103話
薄暗い廊下を歩く足音が響く。窓などの外が見えるものは一切無く唯一の光源は切れかかった電灯、一見清潔感の無いように見えるが埃や汚れなどは無く綺麗に掃除されていた。
歩いているのは七魅彩辻――コーカサスやアミメと行動を共にする甲虫武者、ニジイロクワガタの鮮やかな鎧で優雅に戦い、美と強さを同じものと考えそれを信念にしている。
彩辻は顔色1つ変えずに歩いていたが、その先を進みにつれその表情どんどん嫌悪の青へと染まっていく。そして壁や床の所々にへばり付いている赤と緑、綺麗だったはずの廊下は汚れた空間になっていた。
それをまるで雨の日の水溜まりを避けるように躱していく彩辻、そして廊下の壁は牢屋の鉄格子に変わる。その鉄格子も黒く錆びて手に触れただけでその汚れが移りそうだ。
「ウ……アァ……!」
その中に囚われているのは薄汚い老人、虚ろな目で外にいる彩辻を凝視し唾や血反吐など口から垂れ流しにしている。掠れている呻き声を牢屋全体に響かせて、鉄格子の隙間から腕を伸ばし彩辻の袖を掴もうとする。それを気味悪がり後ろに引くもその先にも腕が伸びていた。
そこから先の廊下は両サイドに牢屋が設けられ、その中には多くの奇人が閉じ込められている。皆が奇声を発しまるでゾンビのように暴れている。壁や床の汚れはそれが原因であった。
「……選ばれなかった者か。なんて見苦しい」
その先もずっと牢屋が続き、数えきれない程の人間が捕らわれている。その全員が狂っており異様な光景が暗闇の先まで続いていた。普通の人間なら目を伏せショックを受ける光景だろうが、彩辻は平然とした態度でその間を渡っていく。
そしてしばらくして、彩辻はようやくまともな人間と顔を合わせる。赤色と緑色の血を浴びた手術着を身に纏い闇の中からゆっくりと現れた。
「おや彩辻さん、貴方がどうしてここに?アミメが場所を教えたんですか?」
「ええドクター、堕武者がどういったものなのか知りたくてね」
それはコーカサスたち甲虫武者たちを束ねる存在であるドクター、彩辻がこの場所に来たことが意外なのか少し声の色を変えて名前を呼ぶ。同じように狂人の様子には目もくれず普通に接していた。それもそのはず、この発狂染みた現象はこの男の仕業なのだから。
堕武者――ドクターが作り出した人造甲虫武者、所詮はまがい物であるが本物と差異はあまりなくその強さや再生力も十分再現されていた。その証拠に閉じ込められている人たちの右手には歪んだ痣が描かれている。一度敗れれば変態もできなくなるが、それでも十分な戦力にはなった。
「こんな出来損ないが甲虫武者?こんなのはただの模倣だ」
「これは厳しい評価……鋼臓の人工製造には成功しましたが、まだその全容を理解できたわけではありません。そもそも完璧な移植すらままならないのです。
そもそも人間の体と強い拒絶反応を生み出しますからね……」
するとドクターは彩辻が目の前にいることも忘れ、ブツブツと考え込み始める。その手に持つカルテを脇目に、虚空へ数式やら公式を描き自分の脳内でそれを紐解いていた。
彩辻にそれを全て理解する程の頭脳は無い。しかし間違いを指摘するかのように声をかける。
「人間の体に拒絶反応……ならば我ら本物の甲虫武者はどう説明する?」
「――その答えは、既に解っているのでは?」
彩辻の笑みに対し、ドクターはマスクの下で隠しながらも微笑み返す。全てを理解した上での会話、そこからは全てを見下ろしているかのような余裕が垣間見えた。
「百聞は一見に如かず、折角お越しになったのですから案内しますよ。着替えも用意してあります」
「そうさせてもらおう」
そう言ってドクターは廊下の先へと彩辻を案内し始める。堕武者が閉じ込められている牢屋辺りを抜け、廊下の終わりに扉が存在している。そこを開ければ更に異様な光景が続いていた。
その大部屋には手術台などの医療道具がズラリと置かれており、まるで手術室のように設備が整っている。勿論そんな普通の物だけではなく、怪しい液体が入れられたガラスのカプセル、鎖による拘束台など穏やかではないものも揃えられていた。
