今は違う。
父親が命を懸けて守った命を無駄にしない為に――どんな悲しいことが起きようとも最期まで生きる。そんな決意が、強く彼女を立たせていた。
「……勿論だ。俺たちは、その為にここにいる!」
四人の甲虫武者の心が一つとなる。死んだ鴻大の意志を無駄にしない為にも、絶対に彼女を守る。そして今も迫るコーカサスたちを何としても逃れなければならない。
「兎に角伊音ちゃんは俺の家で預かろう。使ってない部屋がいくつかある。だがいつまでも匿っていては一向に事が終わらない。奴らがそれで諦めるとは思えんしな」
「つまり、次で奴らを迎え撃つってことだな!」
次の避難場所は黒金の家となり、この状況を解決するためにも一度金涙たちに挑まなければならない。そこで奴らを倒さなければ、平和な暮らしは二度と戻ってこないだろう。
(あの男を倒す、か……険しい戦いになりそうだ)
しかしあの場で金涙たちに一掃された三人は知っていた。金涙の強さが凄まじいものだということを。あれは、少なくとも更なる鍛錬を重ねなければ勝てたい相手だった。
「黒金、お前んちの厨房貸せ。甘いもんめっちゃ作って備えねぇと!」
「私もお手伝いします! 少しでも皆さんの戦いが楽になるよう!」
今のままでは絶対に勝てない。ならば少しでもあの強さへ近づかなければならない。そこで役に立つのが糖分補給だ。ただ甘味を摂取するだけでも甲虫武者の肉体は強化される。それでも戦闘経験の差と言うものはどうしても生まれるが、何もしないよりはマシだろう。
「少しでも体を休ませて体力を付けるぞ。次が俺たちの正念場だ!」
「「「――おう!!!」」」
雄叫びを上げて結束力を高める甲虫武者たち。すぐにその場から立ち去り急いで黒金の家へと向かう。
こうして始まりを告げる敵甲虫武者との総決戦。この勝敗によって伊音の安否と共にこの世界の運命も決まる。そうとも知らずに、英たちは迫る激闘の時を見据え覚悟を決めていく。