そして部屋の隅に置かれている手術台、そこに括り付けられているのは人間ではなく鎧蟲。足軽の蟻だがその装備や甲冑は脱がされ丸裸の状態でそこに寝ていた。手足も腰も鎖で縛られ、もし目覚めるようなことがあっても逃がさないようになっている。
しかしその鎧蟲が目覚めることはもう無いだろう、既に腹を裂かれ絶命しているからだ。それによる致死か将又ここに来るまでの間に殺されたのか、それは分からない。
「今は専属の狩人もいないのでね、鎧蟲のストックもそろそろ尽きそうだ」
「橙陽面義のことか、あの男とは数回しか会ったことが無いな」
ドクターたちに鎧蟲の体を売っていたのはメンガタクワガタの甲虫武者の橙陽面義、前までは彼が倒した鎧蟲の死骸、もしくは生け捕りを買っていたが今はもういない。英の仲間として裏切りその報復としてコーカサスに一刀両断されてしまったのだ。
肉体を捌かれた蟻の死骸からは緑色の血が垂れ流しになり、それが青色の手術着を汚していく。蟻の内臓は当然ながら人の物とは完全に形や色が異なり不快な印象を強めた。
「こうして醜い虫の体を弄り手を汚す……ドクター、その理由は何だ?」
「話していませんでしたか?といっても貴方のような美しさとかそういったものではありませんよ、人間――いやその先の為です」
人間の先の為、言っていることはまるで善良な人のようだがその実態は違う。虫の化け物を容赦なくメスで切り裂き、人体実験を繰り返すその様を見れば内側も酷く歪んでいるのが分かった。
「――確認したかっただけだ。私は貴方のその信念、そしてその色に惹かれた。1つの色としては私の方が美しいだろう、しかしその輝きは決して私には無いものだ」
七魅彩辻はそんなドクターの人間性に理解と共感をし、あくまでも自分が最も美しいと譲らないがそれでも別の視点で彼を讃えていた。自意識過剰の彩辻が他人を褒めるなど滅多にないことであった。しかし「美しさ」や「色」などといった綺麗な単語を使うのは変わっておらず、その口調に慣れていない者からすれば全く意味を理解できない内容だろう。それには三大名の1匹である謙信も少々戸惑うくらいであった。
「それはどうも、貴方にそんなことを言われるのは大変光栄です。それで……ここに来た理由は他にもあるでしょう?」
「その通りだ、あの堕武者たちを数匹使わせてほしい」
それでも長い付き合いなのかドクターは軽くそれを流しその本心を見抜く。それを隠す気も無く彩辻は本題を出した。ここに通るまでにいた堕武者たち、それを貸してほしいというのだ。この時点で彼らを人間扱いしていないのは明白であった。
「堕武者を……別に構いませんが、一体何故?」
「先の戦いで、私は象山豪牙という1人の醜男と戦った。今思えば仲間以外で甲虫武者と会合したのはあれが初めてだ」
先の戦い、それは英側と鎧蟲たち終張国、そしてコーカサスたちによって行われた三つ巴。三大名まで揃ったその戦いは史上最大のものだったであろう、蟲術によって分担された先で彩辻はエレファスゾウカブトの豪牙、そしてバッタの武将である謙信と一戦交えた。
彩辻にとってあれは敵としての甲虫武者と初めて戦った日、つまり同じ力を持っていながら全くと言っていいほど自分とは異なる者を見た日でもあった。
「今一度奴らと交え敵を理解したい、その為にあの出来損ない共を使う。機会があれば例の小娘……神童伊音の誘拐もしよう」
「ふむ……そういうことなら、どうぞご自由にお使いください。堕武者になった今彼らの知能は猿以下です、簡単に手懐けられますよ」
彩辻にとって豪牙の存在は醜く認められない存在だという、強さこそ美しさ――美意識が殆どを占めていると思われたその信念は、強者こそが全てという意外な豪胆が感じられた。
果たして英たちは強者か――それを今一度見定める為、虹色の鎧武者が動き出す。




